3 追躡
娼婦の客引きもなりを潜めた夜の〈
宵っ張りが居座る酒場も店じまいを始め、通りに洩れる灯りはまばら、足元はよく見えない。それでも歩みは急いでいて、蹴とばした小石がカラカラと路地の闇に消えていく。
しくじった。テランスから必ず密猟から連れて帰れと依頼されていた、あの生意気な少年を樹海に置き去りにしてしまった。
現れたエルア族がペルマナント人、それも粛清官を逃がすはずがなく、その場で殺されているに違いない――そうテランスに報告した時、いつも胡散臭い笑みを貼りつけているその顔から、ぞっとするほど血の気が引いていったのだった。
「ありえません」
そう、たった一言だけ。
それ以降は一切口をきかず、ここから出ていけと、セドリックとロバールを身振りで追い払った。セドリックは、ヴァンが裏切ったせいで面倒が起きたのだと弁明したが、ロバールは咎められぬのを幸いに、そそくさとシプレ修道院を後にした。貰った前金はすべて賭場ですったらしく、返せるあてもないという。密猟者として雇ってもらえないのなら、他の悪事に乗り換えればいいとしか考えていないようであった。
セドリックは、ロバールほど楽観的にはなれなかった。
もう長いこと〈翼生会〉の密猟者を務めた。だからわかる。この異端組織は、自分たちの思想が正しいと確信しながらも、それが正統でないことを承知しており、国の基盤を内部から腐らせていることを自覚している。さりとて他者の幸福を邪魔したいわけでもなく、むしろ双方不干渉のまま、それぞれの幸福を追求すればよいと考えていた。だからそれと悟られぬよう、息を潜め、気配を殺し、自らが放つ腐臭を払拭するのに神経を尖らせているのである。
密猟者は、〈翼生会〉の秘密に深く関わっている。秘密の露見を恐れる彼らが、
その後も、許しを乞うために何度もシプレ修道院を訪ったが、テランスは面会に応じてはくれなかった。門番に追い返されるたびに、焦りと恐怖に胃の腑が縮む思いがした。〈翼生会〉からの追手がかかってやしないかと、毎日
もう潮時なのかもしれない。追手の気配がないうちに、早々にこの〈
「あ! ちょっと、セドじゃないのぉ」
そう声をかけられ、セドリックは足を止めた。路地の暗がりから現れたのは、豊満な胸を強調した衣装をまとう、顔見知りの娼婦である。
「ここ数日音沙汰ないから、どうしたのかと思ってたのよ。久しぶりに私と遊ばない?」
「悪いな、そんな気分じゃない」
「もう、また振られた。今日はついてないわね」
「いやになっちゃうわ」と溜息を吐きながら、女はセドリックの腕に手を回す。誘惑するように胸を押し付けてくるあたり、ほんとうに今日は客が捕まらなかったのか、まだ諦めてはいないらしい。まずい、と静かに歯噛みする。享楽にふける余裕などないのに、こいつはなかなか
「ああ、もう。いま思えばあの綺麗なお兄さんをからかうんじゃなかったわ。反応がうぶで可愛かったから、ついさぁ。上手におだてておけば、客になったかもしれないのに」
「知るかよ。おい、放せって」
「マンソン雑貨店の前にいたのよ。ほら、いまロバールが入り浸ってる、あのおんぼろの店。神様って不公平よねぇ。美人なうえに、これまた素敵な銀髪と翠眼でさ。傷だらけだったのが玉に
「なんだと?」
聞き捨てならない容姿に、思わず女の腕を鷲掴んだ。そんなはずはない。やつは樹海で死んだはず。けれども同じ特徴を持つ男が、わざわざロバールがいる雑貨店の前にいたという。自らの窮状を脱したいがための願望なのかもしれないが、もしや、と連想せずにはいられなかった。
「それはいくつぐらいの男だ。名は聞いたか?」
「ちょっと。なんなのよ、痛い」
「答えろ!」
セドリックの怒号に身を竦ませながらも、女は渋々ながらこう答えた。
「名前は、聞いてないわ。たぶん、十六、七くらいの男の子よ」
