ささやかな
ずっと真横にいるのよ
人生ちょうど折り返したある日のこと。
享年60歳になるあたしの、30歳の夏のある日。
引越しの準備をしていて、本棚の片付けをしていた時だった。
「あれ...?うわぁ......」
雑多につまれた本の奥から、黒く嘘汚れた、日記のようなものが落ちてきた。
いや、認めたくないだけで、それは日記だった。
大学1年から2年にかけて。黒歴史、というか。暗黒期、というか。
あまり思い出したくない時期の日記だ。
見なかったことにしようと思ったが、捨てられなかったからこそ、ここにあるのだろう。
気が進まない思いを抱えつつ、好奇心の猫が首をもたげて。
やっぱり、見なきゃよかった。
「あー、恥ずかしいや。」
理想と夢を抱いて始まった大学生活。
やりたいことがたくさんあったのに、周りに流されて、入りたいサークルには入れず。
学園祭の打ち上げで、好きだった男の子に、彼女がいたことが分かり。
落ち込んでいたら、優しそうな男性に声をかけられ。
いそいそと話を聞きに行ったら、宗教勧誘で、慌てて逃げ帰って。
小説家になりたくて投稿した小説が、一次選考にも通らずに。
不貞腐れて家に引きこもってたら、大事な単位を落としちゃって。
「なんでダメなの、いやだなぁ、どうせ上手くいかない、か。」
若いなぁ。
当時の自分が聞いたらイラっとするような言葉が、口からスルッと出そうになったことに気づいた。当時だったら軽蔑していた「なりたくない大人」に、あたしはなりつつあった。
しかも、もっと最悪なことに。あたしはそれを、全く恥ずかしく思っていないのだった。
ドラマや映画で描かれるような、キラキラした大学生活を送れなかった。
そんな当時のあたしは、現状に対する不満を捨てず、未来に対する不安も抱き。
約2年後。社会人となったあたしは、ついに夢と希望に満ちた人生を。
手に入れた、とも言い切れなかった。
いい日もあれば、悪い日もある、とても平凡な日々。
上手く行ったり、いかなかったり、人と付き合ったり、別れたり。
そしてここ数年。
あまり上手く行ってないと思い、転職活動をしている最中、件の日記が落ちてきたのだった。
学生当時、なりたかった大人には、まだなれていないし。
描いていた理想の30歳には、確実になれていないと思う。だって。
「30歳、小説家になって活躍する!」
自分の夢のロードマップに、はっきりとそう書いていたから。
あー、やだやだ。
やっぱり、見なきゃ良かった。ほんの少し、あたしは後悔した。
けど、当時の自分にはなかった強さも、あたしは身につけている。
「じゃ、休憩してケーキ食べよっと」
疲れたときは、気分転換に甘いものを食べる。温かな紅茶もセットで。
今だから気づけて、当時には気づけないことも、たくさんあった。
仕事帰りの父親の機嫌が悪い日、イライラする母親を前に、ずっと機嫌を伺っていたこと。
何もないことがコンプレックスで、自分は頭が悪いと思って、自分を肯定しようとずっと足掻いていたこと。
体が弱くて、思うように活動できなかった時期は、あたしの心が弱かったわけではないということ。
いろんなことを我慢しすぎて、自分が何を好きなのすら、長らく忘れてしまっていたこと。
当時持っていた、芽吹く可能性のあった才能とか、不安定で危うい自意識とか。繊細な心の機微とか、どこかに飛んでいきそうなエネルギーとかは。もう二度と手に入らないかもしれない。
しかも、もっと最悪なことに。
あたしはそんな今の自分が、大学生の頃よりも好きなのだった。
少し嫌なことがあっても、美味しいケーキと紅茶を飲んだだけで元気になれる。
そんな単純で能天気になれた自分が、あの頃よりも愛おしいのだ。
そして、そんなささやかなことで、喜びを感じられるなら。
二度と戻れない青春が、たとえ上手くいかなかった過去でも。
悪くなかったな、って。思ってしまうのだった。
「それはそれとして。」
あたしは糖分補給をして、一息ついた。
引越しは明後日。こんなゆっくりしている場合ではないのだ。でも。
「明日からがんばればいいかな。」
こんな風に楽観的なのも、当時のあたしからしたら、全く考えられないことだった。
今やってもいいし、明日やってもいい。
今日は少し嫌なことがあったかもしれない。それはそれとして、ケーキが美味しい。
ささやかな幸せを見落としていたあたしへ。
そんな幸せを感じられちゃう未来、たとえ夢が叶わなくても、けっこう悪くないよ。
ささやかな ずっと真横にいるのよ @otter3498
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