3 再訪
月は隠され、星もない。重く垂れこめた暗雲に、押しつぶされそうな夜であった。
前回同様、終課の鐘が鳴る直前にシプレ修道院を訪れると、剃髪した門番に武器を隠し持っていないかと身体を検められた。外套をめくり、腰回りや下肢に触れ、丸腰であると判じてから、ランタンをかざして周囲をくまなく確認する。ヴァンがひとりで来たことを確信してようやく、修道院の門扉を静かに開いた。
「いいか、絶対に騒ぐなよ。騒いだらどうなるか……わかるだろう?」
「うるさい。早く通せ、下っ端」
生意気な応えに、門番の頬がひくりと引き攣る。とはいえ
門を通ると、すぐに背後で閉められる。しんと静まり返る敷地内には、聖堂の頂に掲げられた、聖火灯の仄暗い碧光が満ちていた。背高の糸杉。薬草園から香る
「お待ちしておりました」
糸杉の影からぬるりと姿を現したテランスが、声に滲む喜色を隠しもせずに、ヴァンのそばへと歩み寄る。
「やはり、来ると思っていました」
「エイムは無事なんだろうな?」
「もちろんです。さあ、ご案内しましょう」
そう言って、テランスは夜に溶け込む黒い外套から、青白い手を差し出してくる。「なんのつもりだ」と訝しむと、促すように指先をくいと動かした。
「今宵はランタンを使えません。逸れぬよう、どうぞ手をお取りください」
「必要ない」
「聖火灯の碧光があれど、足元は暗い。危ないですから――さあ」
手を取らねば、一歩たりとも進む気はないようである。拒否権がないことを察したヴァンは、ひとつ盛大な舌打ちをしてから、差し出された手を取った。
ひんやりと冷たい、骨ばったテランスの手。触れた瞬間、にい、と唇が弧を描く。
捕まえた。
そう言わんばかりの、恍惚とした微笑であった。
死者の魂が無事に〈
中に入り、扉を隙間なく閉めてから、用意してあったランタンに火を灯した。祭壇に祀られた
最下層には石造りの地下通路があり、入り組んだ道の先に樹海へと繋がる出口がある。前回来たときは右へ左へと曲がりながら奥へと進んだのだが、今回通されたのは、階段を降りきってすぐのところにある部屋であった。
四枚羽の夜鷹の浮彫が施された扉を開くと、部屋に焚きしめられた香が鼻腔をくすぐった。とろみを帯びた甘みの中に、ほのかにピリッと刺激を感じる、濃厚で豊潤な樹脂の香り。これは――
「……
「この修道院は、死者のための場ですからね」
没香は至天教において、死と安寧を司る香りである。主に埋葬の儀式や礼拝時に焚かれ、その煙は信徒の精神を清めるものであるという。ヴァンも嗅ぎ慣れた香りであるのだが、ほんの少し、記憶の中のそれとは差異があった。
「でもなにか、……ちょっと違うな。ふつうの没香より、甘みが重いような」
「おや、よくおわかりで」
テランスが頬を綻ばせながら部屋へと入り、ヴァンもそれに続く。ランタンの火種を部屋の燭台に移すと、徐々に薄暗い室内が見渡せるようになった。途端、背にぞろりとした嫌なものが這いあがる。
羽ペンや書類の置かれた執務机の向こう、正面奥の壁には、樹海の地図が貼られていた。古く黄ばんだ地図には深く潜るための道筋や、過去エルア族と遭遇した地点が記されており、ヴァンが教えた小川の畔の狩場も記されている。左の壁には剣や弓などが並ぶ武器棚が設えられ、右の壁には麻縄や、人間一人ゆうに入れそうな収納袋が吊るされている。
密猟の計画を練るための部屋――密猟主導者である、テランスの執務室であった。
テランスは執務机の上に置いてある蓋付香炉に鼻を近づけ、樹葉を模した透かし彫りの隙間から細くくゆる煙を嗅ぐ。その神秘的な香りにうっとりと目を細めてから、扉付近に佇んだままのヴァンを振り返った。
「没香は、ネルドゥラムと呼ばれる木の樹脂から得られます。碧の御使いが死者の魂を〈碧域〉へ導く宗教画がよく描かれますが、そのとき携えている司牧杖が、この木で作られているという逸話があるのです。ご存知でした?」
「知ってるよ。ネルドゥラム……別名、魂の平安。その樹脂から作られる没香は、〈碧域〉に満ちる香りとされている」
「その通りです。ですが、これはただの没香ではありません。精霊を宿したネルドゥラムの樹脂から得られる、特別な没香なのですよ。長い年月をかけて精霊を宿したネルドゥラムは、生まれ直したかのように若木の艶を取り戻し、久遠を生きる聖碧物となります。そうなると価値は跳ね上がり、日常的に消費される香ではなく、様々な妙薬に加工されるのですが……その香りは、我々にとってまさに象徴なのです」
「なんの話だ。御託はいいからエイムを解放しろ」
思わせぶりな長話にしびれを切らしたヴァンが、苛立ちながらそう催促しても、テランスはただ笑みを深めるばかりである。
「我々はその象徴たる聖木の樹脂を、とある特別な儀式の際に焚くことにしています。天の眷属として生まれ直す私たちには――ぴったりの香りだと思いませんか」
パチン、と、テランスが指を鳴らす。
すると突然、ヴァンは後ろから太い腕を首に回された。「相変わらず話が長げえなぁ」とにやつきながら、頸を締め上げてくるのはセドリックだ。
「ぐっ……、おまえ、密猟のときの……!」
「二度もテランスの呼び出しに応じるなんて、本物の馬鹿野郎だな」
「おまえが、招待状を、置いて行ったんだろうがっ、……!」
「しかもどうせ喰われるエルアのちびっ子のためにときたもんだ。へへ、感動で涙が出るぜ」
「へえ……どうせ、喰われる?」
ぎろりとテランスを睨みつければ、「申し訳ありません」と眉を下げられた。
「あなたを騙したくはなかったのですが……あの少年の解放は、できないのです」
「言っただろ? 子供は肉が柔らかいから高値がつく、ってよ」
「はっ、……そう、かよ」
目の前がちかちかする。頭の芯が痺れてくる。けれども彼らの
「そんなことだろうと、思っ、たよ」
「……少年を救えないとわかっていながら、あなたはここへ捕まりに来たのですか?」
「エイムを、諦めたわけ、じゃ、ない。でも、俺、はな……、――」
ヴァンの思わぬ応えに、テランスが訝しげに眉を顰めている。その表情が、ぐにゃりと歪んだ。
(まだだ。もう、少し)
意識を失ってしまう前に、伝えておきたいことがある。
「テランス」
この名を呼んだのは、何年振りであったろうか。震える手を差し伸べると、驚いたテランスがはっと瞠目して、執務机に預けていた腰を浮かせた。
「俺が今日……、ここに、来たのは、――」
五年前。同じ孤独を分かち合った、かつて友人であったおまえと。
「……ヴァン? なにを――」
もう一度、ちゃんと話をしてみようと思ったのだ。
「し……、な――」
伸べた手は届かず、力なく落ちる。
困惑したテランスの声と、没香の濃厚な香りが、真っ黒なヴェールの向こうに消えた。
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