「ちょっとつり目で、中性的な顔立ちの、生意気な口をきくやつか?」
「そう、そんな感じ。十歳かそこらの子供と一緒にいて、だれかを待ってるみたいだった」
「子供? 待つって、だれをだ」
「私が知るわけないでしょ。……ああ、そうだ。もしロバールのところに行こうとしてたなら、やめた方がいいわよ」
「もうあんな男とつるむのよしなさいな」と言う女の忠告に、ぞくりと背が粟立った。
「日暮れ頃雑貨店に――まあ、娼館だけど、覆面の男たちの押し入りがあったらしいのよ。そいつらに店の女の子とお客が全員追い出されちゃったんだけど、でもそもそも違法の店だし、おおっぴらに文句なんて言える人いなくって。ロバールだけ閉じ込められたまま、扉も窓も締め切られちゃったんだって」
「……っ、それは、だれの仕業だったんだ?」
「さあね。あいつ、相当の悪党でしょ? 女の子に乱暴するし酒に酔えば暴れるしで、〈薔薇摘み通り〉以外でも評判は最悪。方々に恨みを買ってるから、だれにやられてもおかしくないって、みんな静観を決め込んでるわ」
女から一歩退いた足が震える。〈翼生会〉の追手が、ロバールを始末しに来たのだろうか。いますぐここを離れなければ、自分も危うくなるかもしない。けれども、しかし、ほんとうに〈翼生会〉の追手であるならば、その店の前にヴァン・グラースがいるはずがない。
「いい気味よ。あいつ、逃げ足の速さをよく自慢してたのに、まさかお楽しみ中に取っ捕まるなんて、もう笑えるったら――あっ! ちょっと、どこ行くのよ!」
確かめなくてはならない。
引き留めようとする女を無視し、セドリックはマンソン雑貨店へと走り出した。だれが店に押し入ったにせよ、ロバールはすでに手遅れかもしれない。しかしあの生意気な少年が生きているという痕跡さえあれば、怒れるテランスの許しを得ることができるかもしれないのだ。
マンソン雑貨店は、娼婦が言った通り、すべての窓と扉が閉ざされていた。
終日垂れ込めていた雲は夜になってもしぶとく居座り、今夜は星明りを望めそうもない。〈薔薇摘み通り〉に軒を連ねる店はすべて店じまいを終え、通りは漆黒の夜で満たされていた。本来であれば籠っていた
(……だれだ?)
息を殺し、通りを挟んで向かいにある建物の影から、雑貨店の玄関先を覗き見る。いくら目を凝らしても、濃い闇に沈んでなにも見えない。けれど、感じる。何者かが立っている気配がする。
三階建ての雑貨店を仰ぎ見ると、三階の角部屋の鎧戸から、うっすらと光が洩れていた。あの部屋で、いったいだれが、なにをしているのか――と、そう思った矢先、光が消える。しばらくすると扉が静かに開き、数名の人影が通りへと姿を現した。ランタンを持ってはいるものの、遠目では明度が足らず、顔を判じることはできない。その代わり、なにかを囁き合う声が、風に乗って流れてきた。
「もう遅い。おまえたちは先に帰れ」
「俺たちは〈犬舎〉でみっちり続きをしてくる。おら、きりきり歩け」
「ぅぐっ、うう……!」
誰かの怯えたような呻き声がする。押し入った者らに捕まっているということは、呻き声の主はロバールであろう。騒がぬよう猿轡を噛まされていようであるが、そこにふと違和感を覚えた。
(生かしたまま、こんな夜中に捕縛する? ……〈翼生会〉の追手じゃない)
〈翼生会〉なら、秘密を洩らす恐れのあるロバールを、生かしたりなどしないはず。
(ただの警吏でもないな。こんな夜中にこそこそ連行するなんておかしい)
ならば、だれだ。
いったいだれが、わざわざ標的を生け捕りにして、連行しようというのだろう。
そう訝しんで耳をそばだてていると、次に聞こえたのは、聞き覚えのある声であった。
「エイムをひとりにできないし、俺は母さんの家の方で休むよ」
(この声は、まさか……!)
