大好きな彼への小さな決意と、小さな命に穏やかな眠りが訪れるようにと願う彼の話。


今回のお話は、和視点。


弥がリヒトへ加入してきたときのお話です。

――――――――――――――――――――――――



 星が綺麗な夜――。いつもより調子が良くて、そろそろ寝ないとなんて思いながらも、ノートを走るペンは止まらなかった。


 すらすらと白い紙が、文字で埋まっていくのが楽しくて。


 気付けば時計の針は、十二時から二周ほどしていた。


 ――うわぁ、流石にやり過ぎた……。そろそろ本当に寝ないと、まずい。


 部屋の照明を消して、ふかふかの布団へと潜り込む。

 目を閉じればわりとすぐに、眠りの世界へと繋がる扉が見えた。微睡みながら、その扉に手を掛けようとしたその時――。


 ピコン――。


 スマホが、通知を知らせる。


「……こんな時間に……だれ?」

 手探りで起動したディスプレイの眩しさに顔を顰めながら、確認すると綴からのメッセージが二件。

  

 被験体だった男の子をひとり連れて帰るから、容態を見てほしいというものと、遅い時間にごめんね、もうすぐお家につきます。というメッセージ。

 文章が綴らしくて、つい笑みがこぼれてしまう。


「もぉ……綴からじゃなかったら、無視してるくらいの時間だよ……ほんと」

 僕は身体を起こしお気に入りのカーディガンを羽織ってから、静かに部屋を出る。


 出会った頃から憧れで、いつも優しい綴が僕のことを頼ってくれるのは嬉しい。


 甘やかすのが上手で人誑しの彼が、弱音をはいているところを僕は見たことがない。


 だから綴のお願いなら、僕は何でも聞くと決めている。

 

 一度、リビングへと降りて眠気覚ましの珈琲を淹れた。今回は時間の余裕もないから、インスタントの珈琲にしよう。


 お湯を沸かしている間に綴へと返信をして、マグカップを片手に空き部屋へと向かい、綴が連れてくる子を迎え入れる準備を始めたのだった――。



 僕が準備を終えてから五分ほどで、綴は湊と揃って帰ってきた。


 綴の腕の中には、痩せ細った小さな男の子。体中には夥しい実験の痕跡。


 とりあえずベットへと寝かせてもらって、軽く傷の程度を見させてもらう。


 実験の為に着せられていたであろう、簡易的な服からのぞく細い腕には、数年前につけられたであろうものから、ここ数日間の間につけられたであろうものと様々。


 悠や湊のときも、傷はたくさんあった。だけど目の前のこの子には、その比にならないくらいの傷が見て取れて、ぱっと見ただけでも重症だということが分かってしまう。

 

「後は僕に任せて、二人はその間にお風呂入ってきたら?」

「……え、でも……」

「……わかった。そうさせてもらうね」

 少し戸惑う様子の湊と、渋々と言った感じで頷く綴。


「……湊。今、俺たちにできることはないから、ここは和に任せよう」

「二人とも、心配しなくても大丈夫だよ。一回さっぱりしてから、詳しい話を聞かせてほしい」


「わかった……ありがとう、和」

 綴はそう言って、湊もぺこりと頭を下げてから二人は部屋を出ていった。

 

 湊はせっかくのイケメンが台無しなくらい汚れているし、綴も顔に煤がついていた。

 それにこの子のことを心配して、強張ってしまっている二人の顔をこれ以上見ているのが僕には辛くて。


 この子の様子から見ても、きっと大変な任務だったのだろう。


 僕は任務に出ることができないから、その大変さを本当の意味で理解できるわけではなく、想像することしかできない。

 それを歯痒く思うこともあるけれど、無理なことを悩んでも仕方がないからと、最近は前向きに考えてその気持ちとうまく付き合えるようになった。

 

 ――そういえば、僕がそう考えられるようになったきっかけも、綴だったな。

 

