天使シルエルの話


どこまでも広い、天国の白い雲の原の上に、金色の太陽が輝いていました。空は雲のかけらひとつなく、透き通るほど青く澄み渡っていました。けれども、天使シルエルの心には、霧のように薄い憂いの雲がかかっていました。


「ふぃ」とシルエルは言うと、にじみ出た涙を、一しずく投げて、不思議な魔法を行い、空に大きな銀色の虹をかけました。悲しみは重く胸にふさがって、シルエルは硬いためいきを吐きました。すると銀色の虹は布のようにくるくるまきとられて、すっとシルエルの手に入ってきました。シルエルはその銀色の塊にまた魔法をかけて、一組の美しい銀の鎧をこしらえ、それを身にまといました。そして太陽の光をひとつかみ握ると、それは美しい光の剣に変わり、シルエルはそれを銀のさやに収めて、腰に差しました。


シルエルの悲しみは、決意に変わりました。シルエルにはやらねばならないことがありました。銀の鎧をまとい、光の剣をもって、地上に降り、恐ろしい無知の怪物と、戦ってこねばならないのです。


今、地上には醜い戦争が起こっていました。二つの国が、互いを憎みあい、神が下さった大切な命を、つぶしあっていたのです。血は川のように地上を流れ、人を焼く火が柱のように高く燃え上がっていました。その凄惨な殺し合いをとめるために、シルエルは神の命を帯びて、戦わねばならないのです。


地上に戦争を起こしたのは、無知と言う名の怪物でした。その怪物は灰色の巨大な獣のようで、霧のように二つの国を覆い、人々の目を闇にぬりつぶしていきました。人々は無知にとりつかれて、互いの真実の姿が見えなくなり、敵を得体の知れない怪物のようなものだと思い込んでいました。それは醜い嫉妬や憎悪の感情をかきたて、人々をむごたらしい殺し合いの地獄に、巻き込んでいったのです。


シルエルは小さな呪文を唱えると、白い鳩のような翼をはためかせ、飛び上がりました。そして唇から風を吐き、空に透明な入り口をこしらえて、宇宙空間に浮かぶ青い涙の玉のような、地球世界へと向かいました。


大空から、地球世界を見ると、その北の方の一点に、灰色の雲のような染みが見えました。それこそが、人々の心を迷わせている、無知の怪物でした。恐ろしい暗黒の怪物、それは宇宙の愛の真実を何も知らない、エゴイズムの化身でした。シルエルは腰に差した剣を抜きました。すると一筋の光が現れ、それはまっすぐにシルエルの行く道を導いたのです。


抜かれた剣は、耳に快い真実の歌を風の中に流しました。それを聞くと、人々は愛に目覚め、暗闇を切り裂く知性の光を感じることができるのです。シルエルはまっすぐに地上に降り、二つの国を覆う無知の怪物に立ち向かいました。近くから見ると、それは巨大な蛸のような灰色のかたまりでした。無数の足が生えていて、それぞれの足が、人間たちの心を棘のように刺していました。頭には、気味の悪い青い二つの目が怪しく光っていて、その下では口と思しき亀裂が、にたにたと笑いながら、小さな声でささやいていました。


馬鹿だ、みんな馬鹿だ、すべてのものを馬鹿にしろと、口はそう言っていたのです。シルエルはそれを聞いて、胸に刺すような痛みを感じました。心を傷つける、美しくない言葉を聞くのは、天使にとって深い苦しみでした。


何も知らない無知の怪物は、神を憎んでいました。神が、あまりにも醜いものに自分を創ったのだと、思い込んでいたからです。だから神が創られたものをすべて侮辱していました。人間などみんな馬鹿にしてしまえと、無知の怪物は人間たちの心にささやき、すべてを無知の闇の中で支配しようとしていたのです。


シルエルは痛みを耐え、剣をとり、立ち向かいました。そして光を放ちながら、高い魔法の言葉を叫びました。すると無知は一瞬怯えて、少し小さくなりました。しかしすぐに持ち直して、シルエルに襲い掛かってきたのです。


みんな馬鹿だ。すべては馬鹿だ。そう言いながら、無知は大きな足を一本伸ばしてきて、シルエルを捕まえようとしました。しかしシルエルは巧みによけて、無知の足を一本切ってしまいました。しかし無知は痛がりもせず、すぐに違う足で襲い掛かってきました。


シルエルにはわかっていました。無知の無数の足は、本当はすべて嘘であることを。嘘でできた幻であることを。シルエルは何本かの足を切り捨てたあと、呪文を唱えて剣の光を強めました。そして翼をはためかせて、高い空に上ると、魔法の言葉を無知に向かって叫びました。それはこういうものでした。


何も知らぬ小さな生き物よ、神はおまえを愛しているぞ。


すると無知はまるまると目を開き、シルエルを見つめました。無知はおそれおおいものに触れたかのように、震えて少し縮みました。しかしすぐに、そんなことは嘘だと叫んで、またシルエルを捕まえようと鞭のように足を延ばしてきました。シルエルはその足をよけながら、無知の大きな頭に近づき、もう一度高らかに叫びました。


美しいものよ。神はおまえを愛しているぞ。


無知は、その言葉に一瞬動きをとめました。そのすきを逃さず、シルエルは無知の怪物に向かい、剣を投げ込みました。真実の光でできた剣は、無知の頭を裂き、その心臓にまで届きました。


光があふれかえりました。真実の光は、無知の心臓に深く刺さりこみ、無知に真実を教えました。そして真実を知った無知は、もう無知ではなくなったのです。


煙が晴れていくように、巨大な無知の姿はどんどん消えていきました。シルエルはその中を風のように飛び、無知の心臓の中にいた、小さなものを捕まえました。


ああ、なんとあわれなことでしょう。無知の心臓にいたのは、一匹の小さな灰色のねずみだったのです。無知の怪物、それはすべて、一匹のねずみの恐怖が生み出した、幻だったのです。


シルエルはねずみを両手の中にそっと包み込み、その小さな耳に、再び真実の歌を聞かせました。それは、不思議な高みからくる愛の歌でした。神はすべてをよきものに創ったのだという、真実の歌でした。その歌は、ねずみの心にしみ込み、その姿を変えていきました。美しいことを知ったねずみは、涙を流しながら震えていました。そしていつしか、雪のように白くてかわいらしい、一匹のうさぎになっていたのです。


シルエルはうさぎを抱きしめ、白い翼で包み込み、その生まれたばかりの心をあたためてやりました。そうすれば、うさぎはまことによいものになるからです。


こうして、二つの国を戦争に巻き込んだ、無知の怪物は消えていきました。無知から解放された人々は、戦争の悲惨さ、愚かさに気づき始めました。


シルエルは、うさぎに言いました。


「おまえはこれから、神の使いになって、人々の心を導き、戦争を終わらせてきなさい」


するとうさぎは澄んだ目でシルエルを見上げて、素直にうなずき、「はい」と答えました。


もう無知ではなくなったうさぎは、今も、地上を風のように走りながら、この世から戦争をなくすために、働いています。


神さまの、本当の愛を、みなに教えるために、ずっと走っているのです。






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