第6話
翌日の教室は、まるで嵐が過ぎ去った後のように静かで、しかしその水面下では、無視できない大きさの波紋が広がっていました。その震源地が、私と如月理人くんだということは、言うまでもありません。
朝、教室のドアを開けた瞬間から、私はそれを肌で感じていました。クラスメイトたちの、あからさまな好奇心に満ちた視線。ひそひそと交わされる囁き声。その全てが、針のように私の背中に突き刺さるのです。
「おはよう、暦」
友人の理沙が、少しだけぎこちない笑顔で声をかけてきました。彼女の瞳の奥には、「昨日のあれ、一体何だったの?」という、言葉にならない問いが渦巻いているのが、手に取るようにわかります。
「……おはよう、理沙」
私は、努めて平静を装い、いつも通りの挨拶を返しました。でも、声が少しだけ上ずってしまったかもしれません。
自分の席に着くと、隣の如月くんは、すでに静かに席に着き、参考書を開いていました。その横顔は、いつもと何も変わらない、クールで、近寄りがたい雰囲気を纏っています。彼は、昨日の出来事など、まるで意に介していないかのように見えました。その、あまりにも落ち着き払った態度が、かえって私の心をざわつかせるのです。
彼にとっては、昨日の「膝枕」も、やはりただの「タスクの遂行」に過ぎなかったのでしょうか。私の膝の温もりも、私が彼の髪を撫でた感触も、彼にとってはただの「観測データ」の一つに過ぎなかったのかもしれません。そう考えると、胸の奥が、ちくりと痛みました。
ホームルームが始まるまでの間、クラスのあちこちから、「神凪さんと如月くん」「昨日、旧校舎の裏で」「膝枕してたらしいよ」「マジで!?」「付き合ってんのかな?」という、断片的な、しかし致命的な単語が、嫌でも耳に飛び込んできます。
噂は、私が想像していた以上の速さで、そして正確さで、学年中に広まっているようでした。理沙が、あの後、誰かに話してしまったのでしょう。彼女を責めるつもりはありません。あんな光景を見てしまえば、誰かに話したくなる気持ちもわかります。でも、その結果、私が今、この針の筵のような状況に置かれているのも、また事実なのです。
特に、男子生徒たちからの視線が、いつもより痛い気がします。今まで、遠巻きに憧れの視線を向けてきていた彼らが、今は、どこか探るような、あるいは、嫉妬の色を帯びたような、そんな複雑な視線を私に投げかけてくるのです。私が、あの、誰にも心を開かないはずの如月理人と、特別な関係にあるのではないか、と。その憶測が、彼らの心をざわつかせているのでしょう。
授業が始まっても、その雰囲気は変わりませんでした。教師の声は遠くに聞こえ、黒板の文字は頭に入ってきません。私の意識は、常に、隣に座る彼の存在と、周囲の視線に、引き裂かれているようでした。
休み時間になるたびに、数人の女子生徒が、遠巻きに、しかし興味津々といった様子で、私と彼の様子を窺っているのがわかります。その、値踏みするような視線に、私は居心地の悪さを感じ、ただ俯いて、次の授業の準備をするふりをするしかありませんでした。
彼の方は、と言えば、本当に、驚くほど普段通りなのです。休み時間になれば、健太くんたちと談笑し、授業中は真剣な表情でノートを取り、誰に何を言われるでもなく、ただ、そこにいる。その、泰然自若とした態度。彼は、この状況を、一体どう思っているのでしょう。私と同じように、居心地の悪さを感じているのでしょうか。それとも、やはり、何も感じていないのでしょうか。
昼休み。友人たちと弁当を囲みながらも、会話に集中できませんでした。理沙は、さすがに昨日のことを直接聞いてくることはありませんでしたが、その視線は、明らかに何かを言いたげに、私の上を彷徨っています。
「……暦、本当に大丈夫? 今日、全然元気ないよ?」
もう一人の友人、真希が、心配そうに声をかけてくれました。
「ううん、大丈夫だって。……ちょっと、考え事してただけだから」
私は、またしても、曖昧な笑顔で誤魔化しました。本当のことを、彼女たちに話すことなど、できるはずもありません。この、あまりにも非現実的で、そして、少しだけ、心臓に悪い秘密を。
午後の授業が終わり、放課後。私は、逃げるように、一人で教室を後にしました。友人たちからの誘いも、今日は断りました。一人になって、少し頭を冷やしたかったのです。
どこへ行くという当てもなく、校舎の廊下を、ただ、ふらふらと歩いていました。窓の外からは、運動部の活気のある声が聞こえてきます。その、健康的な喧騒が、今の私の、澱んだ心とは、あまりにも対照的に感じられました。
このままでは、いけません。
周りの視線が気になるからといって、このまま、彼との「協力関係」を疎かにするわけにはいきません。私たちの身の安全のためにも、〈厄〉への対策は、続けなければならないのです。でも、その対策――ミッションをこなすたびに、私たちは、さらに周りから奇異の目で見られることになるのかもしれない。そのジレンマが、私の心を重くします。
そんな、堂々巡りの思考に囚われていた、まさにその時でした。
「神凪」
背後から、低く、落ち着いた声がかかりました。びくりとして振り返ると、そこに、如月くんが立っていました。いつの間に、私の後ろに……。
「……如月、くん」
「少し、いいか」
彼は、有無を言わせぬ口調で、そう言うと、私の隣に並び、歩き始めました。私も、それに従うしかありません。
「今日の、クラスの雰囲気だが」
彼が、静かに切り出しました。
「……噂になっているようだな」
