アンダーカレント・フィクション 第3章 本当の愛

@tagtje

メリーファ国 4 出会い

教会はメリーファ城の城壁の外にある。


城壁の周り、大手門のあたりには、大きく立派な建物が並んでいる。


大都市と呼んでも差し支えない規模だ。


どのような省庁があるのか、興味が湧く。


もちろん、重要施設がわざわざ看板を掲げるはずもない。


「これだろうな」と思わせる建物の前には、門番が立っている。


向かいに広がる運河は、水濠としての役割も果たしているようだ。


情報を収集するために図書館といっても、探すのは容易ではない。


国立図書館など、地球時代でも行ったことがない。


本屋でもあれば、と思ったが、手持ちに金はない。


……そうだな……役所関係のブロックよりも、運河の向こうを探そう……


立派な石橋を渡り、次のエリアへ入る。


建物の規模も変わり、人々の密度が増していく。


ほんの一ブロック下っただけで、人通りが一気に増えてきた。


……人が多い場所に紛れ込むか……




一つの建物の前で馬車が止まった。


立哨していた男が豪奢な扉を開く。


二人の男に挟まれ、馬車の中から一人の女が姿を現した――その手首には冷たく光る手枷。


建物の扉が完全に開き、女を中心に三角の先頭にいた男が中へ入った瞬間、女は右隣の男の顔面へ手枷を叩きつけた。


「うっ」


鈍い声と同時に、女は手枷をつけたまま駆け出す。


「まてええええぇ!!!」


怒声が辺りに轟く。


女は死に物狂いの形相で、息を削るように走った。


捕まれば命はない――その確信が、脚に火をつけている。


息をする暇すら与えない現実。


「お願いです、助けてください。なんでもします」


突如、俺の前に飛び込み、腕を掴む女。


俺は声が出なかった。


背後から迫る三人の男の影。必死の形相、あと数メートル。


女の目は涙で滲み、その奥に切実さと狂気が混じる。


「助けてください!! なんでもします」


その「なんでもします」が、頭の奥で奇妙な響きを残した。刹那、街の雑踏が遠のき、選択の重みだけが迫ってくる――。


俺はローブの裾を翻し、女を包み込むように中へ滑り込ませる。


……トリプルエース……


透明魔法を発動させた。


――息を漏らす間もなく、無詠唱で透明の被膜がローブに張りつく。


半回転しながらフードを深く被る。


男の指先が背にかすった瞬間、反射的に身をひるがえす。


少し屈み、耳元へ息がかかるほど近づいて囁く。


「俺の首に手を回して」


手枷の輪が頬を掠める直前、こちらから首を通し、両腕ごと抱え込んだ。


女はためらいなく、必死に首へしがみつく。


その圧が伝わるより早く、三人の影が迫る。


走りざまの衝突を、女を押すような体捌きでかわす。


密着したまま、もう一人の突進も半歩踏み出して流す。


振り返れば―― 被膜の外の顔だけが宙に浮き、危うく正体を晒しそうになる。


顔を伏せ、さらに一歩、斜めに身を抜く。


人一人ぶんの隙間が生まれるが、なお男の指先が触れそうな距離だ。


腰を引き、のけぞるようにして間合いを稼ぐ。


すぐさま片足で跳び、着地の足音をわざと響かせる。


男たちの視線が一瞬だけそこに吸い寄せられた―― だが、それでも距離は、あまりに近い。


ローブの前を完全に閉ざし、女を抱き込む。


そのまま斜め前――男の死角へ大きく跳ぶ。


「どこ行った!!」

「消えたぞ、見えないぞ!!」


男たちの荒げられた声で、おおよその距離が読めた。


遠ざかるように大股で一歩、そして――


……隠密 トリプルエックス……


二歩目には、もう足音が消えている。


人二人分の間隔が生まれたが、まだ油断はできない。


「どこだあぁ! 居ないぞ!! どこだあぁ!」


背後すぐの位置で、声だけが荒々しく響く。


一歩、二歩――今度は俺の加速だ。


三歩、四歩、振り返りざまに敵との距離を測る。


三人が散開し、再び間合いが詰まりはじめる。