 昔、任務で大怪我をした綴は、血だらけで帰ってきて玄関へと倒れ込んだ。

 その日僕は偶々起きていて、物音が聞こえて向かった玄関で見た、照明に照らされたその姿に、息が止まってしまったような錯覚を起こした。


「……あ、れ……なご……み?」

 また心配かけちゃうね……なんて口では明るく言いながらも、苦しげに眉を寄せて静かに目を閉じている。


 着ていたトレーナーの袖は破け、そこから見えている腕には赤い線。


 脇腹の辺りには、深い切り傷。顔にも一筋、赤が滲んでいる。


 ――止血も、できてない。


 頭がパニックを起こしかけて段々と白んでいくが、なんとか必死に意識を繋ぎとめる。

  

 止まらない血とそれによって広がる赤い染みに、僕は泣きながら能力を使った。


 自分のことなんて頭になくて、必死に裂けてしまった皮膚を繋ぎ合わせていく。

 それでも傷の程度が酷くて、一瞬でも力を緩めれば傷口からはすぐに血が滲んできてしまう。


「なんで……なんで、お願い……塞がってよ」

 声が震えて、涙がぼろぼろと頬を伝っていく。段々と、ぼやけてしまう視界で僕は無我夢中で能力を使った。


 ――綴に傷が残らないように……痛くないように。


 力になれない自分が情けなくて、もし綴がいなくなってしまったらどうしようという不安に飲み込まれたあの時の僕の心は、自分のキャパシティを超えてしまったのだと思う。

  

 何とか全ての傷を治し終えた後――。綴が僕の方へそっと、手をのばしてくる。


「……ありがと……心配かけてごめんね、和」

 横たわったまま、少し困ったように目元を下げる綴に、僕はぶんぶんと音がしそうなほど大きく頭を振ることしかできない。


「和のおかげで、もう痛くないよ」

 いつもみたいに、にこりと笑ってくれた綴の様子に少し安心して、立ち上がろうとした瞬間。


 ぐらり――。


 体のほうにも限界が訪れたのか、世界がぐにゃりと歪んだ。


 ――まずい。やりすぎた……低血糖だ……。


 体が前に傾いて倒れそうな時、ぐっと引き寄せられて温かいものに包まれる感覚。


 綴の服からこの距離まで近付かなければわからないほど微かに香る、香水の匂いがふわりと鼻に届いて、その体温だけがやけに、鮮明に感じられた。


「……なごみ?! し……か、りし……」

 綴の声が段々と遠くなって、見ている景色が暗くなってくる。


「……つ、づり……だ、め……ま、だ……うごいちゃ……」

 体に力が入らなくて、呼吸が浅くなっていくのが自分でもわかった。


 治癒を終えられた安堵と、能力の代償である低血糖が引き起こす倦怠感が、一気に押し寄せてくる。


 ――なんで僕のほうが、綴に心配かけちゃうんだよ……。

 大丈夫だよ、心配しないで。なんていう言葉は、喉に張り付いてしまったようで、うまく音にならない。

 

 熱が引いて世界の色が遠ざかり、体は震えてしまう。こういう大切な時に、ちゃんとできない自分がむかつく。


 唇に何かがふれた感覚がして、次の瞬間には甘いものが喉をゆっくりと流れていった。


 ――ガムシロップ……?

 

 その甘さは凍りついてしまっていた体の熱を、僅かに取り戻してくれる。


 前に緊急時に使おうって言って、綴や調と少し練習をしていた応急処置方法のうちのひとつ。

 そしてその後、実際に僕はこれで何度か助けてもらっている。

 

 ここまで重度なのは、流石に初めてだけど……。


「……綴、ちゃんと……持っててくれたの?」

「和に何かあった時、絶対に必要だからね」

 大好きな綴の、優しい声。


 僕がいるわけじゃない任務のときにすら持っているということは、本当にずっと常備してくれているのだろう。


「……ありがとう、綴」 

 僕は最後にもう一度、綴の香りを確かめるように息を吸って、その温もりに包まれたまま意識を失った。

 

 まぶたの裏にうっすらと光が滲んで見えて、目を開けると夜の名残を溶かすような朝の光。

 見慣れた天井をどこかぼんやりとした意識の中で見つめながら、ざっと記憶を整理しようと思考を巡らせる。


 ――そうだ、僕……能力を使いすぎて、低血糖を起こしたんだった……。


 毛布の端に触れる指先は、自分のものじゃないみたいに重い。


 ――僕の部屋……? ……綴!

