第10話

 あのバス停での出来事以来、俺と神凪暦の間に流れる空気は、明らかにその性質を変えてしまった。それは物理的な変化ではない。もっと、曖昧で、論理では説明のつかない、厄介な何かだった。


 月曜日の朝。教室のドアを開けた瞬間から、俺の感覚は、隣の席に座る彼女の存在を、異常なほどに意識し始めていた。普段なら気にも留めないはずの、彼女が参考書のページをめくる微かな音、シャープペンシルがノートの上を走る乾いた響き、そして、ふわりと漂う、清潔で、少しだけ甘いシャンプーの香り。それら全てが、俺の思考に、無視できないさざ波を立てる。


 原因は、明白だ。

 あの、暗闇の中で行われた、5秒間の接触。

 ミッション『暗闇の中、5秒間キスをする』。

 俺の思考は、あの行為を「〈厄〉を収束させるための、合理的な手段」として、すで結論付けているはずだった。目的達成のための、必要不可欠なタスク。それ以上でも、それ以下でもない。

 だが、俺の記憶は、その結論に反して、あの時の感覚を、何度も、何度も、再生し続けるのだ。


 彼女の唇の、驚くほど柔らかく、そして少しだけ冷たい感触。雨に濡れた、しょっぱい味と、彼女自身の、説明のつかない甘い味。俺の胸倉を、弱々しく掴んだ、彼女の小さな手の感触。そして、5秒という、あまりにも短い、永遠のような時間。


(……非効率的だ)


 俺は、内心で舌打ちした。この、繰り返し再生される無意味な記憶は、俺の思考を著しく妨げている。普段通りの冷静さを、取り戻さなければならない。


 ホームルームが始まる前、偶然、彼女と目が合った。ほんの一瞬。彼女の、大きな琥珀色の瞳が、驚いたように、わずかに見開かれる。そして、次の瞬間には、まるで何かから逃れるように、ふいっと、視線が逸らされてしまった。


 その、あまりにも分かりやすい反応。彼女もまた、俺と同じように、あの出来事を意識している。その事実が、なぜか、俺の胸の奥を、ちくりと刺すような、奇妙な感覚をもたらした。これもまた、説明のつかない感情の一つだった。


 授業中も、その状態は続いた。俺は、教師の話に耳を傾け、ノートを取るという、普段通りのタスクを遂行しているはずなのに。意識の半分は、常に、隣の彼女の挙動を観察している。彼女が髪を耳にかける。ペンを持ち直す。小さく、ため息をつく。その、一つ一つの動作が、俺の視界の端で、なぜかスローモーションのように見えた。


 こんな状態では、学習効率が著しく低下する。由々しき事態だ。


 昼休み。俺は、健太たちとの食事もそこそこに、一人、図書室へと向かった。思考をリセットするためには、静かで、知的な環境が必要だと判断したからだ。だが、専門書の難解な数式を追っていても、その記号の羅列の向こう側に、彼女の、潤んだ瞳がちらついてしまう。


(……完全に、調子が狂っている)


 神凪暦という存在が、俺の思考を占めている。この状況をどうすべきか。彼女との接触を断つのが最も合理的だが、ミッションの性質上、それは不可能だ。ならば、この感情を、無視できるレベルまで意識の外に追いやるしかない。だが、その方法が、わからない。


 放課後を告げるチャイムが、無情に鳴り響いた。俺は、重い思考を引きずるように、帰り支度を始めた。今日は、これ以上、彼女と関わるべきではない。一人になり、この思考の乱れの原因を、徹底的に分析する必要がある。


 健太からの誘いを断り、俺は一人、教室を後にした。彼女もまた、友人たちと、いつも通り帰っていったようだ。その、俺とは違う、賑やかな日常の光景が、なぜか、少しだけ、遠い世界のことのように感じられた。


 学校を出て、自宅へと続く、見慣れた道を歩く。夕暮れの光が、アスファルトに長い影を落としている。思考に没頭していたせいで、周囲の景色は、ほとんど目に入っていなかった。


 その、まさに、その時だった。


 視界の端で、何かが、ぐにゃり、と歪んだ。


 見ると、道路脇に立つ、ごく普通の交通標識。その、赤い「止まれ」の文字が、まるで水面に映ったかのように、不規則に、波打っている。


「……っ!」


 俺は、思わず足を止めた。目を凝らす。数秒後、標識は元の、静止した状態に戻った。


 気のせいか? 疲労による、幻覚?


