第二部 第ニ章 恵みの季節

娘の欠けた月日が、あっという間に過ぎていきました。

仕事のために何度か引越しを繰り返し、住み慣れた地域を後にし、いつの間にか也乃子かのこさんはおばあさんと呼ばれるような歳になっていました。でも彼女は何だかそれが心地いいのでした。一つの場所にずっととどまって暮らすのはしょうに合わない気がしていたし、それに気分は何十年もずっとおばあさんのようだったからです。也乃子さんは若いうちから、老人と同じように喪失そうしつと共に生きてきたからです。

このまま一人で生きて、自分を大切に思ってくれる人に看取みとられることもなく、一人死んでいくのだと也乃子さんは確信していました。


それなのに、ある日突然でした。

ある寒い冬の、日が落ちて間もない時間帯でした。突然、也乃子かのこさんの暮らすアパートのゴミ捨て場に見慣れない猫が現れたのです。

野良猫は確かに近辺きんぺんにいました。みな、警戒心けいかいしんが強く、人間には決して近寄らずにサッと隠れてしまうので、細かいことは把握はあくしていませんでしたが、それでもこの猫が普段この辺にいる猫ではないことは一目瞭然いちもくりょうぜんでした。

なぜならその猫は全身が白っぽかったからです。近隣にいる野良猫は全てキジトラ猫や三毛猫で、みな柄があったのです。突然現れたこの猫には模様はないようです。

しかもこの猫のなんと懐っこいこと。

「あら、あなたどこから来たの」

声をかけると、薄汚れた灰色の猫は、初対面だというのに也乃子かのこさんに近寄って、甘えた声を出したのです。「ナーン」と鳴いて彼女の足の周りをグルグル周り、頭までこすり付けています。

これは猫の親愛の情の現れであることを、動物好きの也乃子さんはもちろん知っていました。実家にひとときだけ猫がいたこともあるのです。

猫は也乃子さんを少しも疑っていません。

これは猫好きにはたまらなく嬉しいことですが、猫にとっては危険なことでした。

小さな弱い生き物を虐待ぎゃくたいし楽しむ人間は、いつの時代も、どんな場所にも存在しているからです。こんな人を疑わない世間知らずな猫なんて、悪意のある人間からしたら恰好かっこう獲物えものです。あっという間に捕まってしまいます。数年前、ここから少し離れた公園で、恐ろしい事件があったことを也乃子さんは忘れていませんでした。

也乃子かのこさんの決断はすぐでした。迷うことなどありません。この猫を今すぐに安全な場所にかくまわなくてはいけません。

也乃子さんは急いで部屋へ行き、何かないか探しました。冷蔵庫に昨日の晩に残したホッケがありました。お茶漬けにでもしようかと、骨もキレイに取ってほぐしてあったので好都合です。

也乃子さんが小皿を片手に、サンダルを引っ掛け外へ戻ると、猫はあろうことか也乃子さんを追って共同玄関前まで来ていました。

そっと焼き魚を下に置くと、灰色の猫はものすごい勢いで食べてしまいました。もはや吸い込んだと表現した方がいいかもしれません。

そこで今度は共同玄関の中へ入り、魚を置いてみました。猫はズンズン入ってきて、やはり魚を吸い込みました。よし!これなら部屋まで行ける!しかし也乃子さんが共同玄関の分厚い扉を閉めると、さすがの人懐っこい猫もビックリしたようで、廊下ろうかさくを飛び込え、外へ出てしまいました。

またやり直しです。同じことを繰り返し、今度はゆっくりと共同玄関の扉を閉めます。そして間髪かんぱつ入れずに魚を床へ置きます。世間知らずの猫は脇目わきめも振らず平らげました。可哀想に、よほどお腹が空いていたのでしょう。

也乃子かのこさんは自分の部屋の前まで誘導ゆうどうするように魚を置き、そっとドアを開けました。そして靴の脇と、玄関を上がったすぐそこに魚を置きました。猫は何のためらいもなく玄関に上がり込むと、どちらの魚も飲み干しました。

ふと猫はそこまで来て、ここが今までいた所とは違うことに気づきました。あわててキョロキョロしましたが、もうその頃には後ろの扉は閉まった後です。

也乃子かのこさんは胸を撫で下ろしました。作戦通り、猫を絶対に安全な場所に移動させることができたのです。

さて次は水です。猫は水を少しだけ飲むと、全くおくすることなく部屋の中を探検し始めました。也乃子さんはそれを確認すると、急いで近くのコンビニまで自転車を走らせ、猫用のフードを買ってくると、猫に追加でご飯を与えました。迷い猫はこれもあっという間に平らげてしまいました。

也乃子さんは本棚にしていた木箱——元々はりんごが入っていた木箱です——を倒して側面を底にすると、中に膝掛ひざかけを敷いて簡単な猫ハウスを作りました。はたして灰色の猫はそれを見ると、すぐさまそこへ入って横になりました。自分のベッドだと理解したのです。

足を投げ出してスヤスヤ寝ている猫を見て、也乃子かのこさんは思わず微笑みました。まるでずっとここで暮らして来たと言わんばかりです。

恐らく2〜3週間は外をうろついていたのでしょう。猫は薄汚れて、とにかく空腹です。

「あなたを洗ってあげたいけど、ひとまずは体力つけないとね」

そう也乃子さんは寝ている猫にそっと声をかけました。

突然現れたこの子はどこから来たのだろう。何があったのだろう。疑問が次から次へとわいて来ます。きっと答えはわからないままでしょう。

にもかくにも、今この子の命は私次第。也乃子かのこさんは灯りを消した暗い部屋で、その言葉をみ締めました。部屋は静まり返り、わずかなエアコンの作動音しかしません。ついさっき猫を家に招き入れ、小さな命が自分の部屋で寝ていることなんて忘れそうなほど静かです。

でも本当に猫はそこにいるのです。目をやると、薄闇うすやみの中に、丸っこい小さな月が浮かんでいます。ほんのり白く、優しいその物体が、確かに息づいているのを感じます。なんて素敵すてきなことでしょう!自分以外の生き物が同じ部屋にいるなんて。もうそれだけで、也乃子さんの心はしんとみ渡った寒空の下、陽光を浴びたこぶしの花芽のように、ふわふわになるのでした。

也乃子さんは明日から忙しくなるなと、嬉しい予感を胸に眠りにつきました。

こうして突如とつじょとして、也乃子さんは猫と暮らすことになったのでした。

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