沸き上がる興奮で、笑い出しそうな口元を手で押さえた。
樹海で意識朦朧とした粛清官が、エルア族と遭遇した。そのままとどめを刺す以外の選択肢があるなどと、露とも思わなかったのに、奇蹟とはかくも起きるものなのだ。テランスの言う通り、あのガキは主の恩寵を受けているのかもしれない。
「あんたはどうするんだ? 続きが終わったら、上層の家に帰るのか」
ただ樹海で話したときよりも、幾分覇気のない声であるのが気にかかった。声が似ているという印象だけではなく、声の主がヴァン・グラースであるという確証が欲しい。
問いかけには、はじめに聞こえた低い男の声が答えた。
「俺たちはそのまま〈犬舎〉に泊まる。もう市門も閉まっているしな」
「そっか、そりゃそうだよな。……駄目だな、俺。動揺してる」
「……大丈夫か」
「ああ、まあ、たぶん」
「尋問が終わったら、……そっちに行こうか?」
一瞬の、沈黙。直後、
「なんで?」
と、心底きょとんとした応えが放たれたのであった。
「ぶは――ふられたなぁ、おい」
噴き出した笑いを堪えながら、また別の男がしゃべりだす。
「一応〈
「……、……ああ」
「よし、決まりだ。じゃあ、そろそろ行くか」
確証が得られぬまま、どこか和やかな会話が終わってしまった。玄関先にたむろしていた者たちは二手に分かれたようで、市外区東部方面へ歩みを進めた者らの方に、ロバールの呻き声が混ざっている。ならば目的の声の主は、市外区北部方面へと歩く者らに含まれるはずだ。
どちらを追うべきか、逡巡する。いまロバールを見失えば、おそらく助ける機会は二度とない。しかし、もしもほんとうに声の主がヴァンであるならば、自らの窮状を脱する切り札となり得る。
(どうする)
判断しきれぬ焦りに、下唇を噛みしめたときであった。
市外区北部へと向かう者らが、ふと足を止めたのだ。振り返り、「おい」と手に持ったランタンを顔の高さで掲げ、市外区東部へ向かった者らを呼び止める。
刹那、ランタンの火に、銀の燐光が煌めいた。
銀髪だ。
「その――、……なんていうか」
まごつく声に、低い男の声が「なんだ」と問う。
そうして零された次の言葉に、セドリックは静かに歓喜した。
「今日は、色々と助かった。……おやすみ。ジスラン、マルセル」
(ジスラン……? ジスラン・グラース!)
粛清官の長官で、リュカの兄。そしてテランスが執着する少年、ヴァン・グラースの養父ではないか。
ならば、やはり。
(間違いない、あの糞ガキだ……! 生きてやがったのか!)
ぎこちない挨拶を交わし合ってから、一行はまた二手に分かれて歩き出す。胸中でロバールに詫びながら、ヴァンの後を追い、セドリックはぬるりと闇の中を移動し始めた。
息を潜め、足音を殺す。極限まで抑えたそれらを彼らの足音に潜ませれば、護衛にも気付かれない自信があった。長年、〈翼生会〉の密猟者を務めてきたのだ。闇に潜んで目標を
天候も味方した。しとしとと降り始めた冷たい
市外区北部の区画に入り、静まり返った貧民窟を抜けてもなお、彼らの歩みは止まらなかった。ついには市外区を抜け、農地へと続く畦道を進んでいく。
どこへ行くつもりなのだ。そう訝しんだ矢先、彼らは畦道を逸れ、その脇でこんもりと茂る森へと足を向けた。奔放に伸びる草叢に分け入り、森の手前にぽつんと佇む
(あのおんぼろの小屋……確か、リュカが歌手を殺した場所じゃなかったか?)
ヴァンは異端者たちの血生臭い
「結構濡れちゃったね」
娼婦の言っていた十歳前後の少年が、軒先で頭から被っていた外套を脱いでいる。ランタンに照らされる彼の顔は、ペルマナント人のようにつるりとしているのに――その背には、青い翼が生えている。
(馬鹿な……エルア族の、それも子供じゃないか!)
翼は小振りで、木面皮もあまりない。けれどもあの異形はまごうことなく、エルア族の証である。
「身体冷やすなよ。風邪ひくぞ」
「でも僕、拭くものとか持ってきてないや」
「毛布や着替えを用意してあります。お使いください」
「助かる、使わせてもらうよ」
(テランスだけじゃなく、エルア族まで
仇敵同士がよろしくしている理由など知らないが、ヴァンが樹海で生き延びた理由には、あの少年が関係しているに違いない。
(俺にとっちゃあの糞ガキよりも、エルアのちびっ子のほうがよっぽど救いの御使い様だぜ)
ようやくツキが回ってきた。窮状を脱するだけではない、十二
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