無限オムライス対トイレ神父

柏望

デビルオムライスVS御手洗神父

 et nunc, et semper,et in saecula saeculōrum.

(原初にあり、今にあり、世に限りなく) 

 

 静謐な聖堂の中に祈りの声が細々と、しかし乱れなく響く。幾度も続いた祈りを結ぶ言葉は常に同じだ。


 Āmen.

(そうあれかし)

 

 バチカンから遠く離れた極東の島国。その一隅にある小さな教会。十字架の前に跪く男の名は御手洗みたらい清而せいじ——洗礼名は Vitalisヴィタリス。カトリックの神父である。


 祈りを終え、御手洗はゆっくり立ち上がった。長く跪いていた足は痺れている。けれど表情は揺れない。背筋はまっすぐ、敬虔さを湛えた顔には静かな決意が宿っていた。

 三日間の断食ののち姿勢を変えた反動で、視界はしばし荒波のように揺れる。おさまるのを待って歩み出す。身体のコンディションは良いとは言えない。だが——だからこそ、整った。そう確信できる。


 悪魔祓いに先立ってすべき第一は、断食と祈りである。


「無限オムライスか。なにがどういう悪魔なんだ」


 凝り固まった身体をほぐしながら思案する。悪魔祓いの指令は大司教から下る。添えられる情報はまちまちだが、今回は渡された情報の中に「無限オムライス」という名が記されていた。

 ——無限にお代わりを差し出すのか。皿に山と盛ってくるのか。あるいは悪魔そのものがオムライスの姿で、我が身を食べろと誘惑するのか。


 作戦を練るふりをして、都合のよい光景を脳裏に描いた瞬間、腹が抗議した。空腹の虫が、暴食に溺れるなと鳴る。


「久々の食事は、教会のみんなといただきましょう」


 自分の頬を軽く叩いて気合を入れ、聖と俗を隔てる扉を押す。鮮やかな夕景と、人々の営みの音が一気に流れ込んだ。ローブの裾を夕風が揺らす。


 石畳の先に、少年と少女。少女は教会で世話をしている孤児、愛菜だ。所在なげに話を聞く少年にも見覚えがある。愛菜まなの授業参観で見かけた同級生の——。


「神父様。ただいま戻りました」

「おかえりなさい。愛菜さん。それと三芳みよし和真かずまさんですね。愛菜さんと仲良くしてくれてありがとうございます」


 飛び込んできた愛菜を抱きとめ、御手洗は少年にも声をかける。長い前髪に隠れて目もとは見えないが、驚いたのは明らかだった。いきなり名を呼ばれれば無理もない。非礼に気づき、自己紹介をしようとした矢先——


「なんだよ。お前、お父さんいるんじゃないかよ」

「いないよ。この人は神父様。大人になるまで面倒見てくれるの」


 幼い応酬に、御手洗は背筋が冷えた。心ない言葉を浴びせられた愛菜だけではなく、そんな言葉を吐かずにいられない三芳少年の心を思って。


 改めて見る。体格は同年代よりひと回り小さい。髪も服も手入れが行き届かない。袖口から覗く腕や首筋には掻きこわした跡。——支援が必要な状況なのは、素人目にも明白だった。


「なんだよ。嘘つくなよ。お前、親がいないっていうから。可哀想な子だって思ってたから。遊んでやったのに」

「うん。いつもありがとう! でもウソついてないよ。神父様と約束してるもん」


 三芳の顔から感情が消え、次の瞬間には駆け出していた。引き留めようと飛び出した愛菜の手は空を切る。


「じゃーね。また遊ぼうね」


 三芳少年へ無邪気に声をかけた後、振り返った愛菜の顔はどこか不安げだった。


「神父様。わたし、ともだちにヒドいことをしたのかもしれません。でも、どうしてなのかわかりません。どうすればカズマくんのこと、わかりますか」


 御手洗もまた、親を知らない。彼の痛みを完全に言い当てることはできない。だからこそ、膝を折って視線を合わせ、言葉を選ぶ。


「わからなくても、傷つけてしまったことを謝る気持ちは伝えられます。これからも仲良くしたい、という想いも。私はこれから教会の用事がありますか。戻ったら一緒に考えましょう」

