7 悪党
地下の閉塞感に息苦しさを覚え始めたころ、先導するロバールが足を止めた。二股に分岐する通路の手前でユーゴを制すると、しい、と口に人差し指をあてる。直後、ふっとランタンの火を吹き消した。一瞬だけ白い光の残像を残し、辺りは重い闇に包まれる。目が慣れてくると、次第に片方の通路の先が、
エルア族を収容している牢の扉を照らす、松明の灯りである。ロバール曰く、そこはもともと倉庫として使われていた場所であり、鍵のかけられた扉の前に、見張りが立っているのだという。
(この先に、エイムと同胞が……)
そう思うと、緊張で息が詰まった。短剣を握り締める手に汗が滲む。エイムは無事なのか。怪我はしていないか。同胞ははたして生きているのか。もしも、もしもふたりとも、害されたあとであったなら――
とめどなく沸き上がる悲観的な妄想を打ち消そうと、努めて深く息を吸った。土と黴のにおいのする、地下の冷気を肺腑に満たす。瑞々しい樹海とは真逆の淀んだ空気だ。嫌悪感で無理矢理平静を呼び戻すと、意を決してロバールの背をトンと推し、小声で「行け」と指示をした。
取っ手が軋んでしまうランタンを足元に放置し、ロバールは足音を殺してゆっくりと進んだ。その後ろにぴたりと付き従う。闇の領域の縁で再び足を止め、奥の様子を窺うと、眩い光に目がしみた。
これまで歩いてきた通路の、三倍ほどの幅があるだろうか。広めにとられたその空間には、虜囚の世話に使う雑多な荷物が置かれ、左右の石壁には専用のくぼみに差し込まれた松明が煌々と燃えている。黴を炙るような煤けたにおいが籠るその空間の最奥、錆びた鉄で補強された木製の扉の前には、見張りと思しきひとりの修道士が立っていた。先ほど対峙したドニという護法僧と同様の武装をしており、抜身の剣を手にしながら、ユーゴらが潜む闇を睨んでいる。
怯んだように闇に踏み留まるロバールの背に、短剣の切っ先を押し当てる。早く行け、というユーゴの催促に背を強張らせてから、ロバールは光の只中へと、えいやと勢いよく飛び出した。
突如として現れた侵入者に驚いた修道士が、咄嗟に剣を振り上げる。しかし、
「斬らないでくれぇ!」
と、ロバールが情けない大声を上げると、驚いた修道士が一瞬の躊躇いをみせた。
その一瞬が欲しかった。
ロバールの影から獣の如くするりと抜け出し、無防備な脇腹にまず一閃。不意打ちと激痛に怯んだ修道士の足を払うと、覆いかぶさるようにして刃を喉元へと突き立てる。そのまま抉るように手首を捻ると、噴き出した自らの血に溺れながら、身体を痙攣させて絶命した。
返り血を浴びぬように短剣を引き抜くユーゴの後ろで、ロバールが安堵の息を吐いた。
「し、死ぬかと思った」
「迫真の演技だったじゃないか」
「冗談きついぜ、兄ちゃん」
「大丈夫だと言っただろう。顔見知りなら、覚悟していても一瞬迷いが生じるものだ」
「この俺を盾に使いやがって」
「それより、ここなんだな?」
堅牢な木製の扉の前に立ち、そう問いかける。「そうだ」とロバールが答えると、思わず錠前がかけられたままの扉を押し開けようとしてしまい、ガチャ、という冷たく硬い金属音に拒まれた。
「落ち着けよ。鍵はジョスが――そのぶっ倒れてる男が持ってるはずだ」
仰向けに倒れた修道士の亡骸を指差し、ロバールが言う。
「懐か、腰の小袋か……ベルトにでも括ってるんじゃねえか?」
急いで修道士の傍らにしゃがみ、ロバールに言われた場所を探ってみる。血濡れた懐を叩き、鍵の感触がないと判じると、すぐさま革ベルトに下げられている小袋の口を開く。ちゃり、という硬い音がした。取り出してみると、錆びた鉄製の鍵束であった。
ほっと息を吐こうとして――嫌な予感に背筋がひりついた。
目の前で絶命している修道士の装いは、ドニとまったく同じなのだ。白い羊毛の
(……短剣?)
