ケの日の僕ら

よっしー

第1話 僕らは透明なまま①

 まだ春とは名ばかりの四月初旬、京都にある大学のキャンパスには冷たい風が吹き抜けていた。キャンパスには近代のヨーロッパを彷彿とさせる洋風な建物がいくつも並んでいる。古風な窓枠、アーチ型の玄関、そして足元には丁重に敷き詰められた石畳が広がっている。キャンパスの各所では、いくつものサークルや部活が折り畳みの机を並べ、前を通る新入生に声をかけては、熱心に活動内容を説明している。笑い声や勧誘の声が交差し、熱気と期待が入り混じった空気が、キャンパス全体を包んでいる。

 厚手の紺色のコートに身を包み、ポケットに両手を突っ込んだまま、有馬聡太はひとり、何度もキャンパスを歩き回っていた。どの団体に声をかけられても、胸の奥に小さな萎縮が芽生え、曖昧な返事と作り笑いを浮かべて通り過ぎるしかなかった。これといった趣味も、大学で特別何かやりたいこともなかった。けれど、何かの団体には入っておいたほうがいい。授業やテストの情報を得るためにも、少しでも友人を作るためにも――そう思ってはいたが、どこにも自分には場違いに思えて、結局、一歩を踏み出すことができなかった。

 春の冷たい風が襟元をすり抜け、思わず肩をすくめたその瞬間、ふと視界の端にある文字が目に留まった。

「言語学同好会」

 熱心に声を張り上げるサークルが立ち並ぶなかで、そこだけぽっかりと空いたように人影がなかった。簡素な看板と、白黒印刷のビラがただ一枚、風に揺れているだけだった。看板に書かれた地味な明朝体と、どこか古びた白黒のデザインが、逆に妙に心に引っかかった。

 「……ここに行こう」

 なぜそう思ったのか、自分でもよくわからなかった。ただ、気がつけば足が勝手に動いていて、ビラに記された活動場所へと向かっていた。

 活動場所は「心信館」と呼ばれる建物の一室だった。キャンパスの賑わいから少し外れた、ひっそりとした一角にあり、文学部の教授の研究室が並ぶ静かな空間だ。研究室に付随する形で、学生が自習できる小部屋もいくつか用意されている。

 大通りを外れ、心信館に向かうと、周囲の喧騒が徐々に遠ざかっていった。煉瓦造りの重厚な外観。中へ一歩踏み込むと、冷んやりとした空気と、微かに漂う埃の匂いが肌をかすめた。入口のすぐ右手には、教授たちの郵便受けが所狭しと並んでおり、その教授がいるのかどうかが一目でわかるようになっていた。壁に掛かった古びた案内板で、「言語学同好会」の部屋番号を確かめる。

 指定された部屋の前に立つと、楽しげな会話が扉越しに聞こえてきた。ノックしようとした手が、一瞬だけ宙に浮く。しかし、もう引き返す理由はなかった。

――コン、コン。

「どうぞー!」

 明るくはじけた声が扉の向こうから返ってくる。有馬は少しだけ息を吸い込み、静かにドアノブを回した。

 部屋の中央には、四人掛けの長机がふたつ並べて置かれていた。壁際にはホワイトボードがあり、そこにはいくつかの英語の文章が書き込まれている。その前で、三人の学生たちがリラックスした様子で談笑していた。

 「あ、あの……言語学同好会って、ここで……合ってますか……?」

有馬の視線は定まらず、誰の顔を見ることもできない。声もかすれ、喉の奥で震えていた。

 「うん!そうだよ。もしかして新入生?」

 柔らかな声が、場の空気を軽やかに弾かせた。立ち上がって歩み寄ってきたのは、長身の男子学生。黒髪をすっきりと整え、端正な顔立ちには清潔感がある。グレーのジャケットを羽織った姿は落ち着いていて、その笑顔には、初対面の壁をふわりと溶かしてしまうような、やわらかな安心感があった。

 「来てくれてありがとう!とりあえずここに座って座って」

 言われるがまま、有馬はホワイトボードの前に並べられた席に腰を下ろす。机の上にはノートやプリントだけでなく、専門書のようなものや辞書も散らばっていて、それらが日常的な活動の一端を物語っていた。

「じゃあ、自己紹介しようか。まずは僕らからだね」

先ほどの男子学生がそのまま続けて言う。

 「川村翔って言います。文学部国文学科の4回生で、このサークルの会長をしています。川村先輩でも、翔君でも、呼び方はなんでもいいよ。よろしくね」

 川村はそう言ってにっこりと笑った。その笑顔は、目元から口元にかけて自然に広がるもので、見ているだけでこちらも笑顔になるような力を持っていた。姿勢も声も飾らず、けれどどこか芯のある雰囲気をまとっている。

 「このサークルはね、言語にちょっとでも興味がある人たちが集まって、週に二回、ゆるい勉強会をしてるんだ。真面目なときもあれば、ただの雑談で終わるときもある。だけど、一人でやるより、誰かと一緒に学んだり話したりしたほうが、楽しいと思うんだよね。あと、ガクチカにもなるし――あ、『学生時代に力を入れたこと』ってやつ。就活でよく使うやつね」

