アンチェインマイハート
新谷
アンチェインマイハート
夕方、小林は新宿区の外れにある、古びた七階建てマンションの非常階段を歩いていた。錆の浮いた手すりをしっかりと掴み、靴底でカンカンと音を立てながら、螺旋を描くように昇っていく。
五階までたどり着くと、小林は通路を進み、松田という男の部屋の前に立った。呼び鈴を鳴らし、返事がないのを確認した後、ノックもせずにドアを開ける。いつものように、鍵はかかっていなかった。部屋の中から、テレビの甲高い笑い声と、アルコールの匂いが漏れ出てくる。
靴を脱ぎ、小林が中に入ると、松田は奥の汚れたソファにふんぞり返っていた。油で光る指で、ポテトチップスを口に放り込んでいる。その体はソファからはみ出すほど大きく、布張りの背もたれをきしませていた。座っていても、圧倒されるような巨体だ。
「遅えよ。三十分で来いって言ったろ」
「……すみません」
松田は不機嫌そうに立ち上がった。大きい影が、小林を覆う。松田は乱暴に、小林に茶封筒を突き出した。
「今回の報酬だ」
小林はそれを受け取ると同時に、顔をしかめた。渡された封筒から、ほとんど封筒それ自体の重さと厚さしか感じなかったからだ。
「……少なくないですか」
中から取り出した薄っぺらい紙切れ一枚を、小林は見せつけるようにヒラヒラさせた。
「少なくねぇよ。報酬の十万から、借金の利息分と手数料、その他諸々引いて残ったのが、その五千円なんだよ」
「……でも、これじゃあ生きていけないですよ」
小林には働き口がなかった。身分証も口座もすべて、目の前の男に握られている。松田の言いなりになるしか、彼に金を得る道はなかった。
「あの紙袋の中身、どうせ麻薬だったでしょう。捕まるリスクだってあったし、今回は遠くまで運んだから、交通費だけでも結構……」
「ごちゃこちゃうるせぇ」
松田の拳が飛んできた。小林は吹き飛ばされ、後ろに倒れ込む。鉄臭い味が口の中に広がった。
「俺に楯突くなっていつも言ってんだろうが。恨むならテメェの親父を恨めよ」
小林の借金は、数年前に父親から受け継いだものだった。
「……なんでそんなことが言える。自分が自殺にまで追い込んだくせに」
搾り出すような声に、松田の表情が険しくなる。
「生意気言いやがって」
今度は蹴りが腹にめり込み、小林はうずくまった。呼吸が詰まり、視界が滲む。
「……そうだな。そんなに金が欲しいなら明日、別の仕事をやらせてやるよ。少し危険だがな、その分報酬は保証してやる」
倒れた小林を見下ろしながら、松田はそう言った。
「……ありがとうございます」
小林はフラフラ立ち上がり、目も合わせずにそう呟いた。
「言えたじゃねぇかクソガキ。お前が俺に言うべきなのは、『わかりました』と、それだけだ。お前の親父はよく出来てたよ」
松田はケラケラと下卑た笑い声を上げた。
「お前の代わりの部下なんかいくらでもいるんだから、仕事をもらえるだけありがたいと思え。わかったか?」
「……わかりました」
「ならさっさと出ていけ」
小林は唇を噛み、乱暴にドアを開け放って、松田の部屋を後にした。
階段を下り、マンションを出る。あまり長居した覚えはないが、外はもう暗くなっていた。
ポケットに突っ込んだ五千円を確かめるように握りしめながら、道路の端をとぼとぼと歩き、家路を辿る。
赤信号で立ち止まると、向かいのラーメン屋から、湯気と匂いがただよってきた。思わず腹に手を当てる。今月はどれだけ、食費に金を回せるだろう。
腹が減ると、思い出すのは父親が生きていた頃だ。決して金持ちではなかったが、食べたいと言えば、ラーメンくらいは食べさせてくれていた。妻を病気で早くに亡くし、頼れる親戚はいない中でも、息子の要求は出来るだけ聞き入れてくれていた。
父親は死ぬまで、仕事での損失のことも、借金のことも、何一つ息子には話さなかった。子供にする話でも無いと思ったのだろうが、相談の一つでもしてくれていたらと、今になって思う。
「お前は幸せになれ」
その言葉だけを書き残し、父親は首を吊った。朝起きると、隣りでぷらぷらと宙を揺れていた父の姿は、今でもよく夢に見る。
「明日までに五十万用意してこい。出来ないなら死ぬか、俺の元で働け」
少し後、そう言って部屋にやってきた、あの小汚い大男の姿も。
昔のことを考えているうちに、信号が青になった。ラーメンの匂いを、なるべく目一杯吸い込みながら、また少し歩く。
すると、薄暗い建物に挟まれた、細い裏路地が左手に現れた。木造のボロアパートである小林の家には、ここを通ると近道だ。
この辺りの路地は、どこもやたらと入り組んでいる。進むたびに右へ左へと細道が分かれていた。頭上では電線が複雑に交差し、低く垂れ下がっている。
「……ん?」
路地の途中で、小林は思わず足を止めた。湿った生臭い腐臭が、風に乗って鼻を刺してきたのだ。吐き気はもちろん、どこか危機感を煽ってくるような臭いだった。
落ち着いて、臭いの場所を探ってみる。すると、だいたいの見当はついた。恐らく、あの突き当たりの角を左に曲がったところだろう。あそこから、このひどい臭いは漂ってきている。
野良犬の死体でもあるのだろうか。鼻を押さえながら、一歩、また一歩と角に近づいた。近づくほどに、臭いは強くなっていく。
曲がり角まで後五歩という所で小林は、くちゃ、ぴちゃ……と、何か咀嚼音のようなものが聞こえることに気がついた。
得体の知れない恐怖と好奇心が、小林にどっと襲いかかる。彼はますます、その臭いの正体を確かめずにはいられなくなった。
吸い寄せられるように歩みを進め、そして角に辿り着く。壁に片手をつき、体を半分だけ出してみる。
