終章 縁谷地

盟誓

「ジスランさんが結婚? 相手はどんなひとなの?」

 興味津々で問うてくるエイムに、ヴァンは肩を竦める。頬張っている鹿肉の炭火焼を飲み込むと、まぶしてあった胡桃くるみと香草の香ばしいにおいが鼻に抜けた。

「さあ、これから会うからわからない」

「知らない相手と一緒になるのか? 嫌だろ、そんなの」

「『家督を継承するからには婚姻は義務だ』って、べつに淡々としてたよ。親父さんが選んだひとだけど、肖像画とか推薦文を見る限りは、優しそうな印象だった」

 「難儀なことだ」と言いながら、イネスは蜂蜜を垂らした焼き苺を齧る。食卓に肘を付いて同情の息を吐くのはユーゴだ。

「世継ぎを作れ、ってことだろ? その圧、察するに余りある……」

「次期族長も大変だなぁ」

 そう言って苦笑しながら、ヴァンは力なく丸められたユーゴの背を、慰めるようにトンと叩いた。その背筋には薄い木面皮と、雛鳥のような柔らかな羽毛が生えている。掌大にまで育まれた紺碧の翼が、祖母の「子をこさえろ」という圧を思い出したのか、ざわりと逆立ったのだった。


 エルア族と〈翼生会〉にまつわる騒動から、もう少しで一年が経とうとしていた。

 あの殺伐とした夏の樹海は、いつしか紅葉深まる秋の装いをまとい、かさついた落ち葉を白靄はくあいが包んだ。雪舞い落ちる冬になると、すべての生き物が息を潜めているような、凍てついた静寂に閉ざされた。そして、春。目覚めた新芽は瑞々しく、日を追うごとに、樹海は鮮やかな彩りを宿していく。

 すべての命がめぐり、時を刻むごとに変化する。そのさなかで生きるヴァンたちの状況もまた、少しずつ変わり始めていた。

――樹海に、帰ってくるか?

 深夜の樹海でユーゴにそう誘われたとき、ヴァンは頷かなかった。

 ジスランの養子であることを選んだヴァンは、その後すぐに粛清官の職を辞し、〈翼生会〉の掃討に尽力した。ジスラン配下の間諜となったエリーの協力のもと、密猟や横領に関わっていた者らを排し、碧餐が催されるための経路を断った。また新たな経路の確立を目論む動向があれば、マルセルとともに早期に事態の鎮静化にあたり、異端の芽を摘み続けた。

 しかし重要職に就く会員の失踪が相次いだことで、会主は水面下での粛清が起きていると勘付いてしまったようである。早々に連絡を絶たれてしまい、また秘密主義の会主の正体はエリーですら把握しておらず、残念ながら〈翼生会〉の根絶には至っていない。

 けれども、この上層部の瓦解により、〈祈りの圍ルリジオン〉における〈翼生会〉の活動は、収束の兆しを見せている。くさびとしてのエリーの存在は大きく、またこの町の司教を務めるのは、すべての事情を共有するジスランの兄である。彼らの慧眼が、会の再興を試みる異端者たちを、今後も抑制してくれることだろう。

「少しはエルア族への償いになったかなぁ……なあ、母さん」

 陋屋ろうおくに残る母の血痕の縁で佇み、そうひとりごちた夜。やわらかな精霊の瞬きに寄り添われながら、エルア族と〈翼生会〉にまつわる騒動は、ヴァンの中でひとつの区切りを迎えたのだった。

 一方、樹海へと無事帰還したユーゴらの方も、あの夜を境に変わったことがある。縁谷地えんこくちへと追いやられていた濁血サレたちが、〈銀の谷エタンセル〉に住めることになったのだ。

 その議論のきっかけとなったのが、同胞奪還におけるエイムの献身である。しかし本来子供に頑張らせてその価値を測るなどおかしなことだと、ユーゴは同胞たちに懸命に訴えた。

「確かに俺たちは、精霊を宿すことを誇りとしている。だけど、それが不得手であったって、誇り高い精神を宿すことはできるんだ。濁血に判別されるのは齢七つ。芽吹いたばかりの種を、大人が刈り取ってどうする。大人が――が、守り育むべきじゃないか」

 濁血との共生を厳格な祖母は即座に否定したが、このユーゴの訴えは、予想を上回る支持を得た。〈翼生会〉から生還したアロイスを筆頭に、親族が濁血と判別され苦い思いをしてきた者、裏切り者と排斥したはずのシャンタルの献身に、忸怩じくじたる思いを抱いた者――同胞内に引かれた境界線に疑問を抱いた者たちが、ユーゴに賛同し、頑なな祖母を説き伏せるのを助けてくれたのだ。

 少しずつ、しかし確実に、次期族長ユーゴが目指すエルア族の新しい道が、形作られようとしていた。


「ポト様、威厳たっぷりだから、ちょっと怖いよねぇ」

「ちょっとどころじゃない。すごくだ」

 そう言って、ユーゴは苺を練り込んだチーズを口に放り込む。ほろりとほぐれた乳の甘みと苺の酸味に、「お、美味い」と呟くと、それを作ったエイムが「ほんと?」と嬉しそうにはにかんだ。

