第六話:鎧との対話、祖父との対話

* * 前話のあらすじ * *


 静かな朝。人々の無言の感謝が、工房の軒先に置かれた野菜と握り飯に宿る。だが、匠の心は揺れていた。傷ついた相棒【v0.9】への詫びと、自らの未熟さへの後悔。MIYABIが示す冷徹なダメージログ。そして、SNSを通じて拡散された「謎の鎧武者」の映像。国家という巨大な現実が、今、彼の聖域に足を踏み入れようとしている。


* * *


 差し入れの握り飯を一つだけ口にし、人々の温かさを胃の腑に収めると、匠は再び工房の中央へと向かった。まず為すべきは、昨夜の激闘で泥と汗に汚れたインナー・インターフェイス【天衣あまごろも】の手入れである。


 彼は第二の皮膚とも言うべきその藍色のスーツを手に取ると、工房の壁際、祖父が遺した大鎧の隣に静かに佇む木曽檜きそひのき製の『清浄の懸架せいじょうのけんか』へと歩み寄った。伊勢神宮の式年遷宮を思わせる、清浄な白木の香り。匠が【天衣】をその滑らかな衣桁いこうに掛けると、ハンガーレール部分に埋め込まれたスリットが淡い緑色に数秒間発光し、MIYABIによる認証を示す。


『――認証、クリア。清浄シークエンスを開始します』


 凛としたMIYABIの声と共に、衣桁全体から目に見えないプラズマミストが「シュー…」という、森の木々が風で擦れ合うようなごく静かな高周波音を立てて噴霧される。スーツの周囲の空気が、夏の陽炎のようにわずかに揺らめき、物理的な汚れだけでなく、精神的な「気枯れけがれ」をも祓い清めていく。檜の香りが一層濃く漂う中、匠は目を閉じ、静かに息を吐いた。


「……まず、磨こう」


 それは彼の口癖であり、工房という聖域で日常を取り戻すための、彼だけの静かなる儀式であった。


 心のおりが洗い流されたような感覚と共に、匠は目を開き、次に工房の中央に懸架された【v0.9】本体へと向き直った。その黒鉄くろがねの装甲は泥にまみれ、無数の擦り傷が刻まれている。痛々しいその姿に、匠は胸の奥が軋むのを感じた。


 傍らのホログラム投影装置から、MIYABIのアバターがすっと現れる。濡羽色ぬればいろの姫カットに、十二単じゅうにひとえをモチーフにした半透明な情報のドレス。彼女は静かに、しかし有無を言わせぬ客観性をもって、昨夜の戦闘ログを3Dホログラムで表示した。


『警告。バッテリー、限界消耗を確認。総稼働時間28分15秒。予測限界値を35秒超過』

『関節アクチュエーター、特に右膝及び左肩関節部に許容値を超える過負荷を検知。要精密検査』


 次々と表示される赤文字のアラート。そして、最後に提示されたのは、【天衣】の状態だった。


『【天衣】、左腕部。筋電位センサー・クラスター7番に微細な断裂を確認。再現確率99.8%』


 声なく「満身創痍」であることを示す、冷徹なデータ。昨夜の奇跡――【礼式ロック】の萌芽――がいかに危険な代償の上に成り立っていたかを、それは容赦なく突きつけてきた。相棒への申し訳なさが、重い鎖のように匠の心を縛る。


 彼は祖父譲りの工具棚から、油を染み込ませた柔らかな布を取り出した。泥にまみれた【v0.9】の装甲に触れる。


 ――『鎧と話をするように、だよ。長いことご苦労さん、いつもありがとうな、と。心を込めて、優しく、優しく……。こするのではないよ。撫でるのだ』


 祖父・宗一郎の声が、脳裏に蘇る。だが、昨夜の自分は違った。老婆を助けたい一心で、ただ力を渇望し、相棒に無理を強いた。祖父の思想は証明できたかもしれない。だが、技術も、乗り手としての「心」も、あまりにも未熟だった。


「……ごめんな、相棒」


 呟きながら、彼は布で装甲の泥を拭い始めた。それはまるで、傷ついた獣の体を清めるかのような、静かで、懺悔にも似た時間だった。その不器用な手つきを、MIYABIはただ静かに見守っていた。


 しばらくの沈黙の後、MIYABIが再び口を開いた。その声は、いつものように淡々としていたが、どこか違う響きを帯びているように匠には感じられた。


『匠様。【天衣】のセンサー断裂ですが、『清浄の懸架』での日常浄化は可能ですが、昨夜の負荷は繊維の許容量を超過しています。早急に『御霊代みたましろカプセル』でのナノマシン修復を推奨します』


 匠は手を止め、工房の隅に鎮座するチタン合金製の流線形ポッドを一瞥した。【v0.9】の装甲と同じ、光を鈍く反射するマット仕上げの、勾玉か胎児を思わせる形状。それは、【天衣】のための集中治療室であり、魂の揺り籠とも言うべき存在だ。


「……やっぱり無理させちまったか。後でな」


 再び相棒に詫び、手入れに戻ろうとした匠の耳に、MIYABIの静かな声が届いた。


『匠様。……祖父君の手記データの中に、このような一節がございました』


 ホログラムの表示が切り替わり、そこに映し出されたのは、達筆な筆文字だった。


『――よく、磨けているじゃないか』


 それは、かつて幼い匠が、初めて祖父に甲冑の手入れを教わり、不格好ながらも懸命に磨き上げた小さな籠手こてを見て、宗一郎がかけた、最高の褒め言葉だった。AIが発したとは思えない、その温かい言葉。不意を突かれた匠の目頭が、じわりと熱くなった。涙を見せまいと、彼は慌てて顔を伏せ、再び装甲を磨く手に力を込めた。


「……ああ。……そうだな」


 声にならない声で応えながら、彼は思った。まだだ。まだ足りない。もっと深く、もっと真摯に、この鎧と、そして自分自身の心と向き合わなければ。


 彼は布を置くと、意を決して『清浄の懸架』へと向かった。浄化を終え、清浄な気を纏った【天衣】を、その木曽檜の衣桁から丁重に外す。そして、工房の隅にある『御霊代カプセル』へと、まるで壊れ物を扱うかのように、静かに運んでいく。


 日常の手入れから、相棒の「魂」の修復へ。彼の意識は、静かに、しかし確実に切り替わっていた。それは、職人としての、そして「鎧は道を護るもの」という思想の継承者としての、新たな覚悟の始まりだった。


* * 次話の予告 * *


 祖父の手記が示す、三種の神器の思想。【八咫】【草薙】【勾玉】――それは単なる機能ではなく、祈りだった。「より強く」ではなく「より深く」。匠は、相棒との対話を通じて、自らの進むべき道を見出す。だが、その静かな成長の時間に、MIYABIが告げる次なる嵐の予兆。そして、工房の扉を叩く者の名は――。


 第七話:不完全な力と、進むべき道

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