リサベラ・クローネ
メリーファ国の王都、名前も知らない公園。
二人は並んでベンチに腰を下ろしていた。
「もう大丈夫そうだね」
「ええ、大丈夫そうね……だけど」
「大丈夫だよ」
女の顔にはまだ不安が残っている。
無理もない。両手首には太いハの字型の手枷。
細い手首には重すぎる代物だ。
「まずは、これだな」
手枷を指さす。
「うん……どうしよう」
「触っていい?」
「はい」
女の太ももの上の輪っかに指をかける。
人差し指、そして中指を添え、真上に向ける。
「ちょっと避けてて」
「うん?……」
首を斜めに引くと、女も真似をした。
「OK!」
スパッ――切れ目は紙のように薄く、切れたかどうかもわからない。
「今度は腕を立てて」
女は腕をひねり、小指が見えるように構える。
反対側に指を差し入れ、首を傾ける。
「動かないでね」
頷く女。
スパッ、ゴソッ。
左手の輪が半分になり、コトリと地面へ。
「えっ!」
普通の音量の「えっ!」に、思わず笑いそうになる。
目を見開き、口を半開きのまま固まる女。
「今度は反対」
同じ手順で右手も――スパッ! ゴソッ。
残った中央を引き抜けば、手枷は完全に外れた。
女は呆然と手首を見つめ、俺は思わず満面の笑み。
視線が合うと、女は慌てて口を閉じ、目だけを動かす。
「これでぶん殴ったんだな」
「ええ……はい」
クス……笑いを堪えきれず、女も鼻でフンッと笑う。
やがて女は真顔になり、俺も胸の奥で何かを悟る。
――とんでもないことに首を突っ込んだかもしれない。
後ろを振り返る。女もつられて振り返る。
「落ち着けないよね」
「はい」
ベンチの背後は小さな林。
手枷と半円の破片を素早く拾い、カーゴパンツの異次元ポケットに押し込む。
「行こうか」
「はい、行きましょう」
俺が腰を上げると、女もすぐに立ち上がった。
その手を引き、ベンチの背後――小さな林へと入る。
女は何も言わず素直について来る。
林の中ほどで足を止め、顔を向ける。
女もすでにこちらを見ていた。
……ワープ トリプルエックス……
目の前に、墨のような黒い闇が立ち上がる。
片足を踏み入れたところで、女が立ち止まった。
「どこ行くの?」
「う〜ん……俺ん家」
「えっ」
またしても口を半開きにして固まる女。
「大丈夫、きれいな所だから」
訝しむ表情。
「じゃあ……目を瞑って」
女はゆっくりと瞼を閉じる。
その手を引き、暗闇へと潜り込む。――一歩。
足元の感触が変わり、闇を抜けた瞬間、目の前に精霊樹の森が広がった。
まだ日は高く、木漏れ日がきらめいている。
そよ風が草をそっと揺らす。
ほんのわずかな揺れが、静けさを際立たせる。
ワープを抜けた瞬間、背後の暗闇は跡形もなく消えた。
「目を開けていいよ」
女は俯いたまま、ゆっくりと瞼を上げる。
視界いっぱいに広がる真緑の草原。
少しずつ顔を上げると―― そこには、さっきの林ではなく、信じられないほど巨大な樹。
女は見上げたまま、また口が半開きになる。
ちらりと俺を見てから、背後の精霊樹の森に目をやる。
そして再び俺を見つめ、視線が合う。
口元をゆるめてしまう俺。
だが今度は女は笑わず、視線だけがきょろきょろと忙しい。
「そっか、分からないよな……動くなよ」
返事も頷きもないまま、繋いでいた手をぐっと引き寄せ、 右腕でしっかりと抱きしめる。
「えっ」という表情。
軽い――そう感じた瞬間、体が自然に動く。
一歩、二歩、三歩――そして一気に駆け上がるように跳び、一番枝に着地。そのまま枝を蹴り上げ、真上へ。
三番枝に届く高さで柵に片手をかけ、ウッドデッキに着地する。
