四章 市外区

1 尋問

 ペルマナント教国グラース領、〈碧の樹海ベルスヴェール〉を臨む丘に造られた町、〈祈りの圍ルリジオン〉は、居住区が三層に分かれている。

 教会に属する者の住まう市内区上層。

 聖導器職人とそれを支える人々の住まう市内区下層。

 そして、それらを守る市壁の外、至天教に額づく民草がひしめき合う、市外区と呼ばれる最下層である。

 各地より訪れる巡礼者を狙った出店群から発展したこの市外区は、いまでは多種多様な店が軒を連ねる、ひとつの町へと姿を変えた。人の流入は新たな需要を呼び、商工業は発展を遂げ、さらなる人を呼び寄せる。日々の営みが織られ続け、また人は増え、思惑の坩堝と化していく――清廉で美しい〈祈りの圍〉の膝元で、聖と俗は入り乱れ、諦観と欲望が渾然となり、光は影をはらんでいた。

 市外区、北東部。領都より伸びる街道と接合し最も栄えている東部と、貧困層が寄り集まる北部の狭間にあるその地区に、影の一部が潜んでいる。

「あらぁ、〈薔薇摘み通りリュデローズ〉に子供なんてめずらしい。兄弟?」

「ねえ、ぼく。暇してるなら、うちの店で遊んでいく?」

「あの、僕らは、そのぉ」

「やぁん、かわいい。お兄さんの方はずいぶん綺麗なお顔してるのねぇ。あら、もしかして銀髪?」

「う、わ、なんだおまえら、こっち来んな」

「せっかく素敵な髪なのに、そんな襤褸ぼろのローブで隠すなんてもったいないわ」

「ねぇぼく、お兄さんと一緒に来なよぉ。可愛がってあげるからさ」

 豊満な胸を強調した蠱惑的な衣装に、きらびやかな髪飾り。濃い化粧。妖艶な女三人に声をかけられ、狼狽えたエイムがヴァンの後ろに隠れると、そのいとけない仕草に女たちはけらけらと笑い合う。白粉おしろいと香油が混ざった甘ったるい香りがむわりと立ち込め、ヴァンは不快感も露わに眉を顰めた。

「寄るな。臭いんだよ、おまえら」

「まぁ辛辣。お兄さん、まだ淑女の扱いを知らないお子様ね?」

「立派な紳士にしてあげるわよぉ? 手取り足取り、取りね」

 「やだぁ、下品!」とかしましく笑いながら、女たちが勝手に盛り上がる。エイムを背に隠しながら、しっしと追い払うように手を触れば、「つまらない男ね」と言い腐して、女たちは去って行った。

(くそ、まだなのかよ)

 苛立ちながら舌打ちをし、背を預けていた建物を仰ぎ見る。三階建ての木造の家屋は薄汚れてみすぼらしく、締め切られた玄関扉は四隅がひび割れ欠けている。開店すれば陳列棚になるであろう大きな鎧戸の横に、『マンソン雑貨店』と書かれた看板があるものの、客を招く気があるとは思えないほどにぼろぼろであった。たいした手入れも施されていないこの家屋は、よくある古ぼけた商店の風体であるのだが、マルセル曰く、どうやら内情はそうではないらしい。

 これ以上だれかに声をかけられては堪らないとばかりに、ヴァンは頭から被っていたローブをいっそう目深に被った。粛清官の身分を示す青藍せいらん色の外套ではなく、マルセルの用意した鼠色の襤褸のローブである。同じものをまとったエイムが、女たちの背を見送りながら、ほっと息を吐いていた。

 もうすぐ日没だというのに、この細く薄暗い通りには人が増えつつあった。道を行くのは大抵男で、ぎらぎらとした獣じみたひとみをしている。いまもヴァンの目の前を、ひとりの胡乱うろんな男が通り過ぎていった。なんとはなしに目で追うと、路地の暗がりから細い女の手が伸びてきた。男の袖を引き、二、三言葉を交わすと、暗がりへと招き入れ――建物の影に隠れる寸前、身体を寄せ合ったふたりの唇が触れ合うのを見た。その深く、貪るような、口づけを。

 咄嗟に目を逸らし、自分の靴を凝視する。ひどく居心地が悪かった。子供エイムとふたり並んで立つには、ここは場違いすぎるのだ。堅苦しい聖業と停滞した生活に倦んだ大人が、身体の深いところに巣食う欲望を横溢おういつさせるために集う場所。淫靡いんびな熱が夕闇に溶け、通り一帯に沈殿している。息を吸うたびになぜか自分まで秘め事を抱えるような、所在ないなにかが腹の底に溜まっていくようであった。

「ジスランさんたち、遅いね。大丈夫かな?」

 閉められたままうんともすんとも言わない玄関扉の前に立ち、エイムが言う。恐る恐る耳を当てるが、中からはなにも聞こえないようで、すぐに顔を放して心配そうに息を吐いた。