 冗談めかした言い方に、場がふっと和んだ。

 「俺の自己紹介はこのぐらいにしとくから、残りのお二人もどうぞ」

 川村が視線を送った先には、無表情な男子学生と、スラリとした体格の女子学生が並んで座っていた。

 「若槻です。三回生。クラシック音楽が好きで、作曲家の言葉を原文で読んでみたくなって、このサークルに入りました。言語そのものにも興味があって……特に英語とドイツ語、ですかね。そんなところです。よろしくお願いします」

 言葉は簡潔だったが、声には揺るぎない自信が感じられた。明瞭で無駄がなく、飾らない話しぶり。その表情には誠実さがにじみ出ており、同時に、他人との間に一線を引くような静かな距離感もあった。

 そして最後に、女性が微笑みながら自己紹介した。

 「天野です。三回生で、英語教育学を専攻しています。将来は中学校の英語教師になりたいと思っていて……このサークルでは、みんなで言語について話したり、教材を一緒に考えたりしています。どうぞ、よろしくお願いします」

 声は穏やかで、耳に心地よく響いた。大きな瞳と整った顔立ち。落ち着いたトーンのロングスカートに、白いシャツを合わせた姿は、まるでファッション雑誌の一ページを切り取ったようだ。洗練された雰囲気がありながらも、不思議と近づきがたい印象はなく、むしろ自然と親しみを感じさせる。

 「有馬くんは、どんなきっかけで来てくれたの?」

その一言と同時に、三人の視線がいっせいに有馬へ向いた。

 緊張で胸が高鳴る中、有馬は少し震える声で自分のことを話し始めた。なぜこの大学を選んだのか、特にこれといった趣味がないこと、けれども孤立したくなくて、どこかの団体に属してみたいと思っていること――。その場の柔らかな空気に包まれ、特に天野の真っ直ぐな視線がまるで優しく背中を押すようで、思わず家族のことや、高校時代の些細な思い出まで話してしまった。

 気づけば話題は音楽や映画、英語教師の夢、さらには大学近くのおすすめのご飯屋さんまで自然に広がっていた。部屋の中はまるで初夏の穏やかな陽だまりのような温かさに満たされ、有馬の胸のざわつきはすっかり消えていた。予定されていたサークルの体験活動は、あっという間に過ぎていた。気がつくと、窓の外には夕暮れの柔らかな光が差し込み、時計の針はすでに夕方を大きく回っていた。

 「じゃあ、そろそろご飯行こっか」

 川村の穏やかな提案に、有馬は一瞬戸惑いを感じたものの、その温かな空気に引き寄せられるように、自然と頷いた。

 サークルのメンバーに連れられて訪れたのは、キャンパス近くの小さな定食屋だった。木の温もりを感じる古民家風の内装で、座敷式のカウンターや、古びたけれど味わい深いテーブルがいくつか並んでいる。ほのかに漂う醤油と揚げ物の香りが食欲をそそった。

 川村は笑みを浮かべながらメニューに目を落とした。

 「ここのから揚げ定食、マジでボリュームがすごいんだ。しかも汁物は追加料金なしでうどんに替えられるから、お腹がパンッパンになるよ」

 「はじめてきました」と有馬が言うと、天野がすかさず反応した。

 「え、本当に?じゃあ定番のから揚げ定食がおすすめだよ。迷ったらこれが一番間違いないから安心してね」

 「.....じゃあ、それにします」

 天野が微笑むたび、有馬の視線は無意識のうちにそちらへと向かった。食事の間、彼女は誰の言葉にも真摯に耳を傾け、穏やかにうなずきながら返事を返す。その視線の合わせ方や柔らかな相槌、ほんの些細な気遣いの一つ一つが、有馬の胸にじんわりと温かく染み込んだ。

 話題は相変わらず雑多で、絶えることなく続いた。若槻が鋭くもどこか憎めない毒舌を口にすると、川村がすかさずツッコミを入れ、天野はくすくすと笑みをこぼす。輪の中で交わされる軽快なやり取りに、知らず知らずのうちに有馬の口元も緩み、自然な笑みがこぼれていた。

 食後、店を出ると、外は既に暗くなっていた。食事を終え店を出ると、すでに夜の帳が静かに降りていた。冷たさを増した夜風が頬を撫でるが、どこか昼間よりも優しく柔らかく感じられた。暗闇の中に灯る街灯が、淡く道を照らしていた。

 「今日は来てくれてありがとう。またいつでも待ってるからね」

川村が手を振ると、若槻と天野も穏やかな笑みを浮かべて軽く会釈した。柔らかな夜の空気の中、それぞれがゆっくりと帰路についた。

 有馬は駅に向かう道を一人静かに歩いていた。足元には、昼間の名残のように、桜の花びらが散っていた。歩道に咲いた小さな春の影を、靴の先でそっと踏みしめた。さっきまでの暖かな空気と、今の冷たい静けさの間に自分の心が静かに揺れているのを感じた。

 部屋に戻ると、コートを脱ぎ、机に置いてあったスマートフォンの画面をつけた。サークル活動でとった集合写真が、すでに川村からグループに送られていた。有馬はそこに写る自分の笑顔を、少しだけ不思議な気持ちで見つめた。そして画面を閉じずに、そのまま川村の個人のトーク画面を開いた。

 一瞬だけ指が止まる。しかし、そのためらいはほんの一瞬だった。

 「今日はありがとうございました。もしよければ、サークルに入会させていただきたいです。」

 送信ボタンを押すと、指の奥がじんわりと暖かくなった。きっと、なにかが少しだけ、変わり始めた気がした。

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