第9話

 白いガゼボのまわりに、春風が優しく吹き抜ける。

 花の香りと笑い声に包まれる空間――その中で、ひときわ目を引く少女。

 若草色の髪に、桃色の瞳。光を受けてきらめくレースの帽子。

 愛らしいその微笑みに、私の心がざわついた。


(……彼女は、オリビア・フルリエ)


 ゲーム『オリビア・ストーリア』の主人公。

 誰にでも優しく、慈愛に満ちた微笑みで人々を癒す“聖女”と称された少女。

 ――けれど、それはゲームの中盤以降の話。


 彼女は、“愛人の娘”として伯爵家に生まれた。

 その出自ゆえに、社交界から遠ざけられ、蔑まれて生きてきた。

 伯爵はオリビアの母との関係を続け、さらに二人の子を授かる。

 しかし、オリビアたちが“鬱陶しくなった”というあまりにも自分勝手な理由で彼女たちを捨てるのだ。

 住む家をなくしたオリビアとその家族は、必死に日々を過ごしていた。

 ――そんなとき、転機が訪れる。


 たまたま視察に来た王族の馬車が事故に合い、中にいた王族の一人が大きな怪我を負う。

 その姿を見たオリビアが、神の力とされる神聖力を開花させ、あっという間に怪我を治したのだ。

 傷を癒す奇跡の力は、瞬く間に噂となり――貴族たちはあっさりと態度を変えた。

 そこから彼女の生活は一変し、特待生としての学園生活が始まる――


 と、そんなお話なのだが。

 それがどうして今、こんな華やかな場に彼女がいるのだろうか。

 

「まぁ、ライアン様もいらしたのですね。お会いできて光栄ですわ」


 柔らかな声でそう言った彼女はライアン様にだけ笑みを向ける。

 まるで私たちは空気のよう――

 その行動は、私の好きな彼女とは似ても似つかない。

 失礼な姿に咳払いをひとつして、私達の存在を彼女に知らせる。


「えっと……あなた方は?」

「お名前を尋ねる前に、まずはご自分から名乗るのが礼儀ではなくて?」


 私は公爵家の令嬢。そしてルーク様は、この国の第一王子。

 知らぬはずはない。周囲の令嬢たちも、私たちを見て小声でささやいている。


「これは、失礼いたしました。伯爵家の令嬢オリビア・フルリエと申します」

「ごきげんよう、オリビア様。公爵家令嬢のリネット・テイラーですわ」

「ルーク……ホワイト……です……」


 何も言わずとも自己紹介をする事ができたルーク様に賞賛の拍手を送りたい所だが、その気持ちをぐっとこらえて、彼へ微笑む。


 彼女は、私たちに形式的な挨拶をすると――視線はまたライアン様の元へ。


「ライアン様、もしよろしければ皆さんと一緒にお話しませんか?」

「はぁ?」


 その言葉に、他の令嬢たちもそわそわと期待の眼差しを向ける――と、同時に私とルーク様には嫌悪の目。


 “なんであの子たちが一緒に?”

 “あれが例の王子様?”

 “早くどこかに行かないかしら”


 無言の圧力が、ルーク様を包む。

 その心地悪い空気に、彼の顔がだんだんと曇っていくのがわかった。

 

(このままで、いけない)


 またルーク様が負う必要のない傷を刻んでしまう。

 その前にこの場から立ち去らなければ……

 私はそっとルーク様の手を取り、その場を離れようとした――そのとき。


 ――ビュウッ!


 突風が吹き抜け、オリビア様の帽子が宙を舞い、ルーク様の足元へと転がる。


「あ……これ……」


 ルーク様が拾おうと、そっと手を伸ばした、その瞬間。


「やめてっ……!」


 甲高い叫び声が、広場に響き渡る。


「その汚らわしい手で、私の大切なものに触らないで!!」


 その瞬間、空気が凍りついた。


 誰もが動けなくなるなか、オリビア様は小さく肩を震わせて、帽子を胸元に引き寄せた。

 その瞳は怒り……いや、それ以上の明らかな“敵意”が宿っていた。


 周囲の令嬢たちは一瞬戸惑いながらも、すぐに彼女に追従する。


「……当然よね」

「だって、“アレ”だものね……」


 ルーク様の肩が、小さく震えるのが見えた。

 俯いたその顔は、表情すら分からない。

 ただ、彼を包む空気が、あまりにも冷たく、理不尽な敵意だった。


(まるで――存在そのものを否定するかのように)


