DAY5 :真っ赤なZと、走り出す朝


朝。

ホテルのカーテンを開けると、夏の光が射し込んできた。

みなみはベッドの上で丸まったまま、カメラをぎゅっと抱きしめている。


「んん……おはよ、空くん」


「おはよ。昨日いっぱい撮ったね」


「……うん。でもね、今日はもっと“動きのあるもの”撮りたいな」


空は一瞬考えてから、いたずらっぽく笑った。


「じゃあさ……エスコンフィールド行こうよ」


「え? 野球場??」


「そう!プロ野球の試合。動きも速いし、応援も迫力あるし。イラストの資料にもなるよ」


みなみは少し迷った顔をしたけれど、やがて笑った。


「……面白そうかも。でも、電車じゃなくて車で行きたい」


空はニヤリと笑って、手を広げた。


「言うと思った。実はね……」


そう言って連れて行かれた駐車場に停まっていたのは、

鮮烈なレッドに輝く RZ34 フェアレディZ。


「……またそういうサプライズ!? バカじゃないの!?

でも……かっこいい……」


「さ、助手席、どうぞ」


みなみは口を尖らせながらも、嬉しそうに乗り込んだ。

低いエンジン音とともに、真っ赤なZは朝の街を抜け、北へと走り出した。



高速道路を抜け、約2時間。

Zの低いエンジン音が胸に響き続け、みなみは助手席で窓の外を夢中で撮っていた。


やがて視界に飛び込んできたのは、想像をはるかに超える巨大な建物。


「……なに、これ……ほんとに、野球場なの……?」


その声には驚きと、子どもみたいな好奇心が混ざっていた。

空は誇らしげに頷く。


「そう。エスコンフィールド北海道。

 ただの球場じゃなくて、もう“街そのもの”なんだ」


圧倒的な外観に、みなみは言葉を失ったままカメラを構える。

スタンド、巨大な屋根、外周を囲む飲食店——レンズ越しに見えるすべてが彼女を刺激する。


「……やっぱり来てよかった。

 ここ、ほんとに“絵になる”……」


ファインダーから目を離したとき、彼女の横顔には確かに熱がこもっていた。

その表情を、空は胸の奥でそっと焼きつける。



試合開始。

場内アナウンスが響いた瞬間、スタンド全体がひとつの大きな鼓動になった。


「わっ、ボール速すぎ! これ……描けないよ、ぜったい!笑」


みなみはカメラを構えながら、声を弾ませる。

シャッター音がリズムのように重なり、彼女の瞳は子どものように輝いていた。


空は横でルールを説明する。

でもみなみは「ふーん」と曖昧に返すだけで、レンズから目を離そうとしない。

——それでも空は、その夢中な横顔を見るだけで十分だった。


やがて、空が手にしていた紙コップを差し出す。


「ほら、レモンサワー」


「えっ、球場っていえばビールでしょ?……なんで?」


「キミ、ビール苦手だったろ? 苦いの、飲みきれないって言ってた」


みなみは小さく目を見開いた。

そして、紙コップを両手で受け取ると、ふっと笑った。


「……そんなの、覚えてたんだ。

 空くんって、意外とずるいよね……」


炭酸が弾ける音と同時に、レモンの爽やかさが彼女の喉をすっと抜けていく。

その横顔を見ながら、空は心の中でそっとつぶやいた。

——この瞬間ごと、ぜんぶ覚えておきたい。



7回裏。

応援歌に合わせて風船が空に舞い上がる。

観客の熱気に包まれる中、大型スクリーンが次々とスタンドの観客を映し出していった。


「わ、わ……ちょっと! 空くん、映ってる!////」


みなみの肩がびくっと跳ね、カメラを抱きしめるように胸元へ押し当てる。

スクリーンいっぱいに、空とみなみの姿がアップで抜かれていた。


ざわざわと広がる歓声。

「キス!キス!」とコールが起きる。

まるでメジャーリーグのKiss Camのような空気に、みなみは目を見開いた。


「えっ……な、なにこれ!? ムリムリムリムリ!!////」


両手を振って必死に否定するみなみ。

けれど空は、笑みを浮かべて手を取ったまま顔を近づける。


「もちのろん笑」


「ちょっ、ま、待っ……!」


抵抗の言葉は最後まで続かなかった。

次の瞬間、空の唇がみなみの唇を優しく塞いだ。


スタンドから割れるような歓声が起こる。

みなみの頭の中は真っ白で、心臓の音だけが全身に響いていた。


唇が離れると、彼女は顔を真っ赤にしてうつむいた。

「……ば、バカ……////」

でも、その頬は確かに嬉しさで染まっていた。


スクリーンには、照れて笑うふたりの姿が大写しになっていた。

まるで、観客全員がふたりの恋の証人になったかのように。



試合が終わり、観客が帰路につく。

ざわめきが遠ざかり、広いスタンドは少しずつ静寂を取り戻していった。

