リーガル(2002)
Nemoto Ryusho
リーガル(2002)
#1
おいおいおいおいおいおいおいおいっ! どけよ、そこどけよ。危ねえじゃねえかよ。さっさと歩け! 何ニヤニヤ笑ってんだよ。手なんかつないでんじゃねえ、はっ倒すぞ。そんなもん見せつけんな。こっちは見る暇、いやいやいやいや見たくも見たくもねえんだからさ。ほらほらほらほらほら、チリンチリンチリンチリンうるせえうるせうるせえ。来るってわかってんなら鳴らさんとどけ。ひき殺されてえのか、むしろ殺すぞ、おばおばおばちゃんよ。どうせこつこつこつ寝ためた年金のことでむしゃくしゃくしゃしてるんだろ? それとも若若い若い連中が気に入らねえのか? 「昔は違った違った違った。昔は素敵でファンファンシー」ってか。おっとっとっとっと、おっ! まだまだまだ追いかけてきてやがる。全くをもってしつこいしつこいな。いい加減あきらめろよ。お前、バイバイトじゃねえか。そんなに責任感もってどうすんだ。どうせ時給九百円もしねえんだろ? オレを捕まえたってご褒美でももらって新聞の三面記事のヒーローにでもなる気か。冗談じゃねえ。オレはお前んとこでたった三本しかパクっていねんだぜ。ホントにどうしようもねえな!
全力で商店街を疾走、駅を目指しながら頭の中では凄まじい勢いで愚痴が沸き起こり無言で障害物に呪いを送る。だが息が切れてちゃあお話にならない。右肺左肺の肺胞がしきりに酸素二酸化炭素の等価交換に勤しむ中、脳酸素欠乏症か過呼吸か活性酸素の蔓延か、ハードディスクがオーバーヒートで暴走しメルトダウン、思考の断裂合間を縫ってマコトの野郎の独り与太話が次々と大脳皮質に浮かんでくる。
—シンナーって英語でどういうか知ってる?
しししし知らねえ知らねえ知らねえ知らねえよ!
—エーテルっていうんだ。
やや喧しい!
このままじゃ死んじまうかもしれねえ、と、ばくばくに踏ん張る松果体が呟くと、エンドルフィンがファンファーレに乗って参上なさって身体と左脳がパーカッションをしはじめた。後は第四コーナーを曲がりきるだけだが失敗すれば落馬必定の理、 eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(デカ),刑事)長のヤマさんにカツ丼を奢ってもらって「便水」あるいは「ロング!」と叫ばなければならない。人生選択末期試験のフラッシュバックがマコトだとしたら洒落を通りこして情けない。
—有機溶剤って意味なんだって。
だだだだだ黙れぇ、マコト。
—日本語の有機溶剤が英語のエーテル。シンナーってわけでしょ。
そそっそっそそれがどうした。
—俺、物理とか科学とか理科とか覚えてないっていうか全部忘れたでしょ、万有引力ってね、ええと、重力でいいんだっけ。いいんだよね、それで。その重力がみんなに、みんなってのはさ、俺も啓介も冷蔵庫も掃除機も、とにかくみんなにあるわけなんだよね。でも見えないでしょ? でも何かに押さえつけられて地面にくっついてんだって。水ん中でも水圧ってあるよね。魚は気付いてないけど水が魚を押さえつけてるんだ。で、陸でも水じゃない何かが俺たちを押さえてんだよ。その何かがエーテルっていうんだってさ。おかしいよね? ね?
たたた頼む、マコト。しばらく黙ってくれ。お前の相手は疲れんだ。頭全快、考えなきゃいけないことは山とある。もしもこれが最後の走馬灯ならせめて三流グラビアアイドルヘアヌードAV素人大全集仁美の妖艶ピンポン今通り過ぎたあの娘のお宝万歳でも、フルCGもしくはアイコラでお願いしよう。
—俺たちの周りのエーテルを発見したのがニュートンでしょ。ねえ? 啓介聞いてる? あれ? アインシュタインだったかな。まあ、とにかくエライ学者が見つけたんだ。
・・・・・・くく。
—ってことは、俺たちは気がつかないけどエーテルに囲まれて暮らしてんだよね。だって重力だったっけ? 地面に押さえつけてんだからさ。だからね、俺らはエーテル、シンナーに包まれてんだ。
・・・・・・・・・・・・・くか。
—俺ら以外の人間はね、どうしてシンナー吸ってなくても楽しそうに生きてるかっていうとさ。エーテル、英語のシンナーだよ。それでラリってるからなんだ。だけど俺は見えないエーテルじゃラリれないんだ。だから空気のシンナーじゃなくて液体のエーテルを吸っってみたいんだ。
改札マシンさん、切符を持っていないからって太股叩かなくても通してよ。急いでいる急いでいる。フラッシュバックなマコトも嫌だけど薬局のバイト君のご褒美にはなりたくない。
自動改札機を振り切って振りかえるとバイトちゃんは苦々しそうにオレを睨んでいた。
悔しいか? ご褒美がもらえなくてもヒーローになれなくても、時給で満足、勘弁してやってください。
もう一度、息を弾ませるバイトさんを仰ぎ見て階段を上った。ふくらはぎが引き攣っていて哀しいくらい痛かった。息はまだ上がったままだ。ニューロンオーバードライブは止んだらしい。でも仁美の裸ぐらい浮かべばよかったと微妙に後悔するが、一方で呼吸は落ちも着かずに吹きさらしの路線橋に白い息を吐き続けていた。マコトの与太話が本当なら、オレは間違いなくエーテル過剰吸引で卒倒して、鼻から脳味噌と鼻水の渋いスクリュードライバーを放出するドリンクバーマシン。間違いなくニュートン先生の学説は間違っている。さもなければペンキ屋さんは破産して人類皆ラリ中でヒッピームーブメントなんて心配ご無用ゴム装着でハッピーワールドだったはずだ。
ぎりぎりで山手線に間に合った。飛び乗れて駅長さんと運転手さんに感謝。
しかしドア窓に目をやると思わず声を漏らしてしまった。バイト野郎は律義にオレンジ色の切符を片手にふりふり階段を駆け降りてきた。ムッシュ・バイトの吐く息も白かった。そんなに空気を吸うとラリっちまうぜ。
「泥棒!」
eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(バイト),淫売)はドアガラスをどんどん叩き三センチ越しにオレを罵った。困った eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(シチュエーション),状況)だ。運転手さん、早く出発進行なさってください。オレは片眉だけをあげて男ビッチに苦笑いする。
グリーンとシルバーの山の手電車はのっそりと動きだした。運転手さん、ありがとう。オレはバリ島に手を振る。ジャワ島も電車にあわせて走り出した。まるでおあつらえB級青春映画のラストだ。さよならミッちゃん、行かないで宏さんでフィードバックにスタッフロールで観客はオッちゃんオバちゃんの涙。
ホームにインドネシア注意アナウンスが響き駅員さんがジャカルタに寄っている。じゃ、バイト君、さようなら。いい青春を。ビバ、ナイスバイトライフ、ビバ時給九百円。
ホームが風とともにバイト君と彼方に去ると人心地ついて友が叩きそして消え去ったドアから目を離した。
他の乗客たち、サラリーマン、サラリーマンレディ、オッちゃん、オバちゃん、少年少女、童貞処女、淑女に紳士の面々が金太郎飴を微塵切りしたような表情でオレを窺っていた。眉を細めて、目をしかめ、鼻の穴を少し大きく開いて、口元は微妙に歪んで怪訝な顔。
そんな顔で見つめられるとせっかくの脳内分泌的自家発電による興奮が冷めてくる。一応オレだってあなた方と同じくこの車両が人身事故に遭ったら一緒に人間を挽肉にする乗客だ。切符を持っちゃいないがそれでもしばしの運命共同体ではないか、兄弟達よ。
嫌らしい視線は電子レンジ電磁波並に全方向から放射され、徐々にターンテーブルに回るオレの尻の具合と股間の位置具合がおかしく感じ、気になりはじめ、車内暖房と駆け込み乗車運動以上の不快な汗がにじみ出てきた。眼鏡は自然とずり落ちて、中指で押し上げようとするとべっとりとレンズに指紋がついて、ティッシュで拭こうと思ってもあいにく持ち合わせがなく、シャツで拭いたら汗がぽたりとレンズに落ちて余計にひどくなって乱反射する。いらついて首を思いきり鳴らすと、周りから嫌らしい咳モドキが飛んできた。
こうもチンされたら、もはや眉を細めて目をしかめ鼻の穴を少し大きく開いて口元は微妙に歪ませる余裕などない。次第に暗鬱としてきて身体もだるくなってくる。灰皿代わりに作った、水を入れた空き缶を覗いた気分だ。車内に腐った水とニコチンとタールの弩茶色の匂いが漂っている。知らずにそのニコチン缶を飲んで中毒死したくなる。
リュックを片肩から降ろし咳止めシロップの一つ取り出した。紙箱を引っぺがえしシロップを一気に全部呑みくだした。甘ったるくて舌根や食道がシロップを拒絶してるみたいにひくひく唸った。まずさに、いぃい、と叫びたくなる。スタローンの顔あるいは田中邦衛の真似をして「ぃえいどりぅあーん」と泣きたくなる。
一見すると栄養ドリンクでも飲んでいるとしか見えまい。どっちにしろ、ちょびちょび呑むより栄養ドリンク的飲方の方が効きが早く楽になれる。後しばらくだ。
今回の収穫はどれくらいだろうか? 五店は回ったはずだ。二十本を越えているなら十日はしのげられるし、そのうち実家から仕送りも届く。
このハーベストと救援物資がある間、今日みたいな追いかけっこはしなくてもいい。その間はただマコトの与太咄の相手を努めておけば暗鬱からは逃げられる。
そうだ。忘れていた。マコトはうまく逃げられただろうか?
まだ携帯は無反応だ。見張り役のマコトは逃げる必要はなかったが、なぜか途中まで一緒に走ってきた。これではオレら共犯ですよとあからさまに教えているようなものだ。次からはもっと綿密に打ち合わせをしないといけない。電話は来ない。オレから電話してもいいが乗客の皆さんのご迷惑になる。白い目を剥かれて怒られるのはちょっと酷すぎる。せっかくシロップを呑んだのだ。今に嬉しくなってくる。厄介事は避けて通るのが聖人君子たる生き方だ。・・・・・・とにかく次の駅で降りよう。
聖人君子はそれからだ。
ぼんやりとした将来への不安から、よりはむしろ、はっきりとした明確な不安からオレは咳止めシロップ中毒、つまるところ咳止めシロップ、の含有物のコデイン&塩酸エフェドリンによるコデイン中毒もしくは塩酸エフェドリン中毒になった。
一つ目の理由が情けなくも失恋でポッカリと虚ろになった自分の心を埋め尽くすため。二つ目の理由が進路に対する突然のシャットアウト。自ら大学院進学に必要なセキュリティーカードを手続きの鬱陶しさとモラトリアム以上の向学心の欠如で諦めた。進学する気満々であったのに突然の就職というコース変更で対応しきれなかったと言い訳めいとく。三つ目の理由は前の二つの理由の融合した結果生まれたもので、もしこれで得心がいかないなら社会不安経済不況就職難、適当に付け加えてくれて結構だ。
虚ろな心に空っぽになった時間、スローペースで流れる時間と湧きだす後悔をかなぐり捨てる手段にオレはシロップを求めた。迫り来る現実と創造される妄想がひしひしと圧迫して身動きできないくらいオレはテンパっていた。堕ちる勇気もなくタチムカウ鈍さも持ち合わせていないオレは思考停止すらできずにただへらへらと笑っていた。そして気がついたらすでに発射していた。発射したら、チャレンジャー的空中爆破するかハレー彗星の御機嫌を伺いにいくかしか選択はない。地球に帰還しても宇宙病で筋肉ずたぼろ、心臓マヒマヒ、リハビリなんてできやしない。無論それで十分だ。
最初に煙草に依存を求めた。クラリとする一瞬の妄想シャットアウトは、射精のような思考フリーズ、オレにとって都合のいい道具となったが、あくまで瞬く間の停止、ヨッパライの如く現実にタチムカウことはできなかった。その上、チェーンスモーキングに焼けつく咽とひりつく口内からの水分過剰摂取、頻尿痰絡みに嫌気がさした。
結局手っ取り早い逃避の手段として咳止めシロップに頼ったのだ。
初めてシロップを一気に呑んだとき半日近く薄暗い寝床にくすんでいた。特にどうといったこともなく呆けていたような気がするが、シーツのチェックの模様が生き生きとうごめくように思え、少なくとも何も気にせず呆然と平然でいられた。クレームはなかったがあるとすれば、ただ胃や腸がひょこひょこと痙攣し屁ばかりがばふばふ放射されたぐらいだ。
上機嫌になれなかったけど可もなく不可もなく、ずっと呆けて心地よいデイドリームを楽しめたのだ。
以来、咳止めシロップを愛飲している。愛飲の聞こえが悪ければ乞飲している。
中毒になっても甘ったるいシロップの異物感を内臓はすんなりと受け付けてくれないが、精神は欲しているようで呑めば倦怠感不安感暗鬱感を吹き飛ばしてくれる。おそらく常飲によるコデインや塩酸エフェドリンからの禁断症状がそれらの禁忌をもたらしてきてオレに不快なシロップを強制しているのだろうが、そんなことは忘れてしまった。オレには一日二十四時間は長すぎるのだ。
携帯の着信音で目が覚めた。
口の中は脂の臭いで充満し咽奥にはタールやニコチンの混ざった痰がご鎮座かましていて、咳で咽を捻っても当分出てきてくれそうもない。声が微妙にかすれ自然と不自然になっている。
「もしもし?」
「あっ、もしもし? 沢村啓介さんですか? こちら国際基督教大学の学生課の鈴木と申しますが」
「はあ」
いがらっぽくて声がまずい。
歯を磨くなり煙草をふかすなりシロップを飲むなりしてすっきりしたかった。さっさと用件を終わらすに越したことはないし、相手は学生課だ。ここで逃げれば鬼婆みたいにどこまでも追いかけてくる。オレには三枚のお札はない。我慢するのに限る。
「あのう、沢村さんの担当教授の松代先生が、最近沢村さんが授業に出席されず、連絡もしてこないとおっしゃっていて」
「はあ、でも就職活動で忙しくて学校になかなか行けないんですけど・・・・・・」
「いや、だけど先生に連絡をしていただかないと先生が困るとおっしゃってらっしゃるんです」
用件はなんだ?早く終わらせてくれ。松代を考えただけでも困ってしまうじゃないか。肝臓がぶっ壊れていて黄色の面をした苦虫潰しのおっさんをオレの憧憬に呼び起こすな。
「はあ」
「だから松代先生に一度ご連絡していただけませんか? もし就活で忙しいなら、そうとお伝えください」
「はあ。わかりました」
電話を切った途端、コールタールが天井から降り注がれたようでベッドに倒れこんだ。まだオレは社会から、学生のオレには社会は学校にしか過ぎないが、完全に切り離してもらえていなかった。
煙草に火をつけて吸うとクラクラして一層ベッドに沈んでいくように思える。カーテンから差し入る光はオーロラみたいにゆらゆらと紫煙をライトアップしてくれて、きっと嫌煙家もこれを見たら許してくれるんじゃないか、気がしてくる。汚濁の中に光を探す、意外とハッピーな作業じゃないのか。
ラッキーストライクのロゴの根元まで吸いきって空き缶に放った。煙草は小気味よく音を立てて空き缶の中に沈殿していく。残った煙だけえんらえんらとまとわりついた。
松代にご連絡か。
世界には体内臓細胞タンパク質分子原子陽子素粒子がある。世界には人間アフリカ象シロナガスクジラエベレスト山地球太陽系銀河系宇宙がある。らしい。
だからオレのことなど大したことではないはずだ。
確かに大したことはあるまい。しかしだからといって全部が全部些少なことでジーザス・クライストみたいに磔にされたからって、人類皆兄弟、許すことなどできまい。
「君は無能だね」
意味がわからなかった。
言葉の意味はわかる。能力がない、才能がない、貴方は全く使い者になりません、というどれかに適合する。
要するにオレは阿呆なわけだ。
だがこんな一言を真面目な顔で言われたことなどない。そもそも「アンタぁ無能だよ」などの客体能力完全否定罵倒語句は、発言後に客体の発作的行動が伴われる可能性のある言語なのであり、発してからは「いただきます」で箸をとり、「ごちそうさま」で箸をおくように、あらゆる人災復讐激怒の客体行動を当然のものとして自ら甘んじて受ける覚悟が求められる。それがたまたま仲良しこよしであれば聞き流す小突き返すなどして、浮かぶ瀬も立つ瀬もあるのだろうが、あいにくオレは松代先生とは仲良しこよしじゃなかった。
ではこのクソ野郎を殴っていいのか? なぜならこの野郎とは刎頚の仲ではなく、それどころかお互いの住所電話番号生年月日家族構成血液型四柱推命すら存じてないし興味もない。知るのは名前と地位と専攻だけで欲しいのは単位だ。この野郎との関係は単なる大学の生徒と教授、赤の他人にしか過ぎないのであって、オレとしては隙あらば糞刑に処したいくらいだ。
講義が終わると同時に、オレは松代に自分の研究室へと呼び出された。訝しがりながら研究室へ入った開口一番が無礼にも「君は無能だね」であった。
唐突に宣われてもどう答ええればいいのか? わざわざ出向いてやってまさかこんな言葉頂戴するとは、それ以前に斯くも宣う教師が存在するとは夢にも思わなかった。同じ先生でも、これが小学校教師であれば、保護者連中に突き上げ糾弾、オサラバ教壇だ。一方、大学三年生の場合は問題なし。しかし、行為自体は遠洋漁業と沿岸漁業ほど差があるか? 違いなんてソーラン節と校歌の差ではないのか?
戸惑い、混乱、動揺によって口が動かなかった。
だんまりするオレに見兼ねたか、松代は再び口を開いた。
「で、沢村君はどう思う?」
「はあ?」
「君はどう思うんだ? 君が無能なことをさ」
言葉に詰まった。本当にこの野郎は基地外だ。オレは文化革命たくなって総括、瞬時にポルポトの気持ち百分の一を理解した。
無能だと言われてどう感じるか? ・・・・・・・感じるどころか血管が切れそうになっている。先生の御指示通りそれを丁寧至極にポルポトって進ぜようか?