「はい! 神父様」


 愛菜は元気よく頷き、軽い足取りでシスターたちが待つ教会の事務所へ駆け込んでいく。残された御手洗は、十字を切って二人の和解を神に祈ってから、教会を後にした。 


 資料を読みながら頭を捻らせるまでもなく、目的の店は見つかった。それより先に、鼻孔をくすぐる匂いが導いたのだ。バターとケチャップが溶け合った香り。焼きたての卵がほろりと崩れる光景まで想像させる、濃密な誘惑。


 匂いの筋を辿ると、古めかしい造りの洋食店に行き当たる。曇った窓の内側は見えない。扉を押し開けた瞬間——美しい光景が広がった。


 柔らかな照明。磨き込まれたテーブルと椅子。壁の古い時計とメニュー表。愛され続けてきた店の温もり。


 なのに、店内は不気味に静まりかえっている。

 カトラリーの触れ合う音も、店員の声もない。これほどの匂いが満ちているのに、厨房からは鍋を振る音すらしない。


 御手洗は注意深く店内を見渡す。悪魔は巧妙に隠れる。まずは清めようと、カソックの内ポケットへ手を入れ——そこで止まった。一番奥の席で、オムライスをかき込む客の姿が目に入ったのだ。


 痩せた少年が、虚ろな目を皿に落とし、オムライスを食べ続けている。水も飲まない。呼吸を整えることさえ忘れたように、スプーンで山をつくっては口へ押し込む。米一粒、ケチャップの一垂れも残すまいと皿を削る勢いで食べ、震える手でベルを鳴らす。次の皿を乞うために。


 三芳和真——先ほど別れたばかりの少年だ。

 痩せた体に不釣り合いな大皿。半狂乱の食べ方に、胸の奥が締めつけられる。


 このままでは、終わりのない暴食に呑まれる。御手洗は歩み寄り、スプーンを握る細い手首にそっと触れた。


「もうお腹いっぱいでしょう。三芳さん。食べ過ぎは身体に毒ですよ」


 表情も声も柔らかくして、余裕のない少年にも届くように声をかけたが、三芳少年は虚ろな瞳をしながら呻くように呟くばかりだった。


「……でも、まだ……足りない。もっと……」


 唇を震わせながらスプーンに噛みつこうとする仕草は、飢えの記憶に縛られた子どものものだった。大人の力で押さえつけるのは簡単だが、少年の身体には多大な負担をかけてしまう。


 悪魔祓いをこの場で始めよう。カソックに格納した聖水を取り出したその時、厨房の奥からひたりと足音が響いた。


 照明にくまなく照らされているはずの店内。そのどこからか伸びてきた影を目で追った御手洗の視線の先に、シェフの格好をした人影が現れた。顔は陰に隠れて見えないが、爛々と光る双眸だけが不気味に浮かび上がっている。


「いらっしゃいませ、お客様。聖水を撒くなど、店内を汚す行為はご遠慮ください。坊やはここにいれば飢えないのですから」


 落ち着いた声が、冷ややかな響きを帯びて店内を満たす。御手洗は三芳少年の顔を片手でそっと覆い、自らの顔を見えないようにした。エクソシストとして悪魔と対峙する自分は苛烈であり、愛菜の友人に見せる姿ではないと考えたからだ。


「客として来たのではない。エクソシストとしてここにいる。この少年を解放し、今すぐ地獄へと立ち去るがいい」

「なら結構。あなたにかける言葉はありません。わたくし、高潔な魂よりも無垢な魂を好みますので」


 問答は終わったといわんばかりに悪魔の視線は御手洗から三芳少年へと移る。口を開いた悪魔は先ほどと同じように落ち着いていながらも、甘い声色で少年を誘惑する。


「坊や。親に見捨てられても、私はけっして見捨てないよ。……そこの男は悪魔を祓いに来たのであって、坊やを助けに来たわけではないんだ。だから、ね。こっちにおいでなさい」


