花天月地【第81話 鳳凰の影】

七海ポルカ

第1話




 書をしていた瑠璃るりは顔を上げた。


 花びらのように柔らかく、雪が散っている。

 立ち上がって窓辺に立つ。

 許都きょとの頂に近いここからは、都から平原の先まで見通せる。


 

「瑠璃殿」



 振り返ると曹娟そうけんがやって来た。


「雪が降り始めました。

 そこは寒いでしょう。

 もっと奥へ。

 お茶を淹れます」


 瑠璃は一礼し、曹娟が招いた暖炉の側に向かった。


「今、離宮から報せが。

 奥方様は春までこちらには戻られないそうです」


 湯気の出るお茶を淹れながら曹娟が言った。

 数日のうちに甄宓しんふつが戻る予定だったのだ。


「それは……残念にございますね」


 甄宓が戻るからと部屋の隅々まで丁寧に整えていた曹娟を知っていたので、気遣って瑠璃はそう言ったが、曹娟は穏やかに笑った。


「それがそうでもないのですよ」

「……?」

 小首を傾げた瑠璃るりに、曹娟そうけんが淹れた茶を勧めて目を向けた。


「奥方様はご懐妊なさっているそうです。

 春が過ぎた、初夏の頃ご出産ではないかと宮廷医が言ったそうで……」


「まあ」


 瑠璃は目を輝かせる。


「おめでとうございます」


 すぐに彼女は身を整え、深く曹娟に頭を下げた。

 曹娟はくす、と笑う。

「ありがとう。でも私は何もしていませんわ」

「王家の吉事でございますね」

「離宮はこことは目と鼻の先ですけれど、何か大事があってはいけないと、この冬は奥方様は離宮で過ごされることに決まったそうですわ」

「そうでしたか」


「長い滞在になりそうなので私にも離宮に来るよう、仰って下さいました。

 文で貴方のことを書きましたよ。

 殿下がご滞在とはいえ今はご多忙なので、奥方様は刺繍をしておられるそうです。

 手伝ってくれる娘が欲しかったと喜んで下さいました。

 三日後、一緒に離宮に行きましょう」


「私などが行ってもよろしいのでしょうか?」


 少し緊張したように瑠璃は言ったが、曹娟は頷く。


「瑠璃殿は立派な豪族の令嬢としての躾けを受けて来た方ではありませんけれど、こうしてしばらく一緒に過ごして、そこにいらっしゃる雰囲気や、頼んだ仕事を選り好みせず丁寧になさること、人に対する受け答えはしっかりしていらっしゃいますが、大らかな人柄が言葉に伴っていらっしゃることが分かりました。

 宮廷でも教えを受けずして、そのように振る舞える者は少ないのです。

 私は自分の心より奥方様の好みが分かります。

 大丈夫。貴方は奥方さまの気に入る方ですわ」


 瑠璃は誉められ、僅かに頬を色づかせた。


「……恐れ入ります。そのように言っていただけて……でもとても嬉しいです」


 彼女はそう言って、温かいお茶を飲んだ。

 曹娟そうけんの淹れるお茶は本当にいつ飲んでも美味しい。

 朝、昼、夕、それに瑠璃が少し眠れずに時間を潰しているような夜にも時々訪ねて来て淹れてくれた。

 いつも美味しいのに、いつも何か、時間帯で違う気がするのだ。

 温度や選ぶ茶葉、それを変化させているのは分かるのだが、何故適当な具合が分かるのかが不思議だった。


 しかし自分も郭嘉が戻って来たら、家で彼が寛いでる時くらいこんなお茶が淹れられるようになりたくて、曹娟のお茶を貰う時は自分でもちゃんと味わって、意識して飲むようにしていた。


「良いご両親をお持ちなのでしょう。

 瑠璃殿、これはご家族と相談なさってから決めていただいていいことなのですけれど。

 貴方は郭嘉殿が帰還されるまでここでお預かりするという話でしたが、その先も甄宓しんふつ様にお仕えするつもりはありませんか?」


「えっ」


 瑠璃は驚いたようだが、戸惑いなどは無かった。


「ご自分がどのように生きたいか、お考えになっていることがありますか?」

 

