12 加護

 エレアザールから皮剥ぎ包丁を受け取ったヴァンは、それをぽいと後方へ投げ捨てた。

「……残念です」

「おまえを殺すために来たんじゃない」

 カラ、カランと、硬い音を反響させながら、包丁が地下聖堂クリプトの扉の方まで転がっていく。床に並べられていた他の刃物や食器類もすべて蹴り飛ばし、それらが跳ねるけたたましい反響音が鳴りやんでから、ヴァンはエレアザールに向き直った。包丁を差し出したままの形で固まっている手に目を留め、思わず顔を顰めてしまう。

「……噛み痕、残っちまったんだな」

 〈あなぐら〉で出会ったときから、エレアザールには自らの手を噛む癖があった。噛み痕が増えるのは、決まって父親と揉めたときであったと記憶している。

「おかしいだろ。どうして傷つけられた側が、生まれ直さなくちゃいけないんだ」

「仕方がないことです」

だから?」

「……っ、グラース卿から聞いたのですね」

 エレアザールは唇を微かに震わせ、動揺を隠すようにひとみを伏せた。後ずさろうとしたが、すぐ背後にあった祭壇の碧の御使いセレストワイエ像に阻まれる。

「……あなたには知られたくなかった」

「不幸な出来事だとは思う。でも、それはおまえが悪いわけじゃないよ。親父さんの一方的な言いがかりだ」

 そう真摯に伝えたつもりだが、ふっと自嘲する彼の頬から、悲愴の色は消えはしない。

「そうなのでしょうね。出産は命懸けの営みで、難産や産後の熱病で母親が命を落とすことは、決してめずらしいことではありません」

「だったら余計に、おまえが責められるいわれはないじゃないか」

「社会通念は、喪失に痛む心を慰めてはくれません。それが言いがかりであれなんであれ……父は、そうすることでしか自分を保てなかったのでしょう。理屈はわかります。わかりますが――」

 噛み痕だらけの手が、震えている。

「長年穢いと言われて育った私は、そういう人間以外になりようがなかった。痛みとともに刻まれた呪いは、消すことが困難なのです。少なくとも、私にはできなかった。だから……同じ孤独を分け合ったあなたとともに生まれ直すことが、私たちの救いになると信じていました」

 エレアザールが視線を上げ、セドリックとの戦闘ではだけたヴァンの胸元を見る。

「お母上の指環、返してもらったのですね」

 首に下げていた指環の存在に、一瞬だけ強張った表情が緩み、まなじりを下げる。その直後、蝋燭の火がふつりと消えるように、彼の眸からは一切の感情が消え去った。

「グラース卿と和解したのなら、……あなたはもう、〈窖〉で泣いていた子供ではない」

 背後の碧の御使い像に背を預け、そのままずるずると力なく座り込む。両手で顔を覆うと、霧を吐くような幽かな声で「グラース卿にくだります」と呟いた。

「だからこれ以上……穢い私を、見ないで」

 それっきり俯いてしまったエレアザールに、ヴァンはかける言葉を選び取れなかった。

(どうすればいい?)

 このままエレアザールを投降させれば、幹部である彼の情報を用いて、〈翼生会〉の掃討は容易になるだろう。その後の口封じはあり得ることだが、ジスランに頼めば、彼の哀れな生い立ちを踏まえて、命を救う判断を下してくれる可能性はあるとも思う。

(でも、ただ生き残ることを、エレアザールは少しも望んでいない。こいつの苦しみが続くだけなんだったら、いっそ――)

 死が救いであってほしくない。けれど、望んだものをなにひとつ得られなかった彼に、自分が贈ることができるものが、この刃しかないのなら。

 ぎりと、短剣をきつく握り締めた。

 そのときであった。

(……なんだ?)

