第5話 守る嘘、壊す
第5話 守る嘘、壊す嘘
朝九時。
運営フロアの空気は、いつもより乾いていた。Trust Viewer(閲覧ダッシュボード)の鍵騒ぎから一夜。
法務が通達を読み上げる。「監査鍵は再発行。使用範囲は会見室の有線環境に限定。印刷物のQRは別紙。履歴は全件保全」
セキュリティの九条凛が続けた。「昨夜の流出経路はスポンサー配布分→メディア→SNS。広報端末の画面端に鍵がフレームインした可能性が高い。故意の証拠はない」
私は頷き、手元の原稿をそっと押し出す。
——モデレーション方針の公開案。
表題は簡潔に**「人名ではなく構造」。項目は五つ。部分伏せ=第三者特定の抑止、保留=長い会話のための選択、支援導線の最優先、数値の非公開範囲、鍵の履歴管理。
法務が「本日正午に公開可」と判を押し、上司の神谷祐真が紙の角を二度**はじいた。「行こう。顔を出さず、構造を出す」
◇
未処理キューのトップに、見慣れた呼吸が浮かぶ。
〈正しさは最短じゃない。彼女を守るために、言わないことがある〉
匿名/タグ:婚約・秘匿・救い
句読点、語尾、息継ぎ——@lienight。
私は保留を選び、「当事者性/翌朝の影響」の理由コードを付ける。注釈に「“言わない”のコストは誰が払うか」と残し、キューを一つ下げた。
すぐ下に、もう一件。
〈“上司に口説かれている部下”の投稿は勘違い。彼は悪くない。私が判断を誤った〉
匿名/タグ:取消・職場・自責
喉が固くなる。取消は圧力の匂いを帯びやすい。
差し戻しで返す。「第三者評価ではなく、あなた自身の境界について書き直すこと。支援先リンクは残します」
その直後、トップに踊り出た一通が、私の心臓を掴んだ。
〈あなた(モデレーター)が“未遂”の被害者だ。あなたを守る投稿は許されるか〉
匿名/タグ:告発・構造・未遂
視界が少しだけ狭くなる。私という単語。未遂という灯。
削除ではなく、承認を選ぶ。
——人名ではなく構造。
注釈:「“未遂”という語の使い方/力関係と境界線/相談の順番」
助言リンク:「職場の相互評価制度」「第三者機関への相談」「記録の残し方」
送信。
送信ボタンは重い。けれど、私から私を外した手付きで押す。
◇
正午、モデレーション方針を公開した。
Trust Viewerのサマリへリンクし、理由コードの定義を図にしたスライドを添える。
外部SNSはすぐに賛否で沸いた。
〈“保留”は逃げじゃなかったのか〉
〈“伏せ”で傷を増やすな〉
〈支援の導線が太くなった〉
〈“人名より構造”は卑怯〉
広報(早瀬悠斗)からの声明も同時に出る。「恣意性は排除。個人は顔を出さない」。
彼個人の言葉がどこまで含まれているのか——今は、測らない。
◇
夕方、夜カフェ「夜更け」。
親友の麻倉透子は、方針公開の記事を広告なしで上げ、投げ銭を走らせていた。
彼女はラテを差し出し、目を輝かせる。
「さや、独占やらせて。“モデレーターの正義”を有料で。顔は出さないでいい。声だけ」
「私個人はいらない。方針なら二次利用を許す」
「みんな、方針より人を見たいの。誰がどこで震えながら押したのか、送信ボタンに指紋を探す」
「送信は、キスより重い。その重さを覗かせるのは、別の傷を呼ぶ」
透子は肩をすくめ、笑顔の下で計算を光らせた。
「じゃあ、“経済としての告白”を語ろう。炎上の広告は外す。投げ銭だけで回す。——善い拡散にコストがかかるって、見せたい」
私はうなずく。届くなら、やる価値がある。届かない正しさは、砂の塔だから。
◇
夜、オフィス。
神谷が窓際に立ち、街の灯を眺めていた。
「方針、読んだ。残酷に優しい」
「手順で、孤独を減らしたいだけです」
「君の“未遂”を、誰かが盾に使うことがある。それでも構造で返すか」
「はい。人名で勝っても、次が救えないから」
神谷は書類の角を二度はじいて笑った。「俺は、盾にならない。証言なら、する」
残る熱を胸にしまい、私は未処理に戻った。
◇
23時を回る。火曜日ではないのに、画面の右上が一度だけ赤く点いた。
凛から音声。「三分」
「どうぞ」
「広告部門の自動赤線、一部オフの痕跡。特定タグ(恋愛・告白・炎上)で**“センシティブ自動抑制”が解除されていた期間がある。——決定打じゃない。管理者権限の委譲ログが抜けてる」
「意図的?」