 

 ぼやっとしていた意識だけが一気に覚醒して、気怠い頭を動かして周囲を見回すと、ベッドのすぐそばでうたた寝をしている綴の姿を見つけた。


 椅子に座ったまま腕を組んで上体を前に傾けている綴の胸の辺りは、ゆっくりと規則的に上下している。

 

 それに僕は、泣きたくなるほど安心した。


「……ねぇ綴、起きて……」

 声は掠れてしまって、自分でも驚くほど小さかった。

 

「んぅ……?」

 なのに綴はすぐに反応して、顔を上げる。


「……なごみ、おきたんだね……よかった」

 眠たげな雌雄眼は一瞬で焦点を取り戻して、すぐにふにゃりと音のしそうな安堵の笑みを浮かべた。


「体はだいじょうぶ? つらくない?」

 そう言いながら、僕の額に手を伸ばしてくる綴。

 

 温度を確かめるような仕草からは、優しさが伝わってくるようで。

 数時間前までの面影なんて、どこにも残っていなかった。


「ごめん……綴」

 僕がそう、小さく呟くと綴は苦笑する。

 

「ううん。俺も心配かけてごめんね……ありがとぉ」

 ふわふわといつもみたいに優しく笑ってくれる綴の姿を見たら、胸の奥がきゅっと締めつけられて涙腺が勝手に熱を帯びてくる。


 綴があんなに血を流して帰ってきて、治せたのはよかったけど、今度は自分が倒れて。

 なのに綴は自分のことなんて気にもせず、何よりも先に僕のことを心配してくれる。

 そうして目が覚めるまで、そばにいてくれた。


「……綴……よかった」

 そんな僕の言葉に、綴は少し困ったように笑う。


「和のおかげで、もう痛くないよ。だけどね、無理はしちゃだめ」

 静かな朝の空気が僕たちを包んでいて、昨日の傷も、夜の出来事もまるで全部が夢だったみたい。


「……ごめんなさい。だけどそれを言うなら綴もだよ……どれだけ怖かったか……」


 ――本当に、すごく怖かった。

  

 みんな僕の体を心配して、あまり治癒の能力を使わせようとはしない。

 僕の能力はあくまでも「治癒」だ。現状、無くなった部分を再生したり、血液を増やせるわけではない。


 だから誰かが大きな怪我をして、もし僕がそこに間に合わなかったら?

 考えるだけで、怖くてたまらない。

 

「うっ……そうだね……」

 

「でもね……和がいるから無茶できる、とかじゃなくて……和がいるから安心して、辛い目にあっている子たちを俺は助けられるんだよ」

 そんな風に真剣な表情で、綴は言った。


 その言葉は僕の心の奥にあって、ずっと名前をつけられなかった雁字搦めになってしまった何かを、ほどいてくれる。


 体が弱い僕はずっと「守られる側」だった。

 

 だからといって腫れ物扱いをされるわけでは決してなかったが、いつだって綴や調は僕の体を優先した。


 任務で怪我をして帰ってきても、大きなものでなければ、二人は僕に報告してくることはない。

 

 十五歳になって「蒼」の等級を付与されても、僕は前線で戦うことができないから、大規模な任務の救護班や作戦立案など、裏方のサポートを主にしてきた。


 もちろんそれだって大切なことで、任務を遂行する上で必要なものだ。


 それは僕もわかっている。それに分析や研究も得意な方ではある。


 だけどやっぱり多くの任務をこなし、最前線で戦う調や綴を見ていると、僕だけがその場に取り残されるような焦燥感のようなものが積もっていく。


「和がいるから、助けに行ける」

 だけど全然、そうじゃなかった。綴の一言はまるで、僕の形容できない気持ちをすべて包み込んでくれるようだった。


 ――僕は、綴の背中をちゃんと支えられてるんだ。


 そう思った瞬間、少しだけ息がしやすくなったような気がして。

 任務に行けない歯痒さが、なくなるわけじゃない。だけど、それを違うところに昇華させられるような気がした。

  

 だから僕は、僕に与えられた役割を全うする。それが、大好きな綴のためになるのだと信じて――。

 