 いや、違う。


 今度は、目の前の電柱だ。その、コンクリートの表面に、まるでデジタルノイズのような、砂嵐状のチラつきが走っている。それは、ほんの一瞬の出来事で、すぐに消えた。


 ――〈厄〉だ。


 だが、これまでとは、またパターンが違う。物理的なポルターガイスト現象ではない。俺の、「知覚」そのものに、直接干渉してくるタイプの、〈厄〉。


 ぶ、と。


 ポケットの中のスマートフォンが、振動した。俺は、もはや慣れた動作で、画面を確認する。やはり、『縁』アプリからの通知だ。


 だが、そのミッション内容は、俺の予測を、またしても裏切るものだった。


『ミッション:手を握ってベンチに10分座る』


 手を握って、10分間、座る。

 場所の指定はない。だが、このミッションを遂行するには、当然、神凪の存在が不可欠だ。


 俺は、すぐに、チャットアプリを起動した。彼女との、二人だけのトーク画面を開く。履歴には、比叡山への、事務的な連絡が残っているだけだ。


『如月だ。〈厄〉が発生した。今回は、知覚への干渉タイプのようだ。新たなミッションが発令された』


 俺は、簡潔に、事実だけを打ち込んだ。


 すぐに、既読がつく。彼女も、同じ現象に遭遇しているのだろう。


『神凪です。……はい、私もです。……道路の白線が、ミミズのように動いて見えました……』


 やはり、彼女の知覚にも、異常が発生している。ミミズ、という彼女らしい感性の表現に、不謹慎ながら、少しだけ口元が緩みそうになるのを、必死で堪えた。


『ミッション内容は、「手を握ってベンチに10分座る」だ。……今、どこにいる?』


『……学校を出て、商店街の入り口あたりです』


 商店街。俺の現在地からは、少し離れている。ベンチがあり、かつ人目につきにくい場所……。


『学校と商店街の中間地点にある、中央公園で合流しよう。あそこの、池のそばのベンチなら、人も少ないはずだ。10分後に、そこで』


『……はい、わかりました』


 短いやり取りを終え、俺は、公園へと向かって歩き出した。道中も、時折、街路樹の葉が、不自然なほど鮮やかな緑色に見えたり、すれ違う人々の顔が、のっぺらぼうのように見えたりと、断続的に、知覚への異常が発生し続ける。不快極まりない。早急に、ミッションを遂行する必要がある。


 公園に着くと、彼女はすでに、池のそばのベンチに、一人で座っていた。夕暮れの光が、彼女の横顔を、淡いオレンジ色に染めている。その、どこか儚げで、美しい姿に、俺はまた、心臓が不規則に脈打つのを感じた。……これも、〈厄〉の影響か?


「……神凪」


 俺が声をかけると、彼女は、はっとしたように顔を上げた。


「……如月くん……」


「待たせたな」


「いえ、私も、今来たところですから」


 当たり障りのない会話。だが、その間には、あのキス以来の、ぎこちない空気が、まだ、重く漂っている。


 俺は、無言で、彼女の隣に腰を下ろした。ベンチは、二人で座るには、十分な広さがある。だが、それでも、互いの肩が触れ合いそうな、その微妙な距離感が、俺の意識を過敏にさせる。


 彼女も、身体を、わずかに硬直させているのがわかった。スカートの裾を、ぎゅっと握りしめている。


「……では、ミッションを、遂行する」


 俺は、あくまで、事務的に、宣言した。感情を排し、タスクとして、処理する。それが、最も合理的なのだから。


 俺は、ゆっくりと、右手を、彼女の方へと伸ばした。彼女の、膝の上に置かれた、白い、小さな手。その手に向かって。


 彼女の肩が、びくりと、小さく跳ねた。彼女もまた、俺の手の動きを、固唾を飲んで見守っているのがわかる。


 そして――俺の指先が、彼女の、冷たい指先に、そっと、触れた。


 瞬間、まるで、微弱な電流が走ったかのような、痺れるような感覚が、指先から腕を駆け上がり、全身へと広がっていく。


 彼女も、同じだったのだろう。その身体が、びくん、と大きく震えた。


「……っ」


 息を呑む音。


 俺は、その、あまりにも初々しい反応に、一瞬、ためらった。だが、ここで止めるわけにはいかない。


 俺は、彼女の、その震える手を、優しく、しかし、確かな力で、包み込むように、握った。


 彼女の手は、驚くほど、小さく、そして柔らかかった。少しだけ、汗ばんでいる。俺と同じように、彼女もまた、緊張しているのだ。その事実が、なぜか、俺の心を、少しだけ、安堵させた。