 瑠璃るりは慌てて首を振る。

 瑠璃を引き取った今の養父母は、家柄は中流だ。

 父は役人だが大役ではない。

 母は弟達の面倒を見ながらも、街の娘達に琴を教えたりしている。

 

 郭家も、郭嘉かくかが異質に曹操の側で重用されているが、それでも彼に言わせると豪族だが名門ではないらしい。


 家の格というものが瑠璃にはあまり分からなかった。

 彼女から言わせると、側室の娘として生まれた瑠璃を厳格に家に入れないようにしている郭嘉の父も、郭家も、随分立派な家柄に思えるし、

 その彼らがそんなに立派でないとしたら、それこそ曹魏において名門と言われる荀家や、夏侯家、司馬家、曹家など、一体どんな世界なのだと彼女は思うのである。


 しかし家柄を越えて自分のような取るに足らない身分の娘に、親切にしてくれる人々がいる。


 郭嘉もそうだし、郭嘉が瑠璃を養女にと頼んだのは同僚だった荀彧じゅんいくだったらしい。

 彼の知り合いが瑠璃の養父母なのだ。


 そういう曹娟そうけんも、曹丕そうひ従妹いとこである。

 曹丕などは次期皇帝と言われる立場だ。


 その人の従妹など、とんでもない身分だと瑠璃は思うのに、曹娟は突然転がり込んだような自分に親切にしてくれ、郭家でも下働きのような扱いを受けた彼女に、こうして自分の手で茶を淹れて話し相手になってくれたりと、まるで妹のように接してくれた。

 甄宓しんふつも会ったことはないが絶世の美女とされ、名門の出だというのに自分などを側で使ってくれるという。


 家柄を笠に着る人間もいれば、

 全く着ない人間もいる。

 

 家柄とは何なのだろうと不思議に思った。


「私は娘なので……出来る限り良い方に巡り会い、両親が縁談をまとめてくれればとはぼんやり思っていましたが……。自分の人生についてあまり考えたことがありませんでした。

 でも母は家のことをしながらも、街の娘達に楽を教え『先生』と呼ばれています。

 その姿は我が母ながら、いいなと思うことはあるのですが……」


 曹娟そうけんは頷く。


「瑠璃殿は学ぶ事がお好きなご様子です。楽もお上手ですし、書も、絵もお出来になる。

 続けて行くことは素晴らしいと思いますよ」


「ありがとうございます。でも……私がそういう手習いを始めたのは、本当に今の両親の元に引き取られ、郭嘉様にお会いしてからなのです。

 それまでは家の手伝いはしましたが、手習いはしたことがありませんでした。

 郭嘉様が会うたびに楽も書も、絵も教えて下さるので楽しくて」


「上達が早い、利発な質でいらっしゃるのだと思います。

 郭嘉様もそのような方だったと聞きますよ」


「とんでもありません。私は郭嘉様の才覚などに通じてはおりません」


 瑠璃は慌てて首を振った。

 彼女は謙遜したが、瑠璃は確かに郭嘉の異母妹でも、幼い頃から共に過ごして来たわけではなく、前の家でも不遇だったというため大した教育など受けていない。

 十二、三頃から学び始めたということだ。

 名門の娘ならば幼い頃より手習いをし、それがようやく板について、親がさてこれならばどこかの家にと考え出す頃だ。


 瑠璃はその頃から学び始めたのに、すでに多才なところがある。


 曹娟は涼州遠征が始まる前にここへやって来た郭嘉を思い出した。

 彼のことは話では勿論知っていたが、会って話すのは初めてだった。

 曹操の許で重用される、早熟の天才。

 そして軍事や政治で評価される怜悧な才能の印象とは裏腹に、

 不思議と私生活は浮ついた噂に事欠かず、

 想像力の乏しい曹娟そうけんは、全く会うまで郭嘉という人間像が掴めなかった。


 会った印象は。


 実は「思ったより普通だった」という気持ちなのである。

 これは曹家の娘で、普段曹丕や甄宓しんふつという非凡な人間の側に生きて来た彼女ならではの感覚だった。

 

