紅月ノ契~盈月のみぞ知る~

麻生 凪

──序──

 武蔵野の深き夜の奥底には神格が息づいている。

 大口真神おおぐちまかみ──今は記憶の彼方に忘れ去られし神の名だが、かつて白狼の神威を畏怖した者たちの崇めるぬしであった。人祖神、日本武尊やまとたけるのみことの精神を宿したる聖なる狼。闇夜の中、日本列島の守護者として君臨せし者とされる。人々は、武蔵野坐令和神社むさしのにます うるわしきやまとのみやしろの境内に響く白狼神楽舞を目の当たりにして初めて、大口真神の姿とその由縁を知るという。


 ♢


 一九四二年、十五夜の黄昏時である。武蔵野、御岳山みたけさんの麓に佇む古びた一軒家。軒先には、夕陽に照らされた男女の影が長く伸びている。

「なぜ、今日に限って正装を?」

 秋風に白銀の髪を靡かせて、女が静かに問う。歳の頃は三十路手前だろうか──その含みを込めた口元に、人間のそれとは異なる鋭い鬼歯が見え隠れした。が、軍服を纏った武官・佐伯恭介は一歩も引こうとしない。視線はまっすぐ女を捉えている。

 女、紫園朱里しおんあかりは人ではない。佐伯が一年を掛けて密かに調査をしてきた人外(人狼)である。彼は軍部──大日本帝国陸軍防疫研究室──より、その個体を生物兵器として利用すべしとの密命を受けていた。しかし、今や任務への忠誠は消えている。


 今宵は満月。しかも年に一度の十五夜ともなれば、朱里の秘めたる魔性が遺憾無く発揮される。すでに彼女の瞳は紅月の如く染まり始め、異形の使者としての威厳を放っていた。かたや表情には、なんともいえない憂いが漂っている。

「あなた様が帝国陸軍の密偵でいらっしゃること、わたくし、以前より気づいておりましたのよ」

 朱里はそっと告げる。

「それでもこれまであなた様を容認してきたのは、信頼できると感じていたからこそ。しかしながら、そのような身なりでわたくしの前に現れるとは、何かしらの企てがあってのことか?」

 朱里の問いに、佐伯は暮れかけた空を見上げながら言う。

「私は知っています。あなたは千年ものあいだ人を模倣し、精神を真似ながらひっそりと生きてきた。私が心に映るのはあなたの真の姿のみ。武蔵野の地に独り暮らし、月を見つめ、愛でる健気な振る舞い。その心根こそが私を惹きつける」

 佐伯が軍部の任務を無視し、これまで何度も朱里を守ろうとした理由はそこにある。

「しかして今宵すべてが決まる。間もなく空には、黄金の月が悠然と昇るのだから」

「覚悟はおありか?」

 朱里が問いかける。

「わたくしが完全に野獣となれば、この理性など当てにはならぬ。あなた様を傷つけてしまう、命を奪うやも知れません」

 狼としての本能が覚醒しつつあるのか、彼女の瞳が赤みを増し、鋭さを帯びる。

「月が綺麗とだけ言っておきましょう」

 佐伯の答えは完結だった。

「なんと……」

 朱里は驚き目を見開いたあと、微かな笑みを讃えたまま彼方を見つめた。

 佐伯は偲ぶ──朱里の心が数多の戦いや逃亡の日々、孤独と寂しさとで削られてきたことを。月影を仰ぐ彼女の横顔を彼は心底美しいと思った。

「これが私の覚悟だ」

「……おたわむれを。後戻りはできないのですよ。あなた様は、わたくしの本当の姿を知ることになるのです」

 朱里の声は、感情の高ぶりとともに徐々に大きくなっていく。

「そう、大口真神より血を分けた白狼の末裔、神に見捨てられし人外の浅ましい痴態を。それでも良いとおっしゃるか!」

「やれやれ、おどしにもならない。れ事なのか、それとも本気かは今にわかるでしょう。あなたを受け入れることこそが、今宵、私の唯一の望みなのだから」

 赤い瞳を見返し佐伯は微笑んだ。

 咄嗟に朱里は目を逸らす。

「あぁどうか、どうかこちらを見ないで下さい……」

 恥じらいながら、崩れるように彼の胸に顔をうずめた。

「だとしても……それでも、変身する際の醜い姿だけは、やはりあなた様には見せられませぬ」

 もはやそれは、一人の女の切なる願いと言えよう。

「ああ、どうか……」

 朱里が溜息を漏らしたのと同時に、その姿は徐々に変わり始めた。目の赤みが深まり、口角が耳元まで達し、鬼歯が延びる。

 胸内に眠る狼の本能が完全に目覚める前のほんの一瞬、彼女は佐伯の頸静脈に牙を立てた。それはいにしえよりのことわり、存続の本能。

 静寂が互いを包む。朱里の目から一筋の涙が零れ落ち、そのまま佐伯の喉元を伝っていく。

「赦して……」

 彼女は躊躇ためらいを伴った噛み跡を残したまま後ずさり、目を伏せた。佐伯はその場に倒れ込んだものの、息はまだ浅く続いている。

「殺しはしません、できるものですか。望みどおりこれからはずっと、わたくしの横に居ていただきまする。……それが、あなた様を人ざる者に変えてしまった自身への誓い」

 朱里が告げた刹那、佐伯が新たな姿で目を覚ました。その瞳は、紅月の如く妄りがましい光を宿していた。


 月灯りが武蔵野の大地を照らす中、二体の獣が音もなく草原を走り去って行く。彼らが目指す先が如何なる地獄であろうとも、月はただ、静かに見守ることに徹していた。


 盈月えいげつのみぞ知る──

 それは、永遠に語られることのない影の物語。

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