 笑い合うふたりを見ていると、自然と頬が緩んだ。彼らはいま、家族として〈銀の谷〉の集落で一緒に暮らしている。寂しさを胸裡に押し込めながらひとり暮らしていた少年は、心から安らげる場所を得ることができたのだ。

 それゆえ、四人で食卓を囲んでいる縁谷地のこの家は、いまはだれも住んでいない。ヴァンが樹海を訪れるときの集会所として使われるのみなのだが、エイムが丁寧に手入れをしてくれるおかげで、家屋の痛みは最小限に抑えられていた。それでもいつかは湿度と黴、虫の類いに蝕まれ、樹海に飲み込まれてしまうだろう。

(もしそうなったとしても……まあ、いっかな)

 彼らの間には、心がほっとするような、穏やかな時が流れている。それはなににも代えがたく、尊いものであるから、だから――さよならを言うことも、怖くはない。

「俺、明日〈祈りの圍〉を発つよ」

 談笑をしていたふたりが、ヴァンの言葉にぴたりと口を噤んだ。「発つって、どこへ」と、イネスが即座に問う。

「領都へ。ジスランが結婚と家督継承のために帰参するから、一緒に行くことにした」

「それにしても、明日って。急すぎやしないか」

「口に出したら寂しくなっちまいそうでさ。……言い出せなかった」

「結婚式が終わったら、〈祈りの圍〉に帰ってくる?」

 不安げに問うエイムに、ヴァンはゆっくり首を振る。

「そのまま領都で暮らすことになるから、しばらくは帰ってこられないな。少なくとも、数年は」

「じゃあ、ヴァンは……ペルマナント人として生きていくのか」

 ユーゴの寂しげな呟きに、ヴァンは首肯しようとしたが、それもなにやらしっくりこなくて、「難しいな」と首を捻った。

――おまえは、どうしたい?

 長兄と、その跡継ぎたる子息が患った肺癆はいろうは、静養の甲斐なく彼らの身を蝕み、ついには家督を継ぐことあたわずと判じられるに至った。その責が三男に託されると決まったとき、ヴァンはジスランにそう問われたのだ。

――〈祈りの圍〉に残りたいなら、それでもいい。生活の基盤は俺が整えよう。父が存命のうちは護衛を付けさせてもらうが……もう、おまえを縛り付けたりはしない。

 密猟に手を染めるほど焦がれたはずの自由であったが、いざ手にしてみると、それを持ってどこに行けばいいのかと惑った。〈翼生会〉の活動は収束し、碧餐の心配はしなくていい。そうなると、〈祈りの圍〉でエルア族のためにできることは、もうほとんどなかったのだ。むしろ粛清官による捕獲戦や掃討戦の成果が耳に入り、居たたまれぬ想いが胸を締め付けた。

 自分にできることは、いったいなにがあるのだろう――

 そう考えたとき、ヴァンは初めて、〈祈りの圍〉の外へと目を向けた。

「俺、おまえらのことが好きだよ」

 すでに陽も暮れ、ランプの灯る薄暗い室内に、ヴァンの想いが静かに満ちる。

「教国の脅威に晒されることなく、樹海でつつがなく暮らしてほしい。そうするにはどうしたらいいのかって、ずっと考えててさ」

「今まで通り、樹海を侵す粛清官を追い返すだけじゃ駄目なのか」

「駄目だ。ユーゴ、真面目な話……エルア族を取り巻く状況は、これからもっと厳しくなる」

 「少し調べたんだが」と言いながら、ヴァンはからの杯で食卓をコツリと叩いた。

「精霊が満ちる場所は、ペルマナント教国内に複数ある。その最大はここ〈碧の樹海ベルスヴェール〉だけど、それ以外にも大なり小なり存在していて、そこにはエルア族のような精霊と寄り添う少数民族がいたんだ。当然、異教徒であることを理由に衝突が起きた」

「……彼らは、どうなったんだ?」

「その多くが粛清されたよ。精霊を保護――いや、奪うのに邪魔な存在だったから。教国による樹海の開拓は、いずれ〈銀の谷〉にも迫るだろうな」

 三人の頬が徐々に強張っていく。ヴァンは「いますぐの話じゃないさ」と緊張を解すように言うと、エイムの作った苺入りのチーズをぱくりと口に放り込んだ。

「お。ほんとだ、美味い」

 そのおどけた口調に、イネスがふっと肩の力を抜く。

「私たちが樹海で恙なく暮らせる方法が、あるんだな?」

「うまく実現できるかはわからないけど……いつか、グラース領領主とエルア族族長による会談の場を設けたいと考えてる」

「会談? 敵同士がなにを話すっていうんだ」

「境界線と緩衝地帯の画定をする」

「馬鹿な。それはある程度精霊が奪われるのを許容しろってことじゃないか!」

 ユーゴが嫌悪も露わにそう言うと、ヴァンは窘めるように首を振る。

「嫌なのは重々承知だ。でもな、頑なに対立した民族は、大粛清により全滅した。おまえらを、そんな目に合わせたくないんだ」

「しかし――」

「ユーゴ、頼む。あらゆる可能性を捨てずに考えて欲しい。実際、グラース領以外では、柔軟に対応した民族は自治区を勝ち取り、全滅を免れた例もある。うまくやれば、道具として使われているの返却だって、交渉できるかもしれないんだ」