そんなものを持っていたかと訝しむが、覚えていない。見えなかったのだ。ドニが倒れた場所は、ランタンの光が届かぬ暗がりだった。ロバールがランタンを壁際に置いたまま、ドニの死体へと近づいたから――
ひりつきが戦慄に変わった瞬間、ぴしゃ、という血溜まりを踏み抜く水音がした。咄嗟にその場を飛び退くが、左肩に鋭い熱が走る。裂けた
「駄目だぜ、俺の言うこと素直に聞いたら。俺は――悪党なんだからよぉ」
嘲笑に顔を上げれば、丸腰のはずのロバールが短剣を構え、したりと顔を歪めている。
「兄ちゃん、さてはお堅い家の育ちだろう。従順ですれてない。ちょろすぎる」
ドニの短剣である。あのとき、頬に散った返り血を拭い、ランタンを拾い上げるほんの束の間、ユーゴはロバールから目を放した。いまだってそうだ。早くエイムを助けたくて、ロバールに言われるがまま鍵を探すためにしゃがみ込み、無防備な姿を晒した。
それらのわずかな隙を、「兄ちゃん」などと気安く話しかけながら、虎視眈々と狙っていたのである。
出し抜かれた悔しさに歯噛みするユーゴを見下しながら、ロバールはくつくつと
「もうひとつ言い当ててやろうか。おまえ、精霊を手放したエルア族だろ」
「は――、……なんのことだか」
「しらばっくれても無駄だ。喰われる恐怖心からそうなって、会員の食欲を削ごうとしたエルアがいたからな。それにおまえ、きっぱり否定したよなぁ? 自分は粛清官でも、ジスラン・グラース個人の配下でもないって。加えて男にしちゃ長すぎる髪と、エルアを助けようっていうその気概。間違いねえ」
ユーゴを挑発するように、手元でくるりと短剣を回し遊ぶ。
「さぁて、エルア狩りといこうか」
回した短剣をしっかと握った直後、ヒュ、と空気を裂いて振り下ろされた。自らの短剣の腹で受け流すが、その圧は予想よりも重い。びりりと痺れた手を庇い、ロバールと距離を取ろうとするが、すぐに石壁に背があたった。
左肩の痛みに耐えながら、ユーゴは震える手で短剣を握り直した。力では押し負ける。この負傷も不利であろう。では自らが持つ何が、ロバールを制することができるのか。
「おまえらは、エルア族を喰うんだろ?」
考えろ。
「翼も木面皮もない、エルア族かどうかも怪しい俺に、いったい何の価値がある」
口を動かせ。思考する時を稼げ。
「あるんだなぁ、これが」と、嗜虐的に唇を歪ませ、ロバールは楽しそうに語りだした。
「翼があろうがなかろうが、精霊を宿せる聖なる肉であることには変わりねえ。価値が落ちるのは否めないが、ペルマナント人と見た目が似ることで、別の欲を抱くやつの需要を満たしてやることができるのさ」
「……別の欲?」
「肉欲だよ。
げらげら嗤うロバールに、ざわ、と全身総毛立つ。
肩の傷は、最早痛みを感じなかった。怒りに沸騰した血はチリチリと膚を焼きながら腕を伝い落ち、肘を過ぎ、短剣を握る手まで伝う。どろりとした激憤に満ちたその熱は、しかし、ユーゴの胸裡に冷たい凪をもたらした。
「エルア奪還を阻止して、さらには活きのいい雄の土産付き。さすがにテランスの怒りもおさまるだろ」
ロバールは短剣の切っ先を逃げ場のないユーゴに向け、「観念しな」とにじり寄ってくる。強かなこの男に、付け入る隙があるとすれば――
刹那、ロバールが頬を引き締めた。鋭い刺突。避ける。体勢が傾いだユーゴを狙い、今度は刃を振り下ろす。地を蹴り、また避ける。しかし負傷した傷への負担は大きく、だらだらと血が溢れ出す。握った短剣がしとどに血濡れる。それを見て、ロバールの頬がまた緩んだ。
(せいぜい、笑っていろ)
対峙してわかる。ロバールは強い。だが闇に乗じて背後から獲物を襲う陰湿な密猟者は、同胞のために命を賭せるエルアの矜持を、どれほど理解しているだろうか。
「ちょこまか逃げやがって」
ついにユーゴを隅へと追いやったロバールの唇が、したりと歪む。背には牢の扉。次の攻撃を左右どちらに避けようとも、ここは通路のどん詰まりで、すぐに行く手を石壁に阻まれる立ち位置である。身を守るように、ユーゴは短剣を胸の高さで構えた。手が震えている。ロバールは狩りの終わりを確信し、ほくそ笑んだ。
「終わりだ」
キン、と硬い金属音を鳴らし、ロバールがユーゴの短剣を弾き飛ばした。俺の勝ちだ。そう爛々と眸を光らせるロバールの顔面に向かって、ユーゴは思い切り左手を振った。指先はかすりもしないが――
「っ、てめぇ――!」
手から放たれたものが、ロバールの目元に飛び散り視界を奪った。赤く、べたついた液体。左肩から掌まで滴り落ちていた、ユーゴの血である。
その怯んだ一瞬を逃さなかった。咄嗟に目元を拭おうとしたロバールの短剣を叩き落すと、闇雲に振るわれた拳を避け、先に短剣を拾い上げる。立ち上がると同時に、右脇腹から左肩までを斬り上げた。浅い裂傷。血飛沫。思わぬ反攻に狼狽えたロバールの
「正面からエルアの戦士と戦ったのは初めてか? 密猟者」
昏倒し、修道士の血溜まりの中に倒れたロバールを見下ろしながら、ユーゴは言う。
「俺たちは同胞のために戦うとき、どれだけ窮地に陥ろうが諦めない。自らの優勢に驕り、俺を侮ったおまえは、嗤い出した時点で負けたんだ」
これまで幾度となく、同胞の骨や精霊を奪還するために、粛清官と戦ってきた。命の駆け引きの最中、優勢であっても気を緩めず、劣勢であっても不屈の精神で切り抜けてきた。その経験が矜持を形作り、ユーゴをエルアの戦士たらしめたのだ。長く〈翼生会〉の密猟者であったというロバールにだって、戦歴でも強かさでも、劣らぬという自負もある。
「……だれがちょろいって? このくそったれめ」
鼻息も荒く悪態を吐き、争いのさなかに取り落としていた鍵束を拾い上げたのだった。
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