視界の奥に、下を向く影が見えた。四つん這いの影だ。野良犬かと思ったが、それにしては異常にデカく、ゴールデンレトリバーくらいのサイズがあった。それに、するどい牙が口を裂いて飛び出ているように見える。化け物だ、と直感的に思った。
小林がしばらく固まっていると、化け物の口がゆっくりと動いた。くちゃくちゃと、咀嚼音が反響する。やはり何かを食べている。その何かが人間の手だと気づくのに、さほど時間が掛からなかった。
「……っ、げぇ……!」
酸っぱい胃液が喉を焼く。堪えていたものが、小林の食道から飛び出した。自分の吐瀉物で靴先が汚れ、バシャっという音が路地に響く。
小林は口を拭いながら、まだ化け物の方を見つめていた。化け物の近くに、もう一つ影が見えたような気がしたのだ。恐怖を押し殺し、目を凝らす。
「……っ!?」
すると、化け物の足元に少女が倒れているのが見えた。白いワンピースが真っ赤に染まっている。よく見ると、鮮やかな赤い血が、アスファルトを細く伝ってこっちに流れてきていた。その血を辿ると、右手首から先が欠けているのが見える。
小林は絶句しながら無意識に、少女の顔の方を見た。その顔は、血と涙とでぐしゃぐしゃに汚れ、青ざめている。
かろうじて開かれた瞳が、闇を通して小林を見つめてきた。そして微かに唇が震えた。
「……に……げ……」
音は聞こえないが、そう言っていると確信できた。しかし、小林を見つめる少女の目が、彼の心をぎゅっと掴んで、向こうへ引っぱろうとしてくる。ダメだと、自分に言い聞かせた。あの子はもうどうせ助からない。それにこれ以上近づけば、自分だって襲われる。死ぬかもしれない。今すぐ振り返って……
「はあ……はあ……っ!」
気づいたら、走り出していた。体が勝手に動いていた。
「クソッ!」
一瞬よぎる後悔を捨て、小林は目の前の化け物に集中した。奴との距離は、自分の歩幅で七歩くらいか。こちらに気づく前に、なるべく距離をつめる。
残り三歩という所で、化け物が顔を上げた。
心臓が一拍ドクン鳴る。
瞬間、化け物の喉から低い唸り声が漏れた。奴は姿勢を低くし、重い四肢で地面を蹴ってこちらに襲いかかろうとしている。
「うらぁ!!」
小林は化け物の動きが始まる前に、全力で右足を振り抜き、奴を思いっきりを蹴り飛ばした。「ガッ……!」と、化け物から声が漏れる。
感触は思ったよりも軽かった。怪物は後ろに吹っ飛び、コンクリートに叩きつけられる。向こうで、しばらく静かになった。
「大丈夫か!?」
小林はしゃがんで、足元に倒れる少女の心臓のあたりに触れた。微かな鼓動を感じる。こひゅー、という呼吸音も聞こえた。とにかく、この路地を出なければ。小林は少女を、できるだけ丁寧に持ち上げようとした。
「ぐあっ!」
すると横から重い足音が迫り、肩に激痛が走った。右手を見るとあの化け物が、小林の肩の肉片を咀嚼し、飲み込んでいる。
小林が痛みに悶えていると、食事を終えた化け物が、またジリジリと迫ってきていた。小林は痛みに耐えながら立ちあがり、化け物を正面から睨みつける。極限の状況で吹っ切れたのか、彼は異常なほど落ち着いていた。思考がクリアに、透き通っていくのが分かる。悪くない感覚だった。
両者動かず、一瞬、静寂が流れる。その時、倒れている少女のそばに、小林はキラリと光る何かを見つけた。細長い棒状の何か――鉄パイプだろうかと、急いでソレを拾い上げる。期待して見るとそれは、ピンクと白の装飾が施された、おもちゃのステッキだった。少女が持っていたものだろうか。期待はずれだったが、意外と重さは有る。何もないよりはマシか。
化け物が低く唸り、飛びかかってきた。小林もステッキを振り回して応戦する。しかし化け物はそれをひらりと交わし、小林の脛の肉を抉り取った。
「くっ……!!!」
激痛が走り、思わず尻餅をつく。化け物はぺっと、小林の肉片を吐き捨てた。そしてまた一歩一歩と、獲物との距離を詰めていく。
「グルル……」
怪物の唸りを聞き、小林は半ばあきらめたように目を瞑る。ここで終わりか――そう思った瞬間、握りしめていたおもちゃのステッキが、突然激しく熱を帯びた。
「……っ!?」
ステッキから、脈打つような振動が伝わってくる。思わず凝視すると、今度は内側から青白い光が滲み出した。怪物がこちらに近づくたび、その輝きは強さを増していく。
小林は半ばやけくそで、地面に尻をついたまま、ステッキの先端を化け物に突き出した。獲物を狙う獣はおかまいなしに、今にも飛びかからんと身を沈めている。
次の瞬間、化け物が地面を強く蹴った。鋭い牙が、空気を切り裂くように小林に迫る。その牙が彼に届く、寸前だった。
ゴオオッ!っと空気を裂くような音とともに、ステッキの先端から閃光が迸った。眩い光は化け物を貫き、その全身を包み込む。一瞬して、奴の姿は光の中でかき消え、夜の闇には死体ひとつ残らなかった。
いったい何が起こったのか、さまざまな疑問が頭をよぎるが、考えている暇はなかった。興奮が冷めないうちに、小林は体を起こす。少女を抱き抱え、路地裏を走った。
「きゅ、救急車……呼んでください……!」
小林は息を切らしながら、路地裏を抜けてすぐ、道を歩いていた見知らぬスーツの男にそう言った。
「え?」
「……早く、お願いします!」
男は一瞬戸惑った表情を見せたが、ボロボロの二人を見て、すぐにポケットからスマートフォンを取り出した。
「救急です! 場所は――」と、慌ただしく通報を始める。
その間に、小林は少女をそっと地面に横たえた。
呼吸は浅く、胸が小刻みに上下している。瞳は半開きで焦点が合わず、声をかけても反応がない。右手首の切断面からは、赤黒い血が途切れることなく溢れ、アスファルトの隙間へと染み込んでいっている。恐らくこの出血を、いますぐに止めなければまずい。
「……っ、あの!ティッシュ貰えますか!」
