100階より暗い場所
エレベーターが鳴く。モニターが650階を示している。
重厚そうなドアが開く。若干の空気が流入してきたのが分かった。
鼻に突き刺すエタノール臭さがこの階層を物語っている。それが喜劇か惨劇かは想像に難くないだろう。
塗装が剥げて、コンクリートが剥き出しになっている壁は、目に全くと言っていいほど優しくない色使いを呈している。ネオンサインが反射しているのだ。まさに、人間の欲求が詰め込まれた階層だ。
この惨劇(ここで過ごしている人からしてみれば喜劇なのだろうが)を見ていると、905階の様相を思い出す。
――――――
そこには白を基調とした通路が広がっていた。最低限の装飾が壁の色をより際立たせていた。だが、只々無機質な訳ではなく、機能美である。そんなことがよく分かる作りとなっていた。
……額に飾られた数多の広報に目をやらなければの話だが。
どうやらこの階には、大きなコンサートホールがあるらしい。少し歩いてみると、いかにもな扉が姿を表した。それの反対側には数多のエレベーターがあった。
ありとあらゆる防音技術を詰め込んだのかと思わせるほどに、その通路は静かだった。ただ、どうしても漏れ出てしまうものはあるようで、耳を澄ましてみるとなにかが聞こえてくる。
『――世迷い言も全部丸ごと そう……苦節の女子の癖強story♬――』
危うく聴き入りかけていた自分を律し、エレベーターへと戻っていく。
――――――
まるで650階の惨劇から逃げるように、エレベーターの100階を押して扉を閉める。未だに、強烈なエタノール臭さが鼻の奥に渦巻いている。それだけで酔いが回りそうである。
何度も人が乗り降りしていく。時には荷物でいっぱいいっぱいになったり、時には変な人間に絡まれたり、様々だった。まるで、ある種の映像作品を体験しているような、そんな気分だった。目的の階まで降りる頃には、疲れ果てて冒険どころではなくなっているかもしれない。
100階に来た。寂れている。通路は闇のように暗い。
いや、寝静まっているだけなのだろう。時間帯的にもそうなのだろう。
通路の最奥を凝視する。どうも不安になる。謎の影によって心臓を抜き取られそうに思えてくる。足が竦んで動けない。
立ち止まっていても仕方ないと自分を奮い立たせ、その闇を突き進む。右手の壁に手を添えながら。
妙に粉っぽいような埃っぽいような、そんな壁を伝っていく。深くに進めば進むほど、後戻りができなくなる感覚に陥る。手に伝わる表札の彫りのみが、自分を恐怖から連れ戻してくれる。手をすべらせる事のできる、プラスチックか陶磁器か、はたまた高級な石材だろうか。あまり素手で触るのはよろしくない事だろうが、今回ばかりは許してほしい。恐怖でどうにかなってしまいそうなのだ。
鼓動がうるさい。今ならどんなに小さな脅かしでも120点を超えるような回答ができるだろう。もしこれがバラエティ番組なら、視聴率7割は堅いだろう。
目の前には鉄の扉があった。いわゆる丹塗り、などと呼ばれるものだろうか。どことなく威圧感を感じる。そして、あからさまに重厚なものであった。施錠はない。不思議と取っ手には埃が積もっていなかった。忌み嫌われているという噂は本当なのだろうか。
扉の右にぶら下がっている懐中電灯をありがたく思いながら手に取り、ざらついたゴムのボタンを押下する。思ったより光が強く、目頭が少し痛んでしまう。暗闇に目が慣れていた、ということもあるのだろう。
丹塗りの重い扉を無理やり押しのけ、その先を光で照らす。
金属でできた階段があった。手すりは胸のあたりまであったが、ほとんどが錆びついていて、とてもじゃないが身を任せられるような代物ではなかった。ただ、階段部分はそこまで錆びついている訳ではなく、まだまだ階段として使えそうに見えた。
なんだか、目の前に広がる闇の段々が螺旋階段のように見えたため、恐る恐る手すりから身体を乗り出して下を照らす。
扉の枠はいくつも見えるが、部屋が埋められているのだろう。取ってつけたようなコンクリートが枠の中を占領していた。それの左隣に、表札のような白い板があるのをみた。
扉を無理やり閉めて、その四角い螺旋を下っていく。
傾斜が急な階段はどうしても足を滑らせてしまいそうで、無意識的に手すりを掴んでしまう。手が錆びついてしまった。思わず手を掻いてしまい、爪の中にまで錆が広がってしまった。
未だに風景が変わらない。ただひたすら下っている。段々と目が回ってきた。
靴が鉄に当たって甲高く鳴いている。それしか音がしない。心なしか、懐中電灯の元気が無くなってきた気がする。
今ここが何階かは分からないが、ようやく明確な変化を得た。
光が闇に吸われていく。ただ、それは決して恐怖や怪異などの類ではない。赤く錆びたドアの枠の内側にて起こっている事象だからだ。
それの左隣を照らす。パールホワイトの板に『31:廃住居層』と黒く掘られていた。近くで見てみると、少しひび割れているうえに周りが黄ばんでいた。周囲の無機質なコンクリートにそれは打ち付けられている。よく見ると、固まった壁の塗装が、少しだけ顔を覗かせていた。
私もその闇へと吸い込まれていく。好奇心の暴走を感じながら、休息を取れる場所を探るために。
辺りを照らしながら探索を始める。
乱雑に捨て置かれたテーブルが6つ。規則正しく並んだ普通の本棚が4つ。それらが懐中電灯によって照らされていた。
その本棚には、付箋まみれの紙が詰まっていた。詳しく見てみても、美術に建築、コンピューター……自身の専門外な話ばかりだった。
テーブルの方にも目をやると、何か紙束が置かれていた。それを拾い上げて目を通してみる――――
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