でも息巻いてポルポトるほどの度胸はなく、「まあ、そうならそうじゃないんですか」と、意気地無しのポルポトはアルカイックスマイルになってノラリクラリと微笑み続けた。無能と言われたのだ。それを上回るような内容はあるまい。一切合切、聞き捨てていたら、自然と般若になってニヤニヤと笑い鼻頭をかいたり舌で歯の裏をなめたりしていたが、松代はそんなオレを阿呆を軽蔑するかのように、いいや、実際に蔑んだ目付きで呆れていた。
思い出しただけで腹が立ってきた。
テーブルの上に並んだ咳止めシロップを咽に流しこんだ。無理して一息で飲んだらむせた。だが、呑むという行為自体は、むせと同時に安心感をもたらした。流せばいいのだ。ほっといてもオートメーション化された消化器官が吸収してくれる。
時計は二時を指していた。
「いい加減に起きろ。いつまで寝てんだ」
シロップの空き箱をマコトにぶつけると空き箱は半開きになったマコトの口に当たり、箱は歯との核分裂ででこつんといい音を放射させた。
マコトはまぶたを半開きにして、うううと唸った。昨日の睡眠薬が残っていてまだ酔っているのか? パチモンにしてはマコトの手に入れてくる睡眠薬はよく効くらしい。
この睡眠薬のことをマコト自身はハイミナールと呼んでいたがオレは信じていない。ハイミナールは薬局では売られていないのだ。
「おい! 起きろ。飯食いに行くぞ」
マコトはなおも呻いている。寝起きの男ってのは無様なものだ。美しい、奇麗などのエレガント範疇ではなく別次元の異星人に対する目線だ。できれば異星人ではなく少女ロマンス的な目線と取りかえたいが、いかんせんそれもむちゃな話だ。相手はマコトなのだ。
三時をまわった大戸屋は昼飯ラッシュの夢の跡、客もまばらで厨房からは店員のおしゃべりが届いている。禁煙タイムも終了、いちゃつくカップルの隣席で煙をもうもうとトーマス機関と化して時間を捻り潰した。
オレは三鷹のアパートに住んでいる。案外お気に入りの街だ。中央線の特快も停まるし学校にも近い。何より三鷹中央通りには薬局が多い。仕送り金が残っている間はいつもこのお薬屋さんにお世話になっている。変に勘ぐられるのも癪なため、富山の行商ばりに薬屋梯子をしている。当然、三鷹ではシロップかっぱらいはしない。住む場所だけはクリーンにする。今流の公害対策と同じだ。
「蚊人間って知ってる?」
カボチャコロッケを箸でこねくりながらマコトが言った。
マコトもオレも三分の一近くの料理を残していた。別にマズイのではない。むしろ味蕾ではおいしいと刺激されている。だがオレもマコトにも食欲はなかった。食いたくないが何となく食う。ただの習慣だが、ある種の中毒とも取れる。中毒として一日二食、朝飯兼昼飯と晩飯を食い散らす。生命としての中毒だ。
「カニ隠元?」
「・・・・・・そう、蚊人間」
「知らねえ」
マコトの目は虚ろだった。
ラリマコトを上目遣いに眺め、オレは鼻をすすった。
鼻水とは呼んじゃいけないような透明な水がさっきから鼻に垂れてくる。そういえば鼻炎の薬を飲み忘れていた。オレは洟垂れハウスダストアレルギー男だ。一日一回、鼻炎薬を飲まないと延々と鼻から水が滴ってくる。
「蚊人間てのはね。蚊の人間なんだよ。英語で・・・・・・」
「ああ、モスキートマンってことか」
「そう。それそれ。モスキートマンだよね。見た目はね・・・・・・蚊じゃないなあ、でっかい羽のないアメンボに似てんだ」
「じゃあ、アメンボマンじゃないのか」
「違うんだ。蚊人間なんだよ。ひょろ長くて真っ黒な身体に長細い六本の手足があるんだ・・・・・・うーん、脚が二本かな・・・・・・でも二本脚で立ってたからやっぱり手が四本だよね。蚊人間は立つと人よりでかくなるんだ。でね、歩くんじゃないんだ。三段跳をするんだよ。知ってるでしょ? 啓介、三段跳びなんだよ。体育でやったことあるでしょ。ホップステップジャンプてね。ちょん、ちょん、ちょーんと両脚合わせて飛ぶんだ。ちょんの部分が一メートルくらいで、ちょーんは五メートルくらい。チョコボールのキョロちゃんのような光ってる眼ん玉とストローみたいな細長い口が付いててね、その口で人の血を吸うんだ」
「へえ。どこでそんなの聞いてきたんだ。朝子からじゃないよな。あの女は蚊人間てタマじゃないし・・・・・・・映画か?」
適当にあしらった。どうせマコトは明日になったらきれいさっぱり忘れている。中毒によって霞みがかかった仙人のような精神構造を構築した男だ。真理を突いた仙人の言葉は高説過ぎて、恐れ多く理解不能。
それよりも鼻の穴がむずむずして水っ鼻がとまらない。紙ナフキンで鼻をかんでいるのだがきりがないし、紙ナフキンじゃスカッと爽快感がない。その上、鼻付近の皮膚がただれてくる。
「違うよ。夢。俺の夢だよ。昨日見たんだ。昨日の夜、見て吃驚したんだ。すっごい怖かったんだよ。で、蚊人間に血を吸われた人間は、三段階の変化をするんだ。まずね、顔がアンパンマンのようにパンパンに膨れんだよね。ホントにパンパンなんだよ。むくんだ顔なんて比じゃないんだから。それでパンパンになった顔がポロンって胴体から落ちんだ。ナメクジのようにウネウネと地面を這うんだよ。階段だって上るんだから。絶対啓介が見てもビビるでしょ。最後に、ふわんって空中に飛ぶんだ。高さは・・・・・・ええと、蚊人間に血を吸われる前に頭があった場所かな。風船みたいでしょ?」
「で? それがどうした」
「それに昨日、襲われた夢を見たんだ」
「どっちに?」
「え?」
「蚊人間と蚊人間に血を吸われた人間のどっちに襲われたんだよ?」
マコトは両腕を組んで黙りこんだ。
ずいぶんと長い前置き付きの夢だ。また無駄咄を聞かされてしまった。垂れ流すという点ではオレのアレルギー性鼻炎よりもたちが悪い。無意味なのだ。使わないにしろ納得ができる分、おばあちゃんの知恵袋かマニア野郎の蘊蓄でも聞かされていたほうがためになる。
考えこむマコトの脇をぬってウエイトレスのお姉さんがコップに水を注いでくれた。ありがたいことに二人とも水は空っぽだったから飲料水の増量は喜ばしいが、陰喩に早く帰れということだろう。
マコトがハイミナールと彼自身がそう呼ぶ錠剤を噛みはじめたのでアパートに戻ることにした。ウエイトレスの彼女もそう勧めてくれているし鼻炎もひどい。昼間から今よりももっとろれつの回らなくなるマコトを相手にするのも億劫だ。蚊人間みみずの婚約者レゲエの巾着袋神様のTシャツ踊る広辞苑火星が笑った・・・・・・マコトの与太咄はきりがなく不毛だ。
「先に帰ってるわ。鼻水ひどいしな」
オレが席を立つとマコトは顔を上げてにやあと笑った。目はキラキラと晴れた日のドブ川のように輝いていた。
「両方だよ、両方。蚊人間と蚊人間に血を吸われた人間、両方に襲われたんだ」
「へえ・・・・・・それは大変な夢だったな。ご丁寧に解説までついてるしな。とにかくオレは先に帰るから」
「俺、今日、朝子ん家に泊まらなきゃ」
ああ、そうしてくれ。そう呟くと店を出た。手鼻でかんだ鼻水はぬるぬるとして不思議なノスタルジーを与えてくれる。変に温かくて手汗に満ちたオレの親指にしっかりとフィットした。
アパートのドアには一枚の紙切れが挟まっていた。
葉書サイズの白い紙切れで運送屋さんのからの不在通知であった。
送り主は不明だ。しかし大抵の場合、送られてくる荷物は、実家からの仕送り、通信販売のCD、インターネット・オークションで競り勝ったヌードモデルの写真集、ありえる宅配便はこの三つである。
おかしいのはこれが海外からの届け物であることだ。
通常のオレへの届けものではない。異常時届け物も考えられるのはこれもまた三つだ。韓国の親戚(お袋は韓国国籍だ。つまりオレはハーフコリアンってやつだ)からの何か。最近韓国に旅行した兄からの何か。UCLAに留学している女友達、仁美からの何か。
だが今まで海外から送られてきた宅配便など一つもなかった。
待つが肝要、と結論して紙切れで鼻をかむとゴミ箱に捨てた。鼻はひりひりしていた。
沈んでいく。どこまでも沈んでいく。とっくに底に着いているはずなのに一向に終わることなくずぶずぶと万有引力している。重力の中心があればそこできっと終わる。中心点についたら落下も停止する、そこで目を瞑ればいい。動かず動かされず静かに眠れる。はるか上のことなどお構いなしに奥底で潜もう。
だがもし終わらない無限点に中心があるなら?
ねっとりとからめ捕られたみたいにどんよりしている。深海二千五百十四メートル、水は重くて腐っている。身体の周りにはどろどろになった死体が彷徨っているようだ。これが眼球、これは胆嚢、これは海馬、これは舌根、これは子宮。パーツに別れたモルグは引き寄せようなんて気もないくせに勝手に離散集合を繰り返してはオレにぬるぬると接触、かすめていって挨拶なし行き来する。
吐く息は黒い。もし咽奥に指を突っこんで描きだせばいい感じに腐った内臓をエクトプラズムのように引き抜けて、きっと周りのモルグは「いい感じね」と褒めてくれるのだろう。褒めてくれないのなら眉をひそめてくれるより集合離散の群れから「また会いましょう」と追い出してくれたほうがありがたい。
限りなく透明に近いブルーだなんて糞喰らえだ。きれいになってたまるか。スパッときれいに腐るくらいならオレはどこまでも澱んでやる。世界は輝く暗闇じゃない。降り注ぐものなんてありはしない。素敵に輝く膿で覆われているだけだ。
オレは世界を泳ぐ。膿にまみれようが透明になろうが関係ない。出口なんてどうせない。最初の入り口も忘れた・・・・・・入口すらもないかもしれないのだ。
沈殿するまでだ。
無限点から彷徨いながらすべてを忘れたい。だからオレを忘れてくれ。
携帯が鳴っている。
マコトからだ。
朝子と朝子の友達と一緒に晩飯を食べないか、との誘いだった。
ああ、今日は松本紳助があるんだよなあ。と一旦逡巡したが、とりあえず深夜枠だし見れないことはないとにべもなく承諾した。
武蔵境駅南口天狗にて唐揚げ軟骨の唐揚げ牛タンのソテーベーコンとほうれん草のソテーキュウリの漬物カツとじ煮ジャーマンポテトホッケの塩焼き飯アイスクリームポン酒カクテルビール発泡酒。喰った。
ちょっとした軽い話題重い話題色話に愚痴で盛り上がった。
基本的にオレは下戸だがアルコールは飲めないことはない。だけど飲んでもちっとも気持ちよくならない。飲むと全身がだんだら模様に赤く変色して心臓の鼓動から蟀谷静脈の躍動までが外面内面ソナーが感じ取る。それが全然不快だ。もしアルコールに依存できたならば咳止めシロップに走らなかった、と思う。
別にアルコールが高尚だとは思っちゃいないしシロップやシンナーがクールとも考えではいない。依存してしまえば同じなだけだ。五十歩百歩どころか進んですらなくて仲良く足踏んでいる。
ほとんどの人間は何かに依存している。煙草アルコール咳止めシロップ睡眠薬抗鬱剤有機溶剤マリファナハシシコカインヘロインMDMAエクスタシースピードボール覚醒剤趣味仕事友人家族宗教哲学政治思想精神分析学平和戦争オナニー愛セックス、何かしらに頼っている。ただオレは咳止めシロップを選んではまっているだけだ。そこのところはマイホームパパや天才児教育ママ、キッチンドリンカー、恋する女学生、高校球児、ブリキのおもちゃ収集マニア、千人切り男、クレイジーブリーダー、アイドルやジャニーズの熱狂ファンと大差ない。
だけど今日は浮かれに流されて飲みまくってしまった。
店に入ったときから嫌な雰囲気でひりひりしていた。
マコトは意外に普通で、いやいや普段よりはラリっていないだけだった。が、朝子や彼女の友達の------裕子というらしい------オレへの扱いが鼻についた。
朝子はオレを嫌っている、むしろ憎んでいる。オレがマコトをジャンキーにしたかららしい(マコト談)が、朝子の嫌悪はテレパスやカウンセラーでなくても読めるくらいわかりやすい。なのに今日に限ってオレを誉めそやしたりおだてたりする。普段の朝子がオレにそんな態度をとるはずはない。
ご機嫌を伺っているのか? 値踏みされている気分だ。
横に座る裕子がしきりに流し目、上目遣い、ボディータッチをしてくるので、そのたびに肩をすくめたりおどけたり見つめたりしなければならなくて正直面倒だ。咳止めシロップを持たずにきたことを悔やむ。シロップがあれば面倒さを通りこしてこの時間をやり過ごせる。さっさと終われるのだ。
試合終了のゴングは鳴らない。ゲームは続く。身体がもたない。ドーピングするしかない。酒を、アルコールで代用だ。煙草じゃ追いつかない。ジョッキを空ける、「スゴーい」と女二人がおだてる、まだだ、後ろからひたひたと附いてくる、空けるしかない、空けなきゃ果てしなく尽きない。
その後マコトと朝子と別れた。朝子は用事があるとそらぞらしく囁いて二人寄り添いながらそそくさと帰っていった。
心臓の鼓動が彼らの足音とダブった。『風の谷のナウシカ』の巨神兵が歩いてくるような足音だ。頭が鈍すぎて落ち着かない。そして物足りない。すっかりいつも埋められていた穴が開いてしまっている。
天狗近くのバー「ポールスミス」で裕子と飲み直した。裕子はずっとにこにこ笑っている。何がそんなに嬉しいのか。裕子とオレも寄り添ってカウンターに座っていた。久しぶりに女の柔らかさをジャケット越しに感知する。女の匂いだ。無責任極まりなく勝手に一物は躍動していた。
裕子の顔をまだ一度も見ていない。いや、見ているが認識していない。なぜか見ようと試みない。
酩酊しながら思った。オレに必要なのはアルコールでも女でもない。一瓶の咳止めシロップ、塩酸エフェドリンとコデインだ。手を伸ばせば届くはずのそれが今ない。だから一生懸命手を伸ばしまくって四苦八苦している。手に触れるものやたら滅法に抱え込んでいる。毒だろうが薬だろうが、悪だろうが善だろうが、どれでもいい。とにかく埋めなきゃいけないのだ。
埋めて埋めてと唱えるうちに記憶が消失した。
意識が蘇った。自分のベッドの中だった。
気怠かった。脳が痺れてヘベレケ、レレレのおじさんがニューロンをお掃除している。おじさんは神経質なくらいにいつも箒をはたいているのに、少しも片づいていなかった。きっと整えるつもりはないのだ。雑然とした神経組織、これでいいのだ。
タリラリランと呟いた瞬間、胃が痙攣してゲロが逆流してきた。急いでトイレに駈けこんだ。中身を出し切るために咽に手を突っこんだ。手は冷たい。人差し指と中指が甘臭い匂いでつんとする。咽奥に一瞬の痛み痙攣の後、ぞわっと背中に鳥肌がたって快感と一緒に寄せ集めの代理品が逆流した。エクトプラズムは出なくて少しがっかりしたけど、すっきりした。右手の甲からゲロ臭とは違う甘そうなケミカルっぽい匂いが漂っていた。オレは水で口をゆすぐと咳止めシロップを一本空けた。
ベッドには裕子がいた。
なぜ裕子がここにいるのか。生意気にもオレのベッドで寝たマコトだとオレは勘違いしていた。
不可解ながらもオレの袂には裕子が寝そべっている。オレのベッドに眠る裕子はシュールで滑稽。毒リンゴで眠った白雪姫の処女膜には七つの小さな穴が開いていた、てなマコトの無駄咄を思い出し苦笑する。不可解ながらも裕子は、ああん、と唸って寝返りをする。仰向けになった裕子からへそがこんにちはしている。胸がふるふる、オレをふるふるさせる。不可解ながらもリビドーが膨張する。盛り上がる。不可解ながらも一応裕子を抱き起こし、裕子と粘膜と粘液を擦りあった。
三交。寝る。何も考えず、流れるままに。
「おあっ!」
目を覚ましての第一声が間抜けな声だった。カーテンで閉めきった薄暗闇のアパートの一室、陽光を浴びた埃が微かに舞い降りて醜が美に、美が醜に移り変わる狭間。オーロラは電磁波を撒き散らしている。
初めて夢精をしたときの自己の異生物性を喚起させる不安を伴ったような驚きに似ていた。横に寝ている裕子にオレは驚いていた。ようやく勇気を出し裕子を認識したらしい。
朝、化粧が剥がれて醜い出来損ないの道化師浮腫み肌荒れ大目脂、寝言か寝息か唸り呻いている。
吠えてるのではないかとオレは真剣に考えた。
昨日の貪欲さが嘘のようで、夢だと夢みたい。昨日は頭と身体が完全にシンクロしてしまった。最近これほど強烈な欲望を塩酸エフェドリンとコデインに以外に持っていなかった。
「参ったな」
鼻栓をした野郎どもがざばんと水面から飛び出してにっかりとオレに微笑んだ、水面下では必死こいて足をじたばたしているのにオレに笑いかけてくる。
一瞬にやけた顔を浮かべたが、頭を振って野郎どもを打ち消し誤魔化すように舌打ちをした。
まったく厄介なシチュエーションになってしまった。
神妙に顎に手をあて擦りながら、今後の身の振りよう正しい道への道路標識を思い描こうとするも、
「・・・・・・しかしながらも」
と自然に口から逆接の接続詞がざばんと飛び出すと、頭の思考を裏切って身体が暴走というか頭自身も爆走しはじめて「顔と裸体は別の存在だ」などと肯定的な意見をおっしゃって熟睡する裕子も何のその、そのまま再び粘膜粘液の摩擦を開催してしまった。分泌液や肉壁を貪りながら後悔の念がジーザス・クライストの磔模様厳しいマルクス・アウレリウス光悦のマグダラのマリアと一緒にフラッシュバックする。にもかかわらず身体は相乗効果的に昂ぶった。やがて裕子も目が覚めて、以後シンクロナイズドスイミング大会。二種目制覇の自分で自分を褒めてあげたいです。
それから時計は午後二時を過ぎた。
オレと裕子は敷布団の上で向かいあっている。オレの着衣はトランクスのみ。裕子の着衣はブラのみ。スットコドッコイな服装だががっつく自分を押さえるための苦肉の策だ。一応乳当て効果が発動してリビドーは休眠している。
お互い eq \* jc0 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ac(\s\up 11(おちょきん),正座)しながら黙って向きあって、部屋には時折鼻を鳴らすオレの鼻水音だけが響いた。
やっぱり裕子の顔は変だ。否、決して顔が醜悪なのではない。美人ではないだけで、第三者視点では性格を含めた総合的ではかわいいと結論づけられる。おそらく顔よりも状況が変なのであって、それが裕子の顔を歪めている。
異常な情狂だ。だいたい裕子と性交に成功すること自体がおかしいし、面倒を忌んでいるオレにはあってはならないのだ。
何となれば擦り愛をするのは専ら愛しあう二人であって、オレが裕子に資金援助をするでもないし、裕子が eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(ニンフォ),色情狂)なわけでも、オレらが------一人称複数形「 eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(・),ら)」を用いたくないが------いわゆる大人の恋愛などとほざくほど割り切っているはずもない。
そういや裕子が先からじっと見つめている。熱線で溶けてとろりチーズのピザトーストになっちまいそうだ。そのくせ視線が交差するたびちらりと俯き右手でのの字を描きやがる。駄目だ。駄目だ、こんなの。これでは本当にラブロマンスになってしまう、狼狽する。
これからこの女と一緒に睦まじくしなければならないのか。うふんあはんだけならまだしも日常を供にせねばならないのか。二十四時間もしくは千四百四十分あるいは八万六千四百秒、一緒に刻まねばならないのか。
今までは四方乗りこえられない壁に囲まれてはいやしたが上には空が広がっていた。決して青空じゃなくてどんよりとしたお天気だったが世界は開けていた。だが裕子出現に空さえも閉めきられてしまい密室、便所でさえ入り口も下水溝や浄水溝があるのに、このままでは逃げ場が消えてしまう。
「悪いが帰ってくれないか。やってから言うのもなんだけど、なんつうか、嫌なんだよ。裕子が嫌いとか好きとかのレベルじゃないんだ。ギュウギュウになった気分、ほら、満員の中央線なんて嫌だろ? そんな感じがするんだよ。そういうときってオレ以外のやつがいなかったら楽なのに! て腹立つよな。でも一番いい解決法は自分自身が電車から降りてホームに行けばいいわけじゃないか。な? わかるよな」
正直に裕子に説明したら裕子は膨れた。目に涙を浮かべて、「最低ぇ」と罵った。オレは鼻炎激しく、鼻水が鬱陶しかった。
裕子の言葉を聞きながら、社会共同体に属する人間としてオレは最底辺にいるどうしようもない人間である、ってことで酷いいわれようだけど、もはや仲良しでこよしであるどころか肉体的には人と人との交わりがある仲で、要するに肉体交差凸凹関係で、そんな関係が嫌なんだけど今からでも途中下車できるかな。よっぽどラリっているときのマコトの方がましだよな。と漠然と考えていた。鼻水、咽一杯にすすりこんで。
裕子の叱責の中、オレは不意に、
「参ったな」
と溜め息混じりに呟いた。
裕子はもっとぷりぷり怒って立ち上がって衣服を着はじめた。ところが揺れる乳と見え隠れするアンダーヘアーにオレは再欲情した。無理やりオレは裕子を押し倒して嫌がる裕子に貪って、裕子も抵抗から喘ぎに移行して擦り合った。つまり華厳の滝に突入したミスター・ナイアガラは滝壷まで真っ逆さま、落ちる激流に対抗する鯉の気持ちをオレには憶測できず、せめて交尾後命を失う鮭が羨ましい。
結局一日中擦り合って真言立川流、 eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(licit intercourse ),和姦)であったが eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(reconciliation),和解)はなかった。
#2
あ? これ? 鼻水止めだよ。そうじゃない。オレはアレルギー性鼻炎なんだ。花粉症? 今、十二月だぜ。季節が外れ外れ、どこの杉の木が花を咲かしてんだ。風流モノじゃなくて、オレ、ハウスダストなんだよ。そうそう、そのまんま、家の塵だ。ダニーの死骸やらがアレルゲン、鼻ストレスの元凶で呑まないと鼻がグズグズして垂れっぱなしなんだ。お前も嫌だろ、人が鼻水ダラダラしてんの。いやいやいや純粋百パーセントの鼻水。混じりけなしだから汚いとは思わないけどさ。見てみるか? 黄色みなんて全然ない、透明の水っぱなだ。唾よりはきれいだぜ。いらない? 当たり前だ。いいからあっちいってろよ。え? 別にただの咳止め薬だよ。風邪なんてひいてねえって。熱も咳も出てないだろ。オレは不健康に健康してるんだ、だから呑むの。これ一気に呑むと気分がすっきりするんだよ。呑み過ぎだって? 余計なお世話だ。勝手に他人ん家の台所を覗くな。ガキや病人じゃねえんだし関係ねえって。パッケージに書いてあるって何がだ? 呑み過ぎに気をつけろ? バカ! 死ぬわけないだろう。だから市販の薬なんてよっぽど薄めてあるから平気なんだよ。濃かったらクレームで困るじゃないか。製薬会社さんは面倒が嫌なんだろ。よっぽど致死量なんかないよ。軟膏とか呑んでるわけじゃない。呑み薬なんだからさ。・・・・・・だから気分がすっきりするから呑んでんだって。うるせえな。悪いことだったら普通の薬局で売ってるかよ! 余計なお世話だ。邪魔すんな。中毒? ああ、中毒だ。正確には依存症だよ。それでどうした? それとも頭がぶっ壊れたほうがいいのか? いらいらとストレスで死んじまったほうがいいって言うのか? 卑怯で結構だよ。そうだ。逃げてんだ。悪かったな。はい、オレは逃げてます。だからなんだ? 一応オレは良心的大学生だよ。別にお前に迷惑をかけてないだろ。わかった。頼むから邪魔しないでくれ。頭ん中も身体もむずむずして気持ち悪いんだ。キスでもセックスでも、愛の囁きだってするからさ。して欲しいなら、即興で愛の歌も唄ってやる。だからそうごちゃごちゃクレームってオレに面倒しないでくれ。な? 頼むからどいてくれ。邪魔しないでオレを安心させてくれ。ホンの一瞬なんだ。お前が黙ってくれてる一瞬でいいんだよ。な? 頼むよ。
