やっと、自分の居場所を見つけることができた彼の話。
今回は、湊視点。
過去に湊がリヒトへ入るまでのお話と、悠と仲良くなるきっかけの物語です。
―――――――――――――――――――――――
目が覚めた三日目の朝――。
和くんと話した後、俺は「ギフト適応反応測定検査」を受けることになった。
検査内容は、採血と能力値のスキャン……らしい。
和くんが注射器や機械を持って、俺の部屋に来てくれた。綴さんも一緒で二人の雰囲気も相まって、検査の緊張感は少し和らいだ。
「湊、心配しなくていいよ。少しチクッとすると思うけどすぐ終わるからねぇ、だいじょーぶ」
綴さんがそばにきてくれて、俺を安心させるようにふわりと笑ってくれる。
「はい……」
「湊、利き手どっち?」
「……右手です」
じゃあ、左手だしてね。そう言われて、素直に腕を差し出すと和くんは手際よく俺の腕に針を刺した。
痛みは殆どなくて透明な管の中を血が静かに流れていく、採られる量は少しだけ。
その様子を俺は、ぼぉーっと見ていた。
注射針が抜けたところに、優しくそっと絆創膏を貼られる。
「これで血液中の神経伝達因子の値を調べるからね」
和くんの声は落ち着いていて、言葉は難しくて理解できなかったけど信用はできた。
「後はこのスキャン装置を使って、適応指数を測定したら終わりだよ」
そう言って和くんが取り出したのは、小さな機械。薄い金属の輪を手首にはめられて、その少し上に電極パッドのようなものを貼られる。
「じゃあ、測っていくからね」
和くんが手元のタブレットを操作すると、静かに脈を取るような感覚が伝わってきた。
「痛みはないから、ゆっくり深呼吸しててね」
和くんに言われた通り、息を吸って……吐いてを繰り返す。
手首の奥に微かな熱を感じて、ほんの一瞬……身体の中に光が流れ込むような錯覚。
「……適応指数は八十三……平均値より少し高いね」
「八十三……」
自分のことなのに、実感は全く湧かない。
「この数値の平均は八十二なんだけど、何か能力の片鱗に思いあたったりはする?」
「……いや、特には……」
「そっか、数値的には覚醒してるはずなんだけど、まだ出てきてないのかな……」
綴さんはお疲れ様と言って、ペットボトルのお茶を渡してくれる。
「波形反応的に、植物系統の能力である可能性が高いかな……あとおそらく覚醒したのは、ここ数ヶ月の間だと思う」
和くんが、言葉を選ぶように告げる。
――ここ、数ヶ月。と言っても、俺はその間に自分に何があったのかを、全く思い出せない。
「だいじょーぶだよ、湊」
背中にふれてくれた綴さんの手の温かさに、不安がふっと溶けていく気がした。
「そうそう、それに植物系統の能力は暴走することは殆どないから、ゆっくりと発現を待てばいいよ」
和くんが装置を外しながら、穏やかに言う。
「……あの、数値っていうのは……」
「あ、そうだ、そのことを説明してなかったね……」
適応指数というのは、零から百までの数値で表されている。
覚醒の可能性が少しでもあれば適応反応として必ず一以上の数値が出るが、素質が全くなければ生涯を通して零と決まっているらしい。
少しでも可能性があれば一から二十程度。
五十までは可能性があるだけで絶対に覚醒をするわけではなく、五十一から六十九の数値で覚醒待ちの「未覚醒者認定」を受けることになる。
七十以降の数値で「ギフト能力保持者」として、認定をされるという。
そして先程言っていた覚醒者の平均数値が、八十二。
そしてこのアジト内で現在一番高いのが、調さんの九十六。適応値だけでみればリヒトの組織内でも一、二を争う高ランクのギフトなのだという。
ただそれは調さんには、絶対に禁句だと教えられた。
「適応値はあくまでも、覚醒しているかどうかを調べるためのものだから、そこまで気にしなくていいよ」
数値が高ければ高いほど能力は強いものになるそうだが、必ずしも能力の強さだけが数値に表れるわけではなく、サクリファイスといわれる代償の大きさも数値に反映される場合があるらしい。