 ヴァンの鼻先をふわりと漂う、ひとつの光があった。壁画のくぼみで揺らいでいる、精霊を模した蝋燭の明かりではない。生命の根源たる光――本物の精霊である。

(なんで、いったいどこから)

 ゆっくりと明滅する精霊が宙を舞い、ヴァンの周囲を一周する。それが胸の前で止まったとき、ようやく気づいた。母の指環が光っている。精霊と同じ白光をまとい、淡い輝きを湛えているのだ。

(ああ、そっか……そうじゃないよな)

 声なき精霊の歌を聞いた気がした。天啓などいう大それたものではない。もっと素朴で、なつかしいもの。母から子へ紡がれる子守歌のように、心の柔らかい所へと、しんと染み込むものであった。

「エレアザール」

 そばに屈んで声をかけたが、俯いたまま動かない。ヴァンは握っていた短剣を床に捨て置くと、五年前に〈窖〉でそうしたように、もう一度、彼の骨ばった手を取った。

「お願いだ。少しでいいから――俺を見て」


「ヴァン、この指環……精霊が宿ってる」

 頬に喜色を滲ませたユーゴがそう言ったのは、ジスランから返して貰った母の指環を見せていたときであった。

「しかも、ただの精霊じゃない。……シャンタルの気配がする」

「母さんの?」

「指環がおまえのもとに戻ったこと、喜んでるよ」

 陋屋ろうおくを満たす鴇色の朝陽に指環を翳しながら、ユーゴが嬉しそうに目を細める。指環を返してもらい握ってみたが、精霊の気配を読むことに慣れていないヴァンには、残念ながらよくわからなかった。

「死者は大地の礎だ。生命の奔流たる精霊に溶け、様々なものに宿り、富ませながら、命の円環をめぐっている。この指環には、とりわけシャンタルの意思を色濃く内包した精霊が宿ってると思う。懐かしい感じがするんだ」

「へえ……俺も、それを感じられたらよかったのに」

「寂しく思わなくてもいい。シャンタルは、おまえに子守歌を歌ってくれただろ?」

 問われ、懐かしさに頬を綻ばせて首肯する。うららかな木洩れ陽の落ちる庭。母に膝枕をしてもらいながら子守歌に身を委ねたのは、胸裡にしまわれた宝物の記憶だ。

「『はなのゆりかご、まどろむたねよ』って歌だよな。よく歌ってもらったよ」

「その子守歌はな、俺たちエルア族にとって、約束の歌でもあるんだ」

 ユーゴが澄んだ声で子守歌の一節を口ずさむと、陋屋の窓から精霊がふわりと漂ってきた。やわらかに明滅する光が、ユーゴの頬に寄り添っている。

「『樹海の清らかな銀の瀬と、温かな碧い陽に抱かれ、健やかに育つことを願っている。蒔いた種が実り、一本の樹に育つまで、いつまでも見守ろう。夢のなかでも、精霊となってしまっても』――そういう意味が込められてる。だからさ、ヴァン」

 指先で精霊に触れ、ヴァンの方へと優しく促す。鼻先にちょんととまった精霊の瞬きは、子を慈しむ母のまなざしに似ていた。

「おまえは、どこにいてもひとりじゃない。シャンタル母さんが、いつだってそばにいる」


「……精霊?」

 ぎこちなく視線を上げたエレアザールが、思わぬ光景に瞠目した。

 ヴァンの傍らに、ひとつの精霊が浮かんでいるのだ。たおやかな光を湛えて細い睫毛に寄り添う様は、母が愛し子に頬ずりするかのようである。透けるような銀髪に燐光をまといながら、精霊と心を通わせるヴァンの姿に、エレアザールは崇敬の息を洩らした。

「……ほんとうに、碧の御使いセレストワイエのようですね」

「馬鹿言うな。俺は視野が狭くて失敗ばかりの、ただのガキだよ」

 頭を振ってそう答え、エレアザールの骨ばった手を少し握る。五年前と変わらないこの冷えきった手に、痛みではないなにかを分けてやりたいと思った。それはおそらく、彼の求める救いとは程遠い。結局は、苦しみを長引かせるだけなのかもしれない。けれど――