「わからない。だが、“伸びる”を優先する経路**があった。構造として覚えておいて」
——“告白の経済”。
透子が言ったフレーズが胸に返る。善い拡散のコストと、悪い拡散の利益。
私は静かに頷いた。「ありがとう。会見の準備が進む。数値は出さない。矢印だけ出す」
「もう一つ。文体クラスタの解析、更新」
凛のウィンドウに散布図が現れる。赤い点群が三つ、寄り合う。
「@lienightと、別の二つの匿名が近接。端末指紋(フォントレンダリング/時刻ズレ)が一致の可能性。複数アカウント運用の疑い。——決定打じゃない」
心臓がひとつ、静かに沈む。
複数。
彼は、いくつで私を試し、いくつで守り、いくつで煽ったのだろう。
「断定しない。だが、鞄に仕舞っておけ」
「仕舞います」
通話を切ると、椅子が軽く軋んだ。
私は保留の山を見つめ、ひとつ深呼吸をする。
◇
帰宅。
リビングに、謝罪テンプレが三束。社としての言葉が整然と並ぶ。
キッチンの明かりの下で、早瀬悠斗がペンを置いた。
「明日、予行。“匿名の価値”について、社として話す」
「個人は顔を出さない。方針だけ」
「うん。それと——僕、匿名をやめる。@lienightは閉じる」
胸が波打たず、代わりに静かに沈む。
終わらせ方は、いつも見せ方になる。
その見せ方が、誰を守るのか。
「複数、持ってる?」
問いは、想定より軽い声で出た。
悠斗は一瞬だけ目を細め、笑った。「仮に持っていたとして、何が問題?」
「彼女の正しさを試すために、みんなの前で複数を使うなら、構造の破壊だよ」
「守るためだよ。君は正しい。正しさは、時々敵を増やす。僕は、敵を減らす役になる」
会話は、机の上で輪になって回る。
私は視線を落とし、「長いほうで話したい」とだけ言った。
彼は頷き、テンプレの束を揃えた。
◇
ベッドサイドのノートに、短い文を三つ。
・“守る嘘”は、だれの負担で続くか。
・“壊す嘘”は、どの構造を先に崩すか。
・“終わらせ方”は、見せ方にならないように。
ペンを閉じた瞬間、スマホが震える。透子からだ。
〈“モデの正義”インタビュー、無料でやる? 広告は外す。
〈“お金のない正義”って、伸びるの〉**
私は一拍だけ迷い、OKを返した。
途切れず届くこと。届いても傷つけないこと。
その両方にコストがかかるなら、私の時間で払う。
◇
翌朝。
出社すると、凛が無言で一枚の紙を差し出した。アクセスログの抜粋。
深夜1:12、社内Wi-Fiのひとつの端末から、@lienightと別アカウントが交互にログイン。
決定打には届かない。だが、重い推測に十分な数字。
「削除する?」
凛の声は、いつもどおりに冷静だ。
私は首を振る。「残す。構造として残す。人名ではなく、手順の指標として」
神谷が通りかかり、紙の角を二度はじいた。「会見の準備は?」
「長い会話の構成にしました」
「よし。——短い気持ちよさに負けるな」
午前十時。Trust Viewerが滑らかに動き、方針の図表が陽に晒される。
その瞬間、未処理のトップに、新しい一件が乗った。
〈“モデレーターの恣意”に傷ついた——と書けば伸びる?(続)〉
匿名/タグ:炎上・経済・免罪
私は承認し、注釈を添えた。
——“伸ばす”動機が告白に混ざる時、誰が利益を取り、誰が負担を負うか。
——“届く”ためのコストを誰が払うのか。
送信を押す指は、もう震えない。
守る嘘と壊す嘘の境目は、いつも翌朝に現れる。
そこまで、長いほうで運ぶのが、今の私の仕事だ。
◇
昼前、内線が鳴る。母からの短いメッセージが転送されていた。
〈“守る嘘”は、相手が気づいた時に支払いが始まる。
〈“壊す嘘”は、自分が気づいた時に支払いが終わる〉
私は返さない。
返さなくても、伝わる会話がある。
ディスプレイの隅で、会見の時間が近づく。
ドアの向こう、悠斗の足音が止まった。
彼は私を見て、優しい声で言う。
「行こう。社として話す。匿名の価値を」
「——うん。人名ではなく構造で」
私たちは隣り合って歩き出す。
短い嘘は、今日ここで終わらせる。
長い本当は、ここから選ぶ。
送信ボタンは重い。けれど、その重さごと、翌朝へ運ぶ。
(第5話 了)
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