夢幻の糸

灰崎千尋

或る少女

 それは、誰にも知られぬ場所。

 世界の最も深いところ。

 あらゆる時の集積。


 そこには、水晶の寝台が据えられている。

 透き通りながらも硬質なその輝きは、周囲の闇を吸い込み、淡く反射する。まるで時間さえも封じ込め、空間を凍りつかせているかのようだった。


 その冷たい輝きの上に、一人の少女が眠っていた。

 胸元、指先、そして額から、無数の輝く糸が伸びている。それは少女の鼓動、あるいは微かな寝息、まぶたの震えに呼応して、静かに、しかし確実に広がっていく。そして糸は海のように広がり、繭のように絡み合う。

 糸の先では、数多の可能性が絡まり合い、形を成し、消え、また生まれ変わる。ある戦の行方も、ひとりの赤子の生まれる先も、まだ輝きを帯びぬ星の誕生も、すべて糸の中に編み込まれていた。


 それは、誰にも知られぬ場所、であるはずだった。


 少女がもう一人、虚空の彼方から現れた。

 冷たい光に照らされたその輪郭は、眠る少女の影に似て、翡翠色の瞳が心細げに揺れる。

 その足が寝台へ歩み寄るたびに、無数の糸が微かに震え、歓迎するかのようにしゃらしゃらと鳴った。


「これは……いったい何?」


 翡翠の瞳の少女は、糸の海を見つめて息を呑んだ。

 少女がそっと伸ばした手、その指に糸が絡みつく。

 その瞬間、視界がほどけるように広がる。

 町並みを駆ける子供の笑い声、尽きかけた星の緩やかな瞬き、誰かが差し伸べた手が触れる寸前の温もり。数えきれない未来と過去が、色も形も入り混じり、彼女の頭の奥へ流れ込んでくる。


「―――っ……!」


 翡翠の瞳が大きく揺れ、思わず手を引く。糸はするりと指先から離れ、また静かな光に戻っていった。

 彼女は胸を押さえ、深く息をついた。


 そのときだった。

 言葉ではなく、柔らかな囁きのようなものが、彼女の心に直接触れた。


『見えるでしょう、世界が。私の夢が』


 翡翠の瞳の少女は辺りを見回し、やがてその視線は寝台の上へ辿り着いた。眠る少女の表情は穏やかで、ただ深い眠りに沈んでいるようにしか見えない。けれど、その意識は静かに、確かに届いてきていた。