「……なんだって?」

「〈碧の樹海〉での精霊保護の統括責任は、それを有するグラース領領主にあるんだが――さて、エイム。次の領主はだれだっけ?」

 にやりとしてそう問えば、エイムの表情がぱっと明るくなる。

「ジスランさん! グラース領の次の領主は、ジスランさんだ!」

「その通り。当代の領主は異端者、異教徒に極端に厳しいけれど、ジスランには対話の余地がある。……俺さ、両者を繋げるための、交渉役を担えるようになりたいんだ。そのためには樹海じゃなく、教国にいたほうがいい」

 はじめて聞かされたヴァンの志にはっとして、ユーゴの頬から険が落ちる。

「おまえ……〈翼生会〉のことだけじゃなく、そんなことまで考えてくれていたのか」

「まあ、まだ考えているだけだけどな」

 感嘆の息を洩らすユーゴに「大げさだよ」とかぶりを振る。胸元に下げている母の指環を、シャツの上からそっと触れた。

――平坦な道ではないが、おまえがやりたいと望むなら、やってみるといい。

 領都について行きたいと告げたとき、ジスランは驚いてはいたものの、快く了承してくれた。内政に関与するためには多くを学ばなくてはならないこと、現状粛清対象であるエルア族との対話の実現は容易ではないこと、一族内で敵視される恐れすらあること――それらをよく言い含めたうえで、ジスランはあるひとつの行動を起こしてくれた。

 婚家や親族へ送る書状に、『拙子のヴァンも同行いたします』と、明確に記してくれたのだ。それは形式上の養子という立場を越え、ジスラン自身がであることを選び取った姿勢を示すものであり、ヴァンの盾であろうとする意思の表れであった。

 その書状をマルセルがこっそり見せてくれたときのことを思い出し、ほんの少し、腹の底がそわついた。樹海を離れるのは寂しいけれど、――ヴァン・でいることも、なにやら悪い気はしないのだ。

「母さんが残してくれた『森路シュマン』の誇りをしるべとして、『グラース』の名でできることをしていくよ。どちらの姓も、『俺』だから」

 これまでの道程をすべて受け入れて微笑むヴァンの隣で、ユーゴはばつが悪そうに頭を掻いた。

「ペルマナント人として、とか……つまんないこと聞いて、悪かったな」

「べつにいいさ。間違ってはいない」

「頼もしいなぁ、俺の弟は」

「買い被るな。まだなんにもしてないぜ」

「してるさ。――こんなにも、エルア族のことを想ってくれている」

 ユーゴは食卓の中央に置いてあった蜂蜜酒の陶壺とうこを手に取ると、からだったヴァンの杯に少量だけ注いだ。それを手に取り、ヴァンのひとみを見据えながら、恭しく両手で掲げる。

「いつかおまえが交渉に訪れるその時までに、俺は少しでもましな族長であろう。刃を交えることなく仇敵との対話に臨むため、この樹海の地にて、同胞の意識の変革に努めると誓う」

 そう告げ、杯をヴァンの手元に返す。ユーゴの意図を察し、今度はヴァンがユーゴの杯に蜂蜜酒を注いだ。ユーゴに倣って両手で杯を掲げ、眸を交わす。儀式めいた誓いなどしたことがない。その所作すら曖昧だ。けれどもユーゴの、自分と同じ深い瀞を思わせる翠眼と向き合っていると、胸裡にあった想いの形が、するりと言葉で紡がれる。

「たとえ教国に身を置こうとも、この身に宿る誇りを忘れはしない。たゆまぬ研鑽を重ね、樹海の外から、エルア族の活路を拓くと誓う」

 ユーゴに杯を返し、各々がそれを手に取った。視線を交わしたまま、厳かに掲げ合う。

 そのとき、開け放していた窓から、ひやりとした春宵しゅんしょうの風に乗り、精霊が舞い込んできた。杯を掲げたふたりの間で止まると、その誓いを祝福するように、琥珀色を湛える蜂蜜酒に淡い燐光を落としている。

 それはまるで、息子らの行く末を見守る母のまなざしのようで――ふたりは同時に、ふっと頬を綻ばせた。

「気を付けて行ってこいよ、ヴァン」

「ああ。またな、兄貴」

 精霊と、大切な友人であるエイムとイネスに見届けられながら、ふたりは同時に、誓いの杯を飲み干した。


 苦難の道に踏み迷い、立ち止まることもあるだろう。

 それでも恐れず、歩き続ける。

 思い描いたの憧憬に、この手が届くまで。



(了)

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