 マルセルが放った〈シアン〉の調査により、密猟者のひとり、ロバールが、この商店に滞在しているという情報を得た。しかし商店とは名ばかりで、その実態は違法な娼館であるらしい。ここで遊ぶのと同時に、どこからか攫ってきた女子供を、高値で売りつけているのだという。

 その悪の煮凝りのような男が、いまこの家屋の中にいる。それでジスランとマルセル、二名の〈犬〉が、ロバール確保のために店内に侵入しているのだ。

 ほんとうは、ヴァンもジスランたちと一緒に店内に乗り込み、この手でロバールを捕えたかった。けれどもふたりそろって「外で待て」の一点張りで、取りつく島もありはしない。それで仕方なく、エイムと一緒に店の外で、こうして待ちぼうけをくらっているのである。

 ジスランらが店に乗り込んでから、どれくらいの時が経っただろうか。足元に落ちる影が夕闇と溶け合い、見分けがつかなくなってきた。ロバールはエルア族の密猟に深く関わっており、五年前の母の死についても、何らかの事情を知っている。一刻も早く問いただし、知っていることを一つ残らず吐かせたかった。

 いっそ今からでも店に乗り込んで、ロバール確保に加えてもらおうか――そんなことを考えていたときである。

「もういいぞ。入れ」

 待望の言葉が、くぐもった声でかけられた。覆面を付けたジスランが、玄関扉を薄く開いている。

「遅い。手間取ったのか?」

 エイムとともに店内に素早く入り込み、そう溜まった不満を洩らせば、ジスランはゆるりと首を振る。

「いや、特には。おまえたちが入る前に、人払いがしたかった。店内にいた者は、標的以外全員裏口から追い出してある」

「そんなの、べつに一緒にやればよかったろ」

「そう思うか? 娼婦をあしらうのに手間取っていたようだが」

「……聞いてたのかよ」

「聞こえただけだ。店内はあんなからかいとは比べ物にならないほどみだりがわしいぞ。子供に見せるものではない」

「こ、……!」

 まさかこの男に子供扱いされるとはと、喉に言葉を詰まらせる。黴臭い階段を上がりながら、いや、それは自分ではなく、エイムにあてた言葉に違いないと結論付けながら、ジスランの後を追ったのだった。

 軋む階段を三階まで上がり、ある部屋の前でジスランが足を止める。「。好きに聞き出せ」と言って、蝶番の軋む扉を押し開いた。

 狭い一室であった。鎧戸が閉められた暗い部屋の隅に、手燭が乗せられた小振りなチェストが置かれている。蝋燭の頼りない明りが寝乱れたベッドと、脱ぎ散らかした衣服を照らし、獣脂蝋燭と人間のあぶらの、生々しいにおいが籠っていた。それだけならありふれた寝室であるのだが、しかし床は飛び散った水滴で濡れている。その異様を作り出しているのは、水の満たされたたらいと、後ろ手に縛られ顔をしとどに濡らしている、ひざまずかされたひとりの男――ロバールであった。

「来たか。準備はばっちりだぜ」

 ジスラン同様覆面を付けたマルセルが、上裸じょうらのロバールの背に片足を乗せながら言う。その左右には抜身の剣を携え、揃いの黒い外套をまとった〈犬〉がふたり、無言で佇んでいた。床に額が付きそうなほど背を折り、がたがたと震えるロバールを見て、ああ、確かに、と得心する。

(こういう意味でも、子供に見せるものじゃない、ってことか)

 さりげなくエイムに視線をやれば、水浸しの部屋を前に、なにがあったのかと目を丸くしている。まさかそこの盥で水責めにされていたとは、すぐには思い至らないのであろう。呼吸を奪われ、悲鳴を隠され、そう時を待たずして、抵抗する心までをも折られてしまった。密猟時に不敵に笑っていた男とは、まるで別人のように縮んで見える。

 頭から被っていたローブを脱ぎ、ロバールの前に立つ。「おい」と一声かけて顔を上げさせると、ヴァンを見るなり瞠目した。

「て、てめえは……! なんで生きてんだよ。あの状況で、どうやって!」

 明け方の樹海。密猟に加担した浅瀬にて、イネス姉妹を庇ったヴァンは、激高した密猟者らと揉み合いになった。その途中でユーゴが現れ、彼らはヴァンを放置して逃げ出したのだが、まさかその現れたエルア族が粛清官を助けるとは、夢にも思わなかったに違いない。当然、とどめを刺すと考えたはずだ。

「おまえは答える側だ。聞く側じゃねえ」

 凄みを効かせた声色で問いを制し、マルセルがロバールの背に乗せた足に体重をかける。額を床に擦りつけながらも、ロバールは「そうか、わかったぞ」と、頬を引き攣らせて笑い出した。