「それに、数値が高いほど良いっていうわけではないんだよ……能力が高ければその分、体や精神への負担も大きくなるからね」
和くんが見せてくれたタブレットには、全員の数値が記載されている。
調――九十六。綴――九十三。燎――八十九。
和――九十二。葵――九十五。桜――八十八。
悠――八十一。
和くんはそっと、俺の手から端末を回収する。
俺が不安を感じないように、だけど嘘はつかないようにと配慮してくれているのがわかる。
「……わかった……ありがとう」
「じゃあ僕は結果をまとめたいから、またあとでね」
そう言って、ひらりと手を降って和くんは部屋から出ていった。
「湊、晩ごはんまで少しお昼寝する?」
綴さんのふわりとした声が落ちてきて、肩にそっと手を置かれる。
その体温は、どこか眠気を誘うような優しさがあった。
「あの……少し風にあたってきてもいいですか?」
少し驚いたように綴さんは目を瞬かせたあと、すぐにふわふわと微笑んでくれる。
「うん、いいよ。でもあまり長くは、ならないようにね」
そう言って俺の頭を軽く撫でてから、部屋を出ていった。
それからしばらくして、俺はリビングへと降りて中庭へ出る。
風が心地よくて、静かで――。
ベンチへと座りそっと目を閉じて深呼吸をすれば、体の中の空気が入れ替わるような感覚がした。
ふと見た目線の先には、花の蕾。
――植物系統の能力……ということは、花を咲かせたりできるのだろうか。
少し興味が湧いてその小さな蕾にふれてみた、その瞬間――。
指先に熱が広がり、花びらが震えるようにして開いた。
――え、花……俺が……?
美しく咲いた白い花びらが陽の光を浴びて、風にふわふわと揺れる。
あの瞬間、自分の中で何かが反応したのはわかった。だけど不思議と、怖くはなくて。
嬉しさや悲しさみたいな名前の付けられる感情ではなくて、形容できない感情がふわりと心の奥を通り過ぎていく。
俺が指先を離しても、花はそのまま咲き続けている。
「……ごめんね、びっくりしたよね」
誰にともなく呟いた言葉は、柔らかい風にすっと溶けていった――。
「湊、ご飯の後に少し時間をもらえるかな?」
そしてその二日後。俺がここへ来てからは五日目の夜、調さんにそう声を掛けられた。
そして約束通り、ご飯の後に待っていると綴さんが現れる。
「湊、時間とってもらってごめんね。調もう少しで来ると思うから、ちょっとだけ待っててね」
「はい……」
――何を……言われるのだろうか。
元気になったのなら出て行けと、そう言われてしまうのだろうか。
聞くのが少し怖くなって、逃げ出したくなる。
ガチャ――。
廊下へ繋がる扉が開き、コンビニの袋を抱えた調さんが入ってきた。
「ごめん、遅くなった……湊、ほうじ茶は飲める?」
「えっと……その、飲んだことがなくて……」
「そうか。じゃあちょっと甘めにしてみようか」
そう言って調さんは、キッチンの方へと入っていく。
「ふふ。ごめんね。調は湊に、ほうじ茶ラテを作ってあげたかったらしいんだけど、牛乳切らしてたのにさっき気付いて、慌てて買いに行ってたの」
まるで内緒話でもするかのような綴さんは、ふわりと笑って調さんのいるキッチンの方へ顔を向ける。
その視線は、すごく優しいもので。そんな綴さんの様子に、少し緊張がほぐれていくのを感じた。
「……ねぇ、湊。君はここに残りたいと思う?」
甘く柔らかな綴さんの声で、静かにそう聞かれた。さっきまで調さんの方を見ていた特徴的な非対称の瞳は、真剣な色を浮かべてこちらを射抜いてくる。
どう答えていいのか、答えるべきなのか。それがわからなくて。
「……綴、聞くのが早い」
調さんが俺の目の前に、ことん。とマグカップを置いた。
「あは、ごめんねぇ……」
「まぁ、湊。これでも飲んで」
「……ありがとうございます」
マグカップを持ち上げると湯気と共に、香ばしい匂いがふわっと香る。
どこか懐かしいような、包み込んでくれるような、ほっとする優しい香り。