郵便受けにはまた不在通知がきていた。性欲に夢中で運送屋さんを忘れていたらしい。
「裕子、オレのいないときに宅急便がきたら受け取っておいてくれ。ハンコはそこの引出しん中にあるから。それと帰るんだったら鍵を開けたまま帰ってくれ。待たなくてもいいぜ、変な気を使ってまでよ」
裕子には普通に気を使ってさっさと帰って欲しい。何発やったかは覚えていない。飽きるほどであることは確かだ。だがセックスの快感よりも執拗な人間関係の方が邪魔臭いのだ。絡み合った二重螺旋がオレをしめつける。よっぽど咳止めシロップがおしとやかだ。おしとやかだからこそ見捨てることができないのかもしれない。まあ、コデインや塩酸エフェドリンはおしとやかに取り繕っているだけで中身は裕子以上に執念深いのかもしれないが。
「気をつけてね」
ありがたいお言葉だ。だけどお前も気を使ってくれ。
「じゃあな」
ドアが閉まった瞬間、スカッとさわやかになった。久しぶりに独りになった。少なくともアパートを出る口実を作ってくれたマコトに感謝したい。
オレはマコトに呼び出されたのだ。
ガストには食いかけのハンバーグを刻んでいるマコトがいた。ラリ抜けらしく、無表情でぼんやりとしている。普段からぼんやりしているのだから結局はいつもぼんやりしているのだけど。まだ気ぜわしくなるほどせっぱ詰まってはなさそうだ。
「あのね。俺、もうハイミナールなくなりそうなんだ。でもお金ないしね。だからさ、啓介にね、手伝って欲しいんだけどさ」
投げやりに眼を丸くして肩をすくめて見せてから、メニューからキノコ雑炊を選んで呼び出しベルを押す。
「いくらだ?」
忙しそうに店内を駈けまわるウエイトレスさんの一人に注文するとオレは煙草に火をつけた。
「貸してくれるの? 助かるよ。もう一回分しか残ってないんだ。朝子にもお金、もらったんだけど当分もらえそうもないしね。朝子、俺がハイミナールやってるってバレたら怒りそうじゃない。朝子ってあれだしね。あの身体動かすのが好きな人たち・・・・・・体育会系じゃない。だからさ、怒ると思うんだ。だって俺が啓介の家に泊まるだけでうるさいんだよ。変なこと教わるって言ってさ。でも朝子の家じゃハイミナールやれないでしょ。でも結局隠れてやるんだけどね。でも最近朝子が機嫌いいんだ。だって俺、ずっと啓介の家行ってないもんね。裕子ちゃんがいるから行けないんだもんね。でもまた朝子を怒らすとほら、あれじゃない」
朝子がオレに裕子を紹介したのはそういうわけか。当て馬みたいなもんか。当て馬にさせ馬。苦々しく思えてオレは顔をしかめた。
「ねえ、どうしたの? 啓介、怒った?」
「いやいや、何でもない。それよりいくら出せば足りる?」
「うーん、三万円くらいかな」
オレは吸いかけの煙草を灰皿に擦りつけた。
冗談じゃない。三万、今月の仕送りまで残り五日しかないのに、そんな大金手許にあるはずがない。しばしばマコトに金を貸すこと(当然、「貸す」といっても戻ってこないため「貸す」という単語は不適当)があるが中学生の小遣い程度だ。額が一桁多い。
「悪い。オレに今、そんなに金ないんだよ。5千円くらいなら渡せるけど」
オレは言いながら額に皺を寄せたマコト独特の落胆顔を予想した。捨て犬が通行人に「かわいい」と撫でられ抱きしめられの結果、何のこともなしにその人間がただの通行人に戻っていく姿を眺めている顔だ。
しかし予想は見事はずれてた。相変わらずの無表情だった。
「いいよ、いいんだ。啓介にはいつも借りてるし。でね」
キノコ雑炊が到着した。オレは早速レンゲで米をすくう。米は逃げぶきっちょなキノコがすくわれた。どうも欲しいものは手に入らず、どうでもいいものがレンゲに残る。
「で、なんだ?」
「啓介に手伝ってもらおうと思ってるんだ。あのね、道に歩いてるおばさんのお金を借りようと思うんだ。ね? それだったら啓介も大丈夫でしょ」
「ひったくりか?」
「そうそうそうそう、それ。ね、手伝ってくれるでしょ?」
「構わんぜ」
まったくマコトの与太咄っていうのはいきなり頭に掠めてくる。不慮というか思いがけないっていうか、まるで連続レイプ犯の発作的リビドー風船みたいに突然脳髄に引っかかってくる。
「どうしておじさんは女の子のアソコを『観音さま』って拝むか知ってる、啓介?」
空は青く、風は冷たい。からっ風は咽に厳しく鼻炎鼻を苦しめて、寒いはずなのに微妙に身体は暑いと反応する。なのに人々は平然と道を歩いていって振り向きさえせずに足早に去っていく。
「あれね、女の子のアソコが観音さまじゃないんだよ。ね? わかるでしょ。だって観音さまって人の形しているよね。女の子のアソコって穴があるだけだもんね。ね? 啓介もわかるでしょ? アソコに拝んでいるじゃないんだよね。本当は自分なんだよ。おじさんのアソコに降臨した観音さまに拝んでいるんだよ。頭を下げてるのは開いた女の子のアソコじゃなくておじさんのアソコなんだ。だって拝んでるおじさんのポーズ見たらわかるでしょ。土下座っぽくて、でもアソコは立ってるじゃない。だからさ、女の子のアソコって観音さまを置く場所なんだ」
しっぽのちぎれた野良猫が前を通る。目脂がびっしりとこびりついた猫はおどおどとオレの顔を窺うとさっと逃げ去っていった。
「観音さまって美しいと思わない? ね? 啓介。今日も思ったんだけどさ、どうして観音さまがあんなへんてこりんな置き場を求めているのかわからないんだ。だってあんなにきれいなのに変でしょ? きれいなものはきれいなとこってのが普通じゃない。だって料理する材料がきれいでもまな板が汚かったら駄目だよね。・・・・・・もしかするとみんなに観音さまがやってくるわけじゃないのかなあ。俺とか啓介みたいに本当の置き場を求めてる人だけのとこに来るのかもしれないね」
タクシーがけたたましくクラクションを鳴らす。おばあさんがへこへこと頭を下げて必死になって全力疾走する。おばあさんの努力は認められず、ブーイングは止まらない。
「俺はきれいな観音さまを絶対あんなへんてこりんなところにおきたくないんだ。わかるでしょ? 啓介もそうでしょ? だけどさ、置かないと朝子が怒っちゃうんだよね」
溜め息をつきたくなるほどゆっくりと時間は進んでいく。もっと雲が速く空を過ってくれればいい。もっとカラスも速く空を飛べればいい。そうすればお日さまもさっさと沈んでくれるし、おばあさんもエイトマンみたいにマッハで走れる。
「でも最近観音さまに見捨てられたような気がするんだ」
目の前には国際基督教大学の場所を説明してくれるおばさんが嬉しそうに口をぱくぱく動かしている。口奥に埋没した金奥歯までを開けっ広げにするおばさんはものすごくセクシーで親切で、そこの学生であるオレよりも綿密かつ大ざっぱで不適格な道案内に精を出してくれている。このおばさんならここからパリのシャンゼリゼ通りまで教えてくれるだろうし、この親切なおばさんなら喜んでマコトに金を寄付してくれる。
オレが、あの道をずっとまっすぐに行って二つ目の信号を左に曲がって、と指を差しておばさんの反応を待つと彼女はうんうんと頷き、オレはそしてまっすぐ行くと紫色に輝いて毒電波を放出する田無タワーに到着する、と心の中で続ける。
「そうね。だからね、この道をまっすぐに行って・・・・・・」
おばさんもオレにつられて道を手で示しはじめた。おばさんの手振りは晩年のカラヤンよりも素晴らしくきっと有能な指揮者になれる。もしくは人民解放軍の素敵士官で質より量の見事な采配を振るうだろう。
オレが微かに鼻で笑うと、カラヤンおばさんは訝しそうに指揮腕ふりふりながらオレを睨た。片腕ノーガードになったおばさんの後ろからマコトが躍りでておばさんの左手に持つバッグを脇から奪う。
薬が抜けかかっているマコトは短絡的であるが決断力と実行力に優れてくる。躊躇いなしにそのままおばさんの指さすこの道を走っていく。そのまま行けば田無タワーだ。
おばさんはぽかんとひょうきんな顔をしていた。自分の親切な振る舞いが問題を招くとは考えられないようだ。人に親切を振る舞うのならそこに見返りを期待しちゃいけないってことをおばさんは学べたらいいと思う。人は頼っちゃいけないし頼らせてもいけないのは隙が生じて大穴になっていつの間にか穴にはまりこむからであって、もしジーザス・クライストになりたいのならなればいいが、ただし赤ずきんちゃんみたいに狼に食われたって文句をいっちゃいけない。
「泥棒」
オレは唖然とするおばさんを尻目にそう軽く叫ぶとマコトを追う。
さらば、おばさん。また会う日まで。縁があったら道を歩くオレの前に霊柩車で現れよ。
二十メートルくらい離れたところ、背後からはようやくおばさんの叫び声が届いた。いたたましいドナドナな声が風に乗ってオレの脳髄を掻き毟りけたたましく笑い上げる。
マコトは高校時代陸上部にいただけあって、見事なフォームでアスファルトの上を駈けていく。その上元サイクリング部副部長でもあったわけで、筋組織の中に快楽物質が紛れていてもちゃんと機能していて、一方でやっぱりエーテルってのは空気中にあるのかもしれないと心なしか思った。
人通りの少ない午後、おばさんがこの道と呼んだこの道を走る者はオレとマコトしかおらず、誰もオレらに気付かない。走るオレらを怪訝そうに振り返る子連れお母さんや貧弱アベックがいたが、誰もマコトを、そしてオレを追跡してくるものはいなかった。こんなことは些細な日常で注目に値しない。それとも非日常すぎて理解不能なのか。
マコトは大通りを左に曲がり住宅街へと逃げた。
マコトの後ろ姿が確認できなくなるとこまで追いかけて東小金井駅の方へオレは戻った。
親切なおばさんとはさよならでこの世にて二度とあうことはない。だが、オレはこれから三鷹に戻ってマコトに合流しなければならない。もうマコトは新小金井駅に着いているころだ。
上機嫌でマジックマッシュルーム片手にアパートの階段を上るとちゃちい鉄階段はみしみしと鳴って錆び鉄を地面に落とした。
マコトにやろうと思っていた五千円が与える意味をなくしたために、マジックマッシュルームと新渡戸稲造を吉祥寺の怪しい雑貨店できっちり交換してきたのだ。
店のお兄さんが観賞用だから食べちゃいけないよ、とうれしそうに渡してくれた。世界は親切な人たちで満ちあふれている。
オランダ産高品質シロシベクベンシスとラベルされた九グラムの小袋を片手にほくそ笑んだ。まだ一週間は咳止めシロップは持つし仕送りも近い。加えて今日はダウンタウンDXもある。それに右手にはシロシベクベンシス。
なんともハッピー。咳止めシロップの仕入れは当分先のことだ。
「お帰りなさい」
ちっ、ずいぶんと気の利かない女だ、と改めて思う。まだいやがった。これでまた胸のムカつきと股間の暴走がはじまっちまう。いったい何を考えている。何がこいつをそうさせる。・・・・・・まあ、いい。今日は初めての大仕事に成功したんだ。オレには利益なんてなかったけど(二万千円の臨時収入は全部マコトに貸しちまった)、気分がよかった。この瞬間だけなら会社から帰ってきた親父の顔がほころぶ理由はわかる。
「ねえ、宅配便が届いたわよ」
「開けたのか?」
裕子は軽く微笑んで、ううんとかぶりを振った。心底、この瞬間の表情は愛おしい。
「ご飯、食べてきた?」
「いや、食ってないけど」
「じゃあ、私がつくろっか?」
ああ、頼む。なんて素敵な瞬間なんだ。オレには咳止めシロップもシロシベクベンシスもラリった連れもオレに飯を作ってくれる女もいるんだ。素晴らしい。なんて素晴らしいんだ。こんな瞬間なら何度でもスタンディングオベーションでアンコールしよう。カーテンコールは止まらないのだ。
シロシベクベンシスの置き場所に困ったのでとりあえず冷蔵庫にしまうと、ベッドの傍に置かれた段ボールに目をやった。
それは凝視なんて言葉を使う必要もなく、ちょっと見ただけで限りなく小汚かった。広辞苑で調べなきゃ言葉が見つからないくらい形容しがたいオーラを発する腐った段ボールだった。日本のものとは比べ物にならない劣悪材質で、あきらかにメイド・イン・ジャパンじゃない。冥土・陰・ジャパンだ。
箱色は喩えるなら今年死んだ伯父さんの肌の色に似ていた。その伯父さんは重度の鬱病から一族総出のリハビリテーション、立ち直ったと思ったらあっけなく心臓マヒで死んでしまった。意外なほどあっけない幕切れ、そういえば伯父さんの死肌の色と裕子の肌色にている。だからオレはいまいち裕子を好きにならないのか。いやいや、少なくても嫌いではない。好きじゃないだけだ。この死肌段ボールのように。
眺めるだけで胸の中で苛立ちがとぐろを捲いて汚濁がダンスする。こんな劣悪な物に包むことが許されるどうしようもない国はどこだ? 無論、そうでなくとも前の三択送り主疑問がある。
「啓介、冷蔵庫の中に何もないじゃない。これじゃ何もつくれないよ。そうだ。あそこのスーパーで買ってくるね。啓介、何食べたい? 何つくってあげようか?」
「何でもいいよ」
差出人を確認する。・・・・・・よくわからない。
オレは国際基督教大学に通っていて、大学教条に則った反体制、反アメリカ敵精神、月月火水木金金音頭を見事に学び尽くした優秀学徒である。よって毛唐の言語、俗に言う英語が不得手だった。裕子ならわかるかもしれない? ちっ、裕子はもう行っちまったか。
脳漿絞って判読できたことは、韓国からではないこと。送り主はロスアンゼルス箱兄弟有限会社であること。家束縛的良質が荷物であることだけだ。
何だよ、これ? と、ベッドの下から埃とエロ本まみれの英和辞書を探しだした。辞書、両眼、両眼鏡を酷使して得たこと以下。やはり韓国からの品ではないこと。タナカサオリが箱兄弟に依頼したらしいこと。箱兄弟とは英語名であって決して日本語訳する必要はないこと。 eq \* jc0 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ac(\s\up 11(ボックスブラザーズ),箱兄弟)は運送屋らしいこと。家束縛的良質は eq \* jc0 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ac(\s\up 11(ハウスホールドグッズ),家事必需品)と訳すべきであったこと。
ここまで訳せば十分お腹一杯で、オレは大脳皮質以外を酷使することを停止したが、不明確なことが残っていた。まずオレはタナカサオリを知らない(田中 沙織か、棚 傘織かどうかはローマ文字にて変換された日本語名故不明)。さらにオレの住所は上連雀。カミレンジャクと読む。だがジョウレンジャク。そう表記されている。決してオレの周り人間の行状ではないのだ。
疑心暗鬼に憑かれて様々な原因要因が思い浮かぶ。おそらくこれは暴力主義。訳せばテロリズム、略せばテロ。オレのアパートを狙った地道なテロに違いない。はるばる自国を離れて爆弾炸裂、オレの部屋爆発炎上、オレはバラバラ爆裂死。相手は見ず知らずなわけで誰も犯人に気付くまい。ヘイ、ジャップ、と親しまれているくらいのお国柄だからテロの一つや二つ、喜ばしい話だ。
なぜオレが狙われた? 厳正なる無差別抽選、あるいは電脳世界的米製無修正春動画を覗いた罰、あるいは心清きジャンキーへの唯一神のヨブ的気まぐれ、あるいは風吹けば桶屋が儲かる、まわり巡った因果な結果なのだ。と思うが、同時にどうせ殺すなら偉いオッサン殺したほうが得だろうよ。だってそれじゃアメリカでニュースならないしよ。と囁く冷静な自分も出現し、否、お前の末は世界を席捲する大人物だ。だからオレの世界進出を食止めるべく預言予言霊視チャネリング解読した結果の暗殺なのだ。とほざく戯けた自分も海馬辺りにいるらしい。さまざまな個々なるオレが喧喧諤諤する連合会議の結果、段ボールを蹴飛ばすと、段ボールは鈍い音と乾いた音を入り交じらせて軽く吹き飛ぶとテーブルにぶつかった。ボールとあるだけに意外と遠くに飛ぶらしく、見かけほど重くもない。爆発もしない。
段ボールは睨まれても二回蹴られても唐竹割りされてもウンともスンともおっしゃらなかった。結局、言わぬなら、開けてみようぜ、段ボールと開封してみる事にした。
しかし死肌に巻きついたガムテープは------これもまた不快な色で瘡蓋色だ-------簡単に外せない。もちろん、試みているオレが爆風を避けるために、段ボールからできるだけ体を遠ざけているせいもある。
戯けた光景、戯けた姿に業を煮やして鋏を使った。刃を入れたときには、さすがに冷や汗が流れたが、爆発しないようだ。考え違いだった。それもそうだな。ようやく冷静に戻った。少し照れて、もう一回段ボール蹴飛ばした。
「ただいま。待ってて。今すぐつくるから」
段ボールから出てきた物は毒毒しい大型プラスチック容器に入ったピーナッツバター四つと裏煤けたインスタントラーメン一セットと埃塗れのインスタントパスタ一セットだった。
どうも摩訶不思議のオンパレードで夢でも見ているようだ。
だんだんと腹が立ってきた。こんなものを送り付けてくるタナカサオリがムカつくし、その上ピーナッツバターがベトベトしていて粘着してきて憎たらしい。洗っても洗ってもベトベトは落ちない。人に物送るときはしっかりフタを閉めやがれと箱に罵った。地獄煉獄ベトベト阿鼻叫喚に涙が出てきそうだ。さらにMaruchan。ローマ字表記のメーカ名まで癪に障った。何となく、むぁるちゅあん。そう呼ぶよう強要されているようでムカつく。絶望的な気分でむぁるちゅあんと呟いた。
「ねえ、冷蔵庫にある食べ物使っちゃってもいい? どうせ啓介腐らせちゃうでしょ」
「ああ、好きにしてくれよ」
まったく訳がわからなかった。論理的に考えてもこんなものを他人に送るやつに気が知れない。ただ送られた方はたまらなく不快になるのは確かだ。
嫌がらせだ。やっぱりテロだ。
世間ではカード偽造が問題となっている。人さまのカード番号を使って勝手に自分の欲望を満たす。真に由々しきカード問題ってやつだ。オレの兄貴もこれにやられたって苦々しそうに言っていた。そして弟のオレも御多分に漏れずカードを使うことがある。そのカード番号がどっかに流出し兄貴のように犯られたのだろう。兄弟そろってカードに犯られるとは箱兄弟といい勝負だ。
しかしよくよく考えてみると自分自身のために eq \* jc0 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ac(\s\up 11(もの),製品)を買わなかったことには感嘆せざるをえない。電気製品、高級宝石、ブランドグッズなどを買って質入れ現金化する二流のスットコドッコイとは異なっている。純粋に eq \* jc0 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ac(\s\up 11(嫌がらせ),目的)に殉じているのだ。いらない贈り物ほど思い煩うことはない。このことは、お誕生会の贈り物、結婚式の引き出物、優勝記念巨大トロフィー等にて実証されている。実際オレもマコトの誕生日に金メッキの東京タワーの置物をやったら、マコトに似合わないものすごい毒々しい顔をされたことがある。なるほど、必要としない物を勝手に買って送り届けてベトベトむぁるちゅあん。まさにプロで一流だ。 eq \* jc0 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ac(\s\up 11(とん),貪)ではない鈍でもないとんでもない eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(おとこ),漢)だ。大した野郎だ。
困り切ったオレも、最終的にはこの天才磯野カツオ的犯罪に賛辞を送るしかない。
「はい、お待ちどうさま」
「ああ」
「あれ、何これ? ロスアンゼルスからじゃない。誰からなの? 友だち?」
「タナカサオリからだ」
「友だちなの?」
「全然知らないやつだ。向こうはオレを知り合いだと思ってるから送ったんだろうけど」
「変な物送ってくる子ね」
ロスアンゼルスか。ってことは仁美関係かもしれないな。Eメールでも送って訊いてみるか。
裕子がシステムキッチンでカチャカチャこしらえていたものはファンシーで腑抜けたオムライスだった。巨大なギョウザみたい、寝技のやられすぎな柔道選手の耳のような形状に、申し訳程度の------ホントに「スンマセン」っていってそうだ------キャベツが鎮座ましている。かわいくて頬が引き攣ってきそうだ。
味は普通、食えないことはないってすると失礼だがまずくはなくて、文句のつけ場所はないが褒め場所もなかった。
「どう? おいしい?」
「うん? まあね」
裕子は盗人を見張る女主人のように他人の食いっぷりを眺めている。マコトにぼんやりと見つめられるのも気持ち悪いが裕子の視線を感じ続けるのも尻の穴がこそばゆい。少しは目を離して欲しい。
「でも、ホントよくこんなの作れるよな」
「こんなのって?」
「結構凝ってんじゃないかよ。よくオレん家で作れたよ」
裕子はいっそうと身を乗りだして眉をしかめると真面目ぶった顔をした。
「本当に大変だったんだよ。啓介の冷蔵庫ってウーロン茶とお酒とキノコしかないじゃない。お米と炊飯器がまだあったから助かったけど。でも大変だったわ」
キノコ? オレは皿の上のケチャップにまみれたキノコをほじくり出して凝視した。そういやこのキノコ、普通のオムライスに入れるようなマッシュルーム的なキノコじゃない。しかもこのキノコには見覚えがあった。ラリったマコトでもないオレが忘れるはずもない。
「なあ、お前、冷蔵庫のキノコ、使ったの?」
「そうだよ。ダメだった?」
言葉につまった。脳裏に浮かんだ抽象意識を具体化すれば、もったいない。五千円のシロシベクベンシスがたった二人前のオムライスになっちまった。どうにも高級な味がしていたはずだ。もう一つは大丈夫かってこと。三グラムでLSD並のぶっ飛んだ幻覚が見えるのに、一人当たり四.五グラムの割当てだ。とんでもなくぶっ飛んじまいそうだ。
「いや、別にいいけどさ」
