紅月ノ契~盈月のみぞ知る~
麻生 凪
──序──
武蔵野の深き夜の奥底には神格が息づいている。
♢
一九四二年、十五夜の黄昏時である。武蔵野、
「なぜ、今日に限って正装を?」
秋風に白銀の髪を靡かせて、女が静かに問う。歳の頃は三十路手前だろうか──その含みを込めた口元に、人間のそれとは異なる鋭い鬼歯が見え隠れした。が、軍服を纏った武官・佐伯恭介は一歩も引こうとしない。視線はまっすぐ女を捉えている。
女、
今宵は満月。しかも年に一度の十五夜ともなれば、朱里の秘めたる魔性が遺憾無く発揮される。すでに彼女の瞳は紅月の如く染まり始め、異形の使者としての威厳を放っていた。かたや表情には、なんともいえない憂いが漂っている。
「あなた様が帝国陸軍の密偵でいらっしゃること、わたくし、以前より気づいておりましたのよ」
朱里はそっと告げる。
「それでもこれまであなた様を容認してきたのは、信頼できると感じていたからこそ。しかしながら、そのような身なりでわたくしの前に現れるとは、何かしらの企てがあってのことか?」
朱里の問いに、佐伯は暮れかけた空を見上げながら言う。
「私は知っています。あなたは千年ものあいだ人を模倣し、精神を真似ながらひっそりと生きてきた。私が心に映るのはあなたの真の姿のみ。武蔵野の地に独り暮らし、月を見つめ、愛でる健気な振る舞い。その心根こそが私を惹きつける」
佐伯が軍部の任務を無視し、これまで何度も朱里を守ろうとした理由はそこにある。
「しかして今宵すべてが決まる。間もなく空には、黄金の月が悠然と昇るのだから」
「覚悟はおありか?」
朱里が問いかける。
「わたくしが完全に野獣となれば、この理性など当てにはならぬ。あなた様を傷つけてしまう、命を奪うやも知れません」
狼としての本能が覚醒しつつあるのか、彼女の瞳が赤みを増し、鋭さを帯びる。
「月が綺麗とだけ言っておきましょう」
佐伯の答えは完結だった。
「なんと……」
朱里は驚き目を見開いたあと、微かな笑みを讃えたまま彼方を見つめた。
佐伯は偲ぶ──朱里の心が数多の戦いや逃亡の日々、孤独と寂しさとで削られてきたことを。月影を仰ぐ彼女の横顔を彼は心底美しいと思った。
「これが私の覚悟だ」
「……お
朱里の声は、感情の高ぶりとともに徐々に大きくなっていく。
「そう、大口真神より血を分けた白狼の末裔、神に見捨てられし人外の浅ましい痴態を。それでも良いとおっしゃるか!」
「やれやれ、
赤い瞳を見返し佐伯は微笑んだ。
咄嗟に朱里は目を逸らす。
「あぁどうか、どうかこちらを見ないで下さい……」
恥じらいながら、崩れるように彼の胸に顔をうずめた。
「だとしても……それでも、変身する際の醜い姿だけは、やはりあなた様には見せられませぬ」
もはやそれは、一人の女の切なる願いと言えよう。
「ああ、どうか……」
朱里が溜息を漏らしたのと同時に、その姿は徐々に変わり始めた。目の赤みが深まり、口角が耳元まで達し、鬼歯が延びる。
胸内に眠る狼の本能が完全に目覚める前のほんの一瞬、彼女は佐伯の頸静脈に牙を立てた。それは
静寂が互いを包む。朱里の目から一筋の涙が零れ落ち、そのまま佐伯の喉元を伝っていく。
「赦して……」
彼女は
「殺しはしません、できるものですか。望みどおりこれからはずっと、わたくしの横に居ていただきまする。……それが、あなた様を人ざる者に変えてしまった自身への誓い」
朱里が告げた刹那、佐伯が新たな姿で目を覚ました。その瞳は、紅月の如く妄りがましい光を宿していた。
月灯りが武蔵野の大地を照らす中、二体の獣が音もなく草原を走り去って行く。彼らが目指す先が如何なる地獄であろうとも、月はただ、静かに見守ることに徹していた。
それは、永遠に語られることのない影の物語。
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