一口飲むとお腹の中に温かいのが広がっていって、強張っていた体の力が僅かに抜ける。
「……湊」
俺を呼んだ調さんの瞳は痛いほどに真剣で、思わず息をのんでしまう。
「俺たちはね、湊にここへ残ってほしいと思っているんだ……だけど、どうするかは誰でもない湊自身に決めてほしい」
――俺が決めていい。
「リヒトでは、基本的に任務の参加は本人の意志で決めてもらっているんだ。戦うことは義務ではないから、本人が望まない限りは誰も戦わせたりはしない」
その言葉は、凄くまっすぐなものだった。
「……俺、戦わなくてもいいんですか?」
調さんは、迷いなくうなずいた。
「ここでは、湊自身の選択が一番に優先される」
――俺自身の選択とは……。何を選べば正解なのか。それが、俺にはわからない。
今までの俺は、こういう時どうしていたのだろう。
俺は過去を思い出せないから、本当は選んだことがないだけなのかもしれない。
頭の中でぐるぐると考えていた俺と、この場の空気を和らげるように、綴さんがふわりと笑った。
「つまり調が言いたいのはね、自由でいいっていうことなんだよ、湊。ここでは誰かのために動くことも、自分のために休むことも、どっちも間違いじゃないの」
その声はあたたかくて、心にすーっと沁みていくようで。
命令ではない言葉――。
「……俺、わからなくて……お二人のように強くもないし……人に優しくできるかも……」
綴さんは、ゆっくりと首を横に振った。
「湊。強さってね、人によって違うんだよ。みんなそれぞれ得意不得意があって、怖くても前に立てる子もいるし、前には出れなくてもそばにいることで誰かを救える子もいる。だからそれを焦らなくていい」
「それに湊は、十分過ぎるほどに優しい子だよ」
綴さんの言葉に調さんも、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「綴の言う通りだ。ここではできないことより、どう在りたいかの方が重要なんだよ」
俺はそっと、自分の手のひらを見つめた。
もし、俺が持つ力をこの人たちのような優しい人たちの為に使えるのなら……。
誰かを助けることができるのなら……。
記憶の取り戻せない俺でも、ここにいていいのだろうか。
「……俺は……ここにいて、いいんでしょうか」
思わずこぼれた声は、微かに震えてしまった。
「「もちろん」」
二人の瞳はとても優しくて、まるで俺が感じている不安をまるごと包み込むようで。
「いいに決まってるでしょ。ここは、誰かのためじゃなくて、自分のために生きていい場所なんだよ、湊」
だからどうしたいかは、湊が決めていい。
綴さんのそんな優しくあたたかい言葉は、泣きたくなるような響きをしていた。
「湊の力はきっと、誰かを守れるものだ。だけど今は何よりまず、自分を守るために使ってほしい」
そこに調さんの声が、静かに重なる。
調さんの誠実な言葉と、綴さんの優しい言葉。その選び方はどちらも違うのに、それが不思議と安心感に変わった。
「無理して強くなんて、ならなくていいよ。お花が開くみたいに、ゆっくり進めばいいんだよ」
その優しさが、言葉が、無意識に鍵をかけた心の奥にじんわりと広がる――。
そうして俺は正式にリヒトへの加入が、決まったのだった。
俺は助けられた日に運ばれた部屋を、そのまま使わせてもらうことになり、少しずつここでの生活にも慣れ始めていた。
そんな頃、俺にはひとつ目標があった。
それは、悠と仲良くなるという事――。
あの時、助けてもらったこと。目覚めた時に見た青い花と、手作りの猫のドーナツ。
「あの、これ……おれがかいたの」
緊張した面持ちで、そっとお皿に乗った猫のドーナツを差し出してくれた。
「ありがとう、かわいいね」
そう言った俺に、ふわりと嬉しそうに笑ったその顔がずっと、頭から離れない。
改めてちゃんとお礼を言いたいのに、どうしても上手くいかない。
仲良くなりたくて声をかけようと近づくのだが、悠はいつも小さく肩を跳ねさせて、子猫みたいな速さで俺の前から逃げてしまう。