男はすぐに黙って頷いた。片手で電話を続けながら鞄を漁り、小林にポケットティッシュを手渡す。
小林は大量に取り出したティッシュを、少女の手首に押し当てた。
「止まってくれ……」
だがティッシュは瞬く間に赤黒く染まり、役に立たなくなる。小林は歯を食いしばり、ティッシュの上から手のひらを押し当て患部を圧迫した。少女の体がぴくりとはね、弱々しい呻き声が漏れる。
「はあっ……!はあっ……!」
血で固まったティッシュがガーゼのような役割を果たし、だんだんと出血がおさまってきた。息を切らしながら、絶えず手のひらへ体重をかけ続ける。永遠にも思えた数分間、それを続けていると、遠くからサイレンの音が聞こえ始めた。
「もう……少しだ……」
サイレンの音は次第に大きくなり、やがて視界の端に、あかるい赤色灯が差し込んだ。
「こっちだ!」
男が手を振り、救急隊員が駆け寄ってくる。
小林は手をそっと外した。すぐに隊員の手が入り、止血帯とガーゼで的確に処置が施される。
担架に少女が乗せられ、酸素マスクが顔を覆った。
「ちょっと!どこいくんですか!あなたも怪我してるでしょ!」
ふらふら立ち去る小林をみて、男はそう叫んだ。
「俺はいいんです。それよりその子を頼みます」
身元確認が面倒なので、普通の病院にはなるべくかかりたくない。小林は傷口を押さえながら、唯一とも言える、頼れる知り合いの元へと向かった。
「よーし、動くなよ」
黄ばんだ白衣をきた男の、掠れた声が部屋に響いた。手術台に寝転んだ小林の傷口に、消毒液がかけられる。
「くっ……!」
焼けるような痛みが走り、全身が震えた。
「分かってるだろうが麻酔はなしだぞ。歯食いしばれ」
針と糸を握った男が、ためらいもなく傷を縫い合わせ始めた。ズブリ、ズブリと糸が通るたび、視界が白く弾ける。小林は短く呼吸を繰り返し、ひたすら痛みに耐え続けた。
「見た目通り野良犬は汚ねえ。傷口から病気が入ってるかもしれねえぞ。そうしたら俺にはどうしようもない。俺は免許も持ってない医者もどきなんだからな」
男は北浦と言い、東京の隅でひっそりと診療所を構える闇医者だ。診療所といってもただの雑居ビルの一室であり、どこの病院も受け入れてくれない連中の、最後の駆け込み寺になっている。小林は仕事で知り合って以来、妙に彼に気に入られたので、交友を続けていた。
「……だからアレはただの犬じゃな……痛っ!!」
北浦はものすごい手際で二つの傷口を縫い終わると、小林の肉から乱暴に針を引き抜いた。
「さっきから意味のわからんことばかり言って、どうしちまったんだ?こんなおもちゃまで持ってきてよ」
北浦はため息をついて、あのステッキ取り出した。
「……っ!?なんでそれを……?」
小林は飛び起きて、北浦の手からステッキを取り返した。
「なんで驚くんだよ。お前のポケットに入ってたんだろうが」
「ポケットに……?」
小林はあのとき、まるで自分のスマートフォンや財布をしまうのかのように、無意識に、それをポケットに入れていたのだった。
「しかしこれ、あれにそっくりだな。ほら、日曜朝にテレビでやってた、魔法少女のアニメのやつ。お前今年で十七だろ?世代のはずだぜ」
「……俺の家はテレビがなかったから、わからないな。あまり……」
「お前が言うことが本当なら、お前は悪の怪物と戦う魔法少女を助け、代わりに怪物を倒したってことなんじゃないか?すごいなあ」
北浦は小林を無視し、皮肉めいた口調でそう言った。
「本当なんだよ先生。本当にそれからビームみたいのが出て化け物が消えたんだ」
「……はあ、まったくお前だけだよ。俺を先生なんて呼んでんのは」
北浦は苦笑した。
「なら、医者の問診にくだらない嘘はつくなよ。お前のためを思って言ってんだ」
「本当だって!だいたいただの野良犬が人の腕なんか噛みちぎらないだろ!」
「そんなのわからないさ、飢えた獣はなんだってする」
少し沈黙が流れた。
「……まあいい。痛み止めだ、飲め。もろもろの治療費も含め、金はいらねぇよ」
北浦は瓶から錠剤を一つ取り出し、小林に渡した。小林は薬を一つ飲み込んで、「……ありがとう」と小さく呟いた。
「……先生、そんなことより、あの女の子助かったと思うか?」
小林は北浦の目を見つめた。
「その女の子の話も嘘なんじゃねえのか?野良犬に襲われたなんてダセェ話を、お前が誤魔化すためのよ」
「俺に今更、ダサいとかなんとか気にするような余裕があるように見えるのか」
小林は北浦を睨みつけた。
「……まあ出血量によっちゃ、死んでても全然おかしくないだろうな」
男はそう言うと、タイヤのついた椅子に腰掛け、冷めたコーヒーを飲み始めた。
「そうだよな……。クソッ、最期までそばにいてやればよかったか……」
小林は深くため息をつき、最後の最後で責任を押し付けて逃げ出してきた自分を情けなく思った。
「俺は結局、人を助けたっていう自負が欲しかっただけだったのかも知れない。社会の裏側に這いつくばる、ただの底辺の分際で」
見知らぬ人を助ければ、自分もいつか救われるかもしれないとか、そんな魂胆で体が動いたのだろうか。自分の本心さえよくわからなかった。
「まあ、あんま気負うなよ。どん底にいても、善行ってのはやっておくもんさ。そうすれば、遅くとも死んだ後には上に昇れる」
北浦は大きなあくびをした後、ため息をついてそう言った。
「で、どうする。このまま俺と夜明けまでくっちゃべってる気か」
「……もう帰って寝るよ。明日も松田のとこに行かなくちゃあならないんだ」
小林は立て付けの悪いドアを開け、片足を引きずりながら診療所を後にした。
「おい!どうせまともに飯食ってないんだから傷の治りも遅えだろ。なんかあったらすぐ言えよ。なるべく正式の病院にな!」
すぐ、ドア越しにそう声が聞こえた。