「そんなことも、あったなぁ……」

 そんなひとりごとをこぼしつつも、僕は深く息を吸ってから、目の前の男の子の治癒を始める。


「すぐ痛くなくなるからね……大丈夫だよ」

 小さく囁きながらふれた彼の肌は、冷たくて。能力を使う時、手のひらがじんわりと熱を持つ。

 その熱が傷に染み込んでいくように広がっていくと、傷は塞がる。


「こんな、小さいのに……」

 見ているこちらが、苦しくなるほどの傷の数々。拘束されていたような痕に、打撲痕や注射痕。

 目の前の小さな体にはあまりにも多くの痛みと、怯えの痕が多く残されていた。


 ひとつ、またひとつと治すたびに、彼の呼吸は落ち着き表情も穏やかに変わっていく。

 そんな様子に安心するが、どうしてもいくつかの古い傷は痕として残ってしまう。

 肌に深く刻まれた、火傷や切り傷。


「……やっぱり……もう、時間が経ちすぎてる」

 あの頃よりも出来ることは増えても、何年も前から蓄積した傷は今の僕の力では、綺麗に治すことができない。


「……痛くなくても、消してあげられないんだね」

 呟いた声に、悔しさが滲む。それはギフトとしての未熟さと誰かを救いたいと願う、自分の限界を痛感させられた痛みでもあった。


 それでも、綴が救ってきた命を繋ぐことはできた。それが今の僕の戦い方。


「ここではもう痛い思いも、怖い思いもしなくていい……」

 そんな約束のような言葉を、僕は呟いた――。 


 小さなノックの音が聞こえて、静かに扉が開く。


「……和、様子はどう?」

 綴がそっと部屋を覗き込んできて、湊と一緒に入ってくる。


 綴の表情には任務明けの疲れが色濃く残っているのに、目だけは真っ直ぐに彼のことを見つめていた。


「……最近の傷は全部治せた。だけど……古い傷は完全には消えてくれなかった」

 自分の声が情けなく、掠れてしまう。


「……ごめん、綴。僕の力じゃだめだった」

 視線を下げて見えた小さな体には、綺麗に消してあげることができなかった古い傷。

 

「和」

 綴に名前を呼ばれて僕は、ぱっと視線を上げる。


「ありがとう。和がいたから、この子はもう痛くない。それだけで十分に救われる」

 その優しい声に、言葉に心が熱くなる。


「すごいね、和くん」

 湊も小さく頷きながら、そう言ってくれた。


 二人の言葉に僕は何も言えなくなってしまって、唇を噛む。

 悔しさも、安堵も入り混じったまま。


 だけど今はただ、この小さな子が安らかであるようにと祈るだけだった――。


 その後、僕は用意していた透明な袋に満たされた点滴液を持って、慎重に器具の接続を確認する。


 ――針、チューブ……それから、液体は気泡を残さずに流れてるから大丈夫……。


 何度もしてきた動きなのに、心の中はいつも少しだけ緊張してしまう。


「ごめんね。ちょっとだけ、ちくっとするからね……」

 声をかけながら、細い腕に針を刺す。まるで壊れ物のような薄い皮膚に、この子の体は生きるために限界まで削られてきたことを改めて痛感させられる。


 点滴が静かに滴り始め、落ちていく一滴、一滴がこの子の命に繋がっているような気がして、僕はしばらくそれを見つめていた。


「ねぇ、綴。聞きそびれちゃってたけど、この子の名前は何ていうの?」

 針をしっかり固定しながら、静かに聞く。


あまねって言うんだって」

 綴の声は、ただひたすらに優しかった。

 

「そっか、君は弥っていうんだね……綺麗な名前だ」


 ――よくがんばったね、もう大丈夫だよ。

 

 そんな気持ちを込めて、そっと髪をよけてあげたときにふれた指先から伝わる体温は少し驚いてしまうほどに低いが、それでもこの子は生きている。


「僕が様子を見ておくから、綴と湊は休んで。二人とも限界でしょ?」

 振り返ってふわりと笑うと、綴は一瞬、何かを言いかけたが、弥の様子を見て短く息を吐いた。


「……わかった、何かあったらすぐに呼んでね」

「うん、わかった。僕がちゃんと起きてるから、安心して休んで」

 湊も小さく頷いて、綴と一緒に部屋を出ていく。扉が静かに閉まると、辺りを静寂が包みこんだ。


 僕は弥の状態を簡単にまとめようと、タブレットを取り出し、体温や脈拍、呼吸などを記録するために指を動かす。

 この子がここまで傷つくのに、どれほどの時間があったのだろうか。

 