 噂が凄すぎて、一体どんな人物なのかと端から警戒しすぎていたものだから、確かに噂通りの端正な貴公子だったのだが、宮廷人のようだったので曹操や曹丕の圧を知る彼女は呆気に取られたのだ。


 しかしそういう、意外に普通だなと思った郭嘉が、思いがけず異母妹を随分大切にしていることを感じ取った時、曹娟は初めて郭嘉に興味を持った。

 額面通りの人物ではないと思ったのは、瑠璃を自分に委ねたからだ。



(名門の人間も、才ある人間も、普通は自分の縁の薄い親族になど構わないものだ)



 曹娟そうけんは十二で曹家の娘として名門に嫁いだ。

 まだ幼かったし顔に大きく火傷のある彼女は、形式は整えられたが、迎えた家の者も、夫でさえ少しも嬉しそうに迎えなかった。

 普通、曹家の娘ならばどんな器量でも大事に扱われるものだが、その家の場合こんな曹娟が曹家でも厄介払いをされた娘なのは十分分かったのだろう。

 曹家といえども、こんな娘を引き取ってやったのだからと平然と彼女を雑に扱った。


 夫と寝たのは儀礼的な意味がある初夜だけで、

 あんな醜い顔の女との閨など御免だと一度だけで夫は彼女を投げ出し、早々に夫には妾が出来た。

 挨拶に来る妾達は、「正妻様」と言葉ではそう言ったが、曹娟を見る目はいつも勝ち誇って、見下し嗤っていたのである。


 

 曹家でも嫁ぎ先でも邪険にされて生きて来た曹娟は、

 郭嘉が瑠璃に気遣いを見せた時、一番気を引かれた。


 彼のことをあまり知らないが、異母妹を気遣う素振りは嘘ではなかった気がする。


 郭嘉はこの先、瑠璃るりをどのように過ごさせるつもりなのだろう?


 勿論、郭家とは縁を切ったも同然なのだから、今更良い両親に引き取られた彼女に関わらないようにしても、それは別に薄情とは違うものなのだが……。



「いつか私も、嫁ぐのでしょうか……?」



 幸せな少女時代を送っていない瑠璃は悲しみより、少し不思議そうに呟いた。

 甄宓しんふつに重用されることで、初めて自分という人間の価値を肯定出来るようになった曹娟は、その呟きに優しく笑んだ。


 もしあの時、曹丕そうひが自分を甄宓の側仕えとしてあの家から引き戻してくれなかったら。

 

 今のこの幸せな暮らしも、自分という人間も一生好きになれなかったと思う。


 人間は、

 誰かに肯定されて、初めて自分の価値や意味を知り、

 愛することが出来るようになる。

 それは親である場合もあるが、

 他人の場合もある。


 曹娟や瑠璃は実の親ではなく、

 他人からその存在を肯定してもらったのだ。


 瑠璃のことは郭嘉かくかに任せておいて大丈夫だと思った。

 もし彼が王宮において重用される自分が、逆に瑠璃の平穏を潰してはいけないと考え身を引いて暮らしていくのなら、どこかで瑠璃を自分の妹か娘として引き受けてもいい、そんなことも考えた。

 

 曹娟は甄宓しんふつに死ぬまで真摯に仕えると決めている。

 自分の家族など持つ気は二度と無いし、持ちたくも無かった。

 自分の夫や、自分の子を、甄宓より大切に思いたいなどと絶対に思わないからだ。

 

 しかし瑠璃のような娘なら、自分は甄宓の側で重用され女一人の身でありながら、大きな私財すら蓄えさせて貰っているのだから、使いようもないその財の使い道として将来を気に懸けてやってもいいのではないかと思う。


 瑠璃が自分も嫁ぐのだろうかと呟いた時、

 はっきりと、いい相手にこの娘が嫁げればいいのだがと思った自分を自覚した曹娟は、そんな風にも考えた。


「良いご両親がおられて、

 貴方の幸せを願う兄君がいらっしゃるのですから。

 いつか必ずそうなりますよ」


 曹娟が言うと少しだけ恥ずかしそうに俯き、瑠璃は頷いた。



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