たぶん、俺のことが怖いのだろう……そしてそれは無理もないとも思う。
俺は背も高いし、声も低い。俺にそんな気はなくても、小さい子から見れば威圧感を感じてしまうかもしれない。
――どうしたら、怖がられないんだろうか……。
悠がリビングにいるそのたびに、話しかけるタイミングを見計らってはやめてを繰り返し、俺は何度もチャンスを逃していた。
そんなことが続いていたある日――。天気の良い昼下がり、窓の外には柔らかな日差しが降り注ぎ、心地の良い風がカーテンを揺らしている。
俺は調さんからもらったお菓子を手に、中庭へと出ようとしていた。
そんな時、リビングに敷かれたふわふわのラグの上に悠の姿を見つける。
「あ、悠」
振り返った悠は、少し困ったような表情を浮かべたように見えた。
「あ……えっと、こんにちは」
悠は小さく呟いて、自分の足元を見つめてしまう。
流れる沈黙――。
「こんにちは……その、今日良い天気だね……」
「……うん……そうだね」
出来るだけ怖くないように優しく声をかけてみたつもりだが……やはり今日も、あまり良い返事は貰えなくて。
――うーん。今日も駄目か……。
ふと綴さんからも、調さんからも言われていたことを思い出す。
「悠は凄く繊細な子でね、慣れるまで時間が掛かるかもしれないけど、ゆっくり待ってあげてね」
「悠は湊の事が嫌いなわけじゃないから、それだけは分かってあげてほしい」
だから、少し聞き方を変えてみた。
「悠、一緒にお菓子食べない?」
少し緊張気味に差し出した紙の袋の中には、調さんの手作りメロンパン。
ほんのりと温かくて、甘い香りがしている。
「あ……えっと、おれさっきたべちゃって……」
悠は目を伏せて、微かに唇を動かした。
「あ、そうなんだ……」
手元のメロンパンを見つめて、俺は少し考える。
「じゃあ、俺の半分食べる?」
「……え? いいの?」
目線を合わせるためにしゃがみこんで聞いてみると、悠は驚いたように顔を上げて、俺の方を見てくれた。
青いレンズ越しの美しい瞳が嬉しそうにきらきらと、煌めく。
「うん、いいよ。中庭のハンモックのところ、行かない?」
悠は少し迷ったように足元を見たが、小さく頷いてくれた。
中庭へ出て、そこに二人並んで座る。調さんから貰ったメロンパンを袋から取り出して半分に割り、悠に渡す。
「はい、どーぞ」
「……ありがと……みなと」
悠は両手で大事そうに受け取る。その時、初めて俺の名前を呼んでくれた。
俺は嬉しくて、つい口角が緩んでしまう。
「メロンパン、美味しいね」
「うん、おいしいね」
にこりと笑ってくれたその顔に俺は、心臓を撃ち抜かれたような感覚がした。
――可愛い、凄く癒される……。
「……悠。ここ砂糖、ついてる」
もぐもぐと食べてる口の端には、砂糖がついてしまっていて、俺は自分の口元を指差して教えてあげる。
「む……ん? どこ?」
悠は砂糖がついている反対側にふれてみたけれど、そこには付いていなくて頭の上に疑問符を浮かべていた。
そんな様子も、すごく可愛らしい。
怖がらないように俺はそっと手を伸ばし、唇の端についた白い粉をそっとぬぐってあげる。
「……ありがと」
悠は一瞬、目をぱちぱちさせて固まったが、すぐに頬をほんのり赤く染めて、小さく呟いた。
「どういたしまして……」
悠は俺をじっと見つめて、ぽつり――。
「みなと、やさしいし……かっこいいね」
その言葉に俺の脳は一瞬、フリーズした。
「……そうかな」
「うん。なんか、おうじさまみたいだから……おれいつも、ちょっときんちょうする……」
「え、王子様……?」
悠はこくんと頷いた。
「しらべがね、読んでくれた本にでてきたおうじさまみたいなの。みなとの顔も、声も……ぜんぶ、かっこいい」
「……そんなこと、言われたの初めてだ……」
「だってほんとだもん……」
悠の言葉は素直で、まっすぐで。心の奥が熱くなった。
「……ありがと。嬉しい」
それから少し間があって、悠がにこっと笑う。
「みなとは、すきなたべものある?」