一瞬の交錯ゲシュタルト崩壊の結果、オレは eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(ひよ),日和)ることにした。裕子に下手な刺激を与えパニックに陥らせて、そのままバッドトリップになってしまうよりも、スゥートな雰囲気でいい日旅立ちをさせたほうがいいと判断したからだ。泣き喚いてオレまで地獄旅行に直行するよりも、帰国後に「実はこんな素敵なオプションが今回のスケジュールに追加されていたのです」と誤魔化したほうがいいのだ。
そうと決まればツアーコンダクターなオレは細心の注意をもって接する必要がある。彼女をもてなすことに専念しなければならない。場合によっちゃオレだけが悪い夢を見るかもしれないが、しかしそれがツアーコンダクターのお仕事だ。釈然としないけど、憤ったばかりにワンダーランドな留置所で囚人パンツを拝まされるのもまっぴらゴメンだ。そもそも裕子に心を配って己の心もなだめ旅行を満喫する、そんな魔法みたいなことができるはずないのだ。
オレは「いいよ、啓介。私がやるから」と腰を上げかけた裕子を制して後片づけをする。キッチンは料理を拵えたと思えないほど整理されていたから片づけは楽勝簡単ポンだった。オレはBGMのCDをイギー・ポップから癒し系CDの『IMAGE』に変えた。気抜けするような音楽で多少はむしゃくしゃするがオレはツアコン。お客様に快適な旅を提供するのです。提供しなければならないのです。
裕子と一緒にベッドに腰をかけると静かに時間を待った。
なかなか離陸しない。何も起きない。ステレオからは無意味な音楽が「お前のどうしようもない心を癒してやるよ」となめた音楽が鳴り続ける。裕子はオレの肩に頭を任せてくる。
で、だんだんむかっ腹が立ってきた。癒し癒し癒し癒しが卑し卑し卑し卑しに変換されてのたくる裕子の首は血泥の詰まった水風船、思いっきり人差し指で穴開けたくなってくる。
CDをイギーに戻しすと、くわんくわんとなっていい雰囲気。
「どうしたの、啓介? さっきから落ち着かないじゃない」
オレの苦労を露知らず、呑気に訊いてきた裕子にまたまたまたまた苛々してくる。せっかくのイギーが台なしじゃないか。せっかくお前のためにお前のどうしようもない心を癒してやっているのに、いい旅をするにはお客様のご協力も必要なのですよ。
「実はな・・・・・・」
お客様、離陸の時は座席ベルトをしっかり締めないと首の骨がぽっきりと折れて血達磨首風船が破裂して座席は血の海、とばっちりに私の服にも血潮が飛んで生憎機上には着替えはありません、だから着陸後すぐに着替え&まっすぐクリーニングへゴーになるから私に迷惑がかかるのですよ、とマナーの悪い乗客を驚かせようとオレは裕子にこれからの旅のオプションを打ち明けた。そうすればすっきりする予感がしていたし安全な旅行が期待できるそうだからだ。
しかし裕子は平然としていた。
「へえ、やっぱりあのキノコそうだったんだ。私も変だと思ったんだ。だって料理もしない啓介がキノコだけ冷蔵庫に入れてるんだもんね。でもね、食べても大丈夫なんでしょ? だって啓介さっきから普通にしてるし」
やっぱり感づいてやがった。だったらさっさと言えばいいじゃないか。オレのことは何でもお見通しって面をしやがって。オレはふんと鼻を鳴らす。
裕子はオレの顔を窺うとふふっと笑ってオレの右腕に手を巻き付け胸を押し付けてきた。オレは蟷螂の雄だ。いつか食われる。
蟷螂の雄の気持ちになって不貞腐れていると突然、天井の蛍光灯から光の帯が舞い降りてきてゆらゆらと蜘蛛の糸のようになびいた。糸は風もないのにしぼんだり開いたりしていて動物教育番組で見たクラゲの足みたいだった。白壁はモザイクだった。びっしりと六角形上のパネルを精密に組み合わせて、そのパネルが親亀子亀孫亀みたいに盛り上がったりへっこんだりした。テレビの右半分が左半分より小さくなって阪神ファンのメガホンのような形になっていたのにテレビの上のガンダムフィギアは倒れない。部屋が鼓動していた。
裕子は「効いてきた。効いてきた。効いてきた。効いてきた。効いてきた。効いてきた。効いてきた。・・・・・・」と呟いていた。オレが裕子の腕を振りほどくと「効いてきた。効いてきた。効いてきた」女はベッドに潜り込んだ。
小便がしたくなって腰を上げようとする。腰が立たなくなっていた。酔拳のジャッキー・チェンよりもふらふらしていた。腰を浮かせたままよろめきながらトイレに向かうとトイレの小さな空間までも鼓動していた。ファニーな壁紙が遠くに行って戻ってきた。随分と奥行きがあって遠くにタンクが見えた。名犬ラッシーみたいに壁紙がうろちょろした。洋式便器は開いた便座が女性器みたいにぱくぱくした。開いた瞬間を狙って小便すると女性器は二つに別れくっついたり離れたりした。小便もディズニーのイリュージョンのように拡散したり集中したりする。
時計は十時を指していた。ダウンタウンDXの時間だ。確かオレは見ようと思っていたんだ。CDラックをガチャガチャさせてCDを探した。「あれ?」オレは呟いた。そしてCDを手に取る。「あれ?」時計は十時一分。ダウンタウンDXを見る。オレは筋肉少女帯の『最後の聖戦』を選んだ。「あれ?」CDラックはガチャガチャ鳴る。オレはCDを手に取った。「あれ?」時計は十時二分。十時ってこんなに暗かったか。十時ってもっと明るくないか。十時って明るいよな? 「あれ?」ダウンタウンDXだ。「あれ?」どうして見るんだっけ?そうだ。筋肉少女帯だ。オレはCDを片手にラックを探した。十時。十時は夜だ。でも暗い。じゃあ明るい十時とは何だ? 十時? 十時とは何だ。ずれたオレの眼鏡を掛け直そうとすると眼鏡は顔にめり込んだ。「あれ?」オレはステレオからCDを取り換えた。右手には眼鏡。オレは掛け直す。眼鏡はめり込んで脳髄に溶け込むとどっかに消えた。「オレは夢を見ているのか」と心の誰かが叫んだ。十時六分。暗い。ダウンタウンDX。なぜ彼らの喋りを見なきゃいけないのだ。右手には眼鏡。眼鏡を掛け直す。眼鏡はめり込んで消えた。「オレは夢を見ているのか」誰かが叫ぶ。右手がねじれた。千歳飴だ。指がしゅるしゅる腕の中に埋没していく。しゅるしゅると腕に入っていく。右手は消えた。右手はある。左足がない。右手がねじれた。千歳飴だ。しゅるしゅる。指が腕の中に埋没していく。十時ってなんだ。なぜ奴らは喋るんだ。オレは口の左端を歪めた。口がめくれたかと思うと顎になった。顎になったオレの口は頭になった。「オレは夢を見ているのか」十時八分。
小便だ。右足はない。左手と頭は復活。めくれて消える。トイレはまた鼓動していた。壁紙もラッシーだ。便座もぱくぱく。オレのズボンから勝手に一物が染み出てきて現れた。観音菩薩。お帰りになった。一物はラッシーと鼓動しているみたいにズボンから生えたり消えたり二つになったりくねくねしたりした。「オレは夢を見ているのか」生えた二物から放尿した。じんわりと温かいものが左脚を伝った。オレは夢を見ている。
「あれ?」携帯が鳴っている。携帯を持って眺めていると左手に眼鏡があった。めり込むと鬱陶しいから投げた。左脚がひやひやしている。オレは夢を見ている。ベッドに上ろうとすると落ちた。途中カーテンに手をかけカーテンが落ちた。外は十時なのに真っ暗だ。オレは夢を見ている。端に何かあるのでオレはそれの邪魔しないように小さくなった。冷たい。十時十三分、携帯が鳴った。時間? 時間は何を示す? まだ十時なのに。左脚が冷たい。オレは夢を見ているのだ。携帯を放った。
左脚が冷たいので布団をかぶった。布団をかぶっても左脚は暖かくならない。オレは夢を見ているのだ。左脚を暖めようと布団をいくらかぶり直しても冷たいままだ。シーツが蠢いて冷たい。時計は十時十八分。十時でも周りが暗く左脚が冷たい訳がわかった。オレが認識しているからだ。世界はオレの認識によって成り立つ。世界はオレの認識の積み重ねだ。敷布団が二次元になり三次元になった。ね? やっぱりオレの認識によって世界は変わる。ベッドの頭方向のパイプが途中から透けている。壁がモザイク。世界はオレの認識だ。敷布団が四次元になった。外は暗いままだ。オレは怖くなった。頭と脚の位置を変えた。外は暗いままだ。オレは怖くなった。敷布団が二次元に戻ってシーツの模様が抽象化された。壁のモザイクも六角形の角が取れて滑らかになった。オレは怖い。オレの認識が世界だ。すべてがオレの認識の積み重ねだ。親父もお袋も仁美もダウンタウンも十時もオレの認識でしかない。親父? 認識だ。オレが作る。オレの認識により存在する。オレは独りだ。オレしか存在しえない。三次元になった。オレは叫んだ。オレはアパートを飛びだした、オレは独りだ。世界はオレしかいない。オレの認識が作り出したものだ。オレは部屋に戻った。蜜蜂の巣のような部屋。オレの認識によって世界が生まれ消えていく。オレは窓を叩いた。世界は変わらない。オレは叫んだ。壁を叩いた。壁を噛みモザイクを噛みちぎった。ベッドを動かした。オレが考え続けるかぎり世界は存在する。怖い。考えが続けなければ。考えないと。オレの認識に呼応してシーツは中小具象を繰り返す。その都度、オレの思考は振り出しに戻る。オレは休めない。永遠に抽象具象の世界を考える。すべてはまた振り出しに戻る。オレは消えたい。考え続けたくない。消えても思考は生まれる。オレは独りだ。曖昧の中に作り揺らぐ。十分オレは無限の反覆を続けてきた。もうこれ以上の永遠は続けたくない。オレは頭の位置と脚の位置を変えた。シーツは二次元から一次元になった。永遠だ。永遠と繰り返される。足が冷たい。世界にはオレしかいない。そして孤独な反復を繰り返す。消えたい。親父もお袋も仁美もダウンタウンも繰り返しだ。死にたい。頭を殴った。消えなかった。首を切ろうとした。切れない。世界は終わらない。オレは独りのまま考え続けなければならない。独りだ。独りで永遠に考えなければならない。
シーツが再び抽象化されて四次元になったとき、オレは絶叫した。
#3
六時。
六時?
六時って何だっけ。
外が明るい。考えたくない。考えるたびに世界は創造されて破壊されていく。それでもオレは独りなのだ。創造したくない。考えたくない。いや、考えなきゃ。考えないと。認識しないと。世界を認識せねば。
オレは蛍光灯を付け直した。
骨抜きされた世界はかたかたとハードディスクが回転するように再構築された。
オレは夢を見ていたのだ。マジックマッシュルームで飛んでいたのだ。
すさまじい夢だった。危うくワン・ウエイ・トリップで向こうに行ったままなるところだった。どれくらい飛んでいたのだろうか? 今は六時だからちょうど八時間近く飛んでいたようだ。心臓の鼓動が速く脳内からは様々な意識が沸き起こるが先とは違って微妙に心地よかった。しかし頭が未だ世界を認識しきっていない。構築せねば、統一的な意識で構築せねば。
ひどい錯乱だった。気が狂うところだった。バッド・トリップなんて洒落にならない。けれどもオレは eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(カオス),混沌)から eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(ロウ),秩序)の世界を作り上げることに成功した。夢から帰ったのだ。
「あれ?」
再構築された部屋はいまだ混沌としていた。カーテンは引きちぎられ隙間からはほのかな朝日が差している。絨毯には掻き毟ったようなベッドの擦れ跡がある。テーブルの吸い殻入れ空き缶は倒れどす黒い液体を絨毯にしみ込ませている。部屋の隅に落ちていた眼鏡は指紋でベトベトだ。胸が悪くなる。壁には弧を描いた傷跡があって壁紙が毟り取られていた。そしてトイレの床には小便が滴っている。
どうしようもない現実に堪えられない不安に襲われた。すべてが夢ではない。オレは世界を破壊していた。錯乱は夢と現実の狭間で揺すられていたのだ。
動悸が激しい。オレは何をしたのか? オレは何をしていたのか? どこまでが夢だったのか? どこからが夢なのか?
胃の辺りがむあむあして落ち着かない。咳止めシロップだ。とにかくシロップを飲みたい。まだストックはある。飲めば落ち着くのだ。
キッチンの収納に収められたシロップは消えていた。残りすべて消えていた。正確には十一本の咳止めシロップ。なぜない? オレがしまっておいたシロップがなぜか消えた。シロップ! 落ち着けない。世界が、世界を構築しなければならないのだ。
裕子を忘れていた。トリップには裕子は存在しなかった。オレは世界に裕子を再び構築し、ベッドに寝ている裕子を揺さぶり起こした。
「・・・・・・啓介? すごかったよね。すごいきれいで楽しかった」
「シロップは? 咳止めシロップはどこにある?」
「すっごい楽しかった・・・・・・」
オレは舌打った。冗談じゃない。独りだけグッドトリップかよ。咽が渇く。胃が、腸が収縮する。旅の土産話なんて貰っただけでも鬱陶しい。早くシロップだ。シロップを出せ。オレに返せ。
「咳止めシロップ。台所に置いてあったシロップはどこに置いた」
「えっ? あの咳止め薬? ああ、あれ、捨てちゃった。だってダメだよ。あんなの飲んでちゃ身体に悪いよ。私、啓介の身体が心配だから・・・・・・。ね? だから私・・・・・・」
ふざけるな。何がオレの身体の心配だ。お袋にでもなるつもりか。てめえ独りだけ素敵なハワイ旅行に行ったくせしやがって。しかもオレの金でだ。肝心のオレは飛行機轟沈して三途の川の無間地獄に落ちてしまった。それなのにオレの咳止め慰安温泉旅行は邪魔するのか。ふざけんじゃねえ。
脳内血管が拡大してヘモグロビンが解放大回転する音が頭蓋内に響く。食いしばった歯からはぎりぎり、どんどん瞳孔が開いていくのが自分にも感じられる。
「出ろ」
「エッ?」
「家から出ろ!」
「どうしての? だって啓介のこと考えて・・・・・・」
「いいからこっから出てどっかへ行け!」
ベッドから裕子を引きずり落とした。裕子は喚いた。オレは裕子を立ち上がらせて襟元を掴むと外へと放った。
この期に及んで二階の玄関で女の子正座をする裕子はオレを哀れんだ目で見上げる。
「啓介、わからないの? 私はあなたが好きなの。好きな人が自分の体を傷つけるのを・・・・・・」
一方的な愛の押し売りならゴメンだ。そんなのだったら渋谷でも新宿でもいけばいい。祈ってくれる。幸せのためにいくらでも押し売ってくれる。愛の自給自足ができないならそこで慰めてもらう。
「じゃあな」
オレは裕子の荷物を裕子に投げるとドアを閉めた。キーチェンをかけた。裕子は何度もチャイムを鳴らした。
疲れていた。全身がだるかった。熱血先生と浜辺で一日中タックルしあったようだ。神が一週間で、宇宙が一五〇億年かけて行った作業をオレは六時間で成し遂げたのだ。ばてるはずだ。
持ち金は千円を切っている。これじゃシロップ一つも買えやしない。汗がにじみ出た。いや、最初からにじんでいたのか。違和感に溢れていた。自分の汗じゃないようだ。何だって寒いのに汗が出てくるのだ。
携帯を探した。確かオレの錯乱記憶が正しければ携帯はテレビの裏にある。何となく壁に放った映像が脳髄に残っている。
あった。
オレはマコトを呼んだ。
「大丈夫? 啓介」
ああ、オレは呻くように頭を振った。マコトは電話一本ですっ飛んできてくれた。朝七時を回ったところなのに来てくれたのだ。
「でも、啓介さあ。まだ薬局やってないよね。大丈夫? 後二時間くらいあるよ」
「すまん。オレもそのことを忘れてたんだ。だけどやばいんだ。身体がやばそうなんだよ」
「わかるよ。それにさあ、俺も今日辺り啓介ん家行こうと思ってたんだ。わかるでしょ? 朝子ん家にね、エーテル置けないじゃない」
マコトはジャケットから茶色の瓶を出してオレの目の前でたぷたぷ揺らして見せた。瞬間、咳止めシロップかと心が踊って気が利く奴だとマコトにキスしたくなった。しかし蓋のタグが取られたそれからは異臭が漏れていた。
自分の身体の軋みで気付かなかったが、マコトはシンナー臭い。
「ね? どうする啓介? よかったらやってもいいよ。・・・・・・ホントはあんまりあげたくないんだけどさ。ね? 前に手伝ってもらったでしょ? だからね。そのお礼」
マコトはそう言うとポケットから取り出したハンカチにシンナーをしみ込ませてオレの前に差し出した。
グレーのハンカチに真っ黒に染みたエーテルはオレに笑いかけた。仏の微笑だ。甘いか、苦いか、しょっぱいか、それが何かが知らないがともあれ仏の微笑をオレは見た。
でも無機物になったオレは笑えなかった。エーテルは空気中に満ちている。オレは希うのはたっぷりの塩酸エフェドリン、コデインだ。有機溶剤とは違う。
「サンキュー、マコト。でもいい。オレの欲しいのはシンナーじゃない。別に脳みそが溶けるとか、言いたいんじゃないけど、どうもダメなんだ」
「そう? でもすごい辛そうだよ。苦しんでしょ? わかるよ。俺にも。ね? いいよ。遠慮しないで。エーテルはそんなに高くないしね。いいの? そう。じゃ、店、開いたら一緒に借りに行こう」
マコトはハンカチを鼻に当て思いきり吸うと、う、と鼻声で唸った。部屋はシンナー臭で充満した。どいつもこいつもアホばかりで世界は歪んでいる。そしてオレはそっぽを向かれている。
「あれ? 裕子ちゃんはどうしたの?」
オレはそれから二時間、マコトの質問攻めとシンナー臭と与太咄に突き合わされて、しかも激しい下痢までいらっしゃった。だるいのに下痢が出てくる。ただでさえ大仕事の後で疲れてだるいのに体力はどんどんすり減らされていく。
九時になったとき、オレは「借りてくる」と言い張るマコトをなだめてオレのクレジットカードと渡しその暗証番号を教えて買いに行かせた。ジュリエットの気持ちがわかった、とマコトを待ちながら小便で床が濡れたトイレの中で唸った。
咳止めシロップの一本の金額、およそ千二百円。日に一本、滅入ったときは二本は飲むから、三日で三本と考えて月計算は四十五本近くとなる。千二百円×四十五本=五万四千円で、オレの仕送りの余費、食費&遊興費八万五千円から比べると結構自給自足で賄えそうな気がするが、仕送り末期はそんなわけにはいかないので、仕入れと称しマコトとかっぱらいに出かけにいっている。ホントの中毒者は月に十万〜二十万円をシロップ瓶に捧げているらしいから、その分ではオレは初級中毒者といったところか。
薬の原価などたかがしれていているし、人生持ちつ持たれつというわけで仕入れに関しては別に道徳的嘖悪感はない。でもカード借金地獄に落ちるのだけは遠慮したい。肉体的に蝕まれるのは構わないが、金という抽象概念のせいで怖いオッちゃんたちにどつかれたくない。オレもマコトも実に平和で優しい小市民なのだ。
それでもマコトとは多少なりとも違いもある。愛好、あるいは依存の対象がことなっているのだ。オレは合法な咳止めシロップだけで十分お腹一杯で、大部分のストレスは煙草とシロップが希釈してくれる。後は網から漏れたストレスが一生懸命オレの寿命を縮めているだろうが、まあ、それがオレの業だし命を懸けて健康になる気もないから問題はない。憂鬱だけを吹っ飛ばしてくれればそれでいい。
たぶん基本的はオレとマコトは同じだと思う。だが、あいつの限界は非合法ぎりぎりだ。オレは完全な中毒者となって怖いオッちゃんたちの餌になりたくないし、刑務所でマズイ飯を食いたくもない。だからこそ手を出さないのだが、あいつには限界意識はないように思える。今は睡眠薬(自称ハイミナール)を噛りシンナーで鼻を鳴らしているが、手に入るのなら何にでも挑戦するだろう。マコトの精神はすこぶる繊細なのだ。素面じゃやっていけないのかもしれない。だからマコトは鎧のかわりにドーピングで心をぶっ飛ばして生きている。今のところは朝子的存在があいつの指導教員&依存の一つになっているから、非合法なお友達をつくらない。せいぜいへたれのオレくらいだ。
だけどマコトはシンナーにまで魅かれるようになった。高さを恐れない小猫のようにどんどん上のステップに昇っていく。
「だってさあ、ハイミナールは高いでしょ? ね? 啓介。でも結果を考えるとさ、エーテルだって一緒でしょ? 安いんだよ。わかる? 一消費者としては安いほうを選ぶほうが当然だよね?」
確かにマコトの計算は溶けかかっている脳みそにしては的中している。だが、悪名高い最悪のシンナーだぜ? いいのかよ。
最近はトイレに行くたびに嫌な雰囲気に包まれる。一つはオレの魔法茸の錯乱とそのおまけの小便。もう一つはマコトが朝子の目を逃れるためにオレの家のトイレに隠していったシンナーの小瓶。最後はシロップを買いに行くマコトを待ちながら、携帯で何度もマコトに、ちゃんと買うんだぞ、ぱくるなよ、と叫んだときに気付いた携帯の留守録。
留守番電話の主は、最近の流れから裕子、と思いきや、UCLAの仁美からであった。
懐かしき友人、仁美。我儘傲慢自己愛追及快楽八方美人な女で、訳のわからん言動行動でオレを振り回し、オレの精神肉体全部をぐたぐたにしてもケロリとしている悪魔のような女だ。
にもかかわらず数少ないオレの友達で数少なき理解者だ。それに何と言っても、立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花って感じでまさしく美女なのだ。
オレと仁美の関係はサザエとノリスケ、中島花沢に似ている。リビドー越境をした男女の好ってやつだ。できればその関係をぶっ壊しすべてをゼロに戻したかったが、けれどもオレにはそれができない。今の関係が一番楽しいし、仁美はあっさりオレに別れを告げるのがわかっているからだ。そして彼女は海の向こうにいる。桧板破るは難なれど、海の隔たり破るは猶難しってなもんだ。
声を聞いただけで懐かしくなった。仁美がいたときのことが思い出されて仕方がない。オレがシロップに依存したのは仁美がいなくなったから、なのかもしれない。
お前、元気か? 飯食ってるか? 念願の eq \* jc0 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ac(\s\up 11(カルフォルニアガール),西海岸娘)になれたのかよ? と、話したかった。だが留守番電話だ。そうは行かない。伝えられたのは一方的相手、仁美からの記録伝言だけだ。
仁美はろくに連絡もしてこないし電話番号さえも教えるのを忘れている。きっと本当にオレのことを忘れているのだろう。唯一の痕跡の頼りの着信履歴も通知不可能となっている。言い表せない哀しさに苦笑せざるをえない。
伝言内容は次のようだった。死肌色の段ボールは仁美の友達の所有物(当然、中身も)だそうだ。オレがそれを一時的に預かる。いずれ仁美の友達の友達が取りに来る。そして仁美の友達の友達の友達に彼女の友達の友達が渡す。
下痢と不安感に満ちた便所の中、このメッセージの聞いた後、携帯電話を地面に投げ付けるとオレは吼えた。
—冗談じゃねえ。何でオレがこんなこと為なきゃいけねえんだ! ふざけんな、この大バカ野郎!
