インクルージョン

クカタチアナ・テッカキショワ

インクルージョン 1

 組紐の座椅子の凸凹が服の布地と皮膚に食い込んだ。微かに匂い立つ枯れた茎。白色の帽子の女性が木目の瑞々しい正方形の机の上にコップを置き、無機質な不透明のピッチャーで水を注ぎ入れる。滑り込んだ氷は疎ら、盆頃の鬱蒼とした山中、重くのしかかる霧の暖かさと冷たさと胡乱さ、蝉と蛙、ぱらぱらと曲がる葉脈の音色、結露する視界、田舎という先入観のセピア色、にて、縁側のある、熱線、回る扇風機の羽音、家に住む中学終わり頃に食道癌で死去して久しい嘗ての祖父、細い目で笑いと無我の別つかぬ丸眼鏡で黒が抜けた無精髭のよれて皮脂の色に染まった古い肌着と紺色の縦縞の下着の不健康に黄ばんだ歯の向こうから唾とヤニの臭いをぺつぺつと膝と重ねるようにして真隣に座った幼い私の眼球とくちびるに飛ばしている、生え際の位相が後頭部に回った、の水虫に罹った足指の爪であった。それはミルクセーキの上に蚊の死体が溺れ、長細い四肢と口吻が攪拌のたび遊離し散り散りとなった円を想起させるが、春の朝方の空模様の姿にも映って、ぼんやりと現実と空想世界の間のスクリーン上でセロハンを二枚重ねにしたら、微妙だったので捨象する。それらは一枚一枚に戻って貼り付いたかと思えば、空に舞う木の葉として奈落へと落ちた。重ねて成立するものではなかったと、今になって空想する。

 店員の置いて行ったメニューを手に取る。

 勘違って数え忘れた重さが、手首をけたたましく唸らせる。金属質の角は、コップには掠らない軌道で扇を描いた。手は眠たい目を擦り擦り、姿を隠したままに目下に表れる。

 ラミネートされたページを一枚一枚眺める。

 八時間ほど前、読んでみれば三ヶ月前、誌面上に掲載された「饅頭蟹の孵化」は好評だったと聞いた。あれは、実際に私の周りで起こったこととよく似ている。記憶の中身や今の私を紙面に落とし込んだ。灰色の流体が玉虫のような層を成して、空気中を這いずり回る私、それか私以外の私を、網戸で濾してから型で鋳造することで、無限の彩を持った二つの色によって複製・投影したものである。よく似ているというのは、実のところ、私がその日見たのは饅頭蟹の孵化ではなかったためだ。担当編集であるO君が、読み取って真実を知る人がいるかもしれませんし大事を取って改変しておいた方がいいですよ(もう既に何カ月か前のことであるから、正確に何と云っていたかはぼやけてしまったので残滓としての意訳として)と云っていたのだった。広漠とした、波がさざめいているのに全くの無音であり、翳った空や水晶体に混じりあう海の中から、手と袖を無酸素の温さに晒し、それで拾える数粒の時間を選りすぐって、傍から見れば区別のつかぬ虚構を混ぜ物に、知覚の光で紙の上に転写するのが、私の糊口らしかった。そういうことだった。

 メニューを机上に下ろす。パンに挟まれた瑞々しい野菜たちを開いたまま。塩の味のしない汗を流すプラスチックの筒を手に取って、縁を食み吞み込んでいく。指紋と皺と甘皮の間を滴に浸されていくが、これが無害であると知っている。やがて、同じ滴は口の端からも垂れ落ち、顎の先で逢瀬を果たしては、胸元に身を投げていった。そこで彼女らは命を絶った。蘇るかは果してわからない。喉をメトロノームにして速度を上げたり下げたりするのを決まった拍子で繰り返すと、数粒の液体が触ったのは、鼻の奥である。天井の照明が顰め面で睥睨していた。

 一口ぶん残った中身をどこにも出さぬまま、机の上と手の中を入れ替える。

 呼び鈴の釦は大気中に丁子を噴霧し、目の奥を刺す粒子はジャズの音と喧騒に砕け、その輪郭を失って彷徨っている。0と1の狭間で明滅するそれは頬をかすめて首に沿って落ちゆき、水でない乾いた粒子の姿をした滑らかな汗、私の肉の中に融けて私となり、体内と体表で浅く呼吸をしている。気泡は登頂の毛先から立ち上る仕組みになっている。