「え? ……好きな食べ物か……なんだろう」
――自分の好きな食べ物が、わからない……。だけど、ここにきて食べたものは全部おいしかった。
「調さんの作るもの……かな」
「おれも、しらべのごはんすき!」
にこにこと嬉しそうに笑ってくれる、悠。
「じゃあ、他に好きなものはある?」
「おれのすきなもの……? えっと……しらべが作ってくれるおかしと、ブランコとかすき。でも一番はリヒトのみんな。しらべはおれのことたすけてくれたし、つづりはすごくやさしいんだ」
それに燎は俺の髪が綺麗っていつも言ってくれて、和も眠れない時一緒に寝てくれるの。なんて嬉しそうに教えてくれた。
優しい風がふわふわと草花を揺らし、日差しが包みこんでくれる。
俺たちは色々な話をしながら、ハンモックへと寝転がる。
温かい日差しの中、のんびりと時間は過ぎていく。
――こんな時間が、ずっと続けばいいな。
そんなことを考えていた矢先。さっきまで聞こえていた楽しそうな声が、急に聞こえなくなった。
俺は不思議に思いそっと隣を覗き込むと、すやすやと音が聞こえそうなくらい気持ちよさそうに眠っている悠の姿があった。
さっきまでの緊張の面影なんてどこもなくて、穏やかで無防備な寝顔。
――ふふ、眠くなっちゃったんだな。
風がそっと髪を揺らすたびに、綺麗な銀色がきらきらと光を反射している。
その輝きは雪の結晶のように、美しい。
――気持ちよさそうに寝てる……。
このまま寝かせておいてあげたいけど、風邪引いちゃうと大変だからな……。
「ごめんね、悠、抱っこするよ……」
起こさないように細心の注意を払って、抱き上げて部屋へと連れて入る。
その体は思っていたよりずっと、軽くて。俺はこの子を守ってあげたい。そう、思ってしまうほどには。
「あら……悠、寝ちゃったの?」
「綴さん、お疲れ様です」
「おつかれさま、湊。その様子だと、悠と仲良くなれたのかな?」
「そうですね、多分……仲良くなれたと思います」
「そっか、よかったね。俺も一安心」
綴さんはふにゃりと音が聞こえそうな、笑顔を浮かべた。
「ふふ、気持ちよさそうに寝てるね」
愛おしそうに俺の腕の中にいる悠を見た綴さんの声は、すごく優しい色をしていて。
「そこのソファに寝かせてあげて、あそこの角の棚にブランケットも入ってるから」
そう言って、テレビの近くの棚を指差される。
「はい、わかりました」
「じゃあ、お願いね」
悠の頭をひと撫でした後、ひらひらと手を降って綴さんは自分の部屋へと戻っていった。
言われた通りにソファへとそっと寝かし、持ってきたブランケットを掛けてあげて、悠が掛けている眼鏡をそっと外し、そばの机へと置く。
部屋の中には壁掛け時計の秒針の音と、悠の寝息しか聞こえない。
ブランケットの上から規則正しく胸が上下しているのが見えて、安心する。
――こんな優しくて穏やかな時間があるなんて、俺は知らなかった。そしてそれを自分が過ごせるとは、思いもしていなくて。
悠の寝顔を見ていると、なぜだか俺も眠くなってきてしまう。
――俺も、少しだけ……。
その眠気に抗わず机に突っ伏して目を閉じれば、俺もすぐに眠りの世界へと誘われたのだった――。
とんとんとん――。
まな板が包丁に当たる小気味いい音が聞こえて、目を開ける。
「あ、れ……俺、……」
ぱさり――。
体を起こしたことで、何かが背中から落ちた。それを手繰り寄せてみると、ふわふわと手触りの良いブランケットだった。
誰かが掛けてくれたのか……。
それはきっと何気ないことだったのかもしれないけど、俺には凄く嬉しくて。
「……あ、湊。起きたんだね、体は痛くない?」
声の主は、調さん。
「本当は寝かせてあげたかったんだけど、そうすると起きちゃうかなって……」
少し困ったような表情を浮かべ、ごめんね。って謝られる。
「あ、いえ……体はその、大丈夫です。あの……これ、ありがとうございます」
ブランケットを手に言うと、調さんはふわりと笑う。
「ご飯、もうすぐ出来るけど……食べられそう?」