「覆面どもに突然襲われて、いったいだれの差し金かと思ったんだよ。でもその糞ガキが生きてここにいるっていうのなら、おまえら――粛清官の長ジスラン・グラースと、その副官マルセル・ガルディアだな? へ、へへ……なあ、頼むよ。ここいらで勘弁してくれ。領主の血筋の人間が、いたいけな小市民をいたぶるなんて、世間に知れたら困るだろ? それにフェリクス、いや、リュカ・グラースのことだって――」

「まるでこちらの弱みを見つけたかのような口ぶりだな」

 ジスランの深く長い溜息に、束の間にやついたロバールの頬が凍り付く。

「いたいけな小市民だと? 笑わせるな。エルア族の密猟、異端者への積極的な扶助、売春の強要……おまえは叩けば叩くほど埃が出る犯罪者だ。――のな」

 ロバールの前に膝をつき、水の満たされた盥を引き寄せる。

裏切り者ヴァンが生きていることは、いずれ異端組織に知れる。そうなれば密猟という秘密を露見させたおまえに怒りの矛先が向き、今後速やかな制裁が下されるだろう。雇い主である密猟の主導者、テランスにも頼ることはできない。ヴァンを密猟から連れて帰るという契約を破ったからな」

「おまえ、最近賭場でずいぶん羽振りがよかったらしいじゃないか。ヴァンに聞いたぜ、『前金をたんまり貰ってる』ってな。なのにヴァンを見捨てたばかりか、貰った前金もすっちまって、返せないときたもんだ。テランスの逆鱗に触れこそすれ、庇ってもらえるわけねぇよなあ」

 背から足を降ろしたマルセルが、今度はロバールの髪を掴んでぐいと顔を上げさせる。顔の真下には、ジスランが引き寄せた盥がある。

「そもそも、俺はおまえをこの先自由にする気などない。ゆえにどこかに訴えることなど当然不可能。万が一逃げられたとて、蠅一匹が騒いだぐらいで崩れるような、脆いをまとってはいない。目障りな蠅など――潰して終わりだ」

 パン、と、ロバールの目の前で、ジスランが勢いよく手を叩き合わせる。青ざめたロバールの肩がびくりと跳ねた瞬間、マルセルが手に力を込めた。「ひっ」と情けない声を上げたロバールだが、水に沈められる寸前でとめられる。恐怖に喘ぐ荒い呼吸が、盥の水面を揺らした。

「だが、おまえの持っている異端者の情報には価値がある。素直に吐くなら苦しまずにすむのだと、さきほど散々教えたはずだが……」

「言う! ぜんぶ言うって! 悪かったよ、だからもうやめてくれ」

 また沈められては堪らないと、ロバールは慌てて弁明する。家の名誉や弟の話を引き合いにして容赦を乞う思いつきは、あえなく潰え、再び青ざめながら震え出した。ヴァンがここに来る前に、よほどきつく締め上げられたのだろう。奥歯が噛み合わぬほど怯えている。

「頼むよ、いまさら抵抗なんてしねえから! 俺は答える側だ、わかってる。だから、だから――な?」

 マルセルが、ゆっくりとロバールの頭から手を放す。「余計なこと考えたら、次は沈めるからな」と釘を刺され、何度も頷きながら、ようやく顔を上げたのだった。

 その怯えた様子を見下ろしながら、ヴァンは緊張に乾いた唇を舌で潤す。まず、どうしても確かめねばならぬことがあった。

「……密猟されたエルア族は、まだ生きているか?」

 これをはっきりさせなくては、どう奪還するかの方針が定まらない。奪還するのは生きたエルアか、それとも遺骨か。叶うなら、前者であってほしいと思う。

 なぜそんなことを第一に聞くのかと、ロバールが怪訝そうに眉を顰める。しかしマルセルが促すように爪先でロバールの尻を小突くと、かぶりを振ってこう言った。

「生きてるわけねぇだろ」

 血の気が引く。

「密猟の時、教えてやっただろう。エルア族は喰うために狩られるんだって。俺とセドが密猟に成功したのはずいぶん前だ。もう喰いつくされてる」

「あの、じゃあ、骨。骨は? まだ、どこかに、あるよね?」

 衝撃を受け息も絶え絶えになりながら、エイムが問いを絞り出す。せめて骨だけでも故郷に葬ってやれたなら、彼らの思想の根幹たる、〈大いなる円環〉に殉ずることができるのだが、しかし――

「いや、骨もねえ」

 にべもなく、そう言い切られてしまった。

「やつらにとってエルア族は、そのすべてに聖性が宿るとされている。なにも捨てない。喰える部分はすべて喰う。それでも残った羽根や蔦髪は焼いて灰に、骨は磨り潰して粉にして、どっちも葡萄酒ワインかなにかに混ぜちまう。どこにあるかって言われたら、まあ……くそと小便に変えられて、どこかの肥溜めの中だろうよ」

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