「そうするよ、先生」
夜風が傷口に突き刺さるのを感じながら、小林はゆっくりと家路を辿った。
翌朝、小林はまたあの階段を歩いていた。錆びた手すりがまだ朝の冷気を吸っていて、ひんやりと冷たい。段差を一段登るたび、肩と足に走る二箇所の傷が、じわりと脈を打つように痛んだ。その痛みをなるべく無視して、普段どおり歩いていく。昨日の出来事は全て忘れて、無かったことにすると決めていた。
普段ならすぐの道のりが、今日は何倍も長く感じられる。五階にたどり着く頃には、背中を汗が伝い、傷の奥が鈍く熱を帯びていた。
目的の部屋に近づくと、ちょうど中からドアが開いた。柄の悪い男が出てきて、小林とすれ違う。三十代ほどで、髪をきっちり撫でつけ、手には安物のアタッシュケースを持っている。男は小林を一瞥したが、何も言わずに通路の奥へと歩き去った。
松田の部下だろうか。
松田の口からときどき、部下と言う単語が出てくることはあったが、実際に見るのは初めてだった。そもそも、松田の部屋に自分以外が出入りするのを見ること自体、初めてなような気がする。
「痛ぇな!ちゃんと前見て歩けやクソガキ!」
「あ、ごめんなさい」
そんなことを考えていると、階段の方から声がした。怒鳴る男の低い声と、まだ小さい女の子の声。さっきすれ違った柄の悪い男のものだろう。小さな背中が一瞬、踊り場の陰に隠れるのが見えた。
見た目の印象通りの男だったようだ。松田の周りには、松田のような奴ばかり集まるのだろうか。側から見れば自分もその一人なのかと思うと、最悪な気分になる。
胸中に嫌な感触を覚えながらも、小林はノブを回してドアを開けた。
中には、いつもの光景が広がっていた。小さなテーブルの前、ソファに深く腰掛けた松田が、酒を片手にテレビを眺めている。
「よぉ、待ってたぜ」
松田は顔だけをこちらに向け、口角をわずかに吊り上げた。
「さっきの、部下の人ですか?」
「……そうだ。無線傍受用の機械を持って来させたんだよ」
「何に使うんです?」
「お前には関係ねぇだろ。それより仕事の話だ」
松田はズボンのポケットからスマホを取り出し、立ち上がりもせず、小林の視線に画面を突きつけた。
「こいつを見ろ」
液晶には、銀縁メガネをかけ、背広をきっちり着こなした五十代後半の男が映っていた。彫りの深い顔立ちには確かな品があるが、黒目の奥には氷のような冷たさが張りついているように感じる。
「……誰ですか、これ」
「川上っていう政治家だ。今日の深夜、コイツは東京湾周辺の倉庫で、ちょっとした取引をやる。その瞬間を写真に撮って、俺に持ってこい。それが今日のお前の仕事だ。そうすりゃ、利息を引いても三十万やる」
三十万。言葉の響きが、小林の胸の奥にずしりと沈む。頭の中で何度か繰り返し、現実味を確かめた。
「……撮るだけ、ですか」
「そうだ。見張りはいるだろうが、難しい仕事じゃない。リスクがでかいだけだ。バレたら死ぬかもしれねぇからな」
松田は口の端をさらに吊り上げ、背後の棚からファイルを取り出した。
「それじゃあ、詳細を確認するぞ」
資料の紙がめくられる音が、見慣れた部屋の中で新鮮に響く。
「……え、ああ。分かりました」
小林は松田の始めた行動に、驚きを隠せなかった。松田が細かく仕事の指示を出すことなど、今まで一度だってなかったからだ。口頭での雑な指示しかしてこなかったはずの松田が、御丁寧にメモが書き込まれた地図まで用意している。それほど大きな仕事なのかと、思わず身が引き締まった。
「どうした、よく聞いとけよ。バレたら死ぬんだからな」
小林の説明は、日が降り始めるまで続いた。
「クソッ……しくじった、クソッ!」
小林は息を切らしながら、入り組んだ細い路地を必死に走り回っていた。背後から、二人の男の荒い怒号が追いすがる。
「待て、この野郎!」
「そいつを渡せ!」
松田から渡されたカメラは、あまりの性能の良いものではなかった。顔を鮮明に写そうとするあまり、不用意に近づきすぎてしまったのが最後の失敗だった
「はぁっ……はっ……!」
浅く、乾いた呼吸が繰り返される。冷や汗が全身を全て覆いつくしたのと同時に、心臓の鼓動がbpm190を突破した。栄養不足の体には、あまりに大きすぎる負荷である。
無我夢中で走り続けていると、突然、視界の下端に小さな段差が顔を出した。気づいた瞬間、つま先が引っかかる。
彼に、もう起き上がる力は残されていなかった。最後の力を振り絞り、倒れ込んだままなんとか後ろを振り返る。すると追っ手の二人がもう、すぐそこに並んで立っていた。左手に立った一人が、懐から黒光りする何かを引き抜くのが見える。
「……やっと追い詰めた」
銃口がこちらに向けられる。男は低く吐き捨てるように言った。
「ガキに弾代で赤字はごめんだ。一発で仕留める」
男は小林の頭に標準を合わせた。外す距離ではない。昨晩と比べても、より確かな死を確信する。
「……そうだ。持ってたカメラ、ポケットから出してこっちに渡せ。死体を漁るのは嫌いなんだ」
男は引き金に指をかけたままそう言った。小林は震える指先を、布地にそっと差し入れる。
すると、ポケット中で硬質の冷たい感触が指に触れた。これかと思い掴もうとするが、違和感に気づく。形が明らかにカメラとは違うのだ。
体中が痛み、頭はまともに働かないはずなのに、指先の感触だけが異様に鮮明になった。指先がなぞるのは、長く細い円筒。金属ともプラスチックともつかない、この不思議な質感は、まさか。
そんなはずはない、あれは家に置いてきたはずだ。微かな記憶が脳裏に浮かぶが、確かな感触がそれを否定する。
「どうした、早くしろ」
銃口の向こうで、男が苛立った声をあげた。小林はもうどうにでもなれとばかりに、ポケットの中のそれを握り込み、ゆっくりと引き抜く。そして、男に向かってまっすぐ突き出した。