「……みたい、ですね」
私は、俯きながら、小さな声で答えました。
「君にとっては、不快な状況だろう。……すまない」
彼の、その、予想外の謝罪の言葉に、私は驚いて顔を上げました。彼が、私に謝るなんて。
「……別に、あなたが謝ることじゃありません。……あれは、その、ミッションだったのですから……」
「だが、原因の一端は、俺にある。……君に、余計な負担をかけていることは、事実だ」
彼の、その、どこまでも真摯な言葉。それは、いつも彼が口にする「合理的」という言葉とは、少しだけ違う、温かみのようなものを帯びているように感じられました。
私たちは、人気のない渡り廊下で、足を止めました。夕暮れの光が、ガラス窓を通して、床に長い影を落としています。
「それで、だ」
彼が、改めて、私に向き直りました。その、深い瞳が、真っ直ぐに、私を見つめています。
「この状況を、どう打開すべきか。……それについて、君の意見を聞きたい」
「私の、意見……?」
「ああ。俺一人で考えても、それは一方的な解決策にしかならない。君が、どうしたいか。どうするのが、君にとって、最もストレスが少ないのか。それを、知りたいんだ」
彼の、その、あまりにも誠実な問いかけ。彼は、ただ自分の論理を押し付けるのではなく、私の気持ちを、ちゃんと尊重しようとしてくれている。そのことが、なんだか、すごく……嬉しくて、胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じました。
「……私、は……」
私は、言葉を選びながら、自分の考えを、正直に話しました。
「……正直に言えば、今の状況は、……居心地が悪いです。……周りから、好奇の目で見られるのも、噂されるのも、……好きではありません」
「だろうな」
「でも……」
私は、一度、言葉を切り、そして、彼の目を、しっかりと見つめ返しました。
「だからといって、あなたとの協力をやめる、という選択肢は、私にはありません。……〈厄〉は、本当に、怖いですから。……あなたがいるから、……なんとか、対処できている、というのも、事実です」
それは、私の、偽らざる本心でした。彼の、あの冷静な判断力がなければ、私はとっくの昔に、パニックに陥っていたかもしれません。
「だから……」
私は、続けます。
「この、周りの視線や噂は、……なんとか、……耐えるしかないのかなって、……思っています。時間が経てば、みんな、飽きて、忘れてくれるかもしれないし……」
その、あまりにも消極的で、受動的な私の答えに、彼は、少しだけ、眉をひそめました。
「……本当に、それでいいのか?」
「え……?」
「君は、ただ、我慢するだけでいいのか?……俺は、そうは思わない」
彼の、その、力強い言葉。
「ならば、こちらから、能動的に状況を変えるべきだ。……噂を、逆利用する」
「噂を、逆利用……?」
彼の、その、予想外の提案に、私は目を瞬かせました。
「ああ」
彼は、自信に満ちた、それでいて、少しだけ悪戯っぽい光を目に宿して、こう言ったのです。
「いっそ、この噂を、逆利用しよう。……俺たちが、恋人同士だと思われていれば、多少のスキンシップも、不自然ではない。……ミッションを、円滑に進めるため、だ。……どうだろうか? 俺と、恋人のフリをしないか?」
――恋人の、フリ。
その、あまりにも、甘く、そして危険な響き。
彼の口から、そんな言葉が出てくるなんて、夢にも思っていませんでした。
私の頭の中は、完全に、真っ白になりました。心臓が、早鐘のように鳴っています。顔が、燃えるように熱い。
ミッションのため。それは、わかっています。あくまで、合理的な、状況打開策。
でも、……でも……!
「……それは、……あまりに、合理的で……」
私が、かろうじて絞り出した声は、情けないほど震えていました。
「……反論の、余地が、ありません……」
そう。彼の提案は、あまりにも、完璧だったのです。
「……ですが、……あ、あくまで、……ミッションのため、ですよね……!?」
念を押すように確認すると、彼は、こくりと、真顔で頷きました。
「ああ、もちろんだ。これは、俺たちの安全を確保するための、最も効率的な、戦術的偽装だ」
戦術的、偽装……。彼の、その、どこまでもズレている、しかし真剣な物言いに、私は、なんだか、おかしくて、そして、少しだけ、愛おしい、とさえ思ってしまいました。
「……わかり、ました……」
私は、観念して、頷きました。
「……その、……恋人の、フリ……。……やります」
その、私の返事を聞いて、彼は、満足そうに、しかし、やはり感情の読めない顔で、小さく頷きました。
「……合理的な判断だ。感謝する、神凪」
こうして、私と、如月理人くんの、奇妙で、不本意で、そして、どうしようもなく、心臓に悪い、「偽の恋人ごっこ」が、始まることになってしまったのです。
これから、一体どうなってしまうのでしょう。彼の隣で、「恋人」として、私は、平常心を保ち続けられるのでしょうか。
夕暮れの光が差し込む渡り廊下で、私たちは、どちらからともなく、顔を見合わせました。彼の、深い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何か、温かい、優しい光が宿ったような気がしたのは、きっと、気のせいでしょう。
そう、自分に強く、言い聞かせながら。
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