三章 陋屋
1 願望
玄関扉が閉まる音で、ジスランははっと目が覚めた。台所の椅子に腰かけたまま、
「休むならベッドで寝ろよ。それじゃあ疲れが取れないぞ」
テーブルにランタンを置きながら、マルセルが言った。夜明け前の暗い室内に、おぼろげな焔色が満ちる。それに照らされる彼の顔も、ジスラン同様、濃い疲れに翳っていた。
「見つかったか?」
「いや……、あいつが行きそうなところを虱潰しに探したけど、どこにもいない」
「〈
「駄目だったみだいだ。なにせ、深夜に家を抜け出したみだいだからなぁ。目撃者のひとりもいやしねぇ」
「それもおかしな話なんだがな」とぼやきながら、空いている椅子にどっかと腰かけた。
「ヴァンがいなくなって丸一日。夜中は仕方ないにしても、日中にすらだれの目にも留まってない。飲食店、納碧院、町の主要な通りに、昔住んでた市外区北部……どこにも行かなかったなんてことあるか? それに――」
ジスランの胸元を指差す。そこには焔色を湛えたちいさな指環が、居心地が悪そうに革紐で吊るされている。
「シャンタルの指環はここにある。……あんなに執着していた母親の形見を諦めて、どこかに行っちまうとは思えないんだがな」
「ヴァンの身になにかあったのだろう。だから目撃情報がない。……そう考えるのが自然だ」
――五〇
昨晩、グラース家がシャンタルの死を隠蔽していたことを知られたとき、声を震わせながらそう言っていた。帰らないのではなく、帰れない――そんな状況に違いない。
(もしも……ヴァンになにかあったなら)
考えただけで、ぞっとするほど肝が冷えた。それはマルセルも同じようで、多弁な男がすっかり黙り込んでしまっている。
どこにいるのか。無事でいるのか。思考の渦と、町中を探し回った疲労が絡み合い、椅子に腰かけたまま、しばらく動くことができなかった。鎧戸の隙間から曙光が洩れ込み、ランタンの焔色を滲ませてから、ようやくジスランは他人事のように、ああ、と胸裡で呟いた。
(粛清官としての任に就いてから……聖務を放り出したのははじめてだな)
きっと今頃、迎霊官の守護任を急遽代行させられた部下が、樹海から町へ帰還している頃であろう。
領主の血筋たるグラースの名に恥じぬよう、また粛清官の長としてかくあるべきという姿を逸脱せぬよう、務めて謹厳実直であろうとしてきた。そうして作り上げた虚像は、ジスランにとっての鎧であった。図体ばかりが大きくて、心根は卑屈で小胆。とても人の上に立つような器ではない。そう自らを卑下することすら許されない環境で、グラース家の醜聞をなによりも
――家ぐるみで事件を揉み消してた卑怯な野郎と、俺はずっと暮らしてたってことかよ!