「……なんだ、そのおもちゃは」
虚しく、何も起きない。
小林は向けていた視線を銃口から男の瞳へと移し、自嘲気味に笑って言った。
「最後にちょっと、ふざけてみたくなった」
男が舌打ちすると、トリガーにかけられた指先が僅かに動いた。
「舐めやがって。もういい、殺す」
乾いた発砲音が暗闇に鳴る。
それと、ほとんど同時だった。
空気を切り裂くような音が、発砲音をかき消すように大きく響く。ステッキから迸った閃光が、放たれた銃弾ごと男を貫き、両者を完全に消し去った。
「な、なんだ?……き、消えた?」
もう一人の追っ手が、さっきまで男がいた場所を凝視しながらそう言った。死体も、服も、そこには何一つ残っていない。
「何が起きた!音もなくいきなりいなくなったぞ!どうなってんだよ!!」
もう一人の追っ手が騒ぎ始めた。
「そ、そうだ!おい、お前が何かしたのか!なんとか言ったらどう……」
小林は彼にもステッキを向けた。
「なにしてる。ふざけ」
もう一度閃光が放たれる。
路地には、小林の荒い呼吸だけが残った。
しんと静まり返った辺りを見渡し、さらなる追っ手がいないか確認する。
「……助かった、のか」
人の気配は感じなかった。
「帰ろう。とにかく、一旦家に帰ろう」
小林は自分を説得するように言葉を発した。壁に手をついて、なんとか体を起こす。膝が震えるのを抑えながら、一歩ずつ足を動かした。
路地を抜けると、街は何事もなかったようにネオンを瞬かせ、人々のざわめきで溢れていた。視線を下げて、できるだけ自然に、その中に紛れようと努める。
背後から誰かに見られている気がして、何度も振り返りながら、小林は自宅の方向へとふらふら歩き続けた。
家に帰りついた小林は、ドアを閉めるやいなや、その場に背を預けて崩れ落ちた。暗がりに包まれた四畳一間を這いずるように進み、埃だらけの敷き布団へと倒れ込む。枕に顔を押し付けても、瞼の奥で消えないあの光が眩しかった。
「……二人を、殺したってことか」
震えた声でそう呟くと、自分のしたことを確かに実感した。少し前まで自分が殺されかけていたはずなのに、その時を遥かに凌駕する恐怖が小林を襲う。心臓が痛いほど打ち、体が震えた。そこそこの悪事は働いてきたつもりだったが、ここまで打ちのめされるとは、自分でも意外だった。
頭の中で、見知らぬ追っ手の顔が浮かんでは消え、彼らの家族や仲間の姿を勝手に想像してしまう。
もし自分が逆の立場なら。そう考えた瞬間、父親の死体が頭に浮かんだ。胃の奥から込み上げる吐き気に耐えきれず、洗面台に駆け込んで嘔吐する。蛇口を捻るが、水は出ない。袖で口を拭いながら鏡を見た。映っているのは、ひどく青ざめ、血の気を失った廃人の顔だ。
鏡の前で茫然と立ち尽くしていると、不意に玄関の方から「コン、コン」とノックの音がした。
小林は全身を硬直させる。追っ手か、警察か。どんどんうるさくなる鼓動の音と、ノック音の聞き分けがつかなくなる。
しばらく息を殺していると、ドア越しにくぐもった声がした。
「おい小林!いないのか!」
聞き覚えのある声だ。
「……先生。なんで、こんな時間に」
「いるのか!早く……、あ?」
ドアノブがガチャリと回った。建て付けの悪い扉が、ギーッと音を立てながら開く。
「お前、鍵閉めてねぇのかよ」
北浦は我が物顔で、ずけずけと部屋に入ってきた。そして、洗面台にいる小林の顔を覗き込み、ぎょっとしたように目を見開く。
「お前が死んでないか確認しにきたんだが、死人みたいな顔色してんじゃねぇか」
小林は視線を逸らし、微かな声で答えた。
「まだギリギリ死んでない。それより、死んでないか確認ってどういうことだ」
北浦はいつのまにか、勝手に布団の上に座っていた。
「さっき、松田が足を洗うらしいって噂がいきなり回ってきてな。すぐ奴に電話して、小林はどうしたって聞いたんだ。そうしたらあいつがたった一言『処分した』とだけ返してきやがってな」
北浦の言葉が、小林の心を重く打つ。
「足を洗う?それに……処分しただって?」
「そうだ。身を引くにあたって、いろいろと都合の悪いお前を消したがることは想像がつく。なにか心当たりはないのか」
割高な報酬と、今朝の不自然に丁寧な態度。思い返せば、最初から違和感はあった。ひどく回りくどいやり方だが、部下に手を汚させる価値もないということか。
「やられたな……」
見張りの数や位置が、すべて資料とは微妙に異なっていることに気付いたあの時点で、やはり退いておくべきだったのだ。落ち着いて考えれば、奴の過剰とも言えるブリーフィングの真意にも気づけていたはずだったのに。自分の短絡さに反吐が出る。
……いや、心のどこかでずっと、微かに感づいてはいたのだ。金に目が眩んで、違和感を無視し続けていた。いつのまにか、たった三十万で命すら投げ出すような人間に、成り果ててしまっていたというわけか。
「おい、大丈夫かよ」
その場で黙り込んでいた小林に、見かねた北浦が声をかけた。
「すまない。先生、少し一人で考えさせてくれ。頭の整理が追いつかない」
「ああそうかよ。なら好きなだけ考えてりゃあいい。ただし俺はまだ帰えらねぇぞ。お前が、ちょっと目を話した隙に死んじまってたら困るからな」
「死なないよ。もうだいぶ落ち着いてる」
すこし前まで、小林を完全に支配していた自責の念は、少しづつ薄れていっていた。
「俺は、自分の身を守っただけだ」
口に出してみると、その言葉は意外にも心にすっと馴染んだ。そうだ、あれはただの自衛だった。人は誰でも、自分の死を前にしたら抗うしかないはずだ。無数に浮かぶ言い訳を頭で繰り返すたび、心の重みがどんどん和らいでいく。
