「刀には竜、花は咲かず」外伝:花の卷
アサバハヤト
第〇章 花の卷 小槻瑚依、アイドルになる!
0-00 北国の少女
あたし?
平成十二年七月二日、北海道・倶知安町の生まれ。いわゆる、不自由なんて感じたこともない、裕福な家庭で育った。姉の小槻神音――かのんとは4つ離れている。どうしてそんなに差があるのかって?
理由のひとつは父だ。父は外資系の巨大な電子機器メーカーに勤め、世界の上位に名を連ねるその企業で役員をしていた。広州の大規模工場の管理を任され、中国と日本を行き来する生活を送っていた。
母はといえば、結婚前は小学校の先生。けれど、結婚を機に専業主婦へと転じた。両親は「田舎よりもよい教育環境を」と願い、札幌市北区に一軒家を構えた。倶知安の豪奢な屋敷は祖父母がそのまま住み継いでいる。
――え?引っ越し先の住所をもっと詳しく?冗談じゃない。そこまでおおっぴらに言えるわけないでしょう、何考えてるのよ。
でもね、あの倶知安の家から見える羊蹄山の姿は今でも鮮烈に胸に焼きついている。蝦夷富士と呼ばれるその稜線は、四季を通して姿を変えながらも、いつも毅然とそこにあった。お盆休みに帰省すれば、わざわざ足を延ばして眺めに行く。それほどまでに、あたしにとっては美しい原風景なんだ。
姉と私の四歳差にはもうひとつ理由がある。神音が生まれて間もなく、心室中隔欠損という病を抱えていることがわかったのだ。心臓に穴がある病気で、幼稚園に上がる前に手術が必要だと告げられた。でも母は悩んだ末、手術は見送り、定期的な検査で経過を観察することを選んだ。
そのため、両親は二人目を授かることに慎重になっていた。けれど幸い病状は悪化せず、その間にあたしが生まれた。姉は小学校に上がる頃には検査も年一度になり、小学四年のときには「自然に穴が塞がったようだ」と告げられた。あとは「顔色が悪くなったら来てください」と言われただけ。あの時、あたしはまだ小学一年生で、姉の笑顔と母の安堵を、子供心ながらに覚えている。
それからの姉はすっかり元気になり、病院に足を運ぶこともなくなった。
あたしの記憶の中の神音は、天真爛漫で天然、そしてとびきりマイペースな人だった。人に迷惑をかけても悪びれもせず、「あら、誰がこんなことを」なんてとぼける。家でも学校でもトラブルメーカーで、その後始末は母が怒鳴り散らすのがお決まりの光景。
一方のあたしは真逆だった。おとなしく、怖がりで、泣き虫。運動も苦手で要領も悪く、小学校では格好のいじめの標的になった。
でも――そんな時、いつだって姉が盾になってくれた。
神音は強気で、どんな相手にも一歩も退かなかった。喧嘩が強いとかそういうことじゃない。彼女の強さは「自分のペースを崩さないこと」にあった。挑発を受けても揺るがず、むしろ相手が自滅するのを待つような構え。それが姉の“勝ち方”だった。
忘れられない出来事がある。冬のある日、同級生の山村という子が、背後から雪をかき集め、あたしの首元に押し込んできた。あまりの冷たさに飛び上がり、泣きそうになったあたしを、山村は拍手してからかって笑った。
そのとき、姉は彼の頭にもっと大きな雪の塊を押しつけ、あたしの手を取って逃げた。やっと立ち上がった山村の前には、校門で子どもたちに声をかけていた校長先生が、姉の密告を受けて立ちはだかっていた。山村は泣きながら「自分も被害者だ」と訴えたけれど、証拠はなく、結局は罰を受けるしかなかった。
小さなあたしの目には、その背中がひどく大きく、眩しく映っていた。
「もう、瑚依ったら。本当に泣き虫なんだから」
「だって……」
「いい?つらい時こそ笑うの。それが勝つためのコツ」
「無理だよ。あたし、姉ちゃんみたいに強くない」
「違うよ、瑚依。強いとか弱いとかじゃなくて――勇気を示すのが大事なんだ」
「勇気……?」
「そう。世の中のことなんてね、思い切ってやってみたら、たいていはどうにかなるものなんだよ!」
姉はいつも軽快なフットワークで、普通なら「絶対やらない」と言われることも臆さず挑んだ。時に既成概念を壊し、時に大失敗をしでかした。情報もろくに集めず突っ走り、止める声を振り切り、地獄絵図を生むこともしばしばだった。
たとえば――積もった雪にいちごジャムをかけて食べ、お腹を壊して救急車で運ばれたこともあった。母にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。
けれど、そんな失敗さえも糧に変え、彼女は成長していった。その奔放さを「いつか取り返しのつかないことをしでかすのでは」と母は案じ続けたけれど。
「誰に似たのかしら、この子は」――母の口癖だった。
「まあまあ、元気が一番だろう。挑戦するくらいでちょうどいい」――父は笑って受け流した。
「あなたが甘やかすから!」――母は苛立ちを隠さず父を責めた。
その光景を、あたしは物陰から息を潜めて見ていた。
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