しかし仁美は太平洋の先にいる。殴り付けても徒手空拳で届かない。ICBMでも発射しなきゃ意味はなく、子曰く、友遠方より来たる。亦喜ばしからずや(反語)。オレ曰く、友遠方より送り付ける。亦喜ばしからず(否定)。と情けなくなるほどか細く曰うしかなかった。
仁美には散々に迷惑をかけられた。「深夜、スパゲティが食べたい」と、仁美のアパートまでオリーブ油を届けさせられたり、早朝、「パンクしちゃったから直して」と、自転車のパンク修理に呼び付けられたり、徹夜で話し相手をさせられたり、誕生日を無理やり祝いさせられたり。反面、オレが落ち込んだ時はよくよく慰めてもらったし、くだらない与太咄に付き合ってくれた。まあ、そこんとこに惚れたのかもしれない。どっちにしようと惚れた弱みだ、仕方ないのだ。
しみじみ感傷に浸った。
三日後の深夜、突然、携帯が不快そうに滔々と鳴り轟いた。騒然として喧しかった。
このごろ、ひっきりなしに裕子から電話がかかってきていて、オレのどこがいいのか知らないが、執念深くやり直しをせがんできた。やり直しどころか始まってもいないのにだ。
電話先の裕子は泣いたり喚いたり、半狂乱になってオレを口説いてきた。裕子携帯からの電話を無視すると、非通知電話や公衆電話からコーリングしてくるようになった。だから今度の電話も裕子からだと思った。
違った。
「仁美の友達だけど」
「はあ?」
さっぱり皆目見当がつかなかった。文脈から何とか仁美の友達ということだけは理解できた。要は仁美の友達、荷物の受取人だ。
「仁美の友達です」
「はあ」
「今から荷物取りに行きます」
「はあ?」
—オイオイ、何時だと思ってるんだ。
「俺、町田にいるんだけどそっちはどこですか?」
「はあ、三鷹市ですけど」
「車なんだけど、どう行けばいい?」
—オレの都合は無視するのか?
「地図かなんか、持ってますか?」
「持ってない」
「じゃあ、ちょっと待ってください。今調べます」
オレは地図を探し取り出してアパート付近をアナログ手動探索、アパート付近発見し、そこから大通りまで辿る。なぜこんなことしてるんだろうなあ。大通りの名前を突き止める。何してるんだろ? 大通りから国道まで指でなぞった。こういうのはオレが調べるもんなのか? 何とか、奮闘後、オレの最寄りの駅、国道、大通りを伝えた。どうでもいい。どうでもいいからここまでやってこい、ともはやバーニングシットだった。
「わからない」
「ええ〜とですね。もうちょっと待ってください」
—いい加減にてくれ。
携帯片手に必至に悶えた。もう一度、前の作業を繰返し、より精密に、阿呆にでもわかるように易しく説明した。行為の条理性などと曖昧に考えながら、一方で阿呆に対して心なしかの優越感を持ちつつ、劣等生に対するエリイト意識、バカは死ななきゃ癒らないけど死んだら元も子もないから頑張ってくださいの校長訓示な感じで仁美、オレは変わらず知らない阿呆にも親切善い子だぜ。オレは相変わらず博愛主義者だ。と晴れ晴れしくなりながら、時折「ええ」「うう」「あれ?」などと唸りながら頑張るふりをして、多少は熱血教師の真心、本当に頑張った。
三〜四分後。作業中、突如、阿呆がオレの説明を遮った。
「もういいです」
「はあ?」
「わかんないなら、明日でいいです」
「はあ?」
「明日、午後空いてます?」
「はあ」
「じゃあ、明日の午後また連絡します」
携帯片手に呆然とした。無礼非礼失礼の馴れ馴れしさ、傲慢、強引、業畜、そもそも一体何者なのであろう? 勝手に他人の予定まで決めやがって、わかんないのは阿呆自身でオレは道順を知っている、てめえの不手際、不調法、不能力さを棚に上げやがって、とめらめらと憤りが噴出して携帯電話を床に投げると本体部分とバッテリーが分裂した。
オレは咳止めシロップの封を開ける。相変わらず甘い。
確かに予定は空いているが、と考えるも続きは出てこない。
十一時。ベッドで眠っていた。
「今から行きます」
「はあ?」
—午後って言ったぜ。時計読めないのか? それとも町田と武蔵野、時差でもあんのかよ?
「・・・どう行けば良い?」
—地図くらい買っとけ、阿呆! なんのために一日空けたんだ。
「はあ・・・・・・じゃあ、三鷹駅まで来てください」
「わかった」
「あっ。どれくらいで来れます?」
「三十分から一時間」
—曖昧だな。
「分かりました。着いたら電話ください」
寝癖頭を掻き毟り眼鏡を装着、深く深く深—く深呼吸してシロップを飲み干した。最近、飲む本数が増えた。問題はないが金にも限度があるし、頻繁な仕入れもしたくない。面倒はするりと避けたい。
さあ、どうしましょう。と、過分に白々しくも少し大人のオレに浸ってみせたら、形だけにしろ余裕が出てきて、怒るだけが脳じゃない。そうだ。仁美には恩がある借りがある義理もある。そしてオレの数少ない友人、しかも親友だとオレ自身は認識している。さらには惚れている。彼女の友達ならば、無礼を振る舞って彼女の面を汚すわけにはいかない。嫌われるのも嫌だ。多少の失礼くらいいいじゃないか。連中にしてみればきっとフレンドリーな表現なのであって、なかんずくアメリカならば当然のビヘイビアー。何せアメリカ帰り。深夜に電話? きっと時差ボケが直ってないのだ。何せアメリカだ。大変だね。何せアメリカだ。と、合理化昇華する。
も、束の間で一時間経っても連絡はこない。一時間半経っても連絡はない。二時間経っても連絡はねえ。眠いし、飯でも食いに行きたい。
顔が歪んで破裂の義理切り寸前五秒前、二時間十五分後にようやく連絡が入った。
だが連中の現在位置、武蔵境駅。クソ阿呆。
それからの苦労、これまた言葉に表し難かった。奴らがオレのアパートのある三鷹通りまでに達する時間、一時間。ちなみに三鷹駅からオレのアパートまで、徒歩十五分。とにかくアメリカモドキは人に頼るのは御嫌いのようで、自立、独立、我儘精神。さすがは世界の警察、世界のガキ刑事ロボコップだ。
どっちにしろ、オレに電話で尋ねないといったらありゃしない。電話があっても十五分に一回。その都度五キロメートル自動車移動。やはり阿呆だ。それともアメリカ日本じゃ時間単位が違うのか? イエス。アイ・シンク、約一時間米=約三時間日。と、今日から変動時間制のワールドスタンダードじゃねえか。
実際のオレのアパートは三鷹通りから少し入った所にある。大通りでさえこのありさまだ。絶対奴らじゃ裏道まで入って来れるまい。仕方ねえ、と己に言い聞かせ小汚い段ボール箱引っ下げて、三鷹通りまで持っていくことにする。重い、重いぞ、この野郎、と発見! 荷物は室内を出ると重くなる、と閃いた瞬間泣けてきた。
冬なのに汗だくになって三鷹通りに面する頃、阿呆から連絡が届いた。奴らも三鷹通りに辿り着いたらしい。
やっと、やっとだ。じゃあ、今のオレの位置を教えてやる。ちっと待て。と腰を上げると馬鹿面下げた阿呆が乗った黒の4WDが眼前を過ぎ去った。
もしや、よもや、まさかの不安が過ってオレから電話する。予想通りでジャストミート阿呆の車だった。しかも一方通行だ。戻れない。
「持って来てくれます?」
太い野郎だ。馬鹿野郎。
どうしようもない。このクソ重い荷物を両手にヨチヨチヨイヨイ。五百メートルを汗まみれに歩いた。オレのヒイヒイゼイゼイ、過ぎ去る車ビューン、オバちゃんの自転車アラアブナイワネ、クソ餓鬼の似非笑いケタケタケタケタ。これらの不快音に切れた。来たら怒鳴る。怒る。場合によれば殴ろう。
「何晒すんじゃ、アホンダラ!」「えっ?」「喧嘩売ってんのか! このクソ!」「いや。そんな訳じゃ・・・・・・」「言葉使いも悪いし、何様のつもりなんじゃ! 二度とオレの前、面見せんなあ! さっさと消えろ、このボケェ」「いや・・・・・・どうもスミマセンでした」
綿密なシミュレートだ。頭の中での何度もリハーサルを繰り返した。最初の言葉は「何晒すんじゃ、アホンダラ」、それとも「いい加減にしとかんかい、ボケェ」どっちが効果的なのか? 何事も最初の言葉が一番大事だ。三つ子の魂百までもともいう。これでビビらせないと、嘗められっぱなしになる。
阿呆の連絡によると、連中も一人使いを寄越したらしい。なるほど一本道をこっちとそっちでドッキングするわけだ。気分はアポロとソユーズ、加えてベルリン冷戦、後、朝鮮熱戦。待っていろ、原爆発射で吹き飛ばしてやる。
キノコ雲。
パワー満点、気力充実で意気込んだのだが予想外にも、奴らはアメリカモドキどころか、完全無欠の純物アメリカン。おまけにアフロ・アメリカンの黒人の大男だ。最初の一言ではなく最初の一瞥で惨敗、一言の方は言わずもがなで無様な負け姿を晒した。
「仁美の友達だけど」
「はあ、どうも」
「荷物、どうも」
「はあ、どうぞ」
オレはやっぱりソビエトソユーズだ。アポロアメリカンに負けた。熱戦転ずるまでもなく冷戦で敗北した。すぐさま崩壊ペレストロイカで泣く泣くごるばちょふってえりつぃんつぃん。
「それと、明日か明後日、もう一つ荷物届くんだけど・・・・・・」
「はあ?」
「何時取りに行けばいい?」
「・・・・・・」
えりつぃんえりつぃんえりえりぷーちんってペレストロイカってる場合じゃない。何を滔々と言い腐る。勝手に送ってくるな、阿呆。調子、乗り過ぎじゃないのか? オレを便利屋とでも思っているのか。勘違いも甚だしすぎる。アメリカだからと思ってソ連を見下すな。
「ちょっと待ってください。オレ、明日、実家に帰るんですよ。だから、そんなこと急に言われても困りますわ」
「でも明日か明後日に届く」
「いや、明日帰るんですって」
「でも・・・・・・荷物が届くんで」
—何様のつもりだ。わざわざこっちは即興の嘘をこしらえたのに、京都だったらぶぶ漬けだしたら客は素直に帰るんだ。お前もさっさと察しろ。そんな荷物など知らん! 勝手にしやがれ!
「・・・・・・わかりました。じゃあ、とりあえず明日のぎりぎりまで家にいます」
「わかった。じゃ」
体がグッと重くなった。小汚い段ボールをムキムキ運ぶ黒人の巨躯を遠目に溜め息をついた。こんなこと、まだ続くのかよ・・・・・・。ロスアンゼルスで何も考えずにフラフラフラする仁美を思い描く。何やってんだ、あの女。
空は青いが世界はドス黒い。
再び荷物が届いた。
今度の差出人は、ノット・タナカサオリで仁美本人だ。
前回とは異なり、剥き出し段ボールではなく、嫌に卑猥な赤色サンタクロースの包装紙で包まれた安っぽい箱だ。気の早いクリスマスプレゼントをじっと眺めるだけで忽ち暗鬱に陥った。
惚れた女に振り回される、弱気な自分。相手が黒人の大男と言うだけで怖じ気付く小心者な自分。負け犬日本根性丸出しな自分。人種差別偏見に捕われたブロウドマインデットでない自分。そんな間抜けな自分は嫌だった。
やるせない。許せない。情けない。駄目男、駄目野郎、駄目人間。ますます暗い気持になってくる。
いやいやいやいや、考えてみれば、考えるまでもなくオレは微塵も悪くない。なんで卑屈に成る必要があろう。なんで悲嘆する必要がある。悪いことなど一つもない。少しも抜かりはなかったはずだ。対等にアメリカ野郎に言えばよろしい。オレはノーと言える日本人ということを教えてやればいいのだ。
携帯を取った。
出たのが昨日の阿呆と別人だった。
「もしもし、仁美の友人です」
「えっ?」
「荷物が届きました」
「えっ? ちょっと、待って」
「だから、荷物が届いたんですよ」
「今、あいついないんですけど」
「だったら彼に伝えてください」
「えっ?」
「オレ、もう実家に帰るから荷物はオレの方で預るって。帰ったら、また連絡するって」
「・・・・・・ああ、わかりました」
「じゃあ、よろしく」
よっしゃあ、ガッツポーズを取った。ついでにサンタのプレゼントを蹴飛ばしてやるとサンタのプレゼントはぱこんと音を立てて壁にぶつかった。サンタの顔を憎々しく歪んで見えた。
歪んだサンタを見た途端、好奇心が湧いてきた。きれいに放送を外し、といってももともと汚いからさして心配する必要はなかったが、中を開けた。
中からは紅茶の葉っぱを入れた小箱が六つあった。
紅茶か、洒落たことする女だな。ビッグベンで衛兵がきりきりと行進している。
その時、携帯が鳴って、一瞬、連中からだと思った。言い訳が頭の中に駆け巡った。裕子からだった。
「啓介?」
「何?」
「あの、私、裕子」
「だから、なんだよ」
「えっ? だからって?」
「オレが質問してんだ。オレに訊くなよな」
勝利に酔って勝ち誇っていた自分が連中の巻き返しによって打ち砕かれる様と予想恐怖が一瞬に駆け巡り、その予想結果と現実に驚いたオレは拍子が抜けると同時に小心さが浮き彫りとなって、それを顕現させた裕子に怒りが芽生えた。
「・・・・・・ただ、啓介が元気かなって思って。今、大丈夫かな。話してもいい?」
「ははは。用事はないが大丈夫じゃない。お陰様で苛々してきた。今すぐに咳止めシロップを飲みたいところだ」
「ごめんね。啓介のこと、何も考えないで」
「それだけか? じゃあな」
「待って。ちょっと待って、啓介」
「何?」
「あのね。私たち、やり直せないかな。私、啓介ともう一度だけやり直したいんだ。ね? 反省してる。勝手に啓介のモノ捨てちゃったこととか・・・・・・」
舌をきつく鳴らした。やり直す? 何をやり直すのだ。私たち? オレを一人称複数の中に組み込むな。何も始まってもないし何も終わってもいない。
「だから、私、啓介とやり直したいの。啓介が咳止めシロップ、必要なら私が買ってきてあげるから。ね? 私が捨てちゃった分も返すから。お願い。もう一度だけチャンスが欲しいの」
心が揺れた。裕子がシロップを用意してくれる。それが本心か否かは別として、どれだけの本数かはわからないが、仕入れをする必要はなくなるかもしれない。
「・・・・・・」
「お願い。何でもするから。私、啓介と一緒にいたいの」
「オレはいたくない」
オレは電話を切った。
コデイン依存に裕子依存はヘヴィーすぎる。依存はオレ個人で完結したい。オレ個人ですべての恩恵も咎も受け入れる覚悟はしている。だから他人が入る隙は作りたくない。バランスが崩れる。
もう一度舌打ちをした。意識的にしたそれは軽く聞こえ、今一自分の感情に乗っていなく思えた。
オレは鼻をならすとシロップに手を伸ばした。咽がひりついた。
いつまでこうしているのか。いつまでこれに頼るのか。もしかすると永遠に続けなければならないのだろうか。オレ一人、世界に拗ねて甘えている。世界が母親ならとっくに脛は骨だらけだ。
「ねえ、啓介。大ニュースだよ」
背後の声にオレは慌てた。振り返ると不意打ちのマコトが嬉しそうに頬を緩ませて玄関に突っ立っていた。
「ビビらせんな。吃驚したじゃないかよ。裕子かと思ったぜ。別にお前がオレん家に来るのは構わんけど、いきなり人ん家に入ってくるな。ピンポンくらいしろよ」
へへ、とマコトは薄笑いを浮かべて中に入ってきた。オレの前を過ぎたとき、ツンと有機臭が鼻を擽った。
「あのさ、これ何?」
マコトはマコトの指定席、ベッドの上の枕に腰を下ろすと部屋に転がる紅茶葉箱を指さした。
「これか。アメリカ野郎が送ってきやがったんだよ。あれだ。仁美の友達の友達からだって。前、お前が来たときも変な段ボール箱あっただろ? 覚えてないか? シロップが切れて朝っぱらにお前を呼んだだろ」
首をかしげるマコトはおそらく覚えていない。マコトにとっては今のこの現実は悪夢でしかない。悪夢をグッドトリップに変えるため、もしくは目覚めることを恐れて、薬を摂取し続ける。では、オレは? オレは起きている。眠っちゃいない。
仁美の荷物騒動を教えた。マコトは伏し目がちに耳を傾けて紅茶葉箱をいじくり回した。
「なんかさ。怪しいね」
マコトがぼそりと呟いた。有機臭のわりに結構素面のレム睡眠のようだ。
「ああ、怪しさ満点だ」
「売人かな」
「だろうな」
マコトに言われるまでもない。いわゆる密輸入だ。しかも学生相手のちゃちな手口だ。
そのステップを表すと、
最初の荷物の場合
タナカサオリ(仁美の友達)
←
オレ
←
阿呆(仁美の友達)
←
タナカサオリの友達
二個目の荷物の場合
仁美(仮)
←
オレ
←
阿呆
←
仁美の友達
と、鈍行クッションで売人自体をぼやかしている。もしオレが得捕まったとしても、捜査は売人本人までは届かない。直通でないかぎりはつけ込まれないのだ。
オレは阿呆の名を御存知なかった。仁美の友達の名もタナカサオリの友達の名も知るはずなく況んや阿呆その2をや。そして不可解な中身。ピーナッツバターもインスタントラーメンもブリティッシュティーも日本で購入可能だ。米製にこだわるとしてもビックリドンキーで売っている。敢えて五〇ドルも払って航空便で送らない。せめて船便だ。
つまり密輸空輸間接輸送のニコニコドラッグヤンキー運送でラリラリトラックドラックドライバーなわけで、オレはその一員にいつの間にか任命されていたのだ。ミスコンなら「友達が勝手に応募したんです」と言っても失笑するだけですむが、オレの場合は洒落になっていない。運が悪ければ警察に厄介になる可能性がある。
そう予感しつつも、この現在進行形では、まさかね、てな感じで自分を誤魔化していて、タラタラ踊る仁美を脳裏に描き「お前は関係ないよな、仁美」と思いつつ、怪しさの帰納的証明を他人事のようにマコトにひけらかせていた。
自身の疑いがオレによって確信を得たのか、マコトの目が輝きだすと、にたあと顔を破顔させた。
「おい、その箱開けるなよ」
マコトは無視して箱を開いた。
オレは右手で制そうとしたが、途中で手が止まった。
中からは小さな袋入りの茶色く乾燥した花のつぼみのようなものが出てきた。オレは何も言わなかった。部屋には喋っちゃいけないオーラで包まれていた。口を開けばマフィアのオメルタみたいに己の一物を自分でくわえる羽目になりそうな気がしていた。
やっぱりか、と思う反面、正直気抜けした。大仰だった割にちんけに感じた。もっとドキツイモノが詰められていると思っていたのだ。
所詮、留学生を運び屋にするぐらいだからたかが知れているのだ。
「ちゃんとしまっとけよ」
しかしマコトは小袋を手に取ると玩んだ。目は道端の石ころや電柱、歩行者を眺めているようで、まったく無関心そうだ。
他方オレは猫じゃらしに熱中する猫みたいに小袋の動きに合わせ、眼球が忙しくうろちょろ、涎が垂れない代わりに手に汗がにじむ。
オレは煙草に火をつけた。どうもマリファナヘンプクサ大麻、どう呼ぶべきか、悩めるモノを目にしてしまって煙草を吸わずにいられない。煙草がちりちりと音を立てて燃えているのを眺めてやっと落ち着きが戻った。
「ところで、大ニュースってなんだ」
マコトは手を止めてオレの目を見つめてきた。瞳は異常に爛々としていた。
「智哉、死んだんだ」
「はあ? 誰」
「智哉だよ。知ってるでしょ? 智哉、憶えてるよね。そのサイクリング部の智哉が死んだんだってさ」
「智哉、死んだの?」
「ゴメン、まだ死んじゃいないよね。でも正確には死んだも一緒なんだ」
「死んだも一緒って。どういうこと?」
「俺もね。よくわからないんだ。でもね、植物人間って知ってるでしょ。智哉、あれになっちゃったんだって」
「植物人間? 何で」
「ええと、詳しくは俺も知らないんだ。さっき、朝子から聞いたんだよ。詳しくはね、知らないんだ」
「でも本当か?」
「うん、マジだと思う。後ね、もっと驚くんだろうな、啓介。絶対驚くよ。俺もね。智哉はああそうなんだ、ってしか思わなかったんだけどね。でも、もう一個のはホントに! って思っちゃった」
「何だよ?」
「・・・・・・奈緒子知ってるよね。啓介が忘れるはずないもんね。いろいろあったし・・・・・・。奈緒子がさ、頭、精神の方がいいのかな? 頭だったら脳みそだからやっぱり精神だね。あのね、奈緒子の精神がおかしくなったんだってさ」
「はあ?」
「奈緒子が発狂したんだ」
智哉が植物状態。奈緒子が発狂。意味不明で不可解。
訳がわからないことが突拍子もなく出現すると、案外平常心で受け入れられるものらしい。マコトの情報を信用するか否かは差し置いて感情の起伏はまったくなかった。
両者の激異変の因果関係をマコトは知らない。
マコトの、見舞いに行かない? の誘いを断った。
オレもマコトも仁美も朝子も智哉も奈緒子も皆同じサイクリング部の所属の人間だ。
オレは部長だった。『だった。』とするのは、オレがもう部も部長も辞めているからだ。マコトは副部長だった。今から考えるとラリ中二人が部の執行部なんておかしな部だが、当時は結構上手くやっていたと思う。シロップに頼ることなく、それなりにみんなと仲良くしていたしそれなりに楽しかった。
部を辞めた理由は至極簡単だ。今年の夏に思いを寄せていた女、奈緒子を次期部長智哉に横取り四〇万されたからだ。まあ、よくある話で仁美への思いを断ち切ろうとしていたのかもしれない。