ふと、胸の奥に別の感情が湧いていることに気付いた。それは罪悪感どころか寧ろ、得体の知れない自信のようなものだった。小林はポケットを弄り、ステッキを握り込む。
小林はあの光を、自分を守ってくれる「力」だと感じ始めていた。銃を向けられても、生き残れる力がある。裏切られても、殺されずに済む力がある。
そして次の瞬間、頭に浮かんだのは金だった。三十万。あまりにも安すぎた命の値段。だがこのステッキさえあれば、もっと高く、あいつに自分の価値を売りつけられる。あいつからもっと、高い報酬を取ることができる。
「松田は今、どこにいるんだ」
小林は静かに言った。
「明日には出るらしいが、まだあのマンションにいるはずだ」
このまま生き延びたところで、どうせどこかでのたれ死ぬだけだ。それならまだ、「自衛」をする必要がある。小林は深く息を吐き、不気味な笑顔を浮かべた。
「莫大な報酬が約束された仕事に、心当たりがあるんだ」
その言葉に、北浦の目が丸くなる。
「……は?どうしたんだ急に」
「その仕事を、あいつのところに受けにいく」
小林は勢いよくドアを開け放った。
「ちょ、ちょっと待て。言っている意味がわからない。頭がおかしくなっちまったのか?」
「……そうだよ」
小林は返事も待たず、松田の部屋に向かって駆け出した。
扉の前に立った瞬間、小林は自分の口角が無意識に上がっているのに気付いた。根拠のない期待と興奮が、彼の全身を奮い立たせている。勢いに任せて、ドアノブを捻った。
「――誰だ」
奥から、警戒心たっぷりの声が聞こえる。いつも通り、鍵はかかっていなかった。そのままゆっくりとドアを引き、中に入る。
「戸締りには気をつけろよ。幽霊が入ってくるかもしれないからな」
「――ッッお前!?」
いつものソファに座っていた松田は、化け物でも見たかのように目を見開いた。
「事情は聞いてる。面倒な部下を処分したんだって?」
「そのはずだったんだよ!たった今まで!!」
松田は立ち上がり、声を裏返しながら叫んだ。
「焦りすぎじゃ無いのか?俺が生きてる可能性は考えなかったのかよ」
「『侵入者を一人捕捉』って、確かに連絡があったんだ!お前以外あり得ないだろうが!」
「なるほど。殺したとは言っていないようだが」
「仕留め損ないやがったのかよ!クソッ!」
松田は小林から目を離さないようにしながら、キッチンの包丁を掴んだ。
「俺に復讐する気か!言っとくが、お前に俺は殺せねぇぞ……!」
「落ち着けよ。俺はただ、仕事を一つ受けにきたんだ」
松田の手がわずかに震えるのを、小林は冷静に見下ろした。LEDの光を、包丁がキラリと反射する。
「仕事だと?」
「少し前、俺の借金なんて全て吹っ飛ぶくらいの、でかい金が手に入る仕事があるって言ってただろ。それを受けにきた」
「……お前イカれたのか?俺はお前は裏切ったんだぞ?それで俺は、後腐れなく足を洗うところだったんだ!」
「承知の上だ。大金の前では、自分なんていくらでも曲げられるのがお前だろ」
小林は松田の瞳を、まっすぐ見つめながらそう言った。
「あの時は、俺だって冗談半分で言ったんだ。確かに報酬は多いが、殺しの仕事だぞ?お前にできるわけが……」
「奴らの連絡網を盗聴していたんだろ?『侵入者を一人補足』意外に、何か情報は聞きとれなかったのか」
小林は食い気味に言った。
「と、特に何もなかったはずだ。確か二人、い 見張りがバックれたとは聞いたが……」
「そいつらは俺が殺した」
一瞬、時が止まったように沈黙が流れた。
「なっ……何……」
「俺は死体も残さずに人を殺せる。信用できないなら、お前の指定した人間を今から消してきてやってもいい。どうだ、最後にひと稼ぎ、したくないのか?」
小林が問いかけると、松田はしばらく黙り込み、小林と視線を合わせた。
「……その目、嘘はついてねぇみたいだな」
松田は一つ息を吐き、持っていた包丁を元に戻す。そして、今度は大きく息を吸いこんだ。
「ふふ……くくくっ……!」
松田は、小林に支配されていた場の空気を、取り返すように笑った。
「面白え!やってやるよ!最後にひと花火あげてやるのも悪くねえ!」
部屋中が、一瞬にしていつもの雰囲気に戻った。小林もニヤリと笑う。
「で、仕事の詳細は?」
「一回しか言わないからよく聞けよ。もう期限が迫ってんだ」
松田はまた、いつものソファに深く座り直した。
「とあるデケェ組織を、裏切って勝手に抜けた奴がいる。その、三谷っていう男を殺す仕事だ」
「その組織からの依頼か?」
「いや、そこそこ上のポストの奴だったんで、組織からは見逃されてる。むかし三谷に両親を殺された、とある金持ちからの依頼さ。子供の頃に一人に残され、そっから努力で成り上がったらしいが、せっかく金の使い方がこれとはな」
松田は嘲るように笑った。
「余計なことを喋るな。そいつはどこにいるんだ?」
「これを見ろ」
松田は標的の顔写真を手渡した。ガタイのいい男が写された裏には、「東京都〇〇区〇〇町〇〇……」という細かい住所と、家の特徴が書いてある。
「具体的な報酬は?」
「お前には……そうだな、五百万やるよ。借金も何もかも含めて、この金でお前と俺の関係は全部終わりだ。いいな」
「ああ、構わない」
小林は短く答え、紙切れをポケットにしまい込んだ。声は落ち着いていたが、内心では五百万という額がじわりと重く響いていた。失敗を活かし、なるべく冷静を保とうと努める。
「今は……深夜一時半か。なるべく急げよ。明日、いや今日を逃せば、三谷は海外に逃げちまう」
「任せておけ」
「大した自信だな。寸前でビビって逃げたら許さねぇぞ。部下に見張らせておくからな」
小林は返事をせず、ただ小さく頷いた。
「ここです」