 御手洗の腕の中にいる三芳少年の身体がかすかに揺れた。

 今まで誰からも与えられることのなかった彼にとって、「与えてくれる存在」の声は、どれほどの苦しみを伴うとしても甘美で抗いがたい響きを持っているのだ。


 三芳少年の迷いを見た御手洗は強く息を吸い込み、十字架に触れる手に力を込めた。

 偽りの優しさと虚しい快楽を求めさせる――これこそが、人を暴食に縛りつける悪魔。無限オムライス。

 その名を心の内で呼んだ瞬間、御手洗は全身を覆う冷気を感じた。

 影一つない明るさは自らの罪を覆い隠すため。食欲をそそる香りに満ちているのは、暴食の大罪を餌にして人を縛り付けるから。


 天敵を前にしても悪魔は不敵な態度を崩さず、三芳少年へゆっくりと手を差し出す


「ここにいれば、二人きりで、永遠に美味しいものを食べられる。――どうだい、坊や? 君の魂を私に任せるだけで、安心してお腹いっぱいになれるし、それだけやっていればいいんだよ」


 優しい保護者を装いながら、少年の心を罪の鎖で締め付けようとしている。御手洗は差し迫った危機を感じているが、三芳少年は微かに微笑みすら浮かべている。

 満たされた上で認められる。少年の小さな唇が開きかけたその刹那、御手洗は悪魔から少年を庇うことを止め、悪魔の前へと躍り出る。


「この少年はお前のものではない」


 甘い悪魔の声とは正反対の、祈りを込めた厳かな声が店内を震わせる。


「彼は神の子であり、自らの意志を持つ人間だ。飢えや孤独を餌にして縛ることなど、許されない」


 目当ての少年が神父から解放されたのを確認した悪魔の瞳が細められる。わずかな笑みを浮かべるその顔は、冷たい炎を宿している。

 御手洗は十字架を握り締め、悪魔の前に立ちはだかった。


「食べ続けるんだ坊や。満たされれば苦しまなくていい」


 悪魔が指を鳴らした瞬間、店内すべてのテーブルの上に湯気を立てるオムライスが並べられた。煌々と照らされた食卓にならぶ鮮やかな黄色と赤。温かい団欒のようにも見えるその光景は、いたいけな子供を縛り付ける鎖に他ならない。


「ここは暖かく。暴力もなく、食べたいように食べるだけでいい。こんなにいい場所を、坊やは他に知っているかい」


 スプーンを握りしめている三芳少年の手が震えている。虚ろな瞳のままスプーンを手近なオムライスへと伸ばした瞬間。御手洗神父はカソックに仕込んだホルダーに格納してあるアンプルを取り出し、蓋を開けて中にある聖水を撒いた。


 悪魔祓いの儀式の第一段階である聖水の散布が始まった。古来よりバチカンに伝わる伝統的な形式は、揺るぎない信仰を持つ者が三つの段階を完遂できれば効果は覿面だ。

 最初の段階の不成立を狙い、聖水の回避に専念した悪魔は選択を誤った。アンプルから迸る聖水の向かう先は三芳少年だったのだ。


「目を開けるのです。あなたはけっして見捨てられてなどいない」


 リラックスし、肩幅に腕を開いて手のひらを上に向ける。これは神への祈りを捧げる姿勢であり、少年を悪魔の誘惑から解き放つための悪魔祓いの祈りだった。


 Crux Sānctī Patris Benedīctī.

(聖ベネディクトの十字架よ)


 Crux Sācra Sit Mihi Lūx.

(聖なる十字架が私の光)


 Nōn Dracō Sit Mihi Dūx.

(虚なものが私を導かぬように)


 Vāde retrō Satāna,nunquam suāde mihi vāna.

(退け悪魔よ、虚しきことを囁くな)


 Sunt mala quae lībās ipse venēna bībās.

(お前が与えるのは悪しきものだけ、お前自身が毒を飲め)


 EIVS.IN.OBITV.NRO.PRA SENTIA.MVNIAMVR

(死の時において我らは彼と共にあるだろう)


 多くの悪魔を打ち払った聖人、ベネディクトゥスへの祈りの言葉が御手洗の口から厳かに告げられる。悪魔祓いに絶大な力をもたらす聖句を止めるべく神父を止めようとした悪魔は、数歩も進まぬうちに耳を塞いで、床に蹲る。

 ほとんど同じタイミングで御手洗も跪き、三芳少年の額に浮かぶ汗を持ってきたハンカチーフでそっと拭った。痛みとも安堵ともつかぬ呻き声が喉から漏れたのを聞き取って、御手洗は祈りの言葉を結ぶ。


 Āmen.

(そうあれかし)



『そうあれかし』という言葉が届いた瞬間、三芳少年の手からスプーンが滑り落ち、床を叩いて転がった。悪魔祓いの儀式の第二段階である聖句の詠唱がここになされた。


「見事だよ神父。瞬く間に聖水をまき散らし、小賢しい聖句まで諳んじてみせるとは。せっかく飢えから解放し、恐怖から楽にしてやったというのに。そんなに悪魔が憎いのか」


 這いつくばった悪魔が膝をつきながら立ちあがると、食卓のオムライスも呼応するかのように豪華になっていく。かぐわしい香りのチーズとホワイトソースがかかっているもの。肉汁の溢れるステーキと濃厚なドミグラスがかけられているもの。エビフライが添えられ、デザートにプリンがついているもの。何種類もの食の喜びを呼び起こす香りが洋食店に充満していく。

 三芳少年の小さな喉がごくりと鳴った。


 Non in solo pane vivit homo, sed in omni verbo quod procedit de ore Dei.

(人はパンのみにて生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる)


 胸元で輝く十字を、御手洗は力強く握る。悪魔祓いの第三にして最終段階、十字架を掲げる時がやってきたのだから。


 et nunc, et semper,et in saecula saeculōrum.

(原初にあり、今にあり、世に限りなく)


 Āmen.

(そうあれかし)


 御手洗の儀式を受けた三芳少年は目を覚ました。さするように自分の腹を撫でているが、その腕は卓上のオムライスへ向かうことはない。

 どんな旗よりも勇ましく掲げられた十字架は、一人の少年が悪魔から受けた誘惑を完全に拭い去った。


「この地上でパンなしに生きられる者がいるか? 坊やに必要なものではなく飢えを味わわせてきたのは、誰だ? 神か? 親か? 結局、与えているのは私だけだ」


 悪魔が怒りを浮かべながらも、神父を哄笑し糾弾する。

 三芳少年はオムライスへ手を伸ばすことをしないが、悪魔の居場所から去ることもしなかった。目の前にいる神父の祈りが自分を苦しみから解放したのは理解している。が、あのオムライスは世界で一番美味しかったし、ここを出れば居場所なんてどこにもない。

 御手洗が三芳少年のために神へ捧げた祈りは、暴食の苦しみから少年を救った。が、二度と暴食の大罪に呑まれないという保証はしない。


 悪魔を祓い、三芳少年の魂を安らかにするにはどうするべきか。

 躊躇なく自己保存を選んだ悪魔の次は、他人のために悩んだ御手洗が失敗する時だった。


 悪魔のポルターガイストによって、飛来する食器が祈りを捧げたばかりの御手洗を打ち据える。割れた皿の破片が十字架を弾き、椅子の脚がカソック越しに神父の肉へ深く埋まり、木製の机が全身にぶつかる。

 轟音と破砕音の渦へ、御手洗はうめき声すら挙げられず呑み込まれていく。次々と飛び込んでくる家具と食器に押し潰され、カソックの下には無数の青アザと幾つかの裂傷が刻まれていく。


 為す術なく呑み込まれていくさまを眺めながら、悪魔はエクソシストを冷ややかに笑った。


「祈れ。祈れ。どれだけでも祈れ。だが、お前の言葉は虚しいぞ」


 店中に響き渡る嘲笑を耳にする御手洗の額に汗が滲む。聖水のアンプルは割れていない。十字架も首に下がっている。しかし、瓦礫に挟まれて腕が動かせない。悪魔を祓う要素は揃っているが、身体が動かない。押し寄せる重圧よりも、自らへの無力感が御手洗を苛んだ。


 御手洗の胸に黒い影が差しているように、三芳少年の瞳も虚ろに揺れている。圧死寸前の御手洗より早く、少年の心は早く崩れさろうとしていた。


「坊や」


 絶望に対する報酬のように、悪魔は甘美に囁く。


「ごらん坊や。この男は有能なエクソシストだが、それでも私に手も足も出せていない。なにも恐れなくていいんだ。二人っきりで、永遠に美味しいものを食べられる場所に連れて行こう。さあ、手を伸ばしてごらん」


 三芳少年の喉が小さく鳴った。その眼差しは恐怖に縛られながらも、どこか安堵めいた光が宿っている。差し伸べられた手を掴みさえすれば、一切の苦しみは終わるのだ。それを確信させるほど、悪魔の声は優しく甘かった。


 誘惑に駆られる少年に向けて、御手洗は必死に声を絞り出す。


「三芳さん……! 神はあなたを見捨てない。私も、君を――」


 御手洗の言葉は聞こえはすれど、少年には届かない。彼の胸にあるのは、「誰も助けてくれなかった」という深い哀しみだけだった。

 少年の沈黙という否定を見逃さず、悪魔はさらに言葉を畳みかける。


「そうだろう? 親も、神も、誰ひとり坊やを救わなかった。もうすぐ死ぬあの男にも救えない。悪魔に対しての天敵であっても、同じ人間だからね。だが悪魔である私は違う。私は坊やを見捨てない。なにがあっても守ってあげよう。だからおいで、空腹も孤独もない場所へ連れていこう」


 震えながらも悪魔の手を取ろうとする三芳少年を見て、御手洗は圧迫される胸を押し広げるように必死で息を吸い、体内から響く異音をかき消す勢いで叫んだ。


「心を塞ぐな。待ってくれている人がいるでしょう!」

「そんなヤツいるもんか!」


 少年の怒りに応えるように、悪魔は御手洗へさらに家具や什器を積んでいく。天井に届くほどに積まれた重量の合計はトンを超え、押し潰される御手洗の声はか細かった。


「愛菜が待っているんだ。無事に返すのだ。約束を――」


 その名を聞いた途端、三芳少年の心にわずかな光が差し込んだ。

 鮮やかに浮かぶ笑顔。哀れんでいたはずの少女が向けてくれた、まっすぐな声。


「また、遊ぼうね」


 悪魔の囁きと少女の声が、彼の胸の奥でぶつかり合う。

 一方には、甘美な飽食と安らぎを約束する声。

 もう一方には、不器用でも確かな、人と人のつながりの記憶。


 三芳少年は唇を血が滲むほどに噛みしめる。迷いを振り払うように首を振った後、声を張り上げて叫んだ。


「僕は食べたいんじゃない! 生きたいんだ!」


 家具の奔流が止む。山が崩れ、御手洗が転がり出る。

 荒い息のまま、ふらつく足で少年の前へ。悪魔は勝ち誇った笑みを浮かべる——が、御手洗の手元で小さく光るガラスに気づき、身を引いた。


 聖水の入ったアンプルだ。一滴でも浴びれば段階が進む。悪魔が跳ねてから数瞬遅れて、御手洗は先端を折り、聖水を飛ばした。


「いい機転だ、エクソシスト。だが無駄だ。お前はただの——」


 言葉はそこで途切れた。聖水の狙いは悪魔ではない。御手洗は次々にアンプルの先を割り、三芳少年の頭、肩、胸へと聖水を惜しみなく注いでいく。

 最後の一本を使い切り、空の容器が床を転がるころ、少年の衣はすっかり濡れていた。幼子の魂を連れ去ることで勝ち筋を描いていた悪魔は、怒りを飲み下し、御手洗を睨む。勝ちを逸した悔しさと、敗北を認めたくない苛立ちが、牙の奥で熱を孕む。


 咆哮。噴火のように吐き出された火炎が一直線に御手洗へ伸びる。

 目を刺す白光。鼻を灼く硫黄。肺の内側から沸騰させる熱風。カソックの裾が弾け、端から焦げ色が走る。御手洗は一歩も退かない。背後の三芳少年に、「自分は守ってもらえる人間なのだ」と知ってほしかった。悪魔を前にしてこそ苦難を選べば道が開くことを、行いで示したかった。


 天井にシャッと細い音が走り、スプリンクラーが開いた。ここは洋食店だ。建物は人間の造作に従って動く。地獄の炎は検知しないが、燃え上がった布地には反応する。

 霧のような水が降り、カソックの火は瞬く間に鎮まる。だが、地獄の炎は消えない。霊的意味を持たぬ水では、地上の水すべてを以てしても拮抗できない。


「部屋の中で雨とは、奇跡でも起きたかと身構えたが——ただの装置だろう。ならば、そのまま焼け死ぬがいい」


 悪魔の嘲りに、御手洗の眼差しは一筋の迷いも映さない。深く息を取り、唇を開く。


 Dieu qui donnez la vie,

(生命を創り給いし主よ)