智哉はオレを裏切り皆を裏切った、格好をつければこうなるがよくある話だ。
当然の帰結に部内にもたらされた気まずい雰囲気を打破するため、オレが智哉に詫びるよう仕向けた。今も昔も、天皇と上皇の争いなんてモノは不格好ったらありゃしなくて、何より当事者以上に臣民部員が大変だ。そこでマコト(薬抜き)脚本のもと、シナリオ通り予定調和の如くレット・イット・ビーに舞台を設けて智哉がオレに謝った。オレも為すが如くに彼を許した。
丸く収まる。そう思った。智哉と仲良くする必要はない。でも表面上だけでも取り繕っておけば円滑になる。
だが、直後の智哉のアドリブはオレの名演技を御釈迦にしてくれた。
「啓介、大人になったね」
智哉がオレの考えを知って知らずかは関係なかった。何かが欠落している人間が存在することを知っただけで目っけ物、そんな奴とは遇わないのが賢い選択だ。そう言う訳で御別れだった。オレはアドレナリンが放出するのを実感しながら智哉を鉢殴りし左犬歯をクラッシュさせた。
その後、オレの失恋狼藉を大学卒業引退隠居の爺婆連中(OBOG)が嘲笑するのをオレは目の当たりにした。どうやらオレのお間抜け演劇が面白かったらしい。遠くは沖縄のOBにだから御前はダメなんだと説教されて、近くは三丁目のOBに身の程を知ってゴリ子(渾名は体を表すって奴だ)と付き合えと種馬指導(オレは本気に突き合えかと思った)。そんな奴らとは遇わないのが聖人君子の振る舞いでそう言う訳で御別れだった。
もともとオレのいた部には穴兄弟に棒姉妹が多い。ちょっと一学年上の例を挙げると、♀敬子は♂山下と♂山浦と突き合って、山浦は♀絵里香と♀桜と、そして♀絵里香アゲインをした。♂清隆は♀桜と。♀絵里香は♂山浦と♂二宮と♂健児と。実際に突き合った肉体派ですら、こんなに入り乱れているのに片思い精神派を加えたらそれこそキリがないから省略する。とにかく兄弟姉妹が多いのは結構だけど、接頭に『穴』と『棒』がつく場合は遠慮願いたい。
そんな分泌液の匂い漂う腐った連中の集まりだから、オレのことなど取るに足らない。でも知らないうちに腐っているのは嫌だった。腐っていくのならその詳細を観察、見極めたかったのだ。
だから部を辞めた。まあ、よくある話だ。
もし全てに始まりがあるとすればこの時期が分岐点だった。仁美はアメリカに発った。マコトは朝子にぞっこんになった。オレは部を辞めた。
もし今を選択しなかったらどうなっていただろう。咳止めシロップではなく、無自覚に腐っていく自分を選んでいたら。
結局、マコトの唐突な話を聞いても、もはや智哉奈緒子の事は意味が喪失していた。以前から、どうせ生きていても死ぬまで話すことなどない。生きてようが死んでいようがオレには関係のないことだ。そう思っていたから、そう実践していたから、オレにとっては意味などなかった。
どうでもいい。聞いたところで変わりはない。代わりもある。
咳止めシロップは優しく甘い。
捲き散らかした糞便を目にすると一刻も早く出ていきたくなってしまい、目も閉じて鼻も閉じているのだが、始末の悪いことにこういうときに限って鼻炎は発生しない、極限にまで呼吸を止める。そんなときには必ずといって和製R&BをBGMで流すのだから救いようもなく惨めになる。BGMに乗った汚物が耳を侵してくるようだ。肝心の小便もなかなか解放してくれず膀胱はしっかりと閉門している。
オレのアパートでマコトと燻っているところ、朝子がマコト捜索に来た。と、思っていたら違っていて朝子は奈緒子の見舞いに行った報告にきたのだ。奈緒子とは会えなかったが、そこで他の部員から事情を手に入れてきたそうだ。それをオレとマコトに、朝子の性質を慮ればマコトオンリーに伝えに来たのだ。
事情を知ってオレは俄然、智哉の面を拝みたくなった。奈緒子の方も興味と憐愍があったが、奈緒子に「啓介、あんた、冗談言ってる場合? ホントに奈緒、洒落どころじゃないのよ」と一喝されて素直に諦めた。
便所から戻ると、食い差しのポテトやナゲットが散らばるテーブルの上で面白そうにマコトが紙巻き煙草を捲いていた。
「何やってんの? お前、そんなの吸うようになったのか」
マコトはオレに答えず顔面を歪ませ愉快そうにくるくると煙草を捲き続けている。
オレは不愉快になってうるさそうに首筋を掻き毟った。そこには変なニキビあるいは吹き出物ができていてちりんちりんと痛い。暖房がきつすぎ皮膚が乾く。
無視を決めて作業に熱中するマコトと薄っぺらいBGMに業を煮やしたオレはコートを羽織ってマコトに言った。
「そろそろ行くぞ」
智哉はまだ生きている。部の皆様は皆絶叫して慟哭している。哀しきハプニングだ。部の皆様の大方の奴はもう見舞っているそうだ。だったらオレも行ってみようかと思った。そしてやってきた。
道すがらマコトは巻き煙草に火をつけて、至高の料理に舌鼓を打つかのごとく楽しんでいた。恍惚とした表情で、結局いつもマコトはにやにやしているが、それ以上にうれしそうだったので、オレはマコトに一服せがんだ。
手渡されたそれを深く吸いこむと、ニコチンとタールがフィルターによる税関検査を飛びこえてイリーガルに密入国するかと思って、十分な密入国者のくらくら犯罪を予期用心していたオレに、その巻き煙草は素敵に優しかった。甘く、ふんわりとオレを抱きしめてくれて、肉体的浮遊感と精神的ぷかり感がごっちゃになって、オレを智哉病院まで一直線にキント雲してくれそうだった。
「何これ?」
「クサでしょ」
「クサ?」
マコトは、当然でしょ、当たり前じゃない、啓介。そうに決まってるよ、知ってたでしょ? 知っててわざと聞いてみたんだよね。とテレパシーながらオレに頷いた。畜生、やっぱりオレのアパートの紅茶箱からくすねてやがったのだ。
だがキント雲に揺られることしばらく、なぜオレがマジックマッシュルームでバッドトリップになっておきながら裕子だけグッドトリップに浸れたか悟れた。無自覚的に、そして無意識的にまさかマジックマッシュルームじゃないの、飛んじゃうんじゃないの的な精神状態の方が、ジェットコースターを楽しめるのだ。下手に今から飛ぶぜ、飛ぶぜ、と力むと空回りしてレールから外れて地獄に垂直落下するし、現にオレは落ちた。
オレはマコトとジェットコースターから観覧車に乗って阿呆の智哉を観覧しにいく。
真白な病院に着くとヘラヘラ笑いながら智哉の病室、突撃した。すでに見舞った連中から朝子が智哉の部屋を聞き出してくれているから病室は知っている・バイ・マコトで、受付護婦通り抜け走った。白衣の天使と白衣の天魔に擦れ違い、途中中継売店で売店護婦からコーヒー牛乳を購入、一気に飲んでうまい、こんなにうまかったかと、感激にむせびながら幼年幼女少年少女青年青女中年中女老年老女死年死女、を奔り逝くと、奔るなと、怒護婦に怒られてI love youと慈愛の見舞客になってあはあは愛想笑う。
白い扉で生意気にも個室だった。トントコトントン、トコトン、ノックして、逝かすリズムで開けゴマ、中の返事で開けるゴマと呟きながらドアノブを捻った。
部屋にはベッドの智哉の傍らに智哉母らしきが神妙そうに座っていた。マコトが名乗って、ついでに彼がオレを彼女に紹介する。マコトにしては上出来だ。
智哉母は目頭を抑えて、
「わざわざ、ありがとうございます」
と感謝の挨拶。ソファーに勧められてありがたく座るが、話題は続かなかった。葬式なら故人の話題だろうが、半死人なら何の話題だ? で、沈黙しても吹き出したくなってくる。
しばらく、彼女はオレ達の意をくんだのか病室から出て行って、おかげで腹筋がつらずにすんだ。
智哉母がオレらを置いて部屋を出て行くのも察せれる。
そんな原因なのだ。
しかも植物状態に入ってもう四日目で、悲しみ続けど涙は涸れる。涙涸れれば悲しみ尽きる。悲しみ尽きれば頭もクール。クールになればこっ恥ずかしき馬鹿息子。ずっと死体モドキを眺めていれば何れはそうなってもおかしくない。
智哉植物人間、奈緒子発狂の理由は粘膜と粘液の擦り愛の房中事イン・ザ・連れ込み宿でのこと。二人は童貞おぼこであったとさ。俗にいう初体験で今時珍しいといえば珍しいが、知識不足の二人で悪戦苦闘。ああやって、こうやって、そうやって、どうやって、の頭で模擬思考してみたけど実践とは大分違ってセクスマニュアルの不備を呪っていたら、痛い痛い違う違うもっと下もっと舌まだまだダメダメ待って待っての奈緒子の情感命令。不器用ながらも大胆智哉、意地になって自棄っぱちんちんのカチカチ山、奈緒子に無理矢理突入のパンパカパンパン。が、炸裂嫌嫌痛痛。あまりの苦痛のサルカニ合戦。奈緒子ビクビク膣痙攣。搦め捕られてウサギ智哉。ちょうどウサギもカメもマグロの吐露も罪悪感の真っ最中。お嫁にいくまで乙女でいるのこんなことやってもいいの責任とれるかなできたらどうしよう中。ささに御用でござったのうって、もぎり取られる引き千切られるあまりの痛さ、かつ、もう離れられない? の恐怖感。または、ひょっとしてこのまま去勢! の自失漢。プラス思春期にありがちの性に対する罪悪感か、意想外の大江戸捜査網、見事捕まり大岡裁き、これらが一緒になりまして智哉大混乱。で、パニック症状を起こし、呼吸を忘れて大足掻き。始めはさすがの純情元少女の羞恥の心、救急コール躊躇うも、いよいよ危ねえと思った奈緒子は救急車を呼ぶ。陸に上がった魚の如く、奈緒子の腹上で悶え苦しむ智哉は、見る見る顔が青くなり、自分の顔首胸と奈緒子の顔首胸背中腕足を掻き毟る。白目をひん剥き、舌をデレデレデレン、顔は真っつ青。涙鼻水涎の大嵐。一刻も早く離れたし、されど、自ら搦め捕ったは智哉が三本足でござ早漏。そして自分も智哉も体は爪傷跡の湧き血流、股間は初血潮。いつまでも一緒にいれるといいわと囁いた、昨日の明日が懐かしく、今はひたすら離れろ消えろあっちいけ。まもなく参上するは救急隊員連れ込み宿従業員救急車付近弥次馬看護婦医者一族郎党お友達。奈緒子が待つは説教懺悔つるし上げ、否、救急隊員。あれ、智君ってこんな顔してたっけって、それより智君死んじゃうって、これ私のせいになるのかなって、ここはどこだっけ?って、何してんのって、智君思ったより変な顔ねえって、あ〜あ怒られちゃうなあって、私血達磨じゃんって達磨さん転んだ久しぶり、智君ってガリガリって、皆笑っちゃうんなだろうなって、傷だらけになっちゃったって、明日は天気いいのかなって、智君息してないって、汗が傷に染みるなあって、ああぁ、オシッコ漏らしちゃったのかしらって、汚れちゃったなあって、いやん、智君、大きいほうも出ているじゃないのって、勉強しなきゃなあって、あっそういえば明日お父さんの誕生日じゃんって時計は高いしなあ、と気が付いたかどうかは知らない。救急隊員が駆けつけたころには奈緒子がケタケタ笑いながら智哉に頭突きを噛ましていた。
というわけで智哉はこのベッドの上で寝ているのだが、恋人発狂などとは露知らずに気の抜けた顔して管一杯の生命意地装置にかかっている。
あいかわらず付け鼻のように嘘っぽい鼻だ。軽く白目を覗かせて、何となく開けた口に呼吸器が付けられている。血色は頗るいいから、やはり生きてはいるのだろう。その顔、快楽に身を捩る至福の表情に見て取れないことはない。
マコトは椅子に座って智哉を眺めている。オレは、他の見舞客からだろう、お見舞いの菓子を摘む。『白の恋人』白甘くうまい。しかしこんなになっても菓子詰めを持ってくるとは結構なことだ。香典よりは安上がりだな。学生ならばいくらくらい包むのだろう? いや、オレは行かなくてもいいか、呼ばれなさそうだしな。他にも千羽鶴。頑張れ部長、早く元気になってね、と書かれた部からの寄せ書き色紙があった。こんなになっても頑張れとはいやはや惨い。智哉はもう回復の見込みがないのに、もしや回復不能のこの事態に奇跡でも信じているのか?
智哉を覗き込んでいたマコトが気味悪く鼻で笑った。
「どうした?」
「いや、あのね。馬鹿だよね、智哉って思ってね」
「智哉か?」
「そう」
「馬鹿か?」
「そうでしょ」
「腹上死だもんな」
「うん」
「そうだ」
「でも」
「何だ?」
「腹上死か・・・・・・羨ましいなあ」
「そうか?」
「うん。だって羨ましいでしょ。俺、すごい幸せだと思うけどなあ。なんか阿部定の夫みたいじゃない。だって阿部定の夫って殺されるとき阿部定に笑ったんでしょ。いいなあ。羨ましいよね」
「なりたいか? 朝子と」
「・・・・・・いや、俺はいいや」
「オレもだ」
「でも、ちょっと羨ましいでしょ」
「まあな」
くくくくく。マコトは笑い出した。
「不謹慎だぜ、マコト」
「そうかな? 智哉の方がよっぽど不謹慎だと思うけどさあ」
なるほどマコトのいうことももっともで、快楽の階段へいざ登らんという時に一人緊張した揚げ句に独りで死にかけ、女置いてけ堀・アンド・発狂。登るは天国への階段。なるほど、階段違いの不謹慎か。不謹慎で御座るな。不謹慎で御座るよ。そう思うと笑いが込み上げてきてあははははははははははははははは。
堰が切れたようにマコトと二人で笑い転げた。智哉母で戒められた笑いが一気に射精してスカッと爽快。ひいひいむせる合間に智哉を叱った。
「不謹慎だぜ、お前。そこで謹慎しとけ」
「不謹慎は禁止だよ。啓介」
マコトは笑いながらオレを咎める。
「だって謹慎、キッシンジャー」
オレ、口を尖らせてマコトに反論する。
「あっ! その口、キッシングラミー」
とマコトが唇を突き出してキッシングラミー中、ドアが開いて智哉母と小娘達が入ってきた。
たまたま智哉母は小娘達を案内する向きだったので、オレとマコトの不謹慎に気が付かなかったらしい。しかし小娘達にはもろに不謹慎を見られた。以降、二匹のキッシングラミー、不謹慎禁止、謹慎キッシンジャーだ。
小娘達は凍り付いた表情で、
「啓介さん。マコトさん。来てたんですか」
と挨拶した。オレは俯き右手をあげて答えた。マコトも横で俯いている。笑いをこらえようと脇腹がひくひくと痙攣していた。一見すると泣き堪えているようにも取れるから、マコトにしては上出来だ。
小娘達きっとオレらを睨むと凍り付いたまま、いずれ冷たくなってウエルダンにされて坪入れされる予定の智哉ベッドに近寄った。小娘達もオレのいたサイクリング部のメンバーだ。
「あら、あなたが啓介さん?」
「はあ、そうですけど」
「マコトさんが沢村さんって紹介なさったから判らなかったわ。そう。あなたが啓介さんなの?」
「はあ、そうですけど」
「智哉ったら、いつもあなたのこと話してたのよ。ずいぶんと御世話になったそうで・・・・・・。前の部長さんだったんですってね」
智哉母に困って笑い飛ばしたくなるのを懸命にこらえ、答える言葉に躊躇したが、正直に、そうですよ。あんたの息子さんには大変御世話をしてやるどころか、仇で返して頂きまして処女膜まで奪われて本当にいい気味ですよね。だから殴ってやりました、というニュアンスを込めて
「はあ、そうですけど」
と返事。
「まあ・・・・・・」
智哉母が簡単的感嘆詞を挙げた途端、小娘達の号泣が耳を劈いた。
ぐぐふ、智哉さあ〜ん。はぐふずるずずずう、智哉すわ〜ん。びいきゅる、ともやっすん。ぐぐぐぐほ、ともすおーん。ずびるげぷぅ、ともやあっさん。ぐげずぽぴゅ、智哉さあ〜んぬ。ずるずずずう、ともやっさん、きゅる、智哉すわ〜ん。はぐふずるずず、智哉さあ〜ん。ずびい、の連呼だった。
ここまでくるとホラーだ。ともやあっさんってモオパッサンにちっと似ているな、と思った。
智哉母、静かに目元を押さえると涙一流こぼした。
隣のマコトを見ると、マコトは素知らぬ素振りで寄せ書きの色紙に『成仏』と書き込んでいる。ダメだ。笑わずにはいられない。
「便所行ってくる」
マコトに耳打ちすると、
「うん」
と『成仏』にハートマークを付け加えていた。
智哉室を出ると思いっきり伸びをした。新鮮な病の匂い、力いっぱい吸い込む。
しかし何をあんなに鳴いているのか。あいつらは泣き女かよ? もともとあいつら、智哉と仲良かったか? 確か一度か二度くらいしか、会ったことないんじゃなかったっけ? おかしいな。きっと今ごろ、智哉さんはホントに善い人だったわ。なんて言ってんのだろうな。ってことは、オレら脅迫されてんだ。涙出さずば人で無しってことで、人でありたきゃ泣きなさい。泣きなさいよ、オロロン論。だったらオロロン、押し付けがましいけど、一応悲しみ共有してみようと、ともやあっさん。一言呟いてオロロンロンしてみるが、意味などあるはずもない。それもそうだ。忌み名白装束葬式南無阿弥陀仏、もまだなのだ。義理泣きまでは少し早いし義理泣きはみんなの前で見せるものだ。トイレに行く途中でするほど、男気を披露する相手ではないのだ。
壁側に豪快な鼻くそが捻りつけられたトイレでオレは出もしない尿をする。
股間と一緒に小娘達を考えると何故か悲しくなるから、智哉について考えてみたが、智哉に関しては腹の立つ思い出しかなくてむしゃくしゃしてきて、もう一発殴っておけばよかったな、いや生命維持装置のコンセント抜こうかな、と企てるも、その智哉の最期に関しては、やっぱり馬鹿であはははは。馬鹿だ、馬鹿。大馬鹿三太郎のともやあっさんだ。
尿意もほどほどに社会の窓閉じて手を洗い何気もなしに鏡を見ると智哉が立っていた。後ろにいた。いきなり喋った。
「啓介さん」
「なっ何?」
戸惑った。夢を見ているのか。幻覚か。
「まだ怒ってます?」
「なっ何を?」
オレは焦った。なぜ智哉がここにいる? 顔色もパジャマも付け鼻も病室のままで大変にリアリスティック。現代っ子特有の常に半開きの口、物欲しそうに焦点が定まらない眼、可哀相な子ぶりは智哉そのものだ。
また夢か。幻覚が表れたか。
いやいやいやいやいやいや幻覚幻覚幻覚だ。マジックマッシュルームのときと同じ、パニクるな、落ち着け、パニクるな。
「・・・・・・奈緒子のこと」
「何で?」
オレは幻覚を見ている。智哉は幻覚だ。
「・・・・・・だって」
智哉は弱腰だった。これは幻覚だ。現実じゃない。オレの頭の中の愛すべき智哉の幻だ。大麻だ。オレは大麻を吸って幻覚を見ているのだ。だからこれは現実じゃない。智哉は殆ど死んでいる。だからここにいるはずはないのだ。
オレは異様に落ち着いた。
「気にしてんのか?」
「・・・・・・ええ」
「ふーん」
「・・・・・・」
「遅いだろ? 今さらさ」
「・・・・・・はい」
「で、どうしたいの?」
「・・・・・・だから」
「だから?」
「怒ってますか?」
最期までこの男は、たとえオレの幻覚であってもオレに詫びない。なぜオレが怒っているかを知らないのだ。自覚の無い偽善者でオレの脳内智哉と一寸の狂いもないのなら絶対に謝るわけがないのだ。
悪気なき欠落漢だ。この域にまで達すれば見上げたものだ。指すがオレの無意識が創造しただけある。まさか死の狭間に地獄にいけないほど、気に病むはずがない。原因不明の元部長の憤り、過去はすべて流したはずなのにできない仲直りを悔やんで訪れたなんてそれこそ智哉らしくない。
幻覚智哉の戸惑い、決して許せぬが、決して許さぬがまったく面白かった。
「・・・・・・智哉」
「はい」
「大人になったな」
「はい」
気が付いたら夕方。アパートで寝ていた。
十二本の咳止めシロップを見て思った。これを呑まなきゃやめられるんじゃないかと。
どこかで歯車が狂っていた。オレはもう病んでいるのではないかと不安になる。一日の摂取量が自分でもわかるくらい日増しに増えている。身体が気怠く、その一日の気怠さを振り切るために呑んでいて、それがまた明日になれば同じことの繰り返しが待っている。
夕飯を食べて帰ってきたとき、これらはオレの部屋の入り口に置いてあった。
ぱんぱんに膨れ上がったビニール袋には咳止めシロップがぎっしりと詰まっていて、取っ手は伸びて今にも切れそうだった。中には裕子からの手紙があった。すべてはオレへのお返し弁償だったのだ。
このまま裕子に咳止めシロップを供給してもらうのも悪くなかった。裕子がどんなバイトをしてどれくらいの稼ぎがあるのか忘れたが、オレの仕送りと合わせれば仕入れはもうしなくてもすむかもしれない。
でも狂った歯車を無理やり回したくなかった。強引に回しても歯車は回転してオレは動けるだろう。だけど徐々に歯は擦り減っていく。いつか、それがいつなのかは知ったこっちゃないが、きっとオレは動けなくなる。動けなくなるのは構わない。オレはそれを望んでいるのだ。だがオレは『いつか』そのものを直視していなかった。それでもいつかはやって来るのだ。裕子はきっと『いつか』を速めるだろう。裕子に世話になる、厄介になるのは納得できない。腐っていくのは結構だが、腐らされるのは御免だ。
本当に構わないのか?
ビニール袋を破り咳止めシロップを手にした。瞬間、何か交錯してやめろとか待てとかそれでいいのかとかの警句が煌めいたが、封を開けて飲み干した。
早くぶっ壊れたいようだ。
「荷物、いつ取りにくればいい?」
「あの、オレ、今実家にいるんですよ。渡したくても渡せないんです。だから待ってくれませんか?」
「いつ帰ってくる?」
「ちょっといろいろ用事が立て込んで、いつ帰れるか今んところ、はっきりと言えない。だから帰ったら連絡します」
毎日連中の催促は続いた。一日二回のときもあった。一度、無視を決め込んでみたが、目の前でぶううんとマナー振動する携帯を眺めるのも薄気味悪かった。
たまたまマコトがオレの部屋にいるときだった。
再び阿呆からの電話がかかってきた。相変わらず間の悪い奴だ。
マコトがいる-------ただのラリ中でなんの役にも立たない男だが-------それがオレの気を大きくした。マコトの前でへりくだって見せる自分も嫌だった。
キレた。やっと怒鳴り散らすことができた。たまった鬱憤を晴らすことができた。いい加減にしろ。何回も何回もお前らが何考えてんだ! ふざけるんじゃない。あんたもあの女にそれほど義理があるわけじゃないだろう。オレが直接あの女の友達に送ってやる。それのどこが悪い。その方があんたも楽だろう。違うのか。そうだろ。どうだわかったか?
「でも、悪いから取りに行きます」
あんたが取りに来るのが一番悪いんだよ。電話して来るのが迷惑なんだ。こっちも暇じゃない。あんたもそうだろ。だから、あの女の友達の住所を教えな。
「いやあ、住所わからないんですけど」
あんたらが送るんだろうが!
「でも、場所は知ってるけど、住所はわからない」
だったら調べろよ。知り合いなんだろ。わかったか? わかったら連絡しろ。わかってから連絡しろ。わかったな。
スッキリだ。言ってやったぜ、馬鹿野郎。端から住所なんてないんだろ。オレに教えるのが困るからだろ。ブツを持っているのはオレだ。もう少し考えて行動するんだな、と、思うも案の定、大丈夫かな、とすぐに気分は優れなくなっていく。
取り返しの着かないことをしてしまったかも知れない。本当にこれでよかったのか? 面倒を我慢して渡したほうがいいのではないか? なぜ連中に荷物を渡そうとしないんだ。
オレは頭を抱え苦悶する。くよくよと煩悶する。
正定出来ない。全ての鍵は仁美嬢だ。
現時点で仁美に連絡する手段はない。事実、音信不通なのだ。電話、手紙は不能。Eメールも数えきれないくらい送った。毒電波も出すだけ出したが、無駄で糖分の無駄遣いになった。
心は千々に乱れて、惚れて通えば千里も一里、長い田園も一跨ぎ、されど越えぬは太平洋と遣り切れなくて、その上、手前自身の心がよくわかんない。
阿呆は阿呆で、殴りたいけど届かない阿呆の間抜け面。まるで一切合切、全てが仮想現実に思えてくる。全てのやり取りは電話でしかないのだ。唯一の接触は漫画のような黒人だった。腹立たしいが、連中がみんな漫画の黒人さん、真っ黒けの白目と輝く白い歯だとしたらと考えるだけで怒りも萎えて空恐ろしくなる。
そんなオレなど興味眼中にないらしく、マコトは紙巻き煙草を捲いていた。マコトは部屋の隅からまたも大麻をくすねたのだ。
「勝手にいじるな、マコト。お前のモノでもオレのモノでもないんだ。一応預かり物なんだ」
マコトは飄々と肩をすくめた。キザったらしくていけ好かない仕草だ。上物の大麻だ。吸うのが待ち遠しくて堪らないのだろう。
オレはラッキーストライクをくわえ火をつける。マコトも完成したらしくオレの火をねだった。
オレはマコトにキッシングラミーするように煙草の火を貸した。
深く吸い込んだマコトは、ほう、と光悦に喜び菩薩のような表情に変わった。マイルドで性別を越えた顔だ。
ちぇ、と羨ましい。慌てて煙草を灰皿缶に捨てると大麻をせがむとオレも菩薩になった。
「仁美ちゃん、アメリカでも啓介に迷惑かけてくるんだね」
ずいぶんと色っぽい流し目でマコトはオレを見た。オレもちょっと照れて半笑いをする。
「ああ。しかも日本じゃないだけ立ちが悪い。日本だったら理由が訊けるし、ある程度手を打つことができるしな」
「なんかさ、みんな、知らないところで起きているんだね。すごいよ。すごいでしょ」
何がすごいのかよくわからないが、だけど実感できた。なんかすごいのだ。すごく感じ、すごく思えるのだ。
「ねえ、知ってる? 授業で習ったよね。あの、なんだったけ。バプテズマのヨハネ?」
「バプテズマのヨハネがどうした?」
マコトにもう一服頼んで吸う。
ピースフルだ。セクシーにピースフルだ。いつかきっとオレも仏様になれる。素質はあるのだ。これほど自愛に満ちることができるのだから、きっと高尾山にでも登って偉い説教出来る。寝転びながら人生を語れる。
「あれさあ、誰だっけ。首を切られちゃうんだよね。ええと、サロメだ。サロメが踊ったご褒美に首を切っちゃうんだよね」
「ああ、そうだった。サロメが母親に唆されて獄につながれたヨハネの首をねだるんだろ」
「ね? 面白いよね。だってサロメが上手に踊れなかったらヨハネは死なないですんだんだでしょ。下手な踊りだったらヘロデもご褒美あげないもんね」
「瘤取りジイさんと一緒だよ。下手な踊りはご褒美はもらえない」
「ヨハネは何も知らずに首を切られたんだよね。だって牢屋にいたんでしょ。すごいよね。お城でそんな踊りがあったなんて」
「まあ、首を切られるなら踊りを拝んで切られたいよな。どっちにしろ、バプテズマのヨハネにしてはいいとばっちりだ」
「でも、それって啓介と一緒だよ」
ピンクの靄が消し飛んだ。
オレは視線をマコトに移すとマコトは天使の顔でうくくくくくくくくく、と笑っている。
聞き違いか、何だって、と訊き返してもマコトは、うくくくくくくくと天使のまま、まるで酔狂な既知外様で知らぬ存ぜぬとばかりにうくくくと唸っている。
そうだ。仁美のことはいざ知らずオレ自身までも既知外だった。
マコトはうくくくく、している。小刻みに体を揺すり、両肩が波打ち際のボール、行ったり来りと寄せられて、時折白目を覗かせながら、月の裏側を垣間に出現、うくくくがウッドペッカー、こりかりからり、湖岸に囀る。
「おい、笑うな、マコト」
どうして? と頭をあげたマコトの顔は暗闇に、真っ黒のどんより、顔というものはなくなっていて、ぼんやりとした影、それでいて圧倒的な存在感、悪魔になっていた。
オレはひいいと悲鳴を上げてベッドの中に潜り込み、顔面を枕に押し付けて全身を布団で覆ったが、どこからか、うくくくくくくと悪魔の笑い声が忍び込んできて、やっぱり近くに潜んでいやがる、部屋中に悪魔の気配が感じられた。悪魔が部屋に飛び交っているのだ。
これも仁美のせいだ。仁美が持ち込んできたことだ。悪魔の言う通りだ。オレは何も知らない。オレは何もわからない。関係ないのだ。仁美が勝手に踊ったのだ。ただの巻き添えだ。本当に関係ないのだ。
太平洋の向こうで仁美がけたけたけたと笑っているのだ。オレは笑ってないぞ。笑っているのは悪魔だ。オレじゃないのだ。海の遠く、仁美が踊ってオレは関係ない。単に船に乗っていただけだ。海の上にちっぽけな船に乗っていただけだ。どんぶらざばんと波が荒れれば、嵐が来れば、遭難難破で溺れる身体、船の揺れるたびに気が遠くなる。いつのまにか、オレの海は神の気紛れ、もしくは運命が皮肉で、気付かぬうちに荒れ模様になっている。オレいる大海原を翔び抜けて、LA仁美、ヘロデのために踊りを踊って、オレが居ぬ間で笑いながらの一踊り。見事な踊りでクルクルリとオレはオレでどんぶらりん。ヘロデ感激、艶容ダンスの褒美に、サロメが仁美、オレの首を御所望なさって、艶美な踊りの褒美で御座いましょう。美麗に舞ってクルクルリ。彼女の母親、ヘロデの王妃、アメリカ阿呆の口車、乗って華麗にクルクルリ、オレは知らねえ存じてねえ。見事な踊りぞサロメ姫汝の望み聞き遂げようか。オレはひたすら牢獄念仏、壁の奥のことなど知ってたまるか、いや知らん。プリティ仁美、あれや嬉しやお父様妾はヨハネの首が欲しゅう御座居ます。良かろう持ってけクルクルリ。哀れやサロメ己が所行理解せず待つはひたすらオレの頭。待ち切れなくてクルクルリ。首狩り兄ちゃん斧を振り振り地下牢スキップ、今に届くぞ、オレの首。銀のお盆を忘れるな。何をすべくかわからぬが今は唯々首狩り首狩るクルクルリ。オレ、牢獄引きずり出されて首チョンパ。首狩れ首狩れクルクルリ。オレは首を差し出し候。納得いかぬもいずこでサロメが踊るかは、知らぬ存ぜぬわかりませんぜ。偶然踊った仁美がLAサロメ。然ればオレは下宿屋ヨハネ。いつでも首を差し出し候。クルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルクルリ。何時でも首を差し出し候。何せオレは下宿屋ヨハネ。如何とも為難きこの苦難。
#4
カーテンをめくって外の様子を窺えば、とっくに日が明けて太陽は中天、時間は午前から午後へと移っていた。
頭がきりきりする。まただ。
通算三回目のバッドトリップだった。バプテズマのヨハネとシンクロシティしてしまうとはいい歯応えだ。満更悪い気はしないが、臨死体験にはぞっとした。
どうやらオレは幻覚系のモノにはすこぶる反応がいいらしい。まったくグッドトリップなら視力2.0なサバンナ野郎よりは体質自慢できようが、バッドトリッパーなわけだからしかたがない。いくらか耐性がついたとはいえ、気分が高揚するアッパー系の方がよほどマシだ。
だけど実際るるぶ的グッドトリッパーなマコトが羨ましかった。百発百中、グッドトリップ、いつもいい夢見ているのだから現実に戻りたくないってのも、バッドトリップしかなくて嫌な現実にすら好ましく思えてくるオレとは逆だけど、わからないでもない。しかも、この男は前でグッドトリッパー礼賛与太咄を始めるのだから、聞かされるオレとしては苦痛以上のものに他ならない。
「えっ? 啓介ってバッドトリップしかしたことないんだ」
「・・・・・・グッドトリップもちょっとならある。でも、最後になるとバッドになっちまうんだよ。絶好調から絶不調への回転レシーブだぜ。たまんないよ」
「じゃ、前のクサも?」
マコトがキョロキョロとオレの部屋を見渡している。連中の大麻を探しているのだろう。だが、マコトに勝手に頂戴されては困るので、よって隠してある。
「クサもだ」
「へえ、あれぐらいで見ちゃうんだ。すごいなあ。俺は見れなかったけどなあ。だったら、エーテルでもバッドトリップになっちゃうんでしょ。ね、啓介。そうだよね。どう? やってみない」
オレはかぶりを振った。
「ふうん。結構、楽しいのに。すごい気持ちいんだよ。一回、やってみればいいのになあ。絶対イケるよ。えっ? いいの。そうか。残念だなあ。・・・・・・だってすごいの見れるんだよ。すごい幻覚」
「どんなの?」
「ええとね。どんなんだったけ? 忘れたのかな。前に思いついたんだけど。あっ、思い出した。うん? でもこれはエーテルじゃないなあ。LSDなんだけど。いいでしょ? 別に。いいよね」
オレは顎を軽くしゃくると先を促した。
「幻覚ってさ、ラリぱっぱでしょ。あれってすごいよね。でもさ、スーパーマリオ知ってる? 流行ったよね。今はチョボチョボだけどさ。俺、思うんだけどスーパーマリオって作った人、絶対アシッドやってたんだよ。だってさ、変でしょ。真っ青な空でキノコ採ったら大きくなるし、花を取ったら白くなるし、星を取ったら無敵だし。ね、ラリラリでしょ。そっか、あれ、もしかしたらリビドーゲームかも知れないな。敵はキノコに足が生えてるやつか、亀でしょ。土管から毒花がぱっくり口を開けてるし、やっぱ、リビドーだよね。そう思うでしょ。ってことは、クッパも亀の大親分でピーチ姫はお尻かなあ。そっか、だからマリオアはイタリア人なんだ。だって変じゃない。ふつう子供がするゲームの主人公はかっこいい少年が定番だよね。どうしてイタリア人のおっさんなの。イタリア人は男性リビドーの象徴なんだよ。ってことは、淫乱アナル姫がイタリアフェロモンと男根ディルドウの狭間に動く乙女心だね。ね? そう思わない。すごいよね。啓介。そう思うでしょ」
鼻息荒く語るマコトにオレは肩をすくめて見せた。まったくの与太咄だった。マコトの見ている幻覚は一体なんだ。スーパーマリオのフロイト的解釈がマコトのお幻覚なのか。それとも案外この世の中全部がマコトの幻覚なのかもしれない。
それから自分の演説に悦に入ったマコトから本題の奈緒子と智哉についてを聞き出すのは一苦労だった。奈緒子はいわゆる隔離病棟から個室へと病状改善したそうだ。智哉は他人のために自らの臓器を提供、成仏したそうだ。無論、智哉の意志なんてすでに存在しないが。
大麻を断念したマコトはより飛ぼうとしているのか、シンナーを吸いこませたハンカチをひくひくと嗅ぎ始めては、うぃ、とかいった奇声を上げている。
オレの部屋はシンナー臭で一杯だ。煙草の火一つで引火しかねない。オレは窓を開けると玄関のドアを全開にする。
冬の寒気が進入してマコトの与太咄を吹っ飛ばした。マコトには寒暖は関係ない。オレが我慢して脂を一服すればすむことで、トレーナーを一枚羽織ればいい。
玄関には裕子がいた。手にビニール袋を抱えて。
俯いたまま祐子は、上目遣いにじっとオレの目を見つめてきた。
「啓介、ゴメンね。いきなり来ちゃって。でもどうしても言わなきゃいけないことがあって・・・・・・」
ぼそぼそと話し始めた祐子、その両手で抱えた一杯の咳止めシロップ、ネットリと絡みつくような視線、全ての仕草が鬱陶しくてオレは右手で彼女を追い払う。
「帰れよ。お前に用があってもオレにはない。せっかくなんて思う暇もないんだ。帰ってくれよ」
「待って。お願い。お願いだから話を聞いて」
「話を聞くお礼に袋一杯の咳止めシロップか。心遣いはとっても素敵だが、コデイン中毒はオレ一人の問題だ。それに関わってくるんじゃねえ。お土産なら貰うが、一緒に一杯なんてのはゴメンだ。置いていくなら置いてけばいい。嫌なら、お家でやって中毒になりゃいいさ」
「お願い。啓介、聞いて」
「帰ったほうがいいんじゃないか」
「聞いて、私、来ないの」
「来てんじゃないか」
「ううん、茶化さないで。アレが来ないの? 子供、出来ちゃったかもしれないの」
「へえ、そいつは結構なことだな」
オレは裕子は玄関から締め出すと鍵をかけた。部屋はエーテルにたちまち充満する。
部屋にはシンナー中毒とコデイン中毒の二人、外には男中毒の女一人、と、ガキ一人。最悪だ。
オレの子供ができた? あまりに早い創造だ。国産み作業からまだ一月も経っちゃいない。出来るはずがない。嘘とすれば情けないくらい、間抜けな嘘だ。そもそもオレのガキなんて生まれてきた途端、間引きしたほうが幸せだし、オレの了解を取るなんてのは余計な気遣いだ。
「裕子ちゃん、どうしたの?」
「知らねえよ」
後ろにはフラフラになったマコトがいた。まだ酩酊するまでには達していないようで、呂律は回っていない。
オレ達二人は黙って外にたたずむ裕子の見えない影を眺めた。
ドア一枚隔てた向こうからは螺旋の蜘蛛の糸のようにオレを捕ろうとする、情念の圧倒的祐子感がひしひしと圧迫してくる。しゃくり上げた泣き声が聞こえないだけ、いっそうと祐子感のプレッシャーは強かった。
「オレのガキができたんだと」
「へえ、啓介の子供かあ。面白いじゃない。面白いよね」
「冗談じゃない。そんなん簡単にできてたまるかよ。世間にどれだけ不妊で悩んでいる夫婦がいると思ってんだ。申し訳ないぜ、こんだけイージーだとよ。せめて後ひと月は待ってからだ。早すぎるぜ」
「でもさあ、もしかしたらってあるよねえ。どうするの? 啓介。産んでもらうの? 責任とるの? 結婚するの? 学校辞めるの? それとも堕ろしちゃう?」
「オレが女だったら自分で引き堕とす。オレは毒塗れだから案外、スカッとまっさらになるのかもしれない。健康体になってハッピーかもな」
「・・・・・・でも、啓介、男でしょ? 女の子じゃないからそんなことできないよね。裕子ちゃんはなんの薬もしてないし。健康だから。堕ろしても変わんないよ。どうすんの?」
「だから、今、考えてんじゃないか。必死に頭回転させて。多分、 eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(シャッパ),嘘)にしか過ぎんと思うけどな。もしも、ってのはあるかもしれない。オレが裕子だったら楽なのかもしれないけどさ。オレならさっさと終わらせて問題解決。でも裕子じゃないしな。オレ自身はどうにも関係ない。どうするって訊かれても、オレがして欲しいことなんてしてもらえない。向こうからの一方的な要求だよ」
「じゃ、何がして欲しいの?」
ドア一枚先の祐子にこの話は届いているのだろうか? マコトの問いに答えようとしたら、なんとなくそんな問いが浮かんできた。そんなことなどどうでもいいはずなのに。
して欲しいこと?
して欲しくないことは一杯ある、速攻で答えられる。だがして欲しいこと? オレは一体何を望んでいるのだ。
「あああ、わかった。わかったよ」
マコトは答えに悩むオレに焦れたのか、いきなり大声を張り上げた。オレは驚いて振り返った。
「わかったよ。啓介のして欲しいこと」
「・・・・・・何が?」
「殺して欲しいんでしょ? 啓介」
マコトの言葉に驚いてオレはマコトを見つめ直す。マコトは壁にもたれながら、キョトンとした目でオレを捕らえていた。
「違うの?」
シンナーで濁りきったマコトの瞳は全部を見透かしているようだった。腐った目でオレを眺めて見破った。
オレは死にたくなかった。だけど生きたくもないようだ。だから殺されたい、自分で終わらすのではなくて、終わって欲しい、と希っているのかもしれない。一方で突発噴火ともよべる、瞬間的な怒気がオレの中で沸き上がった。裏を見られた羞恥心とも、ヒトラー的アンチユダヤの憎悪とも取れるささやかで馬鹿げた感情だったが、相手はマコトだ。かっぱらい程度のちょっぴりな悪事で世間を困らしてはいるが、めっぽう善良な、オレと一緒で、正確に言えばオレは殺されたい願望、マコトは死体になりたい願望しか持ち合わせていない男なのだ。怒りを向ける相手じゃない。
オレは軽くため息をつくと宥めるようにマコトに言った。
「なあ、マコト、オレら、酒が飲めたらどんだけ楽だったんだろう。酒だったらどこにだって溢れている。コンビニだって酒屋だって自動販売機だってあるもんな。それにまったく手ごろな値段だ。かっぱらいや引ったくりもしなくてすむし、好きなだけ酔えたら一日もすぐ終わるし、楽しくやっていられる。本当に酒が飲めたら良かったのにな」
マコトはオレの目をじっと見つめてきた。またオレを見透かしているのか? オレの本心をほじくり出そうとしているのか?
オレは目をそらした。読まれることに堪えられなかった。
「なあ、そう思わないか?」
「啓介は後悔しているの?」
「何を」
「いろんなこと。全部だよ、全部。今までのこと」
オレは口が動かなかった。答えるまでもなくマコトが答えていたのだ。だから沈黙した。正確な答えが提示されても何か言わなければならないのに口は開かなかった。
「じゃ、俺、裕子ちゃん、送ってくるね。こんなに寒い中、外にいるのは辛いでしょ。だから送ってくるよ。裕子ちゃん、ずっと外にいるかもしれないし。風邪ひいちゃうもんね。ね? 行ってくるよ」
ああ、オレは微かに頷いた。
マコトは外に出かけに一言、オレに言葉を残した。とても優しくて残酷な一言だった。
「啓介、今でも仁美ちゃんが好きなんだよね。好きだから今みたいになっちゃったんだよね。本当は智哉のことも学校のことも咳止めシロップも関係ないんだよね」
オレは呆然として、マコトに反論、アパートに留めることができなかった。もしマコトが、オレのためを思って、オレを本気で殺そうとしていても、ラリったマコトなんて植物人間 without 内臓な智哉だって殴り倒せる。だが殴ったところでマコトに弁解できない。マコトは全部見抜いていたのだ。オレの情けない上辺だけのスタイルを。そしてその露見はオレにとって大きな恐怖であって、そのために全てを隠し、いや自分さえも欺むいてきた。でも、マコトはわかっていたのだ。些細なたわいもないことを取り繕うために、全てを誤魔化してきたことを。
オレはマコトを見捨てた。マコトに行くなと言えばオレの部屋に居残ったに違いない。しかしオレはマコトに見放されたのだ。見捨てることがオレにとって可能で愚かな抵抗で最高の弁解だったのだ。
部屋にはエーテルの匂いで爆発している。マコトは姿を消したのだ。
オレは腐り道の道連れ、チェーンオブザフォーチューンでこっち側へと引きずり込んだマコトを捨てた。そしてマコトはオレを見限った。
「どうして、あんたはそうやってのうのうとしてられんのよ!」
朝子に睨まれると、どうもマコトみたいにおどおどとした態度になる。この女からは人間の人格改造光線でも放射しているのではないか、と今さらながら思う。きっとこの女は自覚してそう振る舞っているのだろう。よくもマコトはこの女と二人きりでいられたものだ。
「どうしてマコトが捕まって、啓介、あんたは何にもないわけ? 全部、あんたがマコトにさせたんでしょ? マコトが薬をやるようになったのはあんたのせいでしょうが」
彼女の剣幕をひらりとかわすように、オレはおどけて両手をひらひらさせた。誤魔化し、オレの精いっぱいの抵抗だ。
「お前の言う通りだよ。だけど、オレはラリながらシンナーの瓶を持ってふらつくなんて真似はしないぜ。きっかけはオレだよ。でも、全部をオレのせいにするなよな。もしかすると朝子、お前があいつをラリパッパに追い込んだのかもしれないんだぜ。お前がそうやって追い込んだから、オレん家まで来てラリってんじゃねえのかよ。やるな、やるななんて、口先だけで追いつめて、後は無責任しほうだいだから、オレんとこ来たんじゃないのかよ。ホントに止めさしたかったら、最後までラリる原因まで踏み込んだのか?」
「ふうん、あんた、また逃げるの? いっつもそうじゃない。サイクリング部のときだってそうやって逃げたし。裕子もそうよ。マコトだって。何がラリる原因よ。あんたこそ、よく平然としてられるわ。友達が捕まったのよ。彼女が妊娠したかもしれないのよ。人に無責任なんて言える柄かしら?」
「マコトは実家隔離で裕子は妊娠疑惑、しかも虚言妊娠かもしれない。しっかりと現実を認識しろよな」
「あら、あんたこそ、咳止めシロップなんて頼らないで素面で現実認識したら。裕子に貢がせてるんだって?」
オレは意図的に激しい舌打ちをするとソファーに踏んぞりかえった。朝子は目元を歪ませて鼻をひくつかせる。
マコトの大馬鹿三太郎が警察に捕まって、実家の保護者預かりの身分となった。オレがマコトを見捨てた晩のことで、どうやら祐子を送った後、通りすがりのお巡りさんに不審人物云々となった案配らしい。朝子を含めて全員が面会謝絶とマコト家看守がおっしゃっている。社会復帰に向けて親子総動員でカウンセリング中らしい。
最低の中の救いがマコトがオレの家からクサをくすねていかなかったことだ。おかげでオレはこうやってガストで朝子と素晴らしい会食を饗することができている。喜ばしいことで、マコトにはせいぜい自殺しないでくれよ、と祈っている。
「結局、朝子、お前はオレに何が言いたいんだ? マコトは確かにオレにつきあってジャンキーになったよ。オレがシロップ呑むのを見ていて、気がついたらあいつもやっていた。あいつは睡眠薬だったけどな。シロップは今一なんだってさ。バロウズ先生がそうおっしゃってたそうだ。で、金がなくなってシンナーになった。そんだけだ。オレは阿呆たれと思ったよ。コデインよりもよっぽどそっちが最低だからな」
朝子の鼻がぴくぴくと痙攣し口元が激しく歪んだ。情けない話、オレは朝子にひるんでいた。おっかないのだ。
だが、朝子、お前なんて気にしちゃいない、という振りをして軽く鼻水をすすると話を続けた。
「こうやって無意味に責任のなすり合いは性に合わないから言いたくなかったが、一言だけ言わせてもらう。オレは一度もマコトを誘ったことはない。一度もだ。オレが誘ったことがあるのは、晩飯とシロップの仕入れと退部のときだけだ。後はあいつが勝手に判断しやったことだ」
鬱陶しそうに目頭をもむ朝子の姿にオレは諦めた。無駄だ。シンナーに走るほど死体願望があったのはまだわかるが、この女にぞっこんだったマコトの気が知れない。
朝子と意志疎通など不可能だ。マコトほど繊細で気の小さな男が朝子と対決するにはどれほどのドーピングが必要だったか。マコトのラリ原因を断定できる立場じゃないが朝子が大きい要因の一つであることは明白だ。
自分を糾弾指摘するオレの睨みを目の前の朝子は遮断した。オレの発するあらゆる言葉は彼女の耳に入れようとしない。渦巻くオレの言霊は彼女の周りに旋回するだけで目的は達成されず、ゆらゆらと拡散していく。
傍から離れてから思うとマコトは純粋なジャンキーだった。完全無欠にこの世から隠遁したかった。神仏亡きこの時代に出家なんてのはナンセンスで自己憐愍でしかない。だからマコトは薬に走ったのだ。ティモシー・リアリーみたいな自我の解放なんてありはしない。ただ死体になって終わりたかっただけなのだ。
しかしその男が目の前の女に惚れているという事実には納得できなかった。マコトの究極目標が死体なら、朝子のそれはヒトラー総統で、凹と凸で上手く噛み合わさっているのは下半身だけだ。もしやマコトは観音でも見ていたのか。それとも自分にはなれない、ヒトラーを敬服していたのか。
本当にマコトは訳がわからない、仁美以上に気まぐれな男だ。猫みたいに懐き、いつの間にか姿を消している。そして飼い主をあたふたさせる。そう思うと素晴らしく愛おしく思えてくる。猫の家出騒動でヒステリーな飼い主につき合わさられるのには弱ったが。
「・・・・・・これからどうなるのかなあ?」
朝子とオレの仲睦まじいテーブルには、隣のテーブルの会話が耳に流れてきた。
朝子は自分の主張以外に耳を貸さない。オレが断罪のニュアンスを含ませるまで受け付けない。頑とした純粋培養的意志が腐乱したオレの意志を拒否している。
オレはオレで集中力散漫で、自分の無駄なバロールよりも横のテーブルに魅かれた。ふと窺うと大学生らしい、ってことは見た目的にはオレと朝子と大差のないカップルだ。
「人生なんてご飯を食べるようなものだよ。高級フランス料理を食べてる奴もいれば、マックで食べてる奴もいる。安い定食屋なんかでかもしれないし、おしゃれにイタリアンかもしれない。でも、結局は食べる目的、みんな一緒なんだよ。腹が減ったからさ。ただ食べるためにどうするかが違うだけだよ。どれを食べようと満足して腹いっぱいになればいいんじゃないかな」
男は笑った。女もさもありなんと嬉しそうに頷いている。
横顔は順風万般輝きに満ちている。共鳴しあっているのだろう。
カップルはテーブル中央で堅く手を握りあった。素敵カップルだ。
オレも朝子に手を差し出したが、朝子は軽く鼻で笑うと無視した。
「中には高いだけのまずい店もある。もちろんうまくて安いのもね。まずかったら違うのを注文し直してもいいし、失礼かもしれないけど店を変えるのもいいかもしれない。満足するまで食べればいいんだよ。無理して食べる必要もないさ。ただ、腹減ったまま店出て帰るのだけはつまんないよね」
男はしたり顔だった。学校で見たことのあるやつなのかもしれない。諸君、世界は希望に満ちている。全ての望みはきっと叶うはずさ。その望みを捨てないかぎり・・・・・・と、講釈を垂れている顔だ。少なくともオレやマコトとは無縁の顔で男の言う世界にはオレやマコトは消されている。
「アナタはもう自分の料理で満足した?」
「いいや。まだだよ。おれは一応フランス料理だからね。オードブルしか食べてないからまだ何とも言えないよ」
「へえ、メインディッシュまで食べる気なの?」
「せっかく頼んだんだもん。デザートまで食べるよ」
「私も最後まで食べてみようかな?」
ははははははははははははははははははははははははは。ならばオレはどうすればいい? 料理どころか、毒だらけだ。オレはどこで間違えた? 店か? 注文か? いやいや、ならばオレごときの見せかけ野郎は食っちゃいけないのか? それとも兄ちゃん、オレは毒すら食わなきゃいかんのか? 死ぬとわかっていても毒は食わなきゃいけないのか? 毒を注文したら食わなきゃいけないのか?
オレは千円札をテーブルに出すと朝子に言った。
「もしマコトに会ったら------いつマコトん家が会わせてくれるかはわからないが------言っておいてくれ。もうお別れだってな。さよならだ。世話になったがもう来るなと伝えてくれ。頼んだぜ。後、朝子、お前とももう会わない。さよならだ」
朝子は何も言わなかった。俯き加減の顔から上目遣いにオレを睨んでいた。
オレは何がさよならだ、お別れだ、と思いながら席を立つと隣のテーブルの握られた二人の手の上に手を置いて人生の注文をした。
「塩酸エフェドリン&コデイン。できれば食い放題がいいんだけど、あんたら持ってるか?」
最高の笑顔にも関わらずカップルは凍りついて、オレをいない存在と見なしてくださって、オレ、テーブルをひっくり返そうと、だけどテーブルは固定されていて、悔しくて拳を振り上げたら男は「ひゃ」と言いながら女の手を強く握る。結局「糞ったれが」とだけ言い残してのお別れ。何がお別れだ、畜生。
eq \* jc2 \* "Font:平成明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(これいちいへんのみあり),是有一異変耳)ってきやがって、ない。どこにもない。
マリワナ一杯、夢が一杯に詰まった箱がなくなっていた。ベランダの卑猥なサンタクロースが見当たらなかった。部屋は荒らされ、見るも無残な有り様だった。キッチンの咳止めシロップは散乱、倒れたテーブルの灰皿缶はニコチン汁をカーペットに滲ませて、トイレのシンナーだけが無事発見、後は野となれ山となれ、丁寧にベッドの下のエロ本は引きずり出され衣服は目茶苦茶、ベランダに隠し置いた箱は持ち去られていたのだ。
冷や汗がたらりと腋に流れる。箱を探り捜して探しまくった。
見付からない。
まさか本当にないとは、冗談かよ? 一瞬、笑うべきか迷って、軽くうくくと笑って凍りつく。
嗚咽の予感が脳裏に充填される。掻っ払われた。奪取された。盗まれた。盗掠された。強奪された。
こそ泥が忍び込んだか?
違う。こそ泥ならあんな箱は持っていくはずがない。ノートパソコンも通帳もそっくりそのまま残されている。
薬切れに行き詰まったマコトの仕業か?
否、マコトならシンナーを忘れるはずがない。目的が遂行されていない。では目的に箱を狙う奴は? もっとも箱を必要とする連中は?
阿呆だ。阿呆連中だ。
おかしいと思っていた。連中からは前に大見えを切ったときから連絡は途絶えていた。あははは懲りたかと油断していたが連中がオレに一方的な主導権を与えるはずがない。連中は連中なりに策を練っていたのだ。奪われた主導権を元に戻すため、荷物とそれを一挙両得に取り返しに出たのだ。
そしてオレは振り出しにアゲイン、主導権も荷物も失った。
ま、いっか。荷物はあいつらのもんだし、オレは無害な被害者だぜ。唯一人の故意なき無意識共犯者だし、問題ないか、と胸をなで下ろそうとしたとき、待てよ、不安はぬらりひょんみたいに再びぬらりと訪れた。問題はあるのだ。
連中のブツをマコトは手を出した。連中はきっと内容物の量を把握しているはず。それが足りない。足りないのはなぜ? 怪しいのは誰? くすねたのは誰? オレだ。オレは証人目撃体験者兼紅茶箱一箱くすね犯だ。しかも連中はオレが警察に密告すると被害妄想を当然しているはずだ。ならばどうする。オレを押さえるなり、何か手を打ってくるはず。その上、オレのアパートを存じ上げ候。いつでもここへ侵入できる。
やばい。連中はオレが一箱頂戴したこと気付いている。
あわわわわわと喚いてみても気ははやるばかりであたふた、何もできず無駄な行為にばかりあがいた。
途方に暮れるとほっと息が漏れて、まさしく禍福は糾える縄の如しとはよく言ったもので、なるほど至極、人生は不幸だけじゃない。幸福もある。そうでなければ生まれくる人間は全員が全員、自殺するはずだ。ところが現実では自殺する人間はいても、全てが全て自殺をしているわけじゃない。故に理論的には不幸よりも幸福がちょっとばかり多い。
ならばオレはどうか?
幸いなことに------ほんの申し訳程度の幸運の賜物だ------まだ自殺をせずに生きている。幸せか不幸かはわからない。少なくとも幸せと幸運とは別個のモノのようだ。
古代のギリシア人が説くように、人間が幸せであったかどうかは死ぬまでわからない。どんな金持ち御大尽も、自分が死にいく直前に、嫁さん炎上墨焦げ大火傷、娘強姦輪姦腹下死、息子ラリパッパ基地外首縊り、とあいなれば、いかにそれまで幸せだろうと、不幸に大逆転だ。幸か不幸かはあくまで現在進行形であって過去は関係ない。個人の過去だけに注目をするならば、決して幸福などより、不幸がはるか残り続ける。
オレは幸せですか?
そんな質問は死にかける人々に訊くのが最も御最もだ。死にかけていない人間に言っても無駄だ。
けれども馬鹿馬鹿しい質問もそうと知ってて答えるならば回答者は馬鹿者ではない。そう自分に説かせて答えると、少なくとも、今の時点オレは不幸だ。もしオレに勇気混乱鬱があれば、すでに此岸を越えた彼岸にあろう。三途の河やステュクス河をエンヤコーラドッコイショてなわけだ。東尋坊華厳の滝富士の樹海中央線ダイブ、頚動脈ブッチギリ睡眠薬ホヨヨヨシアン化ナトリウムヒ素毒毒毒。方法は幾らでもある。
だけど生きている。
マコトに見放され、奈緒子に振られ、智哉に裏切られ、部を去って、朝子に罵られ、八代には無能扱いされ、仁美には相手にされず、阿呆連中に狙われ、世間から逃げうせて、裕子は妊娠した。残ったのは塩酸エフェドリンとコデインと恥じ隠しのスタイルだけだ。
だが今はそんなこと関係ない。いかにすべきが問題なのだ。
危機問題はオレだけに迫ってはない。こんな危険な連中との付き合いのある仁美も、どう考えても尋常無病息災達者であるはずはない。知っても知らずも連中には無意味だ。行きはよいよい、帰りは怖い------否、帰りは来ない。暗黒畜生犯罪ヶ沼にズブズブドップリドンブラコ。
奇妙なことに仁美への心配は全くしてなかった。焦燥すらも湧いてこない。実感が湧かないだけかもしれない。
仁美のことだ。何とかなっている。なっていないのなら、すでに、強姦、売春、ラリパッパ。行き着く果ては簀巻きマキマキ東京湾でプゥカプカ。じゃなくて、アリゾナ砂漠でサァラサラ。死んでいるんだったら仕方がない。何してもイッツ・オウヴァー。終わっているのなら終わっているのだ。
悲しくない。切なくない。心はいつも以上にあっけらかんとしていた。智哉の成仏を知ったときと同じだ。なぜそうしていられる。なぜ涙一つでない。なぜ普段と同じく煙草をふかしていられる。仁美はオレの親友、無二の友でアイ・ラブ・ユー。そんなはずはあってはならないのだ。
自分に驚き自分が憎らしく、仁美に「啓介ってホントに冷たいのね」と呆れられたことを思い出し、やっぱりそうだな、と独り納得する。
突然、ピコポン。インターフォンが鳴る。出た。
「仁美の友達だけど」
息を飲む。やっぱりオレがアパートにいることを見破っていた。誤魔化さなければ、騙さなければ、オレ、危なくて風前の灯火。
「あの、何ですか?」
「仁美の友達だけど」
「だから何でしょう?」
「仁美の友達だけど」
「荷物、盗まれました。泥棒に入られたみたいなんです。ちょうど、今、警察に電話したところです。もうしばらくすると警察が来るから悪いけど帰って下さい」
「仁美の友達・・・・・・」。
受話器を叩き切った。玄関ドアノブが激しい。ドアが軋めいた。インターフォンはもう鳴らない。カチャカチャと鍵穴は鳴り響く。
チェーンキーはしてある。逃げる。持ち物は? 財布? どこだ。携帯、どこだ。警察に電話。なぜ?
カタンとドアキーが落ちた。
ちらりと目をやると隙間から黒いアフロヘアーが覗き真っ黒な顔に真っ白な白目が見える。無表情だ。黒い腕がチェーンを握る。
ベランダに急いだ。
咳止めシロップを飲んでおけばよかった。持っていけないか、と躊躇&後悔。せめて一本だけでも。だめだ。時間がない。
バッチンとチェーンキーが鳴った。
空から続く地面への闇は底があるが、あえて認識しなかったのか、見えない。吸い込まれていきそうだ。どんどんと吸い込まれていく。
覚悟を決めた瞬間、携帯が叫んだ。いつもの軽妙な旋律が聞き取れない。電子音が悲鳴になった。闇にビビっているみたいに携帯は号泣した。保育園での御仕置き、押し入れ閉じ込めを思い出した。オレは泣く子を黙らせ闇に飛んだ。
着地成功、裸足に駐車場のアスファルトはきつすぎる。足の裏に小石がめり込んだ。じいんとした衝撃に目をしかめるとオレは走った。
連中はオレに気付いたか?
再び携帯が泣き始める。裕子から。
「今から・・・・・・」
裕子と確認後即座に切る。携帯音にバレた。連中が階段を下りてきた。
片手で番号弄る。誰だ。誰にかければいい。誰に求めればいい。思い浮かんだ顔顔は頼りにならない。呼び出し音と脳信号がクルクルする。
悔しいことに吐く息が全て白い。裸足の足に冷気がなめた。ついでにオレの血もなめてくれたら消毒になるのに、思った。
まったくこの空気がエーテルだったら一発でラリっちまう。ラリっちまってぶっ飛んじまうぜ。
・・・・・・果報は寝て待てか。マコトの与太咄が頭に浮かんだ。確かにこんな戯けた諺が本当なら、最高幸福絶頂人種は寝たきり老人とホームレスだよね。現実は厳しいよね、啓介。正確には泣きっ面に蜂の方が正しいでしょ。不幸の多重構造性。言い換えれば、地層的堆積。次から次へと不幸は降り積もる。不幸の雪達磨と不幸のバームクーヘンだ。多少の差し引きを考えての結論。果報は寝ていても覚めても来るはずがねえ。やってくるのは不幸だけだ。ならば幸福とは何ぞや? 幸福、これ追いかけるもの。しからば作麼生、不幸とは? 説破、追いかけてくるもの。そうだろ? マコト。ビンゴだろ。
要するに人生、息が切れるまで全力疾走、これ無難ということだ。とにかくそんな抽象概念から逃げる暇があったら現実問題から逃げなきゃいけない。終わらせるのも終えるのもエーテルを吸いきってから考えよう。
後ろを見れば怒等銅鑼声の阿呆達だ。トットコ追いかけてきやがる。
裕子と擦れ違った。ビニール袋を抱えて彷徨うように歩いている。
おいっ! 咽まで出かけたが押さえた。裕子とガキのために暮らす? それもいいと思った。裕子を全力で愛す? 結構だ。裕子の依存のためにオレを捧げよう。だけどシロップを忘れるな。素面じゃ情けなくて愛なんて囁けない。
相変わらず逃げ道は見つからない。闇に溶けたのか、出口もない。全てが聞こえない。
オレは闇を走った。
闇に溶けいく。現実が体に降ってくる。
どこへ走るか、どこへ行こうか、どこに向かうか。ただ、ひたすら走った。迫り来る闇、背中に背負って。胸一杯にエーテル吸いこんで。一本のシロップ、せがんで。
オレ、走って一発ドカンと。
リーガル(2002) Nemoto Ryusho @cool_cat_smailing
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます