5
――ファイナを静養室に預けて二日後。今夜が峠だと、侍医は言った。
「意識は混濁し、熱も下がる気配がない。衰弱しきっている。力は尽くすが……覚悟だけは、しておくように」
ファイナの枕元で泣き崩れる母を宥め、その背を支えながら、マルセルは護衛棟へと戻った。侍医の放った言葉に憤りを覚えはしたが、罵声を浴びせる気にはなれなかった。診察を拒んでいたのは彼の意思ではない。領主の指示でのことなのだ。ジスランのおかげで治療が始まってからは、侍医はこれまでのことを詫びるように、真摯に対応してくれた。だというのに――ファイナの病は、一向に回復の兆しをみせなかった。
憔悴しきった母を寝室で休ませると、マルセルは再び護衛棟を出た。足早に
(……先客か?)
霊廟の傍にある馬留の杭には、すでに青毛の馬が繋がれていた。ガルディア家の誰かであろうか――そう思いながら、仕方なく付近の木の幹に手綱を括る。愛馬の頬をひと撫でしてから、マルセルは石造りの霊廟の入り口を臨んだ。
祈る者がひとりかふたり入れるほどの、こぢんまりとした霊廟である。石造りの柱の
(俺たちは、もうすっかり至天教徒だけど……俺は、不真面目な子孫だけど、でも)
どうか、あなた方の血を継ぐ幼い妹に、加護を与えてくれたなら――
ぎゅっと拳を握り締め、マルセルは霊廟の中へと足を踏み入れる。途端、先客の正体に瞠目した。
「……ジスラン様?」
廟内の中央、狼が祀られた祭壇の前で跪き、祈りを捧げていたのだ。マルセルの呆気にとられた声に、ジスランがはっとして振り向くが、すぐ気まずげに顔を逸らされる。しかしその一瞬で、マルセルは彼が隠そうとした異変に気が付いてしまった。
「ど……どうしたんすか、その顔」
ジスランの左頬は腫れ、青紫色の痣があったのだ。
「べつに、なんでもない」
そう言って頬を抑え、霊廟から出ていこうとするジスランの腕を掴んだ。頑としてマルセルから顔を背けるのは、頬の痣を見られたくないがゆえであろう。
「領主様にやられたんすか?」
「……、……いや」
「嘘つかないでください。このまえのリュカ坊っちゃんと同じ痣だ。……ファイナを侍医に診せたからすか?」
応えはない。しかしそれ自体が答えになってしまっていることに気が付いたのか、ジスランはひとつ大きな溜息をついてから、渋々マルセルに向き直った。
「見た目は派手だが、たいした傷じゃない。……これは本当だ」
「痛そっすね。なんか、あの……すいません。俺があなたをけしかけたから……」
「謝らなくていい。俺のやり方が下手だっただけだ」
「そういや、どうやって領主様の反対を押し切って、侍医に治療を了承させたんです?」
「……それは、その――」
と、自分の足元を見つめながら口ごもる。急かさずに言葉を待っていると、諦めたように話し始めた。
「脅したんだ」
「はい?」
「剣で。ファイナを診なければ、おまえが施療院に行くことになるぞ、と……」
「……ご冗談で?」
「事実だ」
やり方が下手どころの話ではない。あの頬の青痣は、力業で我を通した代償なのであろう。
「お、おまえ……意外と無茶苦茶するなぁ」
そう言った直後、しまったと口元を抑えた。砕けた口調を咎められるかと思ったが、しかしジスランは眉を顰めることもせず、むしろ嬉しげに口元を綻ばせた。
「ふつうに話せ。敬語もいらない」
「いや、でも……」
「いいんだ。出自の違いで主従という形をとってはいるが、本来グラースとガルディアは対等なはずだ。――『グラースは表から、ガルディアは裏から領地を守る』と、我らの祖先が盟約を交わした古より、ずっと」
「しかし」と続けるジスランの
「父上は、極度の至天教主義者だ。……確かにこれまでのグラース領の歴史において、異教徒の暴動により多くの罪なき民が犠牲になり、それは今もなお各地で続いている。領地の平穏を築こうとされるその御心は尊いものだが……元異教徒とはいえ、長年ともに領地を守ってきた盟友にまで刃を向けことだけは間違っている。グラースの傲慢で、ガルディアの命を擦り減らすことなどあってはならないんだ」
マルセルの来訪で中途半端になってしまった祈りを再開しようと、ジスランはもう一度祭壇の前で跪き、胸に手をあて目を閉じた。祭壇の上には彼が持参したであろう、病の快癒を願うためのラベンダーが一束、芳しい香りとともに供えられている。
静かに祈るその背を見て、マルセルは言いようのない羞恥を覚えた。厳格な至天教徒であるはずのジスランが、異教徒の守り神の前で祈る理由など――ひとつしかない。
(ファイナのためだ)
ガルディアの故郷、草原の守り神たる狼に、加護を求めて祈っているのだ。
(それに、親父の命を賭した忠誠も……こいつは理解してる。ちゃんと)
ジスランに気取られぬよう、音もなく髪をかき乱す。
――自分より弱い〈犬〉など、俺には必要ない。
――まだ十三歳であられるジスラン様が、どうしてふたつも年上のお前に勝てるほど鍛錬されていると思う?
(リュー兄)
――よく考えてごらん。
(俺、……わかったよ)
誓約の儀を反故にしたのを咎めないのも。わざわざ「必要ない」と突っぱねに来たのも――
(ダセえな、俺……こいつのことをわかろうともしないで、いけ好かないやつだとか言って)
ジスランの思慮深い気質に感じ入るほどに、己の浅はかさが、どうしようもなく幼く思えた。主となるはずだったこの年下の少年は、己よりもずっと、父の死を、領主の態度を、重大なことと捉えていたのだ。
(確かに当代領主には、親父は使い潰されたのかもしれない。だけど、……もしも、こいつが)
ガルディアの忠誠を受け止め、その死に哀悼の意を示してくれる主だったなら――
「マルセル」
名を呼ばれ、はっとして思考の渦をとめる。まだ祭壇の方を向いているジスランが、振り向かぬままぽつりと零した言葉に、マルセルは心の裡を見透かされているような思いがした。
「おまえはアルバンのようにはなるな。……おまえの命は、おまえのものだ」
――それから、さらに二日の後。
侍医の心を尽くした治療が功を奏したのか、ジスランの祈りが草原の守り神に届いたのか。ファイナは意識を取り戻し、病は快方に向かっていった。
「あれ? めずらしいじゃん」
「マルが早朝鍛錬に来るなんて、いつぶり?」
双子の姉ソレアとルナラが、揃って目を丸くする。ふたりの相手をしていた兄リュシアンも、構えていた剣を下ろし、驚いたような顔でマルセルを見た。
まだ陽の登りきらない鍛錬場は、夜を残して薄暗い。それでも東よりいずる曙光の色が、互いの姿を静かに照らし出している。
「おはよ。姉ちゃん、リュー兄。……俺も混ぜてよ」
言って、マルセルは剣を鞘から抜き放つ。父が亡くなってからというもの、早朝の鍛錬になど顔を出さなかった。「来い」と言われても、無視をしたこともある。
それでも兄たちは、呆れず、からかわず、マルセルを受け入れてくれた。
「手加減しないよ」
そう言って先に相手をしてくれたリュシアンには、全く歯が立たなかった。どれだけ本気で斬り込んでも防がれて、涼しい顔で受け流される。息が上がり体勢を崩したマルセルの足を払うと、リュシアンは弟の喉元に剣先を突きつけた。
「終わり?」
一切息を乱さず、柔らかな微笑を浮かべたまま、兄は言う。それが無性に悔しくて、己の弱さが腹立たしくて、マルセルはぎりと歯噛みした。
「ねえ、マル。やる気の出る話をしてあげよっか」
傍で兄弟を見守っていたルナラが、そう声をかけてきた。
「毎年春にさぁ、ローズマリーが咲くでしょう? 淡い青紫色の。マルもお父さんの墓前で、見たことあるんじゃないかな」
「青紫の、ローズマリー……?」
はて、見たことがあっただろうかと、記憶の糸を手繰り寄せる。
(春? そういやぁ、今年は春に親父の墓行ったな……?)
ジスランとの誓約の儀が予定されていた日、家を抜け出して父の墓を訪った。その時、父の墓前には――淡い青紫のローズマリーが供えられ、風に揺れていたような気がしなくもない。
「この三年、ローズマリーの花が咲く季節になると、必ず献花をしてくださるの。……お父さんが死んだのは、ジスラン様のせいじゃないのにね」
「は――? あいつが、献花を?」
「ジスラン様はね、お父さんが殺された、その場にいたの。襲撃のあった領主様の教会の視察に、随行されてたのよ。そこで、……お父さんの死に様も、領主様の冷たい態度も、誰よりも近くで見てしまった。責任を感じていらっしゃるの」
「責任って……三年前なら、あいつ十歳だろ? そんなの――」
「あるわけないよ? でも、それが……あの方なの。真面目で、お優しい方なのよ」
「ねえ、ローズマリーの持つ意味を、マルは知ってる?」
ソレアの問いに
「『あなたの忠誠を忘れない』――そういう意味がある花なんだよ」
「な――なんで、……」
胸が詰まり、うまく言葉を返すことができなかった。
「なんで、もっと早く教えてくれなかったんだよ……!」
「グラース家に強い拒否感を抱いていたおまえが、他人から聞かされたジスラン様の御心の裡なんて、素直に受け入れないと思ったんだ。グラース家の話をするだけで、不機嫌になるのだもの」
リュシアンが腰を落とし、座り込んだままのマルセルと視線を合わせた。
「責めてるわけじゃないよ? お父さんの件は、マルにとっては時間が必要なことだった。でも信じてた通り、マルはちゃんとジスラン様の御心を察した。今ならきっと、おまえの心にまっすぐ届くと思ったから、お姉ちゃんは献花のことを教えてくれたんだ」
「俺ひとりでいじけて、馬鹿みたいだったろ」
「そんなことない。マルはお父さんの死を乗り越えようとしてるじゃないか。だから鍛錬場に来た。……おまえが自分で、〈
くしゃりと頭を撫でられ、マルセルは赤くなった頬を隠すように俯いた。
(……ばれてら)
兄の言う通り、強くなりたかった。
主となるはずだったあの少年の隣に、堂々と並び立てるくらいに。
「さて――どうする、マル。まだやる?」
「当然」
マルセルは立ち上がると、再び剣を構えた。リュシアンが嬉しそうに相対する。
鍛錬場に、まばゆい朝陽が差す。
ふたりの剣の切っ先に、黎明の光がきらめいていた。
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