 血が沸き立つのを感じる。

 理由もなく人を貶めるなんて、あまりにもひどい。


 怒りに駆られ、一歩を踏み出そうとしたとき――


「リネット様……大丈夫です……」


 後ろからそっと、私の手を引き止めたのはルーク様だった。

 声を震わせ、その瞳に光は、ない。


「ぼく、が……軽率でした……すみません……先に、失礼します」


 掴んでいた私の手をそっとほどき、彼はそのまま、顔を見せぬまま去っていった。

 その背中に向けられた、周囲の視線は――まるで“厄介な荷物が片づいた”と言わんばかりの顔で、安堵の表情を浮かべている。


(なん、で……)


 なんで、なんで、なんで……っ


「彼が、貴方たちに何をしたというのですか……」


 ようやく絞り出した声は、震えていた。


「ただ、優しくしてくれただけなのに……」


 容姿が醜いから?

 気に食わないから?

 そんなくだらない理由で、あんなに優しい彼を傷付けているのか?


「彼を傷つけて、平然としていられる貴方たちを――私は、決して許しません」


 たとえ、貴方が“主人公”だとしても。

 彼のためなら、私は“悪役”にだってなってみせる。


「こんな失礼な方々と、同じ空気すら吸いたくありません……失礼いたします」


 足元のスカートが舞い上がるのも構わず、私は彼を追いかけた。

 途中、止まらない涙を拭い、全力で追いかける。


***


 最後の曲がり角を曲がったとき、ちょうど部屋に入ろうとするルーク様が目に見えた。

 しかし、距離があまりにも遠すぎる。このままでは、追いつけない……っ


「……待ってくださ……!」


 けれど、焦る気持ちが足元をもつれさせた。


「きゃっ!」


 ――ズサッ


 転んだ拍子に足を擦りむいたらしく、じんじんと熱を帯びる。

 その痛みに身動きできず、先程抑えたの涙が、再び頬を伝ってこぼれた。

 それが、転んだ痛みか、悔しさか、情けなさか――もう、自分でもわからなかった。


「リネット様!」


 もうとっくに部屋に入ってしまったと思っていた。

 慌てて戻ってきた彼が、手を差し伸べる。


「泣かないでください……」

 

 思えば、最後に泣いたのはいつだったか。

 涙の記憶はあまりにも遠くて、止め方も忘れてしまったみたいだった――


「ごめんな、さい……」


 ――すぐに、あなたを守ってあげられなくて。


 こらえようとしても喉が震え、しゃくりあげる音が漏れてしまう。

 そんな私の頭を、彼はそっと――まるで壊れ物を扱うかのように優しく撫でてくれた。


「謝らないで、ください……彼女たちの、言葉は……ごもっともです……」


 そう微笑んだ彼の顔は、あまりにも悲しかった。


「……そんなことっ!」

「そんなこと、ありますよ……」


 悲しげに笑う彼を今すぐにでも抱きしめたい。

 しかし、そんな顔をさせてしまったのは私。

 私の独りよがりで、彼を外に連れ出し、彼が傷ついてしまったのだから。

 そんな私が、彼を心配するなど烏滸がましいこと。


「私のせいで……」


 ――もう止めよう。


 私の行動が逆に彼を傷つけてしまう。

 このまま彼を誰の目にも晒さず、静かに、傷つけずに暮らせるなら……それが彼にとっての幸せなのかもしれない。


「だけど……」


 凛とした声で、彼は言う。


「ぼくのせいで、リネット様が傷つくのは……嫌です」


 ただただ、真っ直ぐに私を見つめる。


「それに……リネット様、最初に言ってくれましたよね……?

 “ぼくを、立派な国王にしてくれる”って」


 その瞳には、光が戻っていた。


「どうかぼくに、教えてください。

 誰にも笑われない教養を。

 貴方と並んで胸を張れる作法を。

 貴方の隣に立つにふさわしい、ぼくになるために」


「あなたが泣くようなことは、もう二度とさせません」


 ――ああ、私はなんてことを。

 もう、彼は初めて会った頃の彼じゃない。

 こんなにも前を向いて、立ち上がろうとしている。


 私は涙を拭い、そっと笑みを浮かべた。


「ふふ、私のレッスンは厳しくってよ?」

「が、頑張ります!」


 そう言って差し出した私の手に、答えるように――しっかりと、力強く、握り返した。

 小さなその手は、まだ頼りなくても。

 それでも今、確かにまっすぐな決意を宿していた。

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