「これが、夢?」


『夢であり、すべて。私が眠り、糸を紡ぐ限り、この世界は続くの』


 その言葉の合間にも糸がゆっくりと伸び、新たな模様を形作る。


「どうして……こんなことを?」


 その問は震えていた。眠る少女の思念は静かに、けれどはっきりと答える。


『これが、せかいだから』


 翡翠の瞳の少女は、眩暈を感じて後ずさった。

 彼女は理解した。世界のすべては、糸に、夢に、少女に、繋がっている。その重みも、痛みも、少女の思念を通じて流れ込んできていた。


『だけど私の夢は、もうすぐ尽きる』


 ぷつり。

 一束の糸が切れて、はらりと寝台のそばへ落ちた。その糸はもはや光を失い、そして最初から何も無かったかのように跡形もなく消えた。

 ぷつり。

 ぷつり。

 どこまでも広がって見えていた糸の海は、ほころび始めていた。


『だから、あなたが来た』


 翡翠の瞳の少女は、足を震わせながら糸の海を見渡した。

 無数に輝いていたはずの糸が、少しずつ薄れていく。その光景は、美しくも恐ろしく、胸の奥に鋭い棘を刺した。


「……だからって」


かすれた声が漏れた。


「どうして、ひとりきりで……世界全部を背負わなくちゃいけないの?」


 彼女の言葉に、糸がざわめく。 


「世界が続くために、ひとりを犠牲にするなんて……おかしいよ。あなたは、私は、夢を見るために生きてるんじゃない。眠るために生まれたんじゃない!」


 声が震え、瞳に熱が滲む。

 眠る少女の思念は、それでも穏やかに流れ込んでくる。


『私は、役目を果たしているだけ。

 これが、この世界のことわり。』


ことわりなんて、壊せばいい!」


 翡翠の瞳の少女は、衝動のままに糸へ手を伸ばした。

 眠る少女の胸に繋がる糸の束を、強く握りしめて引っ張った。その瞬間、目の奥に焼き付くような光景が弾けた。


 ある男の病が治るはずだった未来が、霧のように消えていく。

 一つの星が生まれるはずだった瞬間が、跡形もなく断ち切られる。

 糸を断つということは、可能性そのものを消し去ること――─その現実が、鋭く心を貫いた。


『やめて。あなたを苦しめたくないの』


 眠る少女の思念は、泣き声のように揺れていた。

 だが翡翠の瞳の少女は、その手を離さない。


「苦しんでいるのは、あなたでしょう! ずっと一人で、こんな孤独の中に閉じ込められて……そんなの、間違ってる!」


 言葉は叫びに近かった。

 静謐な場所を震わせ、糸を大きく揺らす。まるで世界そのものが、二人の言葉に反響しているようだった。


 撚られた糸は、まだ眠る少女に繋がっている。

 翡翠の瞳の少女は寝台に乗り上げて、さらに糸束を引っ張ろうとした。

 そのとき、少女の手はもう一人の少女の手に触れかけた。けれどもそこに感触は無かった。体温も無かった。二人の少女の手はそのとき、溶け合ってしまっていたからだ。


 瞬間、少女は記憶を分かち合う。


 まだ幼いころ、陽だまりの庭で駆け回った影。

 誰にも言えず、夜にひとり涙をこぼした心の痛み。

 初めて見た星空に胸を震わせ、手を伸ばした憧れ。

 そしてそれらをすべて織り込んだ夢。


 それは翡翠の瞳の少女の記憶であり、同時に眠る少女の記憶でもあった。

 どこまでが自分で、どこからがもう一人なのか、その境目が滲んでいく。


『……わかるでしょう。私たちは同じ。

 あなたは私で、私はあなた。』


 眠る少女の思念は、もはや遠くではなく、胸の奥から直接響いていた。

 翡翠の瞳の少女は、震える声でつぶやいた。


「……私が……あなた……?」


 答えは返ってこない。けれど、確信が胸を満たす。

 彼女は呼ばれたのではなく、もとからここにいたのだ。

 役目を拒もうとすることさえ、夢の一部。


 その理解が胸に落ちたとき、少女の手から力が抜けた。


『私の夢は終わる。これからは、あなたが紡ぐの』


 眠る少女の思念が、最後の願いのように優しく響いた。


―――ああ、そうか。


 彼女は気づいた。

 あり得た「私」。選ばれなかった可能性。

 それが自分であり、眠る少女なのだと。

 抗おうとした拒絶も、孤独に震えた怒りも、この繭にはすべてが織り込まれていた。

 その糸を否定することは、自分自身を否定すること。

 ならば、受け入れるしかない。


 少女は翡翠の瞳を閉じ、もう一人へ折り重なるように寝台へ横たわった。

 そのからだから、静かに光の糸が伸び始める。

 それは既に伸びていた糸と髪を編むように絡み合い、どこまでも広がっていく。


 二つのからだの境目が滲み、やがて一つになる。

 眠る少女の面差しが淡く溶け、もう一人の少女の中に還っていく。


 糸は再び無数の光を織りなしながら、何事もなかったかのように世界を包み込んでいった。

 途切れたものの代わりに新たな可能性が生まれ、世界は流れを取り戻す。


 そこには、ただ静寂だけが残されていた。

 硬質な寝台の上には、一人の少女が横たわる。

 その胸元、指先、そして額から、淡く透きとおる糸が静かに伸び、空間を埋めていく。


 しゃら、しゃら。


 糸が擦れ合う音は、遠い遠い鈴の音のようで、時間さえも眠らせてしまう。

 少女の顔は安らかで、ただ穏やかだった。

 その夢がどれほどの重みを抱えているのかを、今ここで知る者はいない。


 けれど、糸の先では確かに息吹があった。

 まだ色づく前の花が、ゆるやかに蕾を開こうとしている瞬間。

 小さな紙飛行機が風に舞い、遠くの窓の中に届く未来。

 空を横切る彗星の尾が、誰も知らぬ惑星へ微かな光を落とす夜明け。


 その一つひとつが、まだ形にもならない可能性。

 幾千幾億もの糸の行き先に、果てしない未来が折り重なる。


 ここは、誰にも知られぬ場所。

 世界の最も深いところ。

 あらゆる時の集積。


 その中心で、一人の少女は静かに眠り続ける。

 永遠に夢を紡ぎながら。

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