 

 肺に残された僅かな空気を振り絞り、御手洗は聖句を詠唱する。水を聖水へ変える、聖職者のみに許された秘蹟。それがどのような水であれ、神の御名によって祝福され得る。


 bénissez cette eau que ceux qui sont appelés par vous puissent vivre de la vie éternelle

(この水を祝福してください、あなたに呼ばれた人が永遠の命に生きるものとなりますように)


 詠唱が進むにつれ悪魔は炎の勢いを強めていく。音は耳を裂き、熱は皮膚を刺す。しかし、どれほどの高温であろうと、神へ祈る者の祈りそのものを焼くことはできない。


 Jésus-Christ notre Seigneur.

(イエス・キリストの名において)


 御手洗は灼熱に紅く輝く十字架を、己の皮膚を焼きながらも、迷いなく掲げた。

 

 Āmen.

(そうあれかし)



 その瞬間、悪魔の喉から悲鳴が千切れ、床に崩れた。聖職者によって祝福されたスプリンクラーの水は、悪魔にとって一滴一滴が矢よりも鋭い苦痛と苛みを与えている。

 聖水の散布。悪魔祓いの儀式第一段階がここに果たされた。次いで悪魔祓いの儀式第二段階である聖ベネディクトゥスへの祈りが始まる。


 Crux Sānctī Patris Benedīctī.

(聖ベネディクトの十字架よ)


 Crux Sācra Sit Mihi Lūx.

(聖なる十字架が私の光)


「私の負けだ、神父。だから解放してくれ。そこの子供からは手を引く。見逃してくれるなら——」


 Nōn Dracō Sit Mihi Dūx.

(虚なものが私を導かぬように)


 Vāde retrō Satāna,nunquam suāde mihi vāna.

(退け悪魔よ、虚しきことを囁くな)


「契約だ。見逃せ。代わりに、他の悪魔どもの居場所を——地上から一掃できる。お前と私なら——」


 Sunt mala quae lībās ipse venēna bībās.

(お前が与えるのは悪しきものだけ、お前自身が毒を飲め)


 EIUS IN OBITU NRO PRAESENTIA MUNIAMUR

(死の時において我らは彼と共にあるだろう)


 悪魔の声に耳も貸さずに、御手洗は儀式の第二段階を終えた。

 神父の説得は無理だと直感した悪魔は、ならばとばかりに三芳少年に声をかける。


「坊や。飢えていたところを助けてやったろう? あの女の子もここに呼ぼう。出たくなったら出てもいい——」


 唇を噛み、爪が食い込まんばかりに拳を握っていた三芳少年は叫んだ。


「帰る。——僕は、約束を守りたい」


 後悔と与えられたものに応えられなかった無念を抱えながらも、三芳少年は未来を選んだ。


 少年の覚悟を見届けた御手洗は十字架を胸前で立て直し、静かに、しかし確かに声を継ぐ。悪魔の最期の時が近づこうとしていた。


 et nunc, et semper,et in saecula saeculōrum.

(原初にあり、今にあり、世に限りなく)


 Āmen.

(そうあれかし)


 そして——音もなく、悪魔は地上から消えた。


「はい。ありがとうございます。詳しい話は明日にでもさせてください」


 受話器を置くと、御手洗は十字を切って神へ感謝の祈りを捧げた。児童相談所への連絡は済んだ。今夜は教会で一時的に預かる――それでいい、と先方も言ってくれた。

 食堂に戻ると、三芳少年と愛菜が二人仲良く並んで座っていた。シスターが気を利かせて、食事の始まりを待っていたらしい。


 細かく刻んだ玉ねぎと人参、キャベツ、セロリが柔らかくほどけている野菜のスープ。レンズ豆のソースのかかった鶏のステーキ。蒸したじゃがいもと小松菜を粗く潰し、レモンと少量のヨーグルトで和えた温サラダ。全粒粉で作ったパン。

 見た目は質素でも、滋養に富み、飽きのこない素朴な美味しさだ。


 いつもしている食前の祈りの前の説教を、御手洗は今日だけやめることにした。料理を前に輝く三芳少年と愛菜の瞳がまぶしくて、ただ、祈りの言葉だけを神へと捧げたくなったのだ。

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無限オムライス対トイレ神父 柏望 @motimotikasiwa

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