 現れたのが店員である。エプロンの端から来たる波が小指の爪に衝突し、凪ぐ。モーニングセットとバウムクーヘン。モーニングは珈琲とトーストと茹で卵、バウムクーヘンは同時。了解したその人はコップに水を注ぎ直して去っていった。

 滴と透明色のうちに捻じ曲がり、揺らぎ、肥沃に膨らんで彷徨い、衝突して零れ落ち、這い上がり、乗り上げ、再び落下する、目の前に蠢くそれは、無音という音を奏でる奏者である。

 ふっと頭の中で弾け、浮き沈みする曲と会話の生ぬるさ、甘さ。空調の音。陶器の食器の掠れ。コップの中身と押し合い圧し合いになる。全てが混ざって一つの渦へと変じ、同時に生簀の中の魚となって各々揺蕩い、泡を吐いている。その陰で、臓腑から広がる熱と触ることのできない絶対の零度によって、私は対流する自分自身の輪郭を繰り返し繰り返し昇華していた。

 目の前の珈琲に生クリームを垂らす。先鋭して湯気を切断、表面に降り立っては、蕾が開いて花の形に産まれていくことの早回しで、蔓延していく、厚ぼったい白の群れ。最も容易に製造できる、超新星の瞬間である。天の川はMilky wayとも云う。

 切り込みの入ったトーストの上にマーガリンを塗り込む。熱いトーストには塩っぽい油である。そして、植物を捏ねた食物には、植物が最も統合する。アブラナの花と同じ色をした固形物を掬って、面に押し当て、撫でる。狐色に焼けた表面を、バターナイフでなぞる音。音は感触に復元され、精神の底部を削りながら通り過ぎていく。しかし、それはいつもする時と異なる、歪な圧力を伴っていた。私はそれに従い、トーストをバスケットの中に戻す。途端、海馬の中で泥となっていた過去は現在と結合して、実像として映らない視界の中、靄となって立ち上った。

 この日から二週間と少し昔のことだった。私は、街中で人らの間を縫って彷徨していた。この日は日曜日の休日だったので、歩くという用事があった。何もないことの延長だった。 はっきり意識上に上る頃には、引き返すことのとうにできない遠くまで離れていた。その日すれ違っていた彼らによる皮膚の鱗、最後の一枚が、空気の流れによって流されていったのが、その瞬間判じられた。彼方に行ったのだろう。肩にぶつかる風のままに歩き続けたのだったが、あれは運命だったのかもしれない。漠然とした景色が直るその瞬間に、私が見た物。そこにあったのは一つの建物だった。赤、橙、茶の煉瓦が無数に積み上げられた、西洋風の建物だった。扉は開いていた。どうやら、そこは博物館らしかった。通常展と特別展があって、特別展はその日に終わると聞いた。特別展は鉱物の展示だった。結晶化する過程で別の鉱物等の異物が入り込むことで独自の形状を得た、この世に二つと無い宝石を展示しているそうだった。確かに、陳列されていたものは、鉱物のようでそれだけではなかった。木を収めたモノクロームの写真、白砂青松のミニチュア、黴た大理石の破片、マーブリングの絵画、城の柱梁、人体の組織、大輪の生花。ショーウィンドウやカタログでもお目にかかれないような産物がそこにあった。

 机の上には白と黒の混ざり合うマーブル、照明下で輝く板、薄く並んだ模様。

 マーガリントーストを口に運ぶ。焼けた面を噛み千切り、舌の上に乗せる。唾液が乾いた組織に入り込んで、生地がふやけていく感触と、油膜のねとつく舌触り。珈琲で流せば、鋭い苦味だけが残る。

 インクルージョンに似ているとなんとなく思った。出歩き、食事をすることによって、私は存在できる。私という自己は、肉体すらも含んだ私以外のものに包括されることで、姿を持って此処に立っている。

 食事を終えたので、会計を済ませてしまって家に帰ることにした。

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インクルージョン クカタチアナ・テッカキショワ @aiai_monkey

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