強く抱いていた腕を解き、向かい合う。
「ここが俺ん家。一先ず座ろうか」
月見のソファー改を指差す。
俺が腰を下ろし、「どうぞ」と横を示すと、女は無言でこちらを見てから座り、すぐに向き直って、目の前の精霊樹の森をじっと見つめた。
無詠唱でコーヒーを出し、女の目の前に置いた。
……あっ、こっちにコーヒーってあるのかな?……
「コーヒーって知ってる?」
「ええ、知ってるわ」
「ブラックで良い?」
「……?……」
「砂糖とミルクを入れますか?」
「あっ、はいっ」
俺は少し目を瞑り、もう一杯のコーヒーを出現させる。
女はコーヒーが出現する所を見ても口は半開きにならなかった。
女の目の前のコーヒーとカップを交換し、先に女に出したブラックコーヒーを飲んだ。
「どうぞ、砂糖とミルク入り。ちょっと甘いかも知れないけど」
女はカップを手に取り、恐る恐るコーヒーを口に入れる。
目が開き──「おいしいぃ~」
俺は笑顔になった。
「よかった……」
俺はソファーの奥に座り直し、背もたれにもたれてもう一口コーヒーを飲む。
女は今の体勢のままもう一口コーヒーを飲んだ。
「もう、安心して良いよ」
「はい、ここはどこですか?」
「ここは精霊樹の森。王都よりずぅ~っと北の精霊山の麓の森……知ってる?」
女は少し考え──
「……北の山……の森?……迷いの森ですか?」
「そう、そういう言い方してたね。その迷いの森の中」
女はまた口が半開きになり、目を見開いた。
そして口を開く。
「なんで?……やっと、安心できますね」
その声は、胸の奥底に長く沈んでいた安堵と、まだ消えぬ緊張とが混じって震えていた。
そのまま数秒、言葉を探すように沈黙が落ちる。
木漏れ日がソファー越しに揺れ、甘い香りの湯気が二人の間に漂っていた。
俺はカップを軽く揺らし、いつものように森を眺めている。
女がようやく口を開いた。
「……こんな所が、本当にあったなんて」
声は小さいが、驚きと安堵とが混じっている。
その瞳は精霊樹の森の奥をまっすぐに射抜き、どこか遠い記憶をなぞるようだった。
俺は微笑み、残りのコーヒーを一口で飲み干す。
ようやく、ここから次の話ができそうだ。
「あなたは何者ですか?……いえ、失礼しました。私はリサベラ・クローネと申します。助けてくださって、本当にありがとうございました」
「俺は……自分の名前が思い出せないんだ。だから好きに呼んでいいよ」
「あ、はい。分かりました……ところで、あなたは?」
「魔法が使える。多分、相当。……そういうこと」
「魔法……どこかの魔法師さんですか?」
「どこか、ってのはない。何にも所属してないし。一人きりで、この場所に暮らしているんだ」
「一人? 迷いの森で……ここに住んでいるんですか?」
「そう。ここ、俺ん家。このソファーも俺ん家の」
女は後ろを振り返り、目を丸くする。
「あっ……家だ。ほんとだ!」
「そう、家」
「うん、家だわ」
視線が戻り、目が合う。
俺も背筋を伸ばし、向き直る。
「それで、公園の林からここまで来たのが“ワープ”って魔法。空間移動って言った方が近いかな」
「あ〜……魔法なんですね」
女の口元に笑みが浮かび始める。
「手枷を斬ったのは“光学メス”って魔法。うーん……なんでも切っちゃう魔法かな」
「えええ、なんかすごいのばっかり軽く言いますね……お幾つですか……あっ、失礼しました。私は十五歳……そう、今日が誕生日で十五歳です」
「誕生日なの? おめでとう。では、乾杯!」
コーヒーカップを差し出すと、女もカップを手に取り、コツンと合わせる。
「ありがとうございます」