 それが望んだ場所だとて、ひとりぽっちは、さみしいから。

(これは、俺のわがままだ)

 傍らの精霊が、ヴァンの意思に応えるように明滅する。祈りを込めて、ふ、と短く息を吹きかけると、精霊はエレアザールの口内へと、するり、自ら飛び込んだ。

「――っ、……? いったい、なにが」

「おまえに精霊が宿ったよ」

「……なんですって?」

「それをだと思ってほしい」

――あなたの胸の中には、種がある。これからしなやかに育っていく、あなただけの樹の種が。

「お前自身で育てるんだ。いつか種が芽吹き、しなやかな樹に育てば、心の柱になってくれる。そうすれば、どこへだって歩いて行けるし、どこへだって根を張れる」

「あの、……おっしゃっている意味が、よく……」

 戸惑うエレアザールに、思わず笑みが零れた。幼き日の自分が重なる。きっと母にこの寓話を聞いたとき、自分もこんな顔をしていたに違いない。

「いまはわからなくてもいい。それでも胸に宿った精霊が、おまえのこれからを見守ってくれる」

「……私の、?」

「そうだよ。だからさ、いつかわかる日が来るまで……どうかこの地で、エレアザールのまま、俺を助けてくれないか」

 視線をめぐらせ、地下聖堂の壁画を、異端者の祭壇を、散らかった碧餐の道具を見る。〈翼生会〉がエルア族を踏みにじってきたそれらに憤りを覚えるが、同時に息が詰まるほどの罪悪感に苛まれるのだ。

「俺も、エルア族を殺してきた。粛清官としての矜持なんて少しもなくて、ただ己の欲のまま、金欲しさに殺してきたんだ。……償いたいと思ってる。これから、俺のすべてをかけて」

 密猟に加担するまで、エルア族をただ漫然と敵と見定め、違う世界のなにかとしか捉えていなかった。けれど、エイムの優しさに助けられ、ユーゴの葛藤を振り払う姿を見た。イネスの凛然とした佇まいに触れ、母の同胞を想う誇り高い心を知った。

 自分の矮小な心根が恥ずかしかった。生まれ直しという身勝手な願望のためにエルア族を喰らう異端者らと、なにも変わらない。この両手は、彼らの血に塗れている。

「赦されるかはわからない。けど、そうなるような道を歩いていきたいんだ。それを――」

 そのとき、ふと、あることを閃いた。

 彼の望む生まれ直しではないが、これもある種の、生まれ直しになればいい。

「それを手伝ってくれたら、すごく助かる。どうかな――

「……エリー?」

「エレアザールの愛称って、エリーだろ? 遠い〈碧域ペイナタル〉に焦がれたテランスでも、忌避感のあるエレアザールでもない。けどちゃんと、この地を踏みしめて歩く、おまえの本名だ」

 そう言って、ヴァンはにかりと笑った。太陽を思わせるからりとした笑みに、エレアザールが眩しそうに瞬きをする。

「そうやってできることを積み重ねて、この地も悪くなかったって思えたなら――いつか、また一緒に飯を食おうよ。昔みたいに、硬いパンと、不味い葡萄酒ワインをさ」

 そんなヴァンの提案に、呆然としていたエレアザールが、つと俯いてしまった。まずい提案だっただろうかと不安がよぎるが、エレアザールはなにも言わぬまま、ヴァンの手を握り返してくれた。

 その掌は、ほんの少し、熱を帯びている。

「……あなたから、愛と名のつくものを贈られるとは、思いもしませんでした」

 精霊の宿る胸元まで、ヴァンの手を引き寄せる。主の奇蹟たる精霊と、自己を形作る新たな名――ふたつの加護を感じながら、は震える喉で言葉を紡いだ。

「主よ。〈碧域〉は、目が眩むほどに遠く、凍えた指先をぬくめるほど……私の傍らにある」

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