夜風が吹き抜け、ライトアップされた芝生が柔らかく輝いている。


みなみはまだ顔を赤らめたまま、カメラを握りしめていた。

スクリーンでのキス。観客の歓声。

その余韻が、胸の奥でずっと渦巻いている。


「……もう……ほんとに……信じられないことするんだから////」


拗ねたように言いながらも、シャッターを切る手は止まらない。

芝の緑、夜空に浮かぶ屋根のライン、そして隣にいる空の横顔。


空はそんな彼女を見て、静かに微笑んだ。

「でも、忘れられないだろ? あの瞬間」


「……っ……そ、それは……////」

言い返そうとして、言葉が喉に詰まる。

否定できない。むしろ、心のどこかで“またしてほしい”と思ってしまっている自分に気づいて、さらに顔が熱くなる。


やがてみなみは、カメラを少し下ろして、空の肩に軽くもたれた。

「……ねぇ空くん。写真だけじゃなくて、絵でも残したい」


「いいじゃん。その分、ボクと一緒にいられるってことでしょ?」


「……ほんと、ズルい……」

そう呟きながら、みなみはまたシャッターを切った。


カメラに収めたのは、芝でもスタンドでもなく、

肩に寄り添う“ふたりの影”。


その一枚は、絵になる前からすでに特別な“恋の証拠”になっていた。



夜の高速道路。

真っ赤なZはライトを切り裂き、滑るように北へと走っていく。

窓を少し開けると、ひんやりとした夏の夜風が頬を撫でた。


助手席のみなみは、さっきまでの球場での出来事を思い出していた。

観客の歓声、スクリーンに映し出された自分たち、そして……あのキス。

顔を手で覆っては「うぅ……////」と小さく唸る。


空がチラリと横目で見て、笑った。

「まだ赤いね。もしかして……照れてる?」


「ち、ちがうもん!////」

即座に否定するけど、声は裏返っている。

それを聞いて空は楽しそうにハンドルを握り直す。


しばらく沈黙が続いた後、みなみが小さな声で尋ねた。

「ねぇ……なんで、知床なの?」


空は夜空を見上げるように、少しだけ首を上げて答えた。

「星が、一番近い場所だから」


「……星……」

みなみは窓から顔を出し、流れる夜の景色を見つめた。

遠ざかる街の灯り、暗い森、そして雲間から覗く無数の星。


胸の奥で、さっきのキスとはまた違う温かさが膨らんでいく。

この人となら、どこまででも行ける——そんな確信に近い感情。


気づけばカメラを取り出していた。

流れるハイウェイの灯り、星を映すフロントガラス、

そして横顔の空を何枚も、何枚も切り取っていく。


シャッター音が車内に響くたびに、

それは“未来の絵”だけじゃなく、彼女の心を刻む“記録”にもなっていた。


「……ねぇ空くん。もしも——記憶が消えちゃっても、また連れてきてね」


その声は、レンズ越しに覗いた星よりも震えていた。


「もちろん。何度でも」


迷いのないその言葉に、みなみは小さく息をのんで、

カメラを胸に抱きしめた。


夜空に吸い込まれるZのテールランプは、

ふたりの未来を照らす灯火のように赤く輝いていた。



深夜。

山道を抜けた先に現れたのは、ランタンの灯火に包まれた幻想的なホテル。

その姿はまるで森の中に浮かぶ城のようで、長いドライブの果てに辿り着いた者だけが出会える秘密の光景だった。


「……すごい。物語の世界みたい」


みなみの瞳が輝く。

カメラを構える手が、疲れを忘れたように小刻みに動いた。

石畳に落ちる灯火の影、窓から漏れる柔らかな光、そして夜空を覆う無数の星。

すべてが彼女にとって、新しいキャンバスだった。


チェックインを済ませ、部屋に入る。

窓の外には、知床の漆黒の森と、手を伸ばせば届きそうなほどの星空。

都会では決して見られない景色が、静かに広がっていた。


ベッドに倒れ込んだみなみは、カメラを胸に抱きしめたまま目を閉じる。

「今日一日、ほんとに楽しかった……」


その声には、安心と幸福が溶け込んでいた。

だけど、次の言葉はかすかに震えていた。


「ねぇ空くん……もしも、わたしの記憶が消えちゃっても……

今日のこと、また一緒にしてくれる?」


空は迷わず答える。

「もちろん。何度でも」


みなみは安堵の笑みを浮かべ、そっと目を閉じた。

まるでその答えを“夢の入口”に持ち込むように。


カメラのレンズ越しに切り取った景色よりも、

彼女の寝顔こそが——ボクにとって、何よりも大切な記録だった。


そして心の中で誓う。

たとえ何度繰り返しても、必ず——また、恋をする。


DAY5 end

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