ぐーっ。
返事をしようとするより先に、俺のお腹が返事をした。
「……はい、お腹空きました」
「ふふ……。よかった、そっち座って待ってて」
「あ、俺も手伝います」
「ほんと? ありがとう、湊」
キッチンの方へ行くと、悠が台に乗って鍋の中をかき混ぜていた。
おたまを握る小さな手がぐっと伸ばされて、味噌を一生懸命に溶かしている。
「おはよう、みなと」
俺に気付いた悠は、にこりと笑ってくれた。
「おはよう、悠」
それが俺にとっては、すごく嬉しくて――。
その横で調さんは、炊飯器を開ける。湯気と一緒にふわりと甘い香りがして、さらに空腹を刺激される。
カウンターには魚の煮付け、肉じゃがにポテトサラダが人数分の器に盛られていた。
その中にはちくわとオクラの炒め物もあって、見たことのない組み合わせだったけど、すごく美味しそうなにおいがしている。
「湊、この辺のおかずテーブルに持っていてくれる?」
俺はお盆を使って大きめに設計されているであろうダイニングテーブルへとおかずを運び、並べていく。
そこへ悠が味噌を溶かしていた人参と大根の入った味噌汁と、炊きたてのご飯も加わる。
準備が大方、終わった頃――。綴さんや和くんも帰ってきて、あっという間に賑やかになるリビング。
「……いただきます」
温かいご飯を目の前にそう口にすると、自然と背筋が伸びるような気がした。
この言葉が、こんなに重くてあたたかいものだったなんて、俺はずっと……知らなかった。
ここへ来てから俺を取り巻く世界は、とても優しい。
はっきりと記憶を思い出せたわけではないけど、不思議と日に日にその思いは強くなっていく。
そっと箸を取ると、隣に座ってくれた悠がちらりとこちらを見上げてきた。
今日少し仲良くなれたからか、昨日よりも表情が柔らかいような気がする。
「……これも、たべてみて」
美味しいよ。と、差し出してくれたのは、とうもろこしの入った調さん特製のふりかけ。
「ありがとう」
やっぱりそれが嬉しくて受け取る手が、ほんの少し震えてしまいそうになる。
誰かが作ってくれた温かいごはんを、こうして誰かと同じテーブルで食べられることの幸せ。
「おかわりもあるから、たくさん食べてね」
優しい笑顔の調さんは綺麗な所作で食べ進めながらも、周りのことをすごく気遣ってくれているのがわかる。
綴さんは向かい側で桜の世話を焼きながら、慣れた手つきで自分の分を食べ進めていく。
「うまぁー!」
正面には幸せそうに食べる和くんと、その横の燎くんも眦は下がっている。
みんなの声が交じり合って、部屋の空気がほんのりと温かくなる。
今まで知らなかったはずなのに、どうしようもなく心が落ち着いていく。
――生きてていい場所って、こういう所のことを言うのかもしれない。
「そういえば、湊は苦手なものとかないの?」
綴さんの優しい声に、ふと我に返る。
「特、には……」
言葉が喉の奥で詰まってしまって、上手く答えられない。
「おぉ、湊は何でも食べられるんだねぇ……えらい!」
「もぉ……綴。えらいって……湊は小さい子じゃないんだから……」
和くんは少し呆れた様子だったけど、すごく優しく笑っていて。
「つづり! ぼくは? ぼくも、にんじんたべられたよ!」
「桜もがんばったねぇ、えらいぞー!」
うりうりと桜の頬にふれる、綴さん。そんな笑顔の絶えない、穏やかで優しい光景。
「……あの、俺……こうやって、みんな一緒にご飯を食べられて……すごく嬉しいです」
そんな光景に俺は……ひとつだけ、どうしても伝えたくて。
「それは、俺たちもだよ」
俺の言葉にふわりと笑ってくれた綴さんと、優しく返してくれた調さん。
「僕もだよ」
「おれも」
「ぼくも!」
和くんに悠、桜もそう言ってくれた。
――この場所なら……俺はもう、逃げなくていいのかもしれない。
そんな気持ちが、心の奥で静かに花を咲かせた。
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