卑怯。まったく言い得て妙であった。ジスラン・グラースという男を表す、これ以上ない形容である。腹立たしくは思わない。罵られようが、嫌われようが、彼が息災であるのなら、いくらでも泥を被る覚悟はとうにある。なのに。
ヴァンが、忽然と姿を消してしまった。
(シャンタル……すまない。俺は)
夜明けの気配に顔向けができず、眉間を抑えて目を伏せる。
(俺はあの子を、守れないかもしれない――)
あの光の彼方、〈
「……なんの音だ?」
コ、コ、コ、と、なにかを小刻みに叩く硬い音が、締め切った部屋の空気を震わせたのだ。マルセルにも聞こえたようで、俯いていた頭をがばりと上げる。
重い腰を上げて立ち上がり、音の出所らしき鎧戸へと手をかけた。警戒しつつ押し開くも、柔らかな薄明が溢れてくるばかり。なにもいない――と怪訝に思ったのも束の間、解放された窓枠に、一羽の青い鳥が舞い降りた。ちょこんと立ち上がった冠羽に、すらりと伸びる長い尾を持った、燕ほどの大きさの青い鳥。ジスランをぴたりと見据えると、喉の奥でクル、クル、という鳴き声を上げた。嘴で咥えたもの主張するかのように、右へ左へと小首を傾げてみせている。
「……それは、まさか」
淡い薄明を照り返す、銀色に輝く二連のメダイユ――粛清官の身分証である。
小さな嘴から渡されたそれを確認すれば、やはり粛清官を示す剣の意匠と、ヴァン・グラースの名が刻まれていた。その刻印に飛び散った血の跡に瞠目する。怪我をしているのか――
「こりゃあ、驚いた」
青ざめたジスランの傍らで、マルセルが感嘆の声を洩らした。
「見ろ。この鳥、額に精霊石が植わってる。
よくよく見れは、立ち上がった冠羽の根元、狭い額の真ん中に、白銀に光る小さな石が光っていた。精霊が宿ったことで高い知能と感受性を獲得し、人が心中で想像したものを、理解する力を備えている。もしも樹海で見つけたなら、聖碧物として保護する対象とされる、稀有ないきものである。
「野生か? それとも、聖碧物を拝領するほど高位の人物のものか……」
「どちらでもいい」
「後者ならやり方が回りくどい。きな臭いな」
「そうだとしても、行かない理由はない」
「まあ、そりゃそうだわな」
知音鳥の真っ黒な
さあ、ついておいで――
白く薄曇る空に、美しい鳴き声が響き渡る。
*
――さだめを詠みては、彼方へ還り
此方の揺籃、
土埃が積もる床に、母の血のしみが広がっている。
その縁に
魂の安寧を。
そんな祈りを乗せた鎮魂歌が、早朝に漂う間の抜けた静寂をやさしく揺らす。
――ああ、廻りてめぐる、かそけき光よ
触れ得るすべては、あなたの
相も変わらず、音の調子は外れている。けれども真心のこもった歌は、ヴァンの琴線に触れるものがあった。
「……ありがとう。母さんのために祈ってくれて」
紡いだ旋律がシャンタルへ届くよう、エイムが静かに祈り続ける。その細い背中に向かって、ヴァンは礼を言ったのだった。
市外区は北の外れ、朽ちかけた自宅跡でのことである。
ペルマナント教国の町、〈
ユーゴとイネスの翼に頼って崖を登り、朝まだきの藍色に紛れながら、市外区の外れにある自宅跡へと身を潜めた。そこでエイムが連れてきた聡い鳥、知音鳥にメダイユを託して空へと放った。
(ちゃんと知音鳥が飛んだとしても……来てくれるだろうか)
夜色に眠る山の端を太陽が越える。藍をまとった早暁が白んでいく様子を眺めながら、一抹の不安を抱かずにはいられなかった。酷い口論の末、黙って家を抜け出したのだ。血の付いたメダイユを送りつけて来訪を願うなど、捨て去りたかったはずの甘えそのもの。一笑に付されてしまわないだろうか。
「心配?」
いつの間にか祈りを終えたエイムが、ヴァンを仰ぎながら問うてくる。
「ジスランさんの顔と居場所、しっかりと頭の中で思い描いたんでしょ? だいじょうぶだよ。あの子、とっても賢いんだ」
「ああ……いや、心配なのはそこじゃなくてさ。来てくれないかもな、って思って」
「どうして? 指環を奪ってまできみを手元に置いておきたかったんだから、来るんじゃないかな」
「そうだよな。……そうなんだけどさぁ」
突き上げ式の窓の外、夜明けを迎えてもなお薄暗い曇天が、ヴァンの心をも曇らせる。
