第2話 火曜日のログイン
第2話 火曜日のログイン
火曜日の夜になると、管理画面の右上に同じアラートが点く。
〈緊急:社外IPから管理画面へアクセス〉
ピンは必ず、同じ界隈で止まる。古い雑居ビル。あの心理相談所の入る建物の周辺だ。
九条凛は、そのたびに落ち着いた声で言う。
「保存はとった。切る前に何が入ったかだけ確認する」
「お願いします」
私は深呼吸して、未処理のキューを一本ずつ減らす。
火曜日は、誰かの心が少しだけ大きく揺れる曜日だ。
◇
火曜の午前、会議室A。
親会社提案の可視化ダッシュボードが、いよいよ本番に乗る。
スライドの先頭に、婚約者の早瀬悠斗の声が重なる。
「審査過程を見えるようにします。誰が、何分で、何を判断したか。恣意性の疑いを消すために」
神谷祐真課長が頷く。
「良い。透明にしよう。現場は、正しさを“手続き”で説明できるように」
透明。
私は画面の青いバーを眺めた。判断の速度、差し戻しの頻度、伏字の割合。
数字は正直だ。ただし、切り方次第でいくらでも賢く見える。
会議後、廊下で神谷が立ち止まる。
「椎名。君の“伏せ”は丁寧だ。だが、長い言葉が増えすぎると、読者は離れる」
「“短い気持ちよさ”で傷つく人を増やしたくないので」
「理想は、いつもコストが高い」
神谷は微笑んだ。唇だけが動く笑いだ。
指先が書類の角を、二度はじいた。懐かしい癖。
私は目を逸らし、会議室に戻る。
◇
お昼前、トレンドが一気に跳ねた。
外部SNSに、親友の麻倉透子のまとめが出たのだ