小林はタクシーの運転手にそう告げ、モニターに映る料金を支払った。降り立ったのは、東京のはずれの住宅街。
時刻は午前三過ぎ。まだ夜の色が残り、辺りはしんと静まり返っていた。
ポケット中の紙切れを確かめる。そこに記された特徴が、向こうに見える二階建ての大きな一軒家と一致した。
小林は少し離れた、監視カメラに映らない生け垣の影に身を沈める。松田が連絡用に渡してきた携帯をとりだし、耳に当てた。
「ついたぞ」
「おう、早かったな」
携帯の向こう、松田のくぐもった声が返った。
「標的が家を出るまで、近くで待機してる」
「了解。手段は任せるが、しくじるなよ。相手も素人じゃない。あと、お前が警察に捕まっても、こっちは助けねぇからな」
「わかってる。大丈夫だ」
二番目に殺した、追っ手の男の反応を思い出す。銃を持つ男を殺した時、彼は「いきなり消えた」というような反応していた。恐らく、ステッキの光や音は、自分にしか知覚できないのだろう。ならば尚更、ばれようがない。
「……そうだ。一つ言い忘れていたことがある」
「なんだ?」
「三谷は妻と息子との三人暮らしなんだが、三谷と妻だけを殺せ。依頼主は標的の息子に、自分と同じ気持ちを味合わせてやりたいらしい」
「……お前、それわざと隠してたろ」
「なんだ、やめんのか?」
「クソッ……、やめねぇよ」
小林は苛立ちに任せて電話を切った。ブレるな、今更引けない。携帯をポケットに押し込み、深く息を吐いた。
物影に身を沈めながら、標的の家をじっと見張り続ける。時折、新聞配達のバイク通り過ぎたので、不自然に見えないように努めた。カラスの鳴き声が朝を告げ、やがて住宅街の窓々に灯りが点り始める。
――六時半。
標的の家から子供の笑い声が聞こえた。カーテン越しに、人が慌ただしく動く影が見える。
七時を回ると、玄関の扉が大きく開いた。
標的の男、妻、そして小学生くらいの子供。三人が並んで出てきた。男と、妻の手には大きなキャリーケース。子供は小さなリュックサックを背負っている。
小林はポケットからステッキを取り出した。自分を奮い立たせる言葉を頭に並べる。
行け、足を動かせ、今しかない。ここで片を付ければ、まともに戻れる。
歯を食いしばり、物陰から一歩踏み出しかけた。その時、子供の声が奥で弾ける。
「パパ、早くしてー!」
高く澄んだ声に、小林の足が止まった。
三谷は「はいはい」と応じ、トランクに荷物を積み終えると、子供を高く抱き上げた。その幸せそうな顔は、写真に映る悪人顔とは、少し雰囲気が違って見える。ただ、少し寝癖のついた髪で、子供に急かされる普通の父親だった。
小林は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
やめろ、余計なことを思い出すな!ここを逃せばお前はもう変われない!冷静になるな!早く行け!殺せ!
自分に似た誰かが、心の中で必死に何か言っている。その声がだんだん大きくなって、自分の声との区別がつかなくなっていった。
「……行こう」
小林は物陰を出て、標的に向かって歩き出した。ステッキをしっかりと握り込み、一歩一歩確実に歩を進める。
――あと十歩。全て終わらせる。
その時、父親に抱かれた子供と、ふと目があった。
朝日を浴びたその顔はまだ、汚い闇を一つも知らない。恐ろしいほどに無邪気だ。
「おはようございます!」
子供は、少し早口で言った。抑揚は確かにあるのに、教科書を読み上げているかのような、妙なぎこちなさを孕んでいる。だがその拙さこそが、小林の心にとどめを刺した。
「幸せになれ」
あの言葉が、父親の声で再生される。小林は息を飲み、喉を詰まらせた。ステッキを握る手から、すっと力が抜け落ちる。
「あ、おはようございます。……どうしました?」
三谷は立ち尽くす小林を見て、困惑と心配の入り混じった声色でそう言った。
「……なんでもないです」
小林はぎこちない笑顔を見せて、そう返した。子供の声で会心とは、ベタな話だと自嘲する。
「あの、どうかお気をつけて」
なんとか言葉を絞り出して、そのまま後ろを振り返る。気づいたら、体が勝手に走り始めていた。
「ちょっと!何か落としましたよ!」
呼び止める男の声は、小林には届かなかった。もう何も考えないよう、ひたすら足を前に進めていく。
靴底でアスファルトを叩く感覚や、背中にツーっと汗が伝う感触、それだけに集中する。今日は、心が疲れた。何も考えないためには、体を疲れさせるのが一番いい。
ただ前だけを見て走っていた小林は、不意に、道の先に立つ大きな影に気づいて足を止めた。朝焼けに逆光を受けたその男は、ポケットに両手を突っ込み、膝に手をつく小林を見下ろしている。
「……おい」
低く抑えた声。聞き覚えのある響きが、小林の耳を通過した。
「五百万だぞ。借金もチャラにしてやるって言ったよな。……それで逃げるのか? 今度はお前が俺を裏切るのか?」
睨みつける松田の瞳には、怒りだけでなく、どこか怯えのような影が宿っていた。
「なんでお前がここにいるんだよ。部下はどうした?」
小林の言葉を聞くと、松田は一瞬だけ目を泳がせた。
「……仕事中だ。お前みたいなクソガキにかまってる暇はねぇんだよ!」
「は?一体何を言って……」
「うるせぇよ腰抜け野郎が!お前を信用した俺が馬鹿だった!クソッ!」
松田は声を荒げ、拳を握りしめて地面を叩きつけるように地団駄を踏んだ。その様子は、まだ小学生の子供よりも数段ガキらしく思える。
そんな松田を見ていると、小林の中に一つ浮かんでいた疑惑が、確信へと変わった。
「……もしかしてお前、最初っから部下なんて一人もいなかったんじゃないのか?」
胸の奥で、硬く絡みついた鎖が外れるような感覚がした。肩から力が抜け、体が軽くなり、視界がパッと全方位に開ける。その中央には、松田が随分と小さく映っていた。