 考えるほどに、胸が痛んだ。


 備考欄に「今は落ち着いて眠れてる。どうか、怖くない夢を見ていますように」

 そんな一文を書いてみる。


 ――これじゃあ、日記みたいだな……。


「きっとこれがいつかこの子たちの、ここまで頑張ってきた証になるね」

 少し前、似たような文章を書き添えていたのを、偶々見た綴が言ってくれたのだった。

 

 それからは、悠や湊の時もこうした言葉を添えるようにしていた。


 守るための記録――。成長して大人になったとき、外の世界で自分の人生を選んでいけるようにというお守りのようなもの。


「……大丈夫、君はもうひとりじゃないよ」

 寝息を立てている弥に小さく呟く僕の声は、静かな夜の時間に溶けていった。

 タブレットを閉じて、明かりを少し落とす。座っていた椅子を壁側に寄せて、弥の様子が見える距離で腰を下ろすと、自然と体の力が抜けていく。

 

 ――どうか、弥の眠りが穏やかでありますように。


 


 窓の外が白んできて、夜が明ける頃――。うとうとと微睡んでいた意識が、ふと覚醒した。


 ――ん……あれ、僕……知らない間に眠っちゃってたのか……。

 

 気付けば一度淹れなおした眠気覚ましのための珈琲もぬるくなってしまっていて、差し込む淡い光が部屋の中を優しく照らしていた。


 弥の様子を見るとよく眠れているようで、そっと毛布をかけ直してから、僕は部屋を出る。


 必要なことを済ませ部屋へと戻った僕は椅子に座り、葵が薦めてくれた小説を片手に弥の様子を静かに見守っていた。


 ふと視界の端で弥が動いたのが見えて、それからすぐに布の擦れる音が耳へと届く。

 

「……っ」

 何かあったのかとそっと覗き込むと、大きな瞳は開かれていた。

 目覚めてくれたのが嬉しくて、僕は軽率に声をかけてしまった。


「あ、起きたの?」

 その瞳がこちらを向いて、僕を認識した瞬間――。怯えの色が浮かんだのがわかる。


 ――しまった。


「やだ……たすけて、……!」

「いやっ、やめてっ……こないで!!!」

 鋭い声が聞こえて、弥が暴れて引っ張られた点滴の管が、かたんと揺れて勢いよく針が抜けてしまう。


 ――まずい……はやく止血しないと……。


「大丈夫だよ、弥。僕は何もしないから、落ち着いて……」

 とにかく落ち着かせようと両手を上げて距離を取り、話しかけるが弥には全く聞こえていない。


「……弥?!」

 その時――。泣き声が聞こえたのか、綴が部屋の扉を開ける。


「……つづりさ……?」

 綴の声に弥の動きが一瞬、止まった。

 

「……っ、たす、けて……!」

「おねがい……もう、……あそこ、には戻りたくないの……」

 弥はふらふらとベットから降りて、綴へと縋り付くように助けを求める。

 綴はそっと、その小さな体を抱き上げた。弥はしばらく涙を流したあと、泣きつかれてしまった小さな子のようにゆっくりと瞼を閉じた。


「ごめん、綴……僕が驚かせちゃった……」

「和のせいじゃないよ」 

 綴はそう言って、首を振った。弥は涙の跡を頬に残したまま、綴の服をぎゅっと掴んでいる。

 点滴の針が抜けてしまったところには、血が滲んでしまっていて、僕はそこにそっと手を当てた。


 皮膚がゆっくりと再生して、傷は綺麗に塞がった。


 だけど古い傷を綺麗に治すことができなかったように、物理的に見ることのできない心の傷の治癒はもっと難しい。


「弥の体はもう何年も、限界の上で耐えてきたんだ……」

 そんな誰に言うでもない僕の言葉は、虚しく響いた。

 