正面に向き直り、五歩、六歩――もはや手は届かない。


七歩目には、完全に三人の男たちを振り切っていた。


数メートルの隔たりが、命綱のように確かに存在している。


「まずいぞ、探せぇ! どこに居るぅッ!」


三人は狂おしいほどに首を振り、左右を舐めるように視線を走らせる。


その表情には焦燥と、失敗すれば己の身が危ういと悟った者だけが浮かべる“ヤバさ”が滲んでいた。


腕の中の女の膝裏を左手で抱え、両脚を左へと逃がす。


俺の右腕は背中をしっかりと抱き締め、前のめりに数歩――視界の隅を野次馬の群れが塞ぐ。


声を頼りに立ち止まっていた者たちを左からすり抜け、さらに右側の人垣を交わして、人の途絶えた方角へと瞬足で進む。


距離が、確かに取れた。


女を抱え直すと動きが安定し、もう数歩、歩みを速める。


前方に、建物と建物の間に細い隙間が口を開けていた。


袋小路ではないことを一瞥で確かめ、そのまま中へ入る。


石壁に挟まれた細道、陽光が半分も届かない狭間――真ん中まで差し掛かったとき、ふと背後を振り返る。


一人の男が、入口からじっとこちらを覗き込んでいた。


もう走れる――タッタッタッ…と隙間の出口へ抜けた途端、背後から男も飛び込んでくる。


小走りの足音が、わずかに遅れて迫った。


建物の影を抜け、陽の射す通りに出る。


左右を一瞥。左は人が少ない。


即座にそちらへと走り出す。


男の影はまだ現れない――今だ。


加速、加速。


前方に現れる人影をスラロームで避ける。


足元が滑りかけるが、ストップ・アンド・ゴーで切り抜けた。


右手には運河の流れ。


道なりに直進すれば、石造りの橋が見えてくる。


橋の袂に着く頃には、もう追手の姿すら確認できない。


それでも女を抱えたまま橋を渡りきり、逆方向へ早歩き。


角を曲がる。


さらに建物数件分を進んで、また曲がる。――地の利は消えた。


それでも前に道がある限り進む。


ローブの中、女の吐息が荒い。


はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……


それが緊張ゆえか、全力疾走のせいか、判断はつかない。


周囲の人々は、つい先ほどまでの騒乱など夢にも思わない顔で歩き続けている。


だが、今度は透明被膜の“存在そのもの”が逆に他人とぶつかるという危険へと転じはじめていた。


……よし、あそこで透明魔法を解除だ……


道行く人々の流れを縫い、街路樹の陰へ滑り込む。


透明被膜がふっと解け、現実の空気が肌にまとわりつく。


抱えていた両足をそっと降ろすと、女は小さく息をついた。


左腕には、女の汗が確かに残っている。


「ちょっとごめんね」


首に回された両腕をそっと持ち上げ、潜るようにして抜ける。


頬が触れそうな距離まで顔が近づく――まだ女の息は荒い。


ローブの前を開き、左腕を九の字に曲げる。


「腕組んで」


すぐ応じようとするも、手枷の金属がぶつかる。


俺は女の輪状になった腕に左手を通し、布地を手繰り寄せて覆った。


銀の冷たい光は、これで隠せる。


「歩くよ」


短い声とともに、二人の足が同時に前へ出る。


少し速まった歩調に、女も合わせるが歩幅は揃わない。


こちらが調整すると、自然と呼吸も歩みも重なっていった。


後ろを振り返った女は数秒後に前へ視線を戻す。


歩きながら、ふと顔を向けられる。


視線が絡み合い、


「……ありがとうございます、はぁ、はぁ」

まだ乱れる息。


「うん」それだけを返す。


「まだ歩くよ」


今度は自分から声をかけ、


「うん」と、同じく短く返ってくる。


交差点。馬車が横切り、進路を遮る。


逆方向を指し示すと、女は言葉を発さずに頷いた。


もう呼吸は落ち着き、歩調も完全に重なる。


――そして、心の奥でそっと呟く。


『なんでもします』の呪縛を、解除する。

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