「俺も十五歳だよ。誕生日は分からないけど……逆算すれば分かるかな。ま、いいや。同い年だね」
「はい……十五歳? 同い年? それでこんなに魔法を?」
「うん、そういう事」
「へぇ~……じゃなくて、えぇ!」
女は、はにかんでしまう。
「“へぇ~”じゃなくて、“えぇっ!”って」
俺も……ふっと笑ってしまう。
「だって、助けてくださいって言ってたじゃん」
「ええ、はい、えぇ……」
クスッ。
「“ええ、はい、えぇ”って……」
「どうしてそんなに笑うの!」
「言い直さないでいいよ」
「フンッ!」
「ごめん、ごめん」
…………
「ところで、何があったの?」
「……ごめんなさい、怒ったふりしてただけです……」
「うん、それは全然いいよ。ただ――どうして逃げて来たの?」
空気が一気に重くなる。
核心を突いた言葉が、二人の間に静かに落ちた。
女は何かを思い出したように顔を曇らせ、うつむいた。
やがて背筋を伸ばし、俺と向き合う。
「今日……誕生日で、奴隷として売られる日だったの……」
「……奴隷?」
「うん」
「だから絶対ヤダって思って……死んでもいい、売られるくらいなら死んでも逃げてやるって……」
「うん」
「あいつを思い切り殴って走ったの」
「うん」
「そうしたら……あなたがいたの、目の前に」
「うん」
「だから……助けて、何でもするから助けてってお願いしたら……」
女は真っ直ぐに俺を見つめた。
「……今、ここにいるの」
「……うん……」
鼻をすする音。涙が大粒になって頬を伝い、ついにこぼれ落ちる。
「ぐすん……怖かったの……もう駄目だと思ったら、怖かったの……」
「そっか。もう大丈夫だよ。助かったよ……」
「エエエエェェェーーンッ! エエエエェェェーーンッ……!」
森に響くほどの泣き声。
俺にできるのは背中をそっと撫でることだけだった。
リサベラが胸に飛び込んでくる。
腕を回し、両手で背中をぽんぽんと優しく叩く。
後ろ髪から後頭部へと手を滑らせ、子どもをあやすように慰めた。
「大丈夫だよ……もう大丈夫。よく逃げてきたね、偉いぞ」
頭を撫でながら、優しく続ける。
「いいんだよ、いっぱい泣きな」
泣き止むまで、その髪を撫で続けた。
やがて涙が収まりかけたその瞬間、歯を食いしばって吐き出すように声が落ちた。
「お父さんも、お母さんも殺されたの……妹は、そいつのところで奴隷になってるの……まだ十四歳なのに……ウウウウウウ…… 」
その表情には言葉が届かない。
「……わかった。妹を助けに行こう」
緊張で固まっていたリサベラの力が、すうっと抜けていく。
くしゃくしゃに濡れた顔を上げ、無理に笑顔を作って俺を見つめる。
「あぁ、大丈夫だ。俺が必ず助ける。それまで二人で頑張ろう」
小さな声で、しかし絞り出すように。
「はい……お願いします。妹を助けてください……」
「OK。大丈夫、必ず助ける。安心して、任せとけ」
――なぜ、こんな約束をしたのか。
話の流れか、それとも大したことではないと感じたのか。
どちらにせよ、俺は腹を括った。
リサベラの頭と背中を抱きしめ、その震えが静まるまで離さなかった。
泣き声がやがて、規則正しい寝息に変わる。
オレンジ色の空はいつもよりも淋しく映り、紫のグラデーションへと変わるマジックアワーの下――スゥ……スゥ……と小さな寝息は途切れることなく続いていた。
紫に沈む空の下、微睡む少女の重みが、俺の胸に静かで確かな使命を刻みつけていた。
起こさぬようにカップを手に取り、ブラックコーヒーを飲み干した。
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