(弱気になっているのは、あの日、俺が逃げたからだ)
酷い口論をした夜、ジスランはずっと口を噤んでいたはずの、ヴァンを買った理由をほのめかしていた。しかし激昂のあまり、それ以上の会話を拒絶して、自室へ籠城をきめ込んだのだ。その果ての脱走。いまさら、と、呆れられるかもしれない。
(それに、まだ……俺は怒ってる)
騙されていた。ジスランにも、マルセルにも。
その感情が胸の底で、熾火のように燻っている。ふたりになにがしかの期待を抱いてしまっていたからこそ、裏切られたという意識が拭いきれなかった。
「来たら来たで、ちょっと会うのが気まずいんだよな……」
「そんなに気負わなくていいんじゃないかなぁ」
長い溜息を吐いていたヴァンに、血の縁に跪いたままのエイムが言った。
「ジスランさんとユーゴ、なんだか似ている気がするんだよね」
「どこがだ? 見た目も性格も全然違うぞ」
「ううん、なんていうか……不器用そうな感じ、とかかな」
エイムが細く息を吹くと、土埃がむわりと舞い上がった。灰色のヴェールを脱いだ血のしみが、露わとなって濃さを増す。その縁をなぞる指先に付いた、なおも分厚い土埃。この場に降り積もった五年という歳月を、両の手で包むように握り込む。
「あのね、これは僕の勝手な、こうだったらいいな、って話なんだけど」
その仕草は、どこか――祈りにも似ていた。
「僕は捨て子で、しかも
「でも」と続けた声が憂いを帯びる。
「濁血は、〈
薄曇りから注ぐ
揺らがない。
「僕は、ひとりでも歩くことができるから」
たおやかな朝陽を湛えた彼の声が、ヴァンを導くように耳朶を撫ぜた。
「だからね、僕……信じたい。ほんとうの家族じゃなくても、僕とユーゴの間には、なにか特別なつながりがあるんだって」
立ち上がり、外套の裾に付いた埃を忙しない手つきで払い落とす。「まあ、あの、ただの願望なんだけどね!」と言いながら、真っ赤になった顔を隠すように外套のフード――いつもの羽根外套ではなく、粛清官の遺体から剥ぎ取ったものだ――を目深に被った。
「ジスランさんとヴァンも、僕たちと同じように血のつながりはないよね。だからこそきっと、きみたちの間にも、なにかそういうものがあるんじゃないかなって思うんだ。だって」
「きみも、ひとりでも歩ける力を持っているもの」
場末の酒場でぞんざいに扱われていた孤児が、武術を仕込まれ、権威ある教会組織の尖兵となった。読み書きや算術を習い、至天教のなんたるかを教育され、礼儀作法をも叩きこまれた。それらを手ずから教えたジスランは、決して優しくはなかった。なぜこんなことをするのかとの問いには答えてくれないくせに、指環を返さないぞと脅しをかけて、ヴァンの反抗心を煽ってきたこともある。
けれど、向き合い続けてきた。
だからエイムの言うように、自活のすべを身に付けているのだろう。
「……そんなお綺麗なつながり、俺たちにはないよ」
動揺を隠すように、肩を竦める。エイムほど、養育者へのまっすぐな期待は抱けなかった。指環を奪われたこと、五〇金貨を課されたこと、肯定するなんてまっぴらだ。
(ああ、でも……)
――こんな時間までなにをしていた。
――ゆっくり、深呼吸するといい。
食事を共にとろうとすることも、悪夢に喘ぐ背中を撫ぜてくれたことも、確かな事実に変わりない。
ジスラン・グラースという男の像が、ぶれる。
(ただ、ちょっと複雑で難しい関係……か)
変わるだろうか。逃げずに向き合うことができれば、その複雑ななにかは
「……そんなふうに考えたこと、なかったな」
ぽつりと零した、その直後。コ、コ、コ、と玄関扉を小刻みに叩く音が、がらんどうの部屋に響いた。知音鳥が帰った合図だ。「扉を開けて」と訴えている。
同時に身体を強張らせたふたりが、そろって扉の方を見る。
(……ジスラン。いるだろうか、この扉の向こうに)
恐る恐る扉へ近づく。取っ手を握ろうとして――しかしヴァンの手はそれを掴み損ねた。
錆び付いた蝶番が弾けんばかりの力で、急に外から開かれたのだ。
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