 綴はそっと、ベッドへ弥を寝かせて髪を優しく撫でる。


「……大丈夫だよ、もう怖くないからね」

 綴が囁くと、弥の眉が少しだけ緩んだように見えた。


「……和」

「どうしたの?」

 振り向いて僕の名前を呼んだ綴の表情には、どこか影が差していて、何かを口にする事を迷っているような沈黙が流れる。


 ぽつり――。そんな音が聞こえてきそうなくらい静かに、綴は呟く。


「……ごめんね……いつも、辛いことを任せてしまって」


 僕の頭がその言葉を認識した瞬間、心がぎゅっと締め付けられた。


 ――その言葉だけは、聞きたくなかった。


 なぜ綴がその言葉を口にしたのか、理由もわかっている。

 それでも、僕は嫌だった。


「……やめてよ」

 自分でも驚くくらいに掠れた、情けない声が響く。


「僕は……綴に謝られないといけないようなことを、しているわけじゃない。それに、嫌々やってるわけでもない」

 綴が、目を見開く。その瞳の奥には優しさも、迷いも感じられて、揺れていた。


「僕は綴がいてくれるから、ここにいられる。任務に行けない僕の居場所を作ってくれたのは綴なんだよ」

 お願いだから、それを綴が否定しないでよ……。


「……そう、だね……俺、和の気持ちを考えてなかった」

 一瞬、僅かに息を詰めた綴は、静かに目を伏せてから言った。

 

「ごめんね……ありがとう。和がいてくれて、よかった」

 そう言ってふわりと笑った綴に、僕は目の奥が熱くなってしまう。僕はそれを誤魔化すために、唇を噛んだ。


 そして気付けば僕の右手は綴の袖を掴んでいて、ほんの少しだけ離れたくない、なんて思ってしまった。


 そのまま手を引かれて、綴にそっと抱きしめられる。成長して僕のほうが少しだけ背が高くなったけど、包まれる感覚は昔とは変わらなくて。


 ゆっくりと息をすると、安心できる優しくて甘い匂い。

 懐かしくて、落ち着く匂い。


「……もう少し、このままでもいい?」

 小さくなってしまった声を、綴はしっかり拾ってくれる。


「いいよぉ」

 穏やかな声が心に優しく染み込んでくるようで、抱き寄せられた温もりの中で目を閉じれば、綴に救われた日の気持ちがよみがえる。

 

 初めて出会った日のこと。僕が大切にしている言葉をくれた日のこと。


 ――やっぱり、綴がいるから僕は頑張れる。


 そう思いながら、綴の首元に小さく顔を埋めた。


 綴の体温はこの世のどんなものよりも優しくて、ようやく心の奥にあった痛みが引いていくのを感じた。


「和。ここは俺が変わるから、ゆっくり休んでおいで」

 そう言って優しく微笑む綴はいつもと変わらないはずなのに、僕にはどこか無理をしているようにも見えた。


「……うん」

 本当はもう少しそばにいたかったけど、綴の気持ちを思えば、頷くしかなかった。


 弥の寝息が微かに聞こえる中、部屋を後にした僕は静かに扉を閉める。

 廊下へ出ると冷たい空気が頬を撫でていって、緊張が解けたせいか足元は少しふらついてしまった。

 

 一度、深呼吸をしてから、前を向こうとしたその時――。


「……もっと早く見つけてあげられなくて、ごめんね……弥、軽すぎて不安になっちゃうよ」

 聞こえてしまった綴の声は、怒りとも悲しみともつかないものだった。


 僕はその声を、目を閉じたまま聞いていた。綴の優しさはいつも、痛いほど真っ直ぐなものだ。


 誰かを守ろうとして、自分のことを後回しにしてしまう。


 僕はその優しさが、すごく怖くなることがある。いつかその優しさによって、綴がふわっといなくなってしまうのではないかと。


 誰かがそばにいないと、きっと綴は無理をする。そして、本人にその自覚はない。


「……もう、大丈夫だからね」

 その言葉が聞こえた後、僕はそっと扉から離れて、自分の部屋へと静かに歩き出す。


 眠気よりも心の奥のざらざらとした感情の方が、強くて。


 ――僕も綴を守れるように、強くならなければ。


 静寂に包まれる廊下で、そんな小さな決意を胸に抱いた。

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