 握られた彼女の手が、おそるおそる、というように、俺の手を、弱々しく、握り返してきた。


 その、健気なまでの反応に、俺の、冷静であるはずの思考が、またしても、乱れていく。


 隣に座る、彼女の体温。微かに聞こえる、彼女の呼吸音。そして、繋がれた手から伝わる、彼女の、心臓の鼓動。それらが、俺の五感を、完全に支配していく。


 10分間。


 ただ、手を握って、座っているだけ。


 それだけの、単純なミッション。


 なのに、その時間が、これほどまでに長く、そして、濃密に感じられるのは、なぜなのだろうか。


 俺たちは、どちらからともなく、黙って、目の前の池を眺めていた。夕暮れの光を反射して、水面が、きらきらと輝いている。


 言葉は、ない。


 けれど、繋がれた手を通して、何か、言葉以上のものが、俺たちの間を、行き交っているような、そんな、不思議な感覚があった。


 時間は、ゆっくりと、流れていく。


 俺は、この、奇妙で、穏やかな時間を、少しでも長く、続けていたい、と。そう、願ってしまっている自分に、気づいていた。非合理的だ。だが、その感情を、否定することは、できなかった。


 どれくらいの時間が、経っただろうか。


 ふと、隣の彼女の身体が、こくり、と、小さく、俺の方へと傾いてきた。


「……ん?」


 驚いて横を見ると、彼女の頭が、俺の肩に、こてん、と、寄りかかってきたのだ。


「……神凪……?」


 声をかけても、返事はない。


 聞こえてくるのは、すう、すう、という、穏やかで、規則正しい、寝息だけだった。


 ―――寝ている?


 この、状況で?


 俺は、信じられない、という思いで、彼女の顔を、そっと覗き込んだ。


 長い睫毛が、伏せられ、白い頬に、柔らかな影を落としている。少しだけ開かれた、桜色の唇からは、穏やかな寝息が、漏れている。その、あまりにも無防備で、そして、あまりにも、……可愛すぎる寝顔。


 連日の、〈厄〉とミッション。その、異常な状況が、彼女に、相当な精神的負荷をかけていたのだろう。そして、俺が隣にいる、この状況が、皮肉にも、彼女に、束の間の安心感を与え、その緊張の糸を、ぷつり、と切ってしまったのかもしれない。


 そう、結論付けるのが、最も合理的だ。


 だが、俺の心は、その論理的な結論とは、全く別の反応を示していた。


 肩にかかる、彼女の頭の、確かな重み。髪から香る、甘い匂い。そして、すぐ目の前にある、その、無防備な寝顔。


 俺の心臓が、今までにないくらい、大きく、そして、甘く、脈打っている。


 ぶ、と。


 ポケットの中のスマートフォンが、再び、振動した。ミッション完了の、通知だ。


 もう、手を離してもいい。彼女を、起こしてもいい。


 なのに。


 俺は、動けなかった。


 繋いだ手を、離すことができない。彼女の頭を、肩からどけることが、できない。


 起こしてはいけない。彼女の、この、安らかな眠りを、妨げてはならない。


 それが、最も、合理的な判断だ。


 そう、自分に言い聞かせながらも、俺は、わかっていた。


 本当は、ただ、このままでいたいだけなのだ、と。


 彼女の温もりを、彼女の存在を、もう少しだけ、この腕の中に、感じていたいだけなのだ、と。


 俺は、諦めたように、小さく息をついた。そして、空いている方の手で、彼女の肩にかかった、一筋の髪を、そっと、払ってやった。


 その、滑らかな髪の感触。


 俺は、ただ、黙って、彼女の寝顔を、見つめ続けていた。


 夕暮れの公園で、時間が、止まったかのようだった。


 この、胸の奥から込み上げてくる、温かくて、穏やかで、そして、どうしようもなく愛おしい、この感情。


 これを、どう名付ければいいのだろう。


 そして、この、俺の思考を乱す、致命的な感情を、俺は、どう処理すればいいのだろうか。

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