「ち、違……」
「それなら、これまでの違和感にも合点がいく。お前は最初から、大した力も地位も持っていなかったんだ。ずっと、俺たちを威勢だけで脅して、洗脳していたわけだ。違うか?」
金も、仕事も、居場所も、この男の下にしかないと信じ込まされていた。だからこそ、あの時だって復讐など思いもせず、他の道を探すことすらなく、ただ当然のように松田の下で仕事を受けることしか考えられなかったのだ。
「……お、お前らが、簡単に騙されるような馬鹿だったからだろうが!」
「否定はしないさ。仕事で大損失を生んだばかりの、余裕のない父子家庭の父親。親を亡くしたばかりの、世間を知らないガキ。付け入るのは簡単だっただろうな」
小林は、黙って松田を見つめた。
「それも、今日で全部終わりだ。俺たちのことは忘れて、勝手に足を洗えばいい。俺も勝手に生きていくことにした」
視線の高さは変わらないはずなのに、見下ろしているような錯覚すら覚えた。
「最後に少し、いいか」
小林は松田にゆっくり近づいた。
「は?なんだよクソ野ろ……」
――バキッ
小林の拳が松田の顎をとらえた。硬い衝撃が骨を通して腕に返ってくる。松田の体がぐらりと揺れ、地面に片膝をついた。
「別れの挨拶だ。それじゃあ」
小林は松田を横切って、道の先へ向かって歩き始めた。
「……てめぇ……!」
悪寒を感じ振り返ると、松田の手にはナイフが握られていた。
「底辺のクズが!俺を弄びやがって!」
怒鳴り声とも、泣き声ともつかない声を上げながら、松田がこちらに突っ込んできている。
銀の刃が、朝日を反射しながら軌跡を描く。踏み込みは荒く、しかし迷いのない速さだった。
後ろに逃げ出しても、初速を狩られる。上手く躱すか、反撃するしかない。小林はナイフの軌道を見据え、構える。だがその刃が、小林の元に届くことはなかった。
「……え?」
松田の姿が、視界から急に消え去ったのだ。驚いて周囲を見渡すと、目の前から人影が近づいてきていた。
細身の、小さな人影だった。左手には何か細長いものが握られている。よく見ると、右手首から先が欠けているのが分かった。
「おはよう。お兄さん」
小林の喉がひとりでに鳴る。
「君は……。あ、あの時の……?」
少女はにっこりと笑った。その笑みは、子どものものにしてはどこか冷ややかで、同時に大人びてもいた。
「生きていたのか!怪我は大丈夫なのか?昨日だってあんなに血が出て……」
「私の代わりなんていくらでもいるのに、そんなに心配しなくても。そんなことより、もっと気になることがあるでしょ」
「……な、なんでこんな所に?」
「ずっと後をつけてたんだ。このステッキをお兄さんが手放すまで」
少女は理論整然と言った。
「なんでわざわざそんなこと。言ってくれればすぐに返したのに」
「出来ないんだよ、それが。こいつはお兄さんを相当気に入っていたみたいでね。お兄さんが自分で手放さない限り、お兄さんにくっついて離れないんだ」
少女はステッキを、手元でクルクルと回した。
「……そ、そうなんだ」
「まあ、お兄さんみたいな一般人がこれを長く使うと、ステッキに自我を乗っ取られちゃうんだけどね。思考が攻撃的で、短絡的になっていく自覚があったでしょ?」
「へ、へぇ……」
何も理解できていないが、とりあえず相槌は打った。
「それより、色々気になることはあるんだけど。……でもたぶん俺は、あまり知らない方がいいんだろうな」
「その通り!お仕事柄、そういう勘はいいみたいだね」
「……まあとにかく、さっきは助けてくれてありがとう」
「その感謝なら、私は受け取れないよ。余計なことを知っちゃったお兄さんを消そうとして、手元が狂ったってだけだから」
小林の顔がいっきに青ざめる。それを見て、少女は吹き出すように笑った。
「ふふふっ……。冗談だよ!ただのささやかな恩返し」
「……わかりやすい脅しだ。誰かに言う気なんてハナからないよ」
無邪気に笑う少女を見て、小林はたじろいだ。
「それじゃあ、私はもういくね。お兄さんも気をつけて帰りなよ」
少女はいきなり振り返って、軽い足取りで歩き始めた。
「え、あ、ちょっと!」
あまりに唐突だったので、思わず呼び止めてしまった。
「ん?なに?」
よく考えれば、特別言いたいこともない。勢いのままに、頭の中の言葉をそのまま声に出した。
「あの……。変なことを聞くようだけど、俺は、これからどうしたらいいと思う?」
少女は一瞬キョトンとした顔を見せた後、にっこりと笑って言った。
「そんなの、お兄さんの好きにすれば。わたしと違って、お兄さんは自由なんだからさ」
瞬きすると、少女はもうその場にはいなかった。
「わたしと違って……」
遺された言葉の真意など、彼には知る必要のないことだ。自分の好きなように、勝手に受け取ればいい。今までだってそうしてきた。
小林はしばらく立ち尽くしたのち、ポケットに手を突っ込み、足を引きずるようにして歩き始めた。どこへ向かうわけでもなく、ただ、好きに歩き回った。
街はもう、早朝から朝に変わっていた。街全体を生活の気配が包み込んでいる。
ぼーっと歩いていると、ふと、鼻先をくすぐる匂いが漂ってきた。煮込まれたスープの濃い香りだ。空っぽの胃袋が勝手に軋む。吸い寄せられるように歩みを進めた。
ここだ、白い文字で「ラーメン」とだけ書かれている。戸口に立つと、暖簾がかすかに揺れて、奥から食器の触れ合う音と、明るいざわめきが聞こえてきた。
「朝ラーメン。世界一の贅沢だな」
小林は小さく呟くと、引き戸にそっと手をかけた。
アンチェインマイハート 新谷 @shintani
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