憑かれちまった悲しみに(2009)
Nemoto Ryusho
憑かれちまった悲しみに(2009)
楠木月は美少女である。
漆黒の闇のような黒々とした髪。透き通るような肌。切れ長な目。まるで突如として出現した現代の和人形のようで、初めて彼女をみた人間は男女問わず振り返り、あまりの美しさに溜め息をつく。生まれた時期がもっと早ければ彼女をめぐって戦乱が起きただろうし、場合によっては後世に妖女として歴史に名を残したかもしれない。彼女に見つめられれば、心臓は沸騰した鍋のようにぐつぐつと沸きだつし、呼吸も圧力鍋のように激しくなる。
楠木月はそれほどの美女だ。でもーー。
坂丸高校の生徒、いや坂丸町に住んでいる人間でその後の言葉を濁さない者はいない。楠木月のことが話題に出れば必ずといっていいほど「だけどさ」「どうして」「それなのに」と一言つけた上で「もったいない」「残念だ」「惜しいよね」と言葉を終える。それほどに彼女は暗く、不気味だった。
翔が初めて楠木月と出会ったのは入学式のことだ。
「うわぁ、きれいな子だなぁ」
とごくごく平凡でかつ適切な感想を持った。クラスメートたちが代わる代わる楠木月に話しかけるのを傍目でみながら、自分は参加しなかったのは低身長であるという翔のコンプレックスのせいだけではない。彼女が発する人を寄せつけないオーラをなんとなく感じていたからだ。
そして数日も経たないうちにクラスの連中は例の「だけどさ」「どうして」「それなのに」と言葉を漏らすと徐々に楠木月からは距離を置くようになった。別に彼女が乱暴者で誰からかまわずフランケンシュタイナーをかけてくるとか、いじめっ子でクラス全員の下駄箱にタクワンのかけらをしかけるとか、そういった類のことをしでかしたわけではない。とにかく不気味なのだ。
翔が楠木月のそういった気味の悪さと実際に遭遇したのは梅雨も真っ盛りの六月のことだ。教師の手伝いで帰りが遅くなった翔は、暗くなった校舎を後に降りしきる雨の下、校門へと急いだ。家に帰ったところでたいした用があったわけではない。ただ折り畳み傘で防げるような雨量ではなかった。
裾がぐっしょりと濡れる中、ふと鉄扉を見やると晴れやかなオレンジ色の傘を差した楠木月がたたずんでいた。「こんな時間に何してんだろ?」と怪訝に思ったが、翔は普通のクラスメートに接するがごとく言葉をかけた。楠木月は嫌われているわけではない。
「楠木さん、こんなところで何してるの?」
だがピンク色の唇からは翔の期待するような言葉は出てこない。翔は聞こえていないのかと思い、もう一度声を発しようとしたとき、彼女が何か呟いていることに気づいた。
「・・・・・・うるさいわね。・・・・・・そんなの関係ないでしょ。文句あるなら消えちゃいなよ。・・・・・・知らないわよ。なんで私がそんなことしなきゃいけないのよ。・・・・・・だから私にかまうなっていってるでしょ。いつまでここにいる気よ。・・・・・・さっさといなくなってくれない? 鬱陶しいのよ。聞こえないの? 聞こえているんでしょ。私にはわかるんだからね」
誰もいない虚空を見つめながら次々と言葉を紡いでいく楠木月に、翔はいいようのないおどろおどろしさを感じた。いや、ひょっとすると彼女は自分にいっているかもしれない。そう思った翔は「そ、それじゃ、さよなら〜」となんとか形だけでも別れの挨拶を残し、逃げるようにして家に帰った。そして「だけどさ」「どうして」「それなのに」を同級生にしては遅まきながら体感していた。
一夏をこえて二学期になると楠木月の噂は生徒だけでなく教師にまで広がって、事務的手続きをのぞいては誰一人声をかける人間はいなくなった。だからといって彼女が危害を加えるわけでもなく、ぶつくさと独り言を繰り返すだけで、何か問題があるわけでもない。彼女に対するみんなの様子はまさに遠目に鑑賞される人形だった。
そんなわけで楠木月は美少女だ。でも、近寄りがたい得体の知れない薄気味悪さがあった。
十月も中旬のある日、その日は翔にとって一生忘れられない日となった。生まれた日と死ぬ日がその人間にとってもっとも重要な日であるとしたら、間違いなくこの日は翔にとってターニングポイントだったといえるだろう。人生において重大な出来事に接したこともない翔にはーーせいぜい捨て犬を拾うかどうかが彼の人生において最大の出来事だったーーとびきり刺激の強い一日だった。
それは通学路にある開かずの踏切でのことだった。友人と昨日の宿題について話をしながら踏切が開くのを待っていたのだが、偶然にも目の前には月がいた。話に夢中だった翔が月に気づいたのは、彼女のメゾソプラノで奏でられる独り言が聞こえてきたからだ。
「朝っぱらからうるさいわね。ちょっと黙ってくれないかしら?」
坂丸高校生徒や通勤する社会人でごった返す踏切前に、無論、彼女のことを知らない人間はいない。月から不吉さを感じとった人々は一斉に口を閉ざした。翔たちはいうまでもない。辺りには月の独り会話とただカンカンと警報機の音が響き、気まずさとともに遮断機が開くのを待った。
踏切が解放されると堰を切ったように人々は歩き出した。だが、開かずの踏切と呼ばれる所以の通りすぐさまカンカンと警報機の音が鳴って、ゆっくりと遮断機がおりてくる。三路線の幅を渡り切るには十分の時間で、よほど呑気な者をのぞいては次々と渡っていく。遅ればせながら翔たちも踏切を渡り始めた。当然、月も翔の前を何か呟きながら歩いていた。
そのときだ。
「だったらあなたが自分でなんとかしなさいよ! 私にばっかりいわないで!」
踏切を渡りきる一路線手前で、突然月が立ち止まって叫き始めた。通行人たちは月と目をあわせないようにして追い抜いていった。翔の友人もその場から逃げ出すように歩みを早めた。もちろん、月と関わりたくなかったからだけではない。遮断機がすでにおりきっていたからだ。翔も友人と同じように月を追い越していこうかと思った。だが、ふと見やると月は喚き声が怒鳴り声に変わっただけでそこから動く気配がない。
「楠木さん、急がないと危ない。電車が来るよ」
しかし月は翔の声が聞こえていないのか振り向きすらしない。遮断機は完全におりきっている。このままほっておいては月がどうなるかは目に見えている。
「楠木さんってば!」
翔は月の袖を引っ張った。それでも月は動こうとしない。
「翔!! 急げ!!」
友人の叫び声が聞こえた。線路からは刻一刻と振動が伝わってきている。迷うことなく翔は月の背中をどんと押した。突きとばされた遮断機の向こう側で月が中世のお姫様のように地面に手をついているのをみた。唖然としていても月はやはり美しいと思った。それなのにーー。と、この状況において言葉を続けてしまう、
振り向くと轟音を伴って鋼鉄の車両が翔の眼前に迫っていた。普段平気で乗り降りしているのに、少し見る角度が異なっただけでこんなにも迫力が違うものか。あまりの威圧感に翔の足は動かなくなっていた。
向こう側の人々は驚きに呆然と口を開いていたり、甲高い金切り声を上げたり、痛ましそうに目を逸らしていたりしていた。もはや手遅れだった。怖くて足がすくんでいるというのに、不思議と冷静だった。これが今際の際なのかもしれない。なぜか翔は冷静に自分を見つめる二人組の黒服の男が気になった。
そしてーー。
優しい風のようなものが翔を包んだ。ふわりと自分の身体が宙に浮かんだような気がした。水よりも柔らかい何かが傍を流れていった。安らかな気分だった。
しかしそれもつかの間、瞬く間に真っ黒い闇が目の前を襲った。地響きとともに耳をつんざくような音が過ぎていく。暗闇からは時折ぱっと光が差して、翔はこれが死後の世界なのかとなんとなく思った。それにしても先とは違って突きぬける風も刺々しく、油の匂いもむせかえるくらい生々しかった。どうせ死んだならさっきみたいな方がよかったのに。翔は漠然とそんなことを考えていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
秋の空はどこまでも高く、澄んでいた。心地よい秋の朝を前にこのまま眠ってしまったらどれほど気持ちがいいだろう。周りの人たちが駆け寄ってくる中、翔はぼんやりと空を見上げていた。地面がひんやりとして、日差しは暖かい。翔は身体を引き超されるまで、自分が偶然にも電車と線路の間を潜り抜けたことに気づかなかった。
「大丈夫かよ!?」
「う、うん」
友人の問いかけに曖昧にしか答えられない。それほど現実感がなかった。九死に一生を得たというのに、喜びも何も実感がわかない。
「本当に怪我はないのかい? 今、救急車が来る。大事をとって横になってた方がいい」
心配そうに声をかけてきた背広姿の男の勧めるままに、翔は歩道に横たわる。アスファルトはひんやりとして、冷たい。霞がかった空は曖昧なスカイブルーで、まるで翔の頭の中を抜きとったようだ。
「僕、助かったの?」
ぼんやりとして実感がなかった。身体を起こそうとすると先の男性に制された。
「傷や出血はないみたいだね。でも念のためだ。病院で調べてもらいなさい」
まもなく救急車のサイレンが翔の耳にも聞こえてきた。ほっとしたのか、急に心臓がばくばくと鼓動しはじめた。ようやくことの重大さがわかってきた。
「あ、あの・・・・・・私のために・・・・・・ありがとう」
翔が担架に乗せられたときのことだった。救急隊員たちの人垣の隙間から、月のうつむき加減の顔が覗いていた。青ざめた表情の月はおどおどとして、それでいて安堵しているようにみえた。月の姿はすぐに見えなくなったが、不思議なことにいつもの「それなのに」とは続かなかった。無茶な行為ではあったが、心の底からやってよかったと翔は思った。
バタバタと急かされるように翔は救急車の中へと担ぎ込まれる。
「病院まですぐだからね。心配することないよ」
「・・・・・・はい」
救急隊員の言葉に翔は曖昧に頷いた。自分では何ともないように思えていたのだが、救急隊員たちの切迫した雰囲気に呑まれてしまった。ひょっとすると自分は大変な容体なのでは・・・・・・という考えが急に浮かんできて、怖くなってきた。
サイレンが響く車内の中を見回すと、手回しがよいことに年若い看護師が乗りこんでいた。てきぱきと無線でやりとりをしたり、翔に質問を繰り返したりする救急隊員を余所に、彼女はにこにこと微笑んでいた。なぜか彼女の笑顔を見ていたら、徐々に恐怖心が和らいでいった。何をするでもなく、ただ座って翔を眺めているだけなのに安心できる、そんな笑顔だった。
「安心なさい。身体はなんともないから。軽く検査したら学校に戻れるはずよ」
彼女の口調は笑顔と同じくゆったりとしていた。
「は、はい!」
思わず声が裏返ってしまった。
「ふふ、かわいい」
「あ、ありがとうございます」
耳たぶがかっと熱くなっていく。ということは顔は真っ赤なのだろう。看護師はからかうようにくすくすと笑っている。
きれいな看護師さんだな。
翔はそう思いつつ、なんとなく月のことを考えていた。看護師の容貌がそうさせるかもしれない。
「君、大丈夫かい? 私の声は聞こえているか」
「あ、はい、聞こえてます」
救急隊員の問いに、慌てて翔は答える。隊員は怪訝そうに顔をしかめていた。
救急車は総合病院へと向かっていく。
憑かれちまった悲しみに(2009) Nemoto Ryusho @cool_cat_smailing
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