Seeking Infinity②

🪑


 片桐さんが病弱だったのは、彼女が休みがちだったことからも知っていた。けれど、入院が必要になる程だとは彼女本人の口からは聞いたことはなく、高三の春、担任から片桐さんが学校に来る日はもう多くないと思うという話を聞くまでそんなことは知らなかった。休みがちではあったものの、片桐さんはクラスでも友達が少ない方というわけでもなかったから、クラスの友達が集まって、たまに片桐さんのお見舞いに行こうなどという話になり、僕もその中の一人として、片桐さんのお見舞いによく病院に訪れた。


「片桐さん、今は絵は?」


 ある日のお見舞いの時、たまたま二人きりになる機会があって、そのタイミングで僕は片桐さんにそう聞いた。


「描いてるよ」


 片桐さんは、そんなの当たり前だとでも言うように即答した。


「エッシャー?」

「そう」


 僕が短く尋ねると、片桐さんは嬉しそうに笑って首肯した。片桐さんはベッドの横にある引き出しを開けて、僕にスケッチブックを見せてくれた。スケッチブックには、いつも彼女が息抜きに描いていたような無限に続く階段や水路が、たくさん描かれていた。


「ホントに好きだね」

「うん」

「僕もなんか描いても良いかな」

「もちろん」


 片桐さんはスケッチブックが入っていたのと同じ引き出しから取り出したボールペンを差し出してくれた。僕は椅子に座って白紙のページに、無限に続く階段を描こうとした。


「あれ、うまくいかない」


 僕が苦戦している様子を見て、くすくすと笑った。


「普段描かないとね」

「現実にないから」

「コツがあるの。貸して」


 片桐さんは僕に両手を差し出す。僕はその手にスケッチブックとボールペンを渡す。すると片桐さんは慣れた手付きで、僕が失敗した階段の上に見事な無限階段を描いた。


「繋がるところをどこにするか考えて、四隅にチェックを入れると良いよ。まあ、私流だけど」

「なるほど」


 そんな風に、片桐さんは楽しそうに彼女なりの、騙し絵を描くためのコツを教えてくれた。入院生活の中じゃ普段、友達と絵の話をすることもないからだろう。彼女は僕の覚えている限り、とても楽しそうに会話をした。


「いつ死ぬかわからないからかな。終わりがないこういう絵に惹かれるの」

「反応しにくいな」

「そのせいかどうかは置いといても、好きなのは本当だよ」


 彼女は本当に楽しそうにしていたから、その時の彼女の表情はよく覚えている。忘れたくても、あの顔は忘れられない。あんな風に生き生きとしていた表情を見ていたから、僕は彼女のことを今でも生きているかのように考えるんじゃないかと思ってしまう。


 彼女が死んだのは、僕が彼女に騙し絵のコツを教えてもらった次の週だった。病気ではなかった。その日、片桐さんは久しぶりに学校に通おうとして病院の許可も取り、昼の授業から登校しようとしていたらしい。

 ──けれど、それは叶わなかった。

 久しぶりの学校に疾っていたのか、彼女は十字路の死角から飛び出したところを、車に引かれたのだと聞いている。信じられなかった。そんな風に、彼女のいる世界がなくなってしまうことが。いつ死ぬかわからないからかな、と言っていた彼女の言葉を思い出した。確かに彼女の言う通りだった。でも、彼女はこんなつもりで僕にそう言っていたわけではないはずだ。だからなのか、彼女の死を受け入れられないのは。



🖼️


 いつものように、瑛士くんの家庭教師の日になって、僕は永住さんの家に向かった。お盆休みが終わって、久しぶりの授業だった。瑛士くんのお母さんからは、この夏に彼も高校見学に行って、これまで以上にやる気も出てきているのだと聞いていた。時期的にも、受験に向けてのラストスパートの始まりだ。確かに僕の目からも、夏休みに入った頃に比べても彼の勉強に向ける態度は、少し変わったように思えた。


「頑張ろうね」


 そんな彼の様子を見て、瑛士くんにそう言うと彼は無言ながらも、力強く頷いた。ああ、そう言えば、と思い出す。高三に入ってからは、片桐さんは学校に来てなかったからあまり勉強の話はしなかったけれど、テスト前になって部活休止の時期になっても、僕も片桐さんも美術室に来ていたものだから、僕らで二人、テスト勉強をすることがよくあった。片桐さんが数学を苦手だと知ったのも、そういうことがあったからだ。


「勉強は苦手だけど、大学には行きたいから」


 テスト勉強の最中、片桐さんはそんな風に言っていた。


「美術系?」

「うーん、それも良いかなとは思ってるけどどうかな。普通の大学生活、みたいのにも憧れる」

「それは俺もそうだなあ」


 僕もその頃は、行きたい大学があってその為に勉強しているってわけでもなかったし、その感覚は当たり前だったと思う。そんな彼女が、行きたい大学があると言い始めたのは、その年の冬の頃だ。人がエッシャーの騙し絵みたいなものを見た時に、どんな風に脳が動いているのかを研究しているという大学教授の話を、テレビで観たのだと言う。


「でもそれ、芸大とかではないよね」

「うん。国立の人文学部って言ってた。なんか、面白そうだなって」

「じゃあ、勉強も頑張らないと」

「うん、そう。だから前野くんも勉強会、これからも協力してよね」

「勉強会ってほどのものじゃないと思うけど」


 実際には、次の定期試験頃には片桐さんは入院していたし、勉強会をすることはなかったけれど、彼女のことだからきっと勉強を続けていれば志望していた大学にだって受かっただろう。僕も結局、絵のことなんてほとんど関係のない教育学部に入ったけど、彼女との勉強会はきっと、大学合格の役に立っていたと思う。

 僕は大学で心理学の講義を受けている片桐さんのことを想像した。想像の中の片桐さんはとても真剣な表情で、講義室の最前列で教授の講義を聞いている。きっと、今だって彼女は──。


「じゃあ、ここの問題解いて。俺はちょっとお手洗い借りるね」


 久しぶりの授業のせいか、事前にトイレに行くのを忘れていたのと昼ご飯を食べ過ぎたせいか、授業中に便意を催して我慢しきれなくなった僕は瑛士くんに指示を出してからトイレに向かった。トイレの中で、僕はまた彼女のことを思い出したことに対して溜息をつく。彼女が死んで、もう三年経つ。高校生活よりも長く、僕は彼女がいない時期を過ごしたのだ。もうそろそろ、慣れてもいい頃だ。

 いや、それとも逆だろうか。僕は彼女がいるかのように思考することに、慣れ過ぎてしまったのだろうか。


「お待たせ」


 僕はトイレから出て、もう一度溜息をついてから瑛士くんの部屋に戻る。瑛士くんは、既に僕の指示した問題は解き終えたのか、机の上に勉強用のノートはなく、その代わりに羅線の引かれていない、真っ白なノートを机に出して、何かを描いていた。


「エッシャー?」


 僕が瑛士くんの背後から尋ねると、瑛士くんはビクリと肩を震わせて、僕に振り向いた。


「あ、はい」


 言って、瑛士くんはノートをしまおうとしたが、僕はゆっくりその手を止めた。瑛士くんがノートに描いていたのは、片桐さんもよく描いていた無限階段だ。けれど、その階段はガタガタとしていて、あまりうまく繋がっているようには見えない


「僕も描いてみても良い?」


 僕がそう言うと、瑛士くんはゆっくりと首を縦に振った。僕は自身のボールペンを取り出して、彼の描いた階段の横に、片桐さんに習ったように無限階段を描いていく。彼女ほどではないけれど、あの後何度か階段を繰り返し描いていたから、彼女の言っていたコツはしっかり頭に入っている。


「できた」

「おお」


 僕が完全した階段を見せると、瑛士くんは感嘆の声を漏らした。


「先生、こういうの得意なんですか」

「うん。よく描いてた」


 好きだから、と言おうとして、片桐さんを知っている手前、そう簡単に言うのはちょっと烏滸がましいかもな、なんて考えた。


「高校見学で、見て」

「え、──ああ」


 僕は瑛士くんの言葉に納得した。瑛士くんの志望校、つまり僕らの通っていた高校の廊下にコンクールで賞を取った生徒たちの作品が飾られているところが、あったはずだ。最優秀賞を取った彼女の絵も当然、そこにある。


「僕も描いてみたくなって」

「なるほど」

「でも、実際描いてみると難しくて」


 僕は瑛士くんの言葉に苦笑した。本当にね。描いてみると、意外と難しい。僕は自分の頭には既に入っている、片桐さんの言っていたコツを思い出す。あの時の彼女のことは、忘れることはない。彼女が亡くなってしまう前に僕に見せてくれた、本当に楽しそうな顔だったのだから。


「コツがあるんだ」


 僕は瑛士くんのノートに、彼女に教えてもらったことを思い出しながら、普段の授業の延長のように、無限に続く階段の描き方を、瑛士くんに話し始めた。






終。

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エッシャーに万歳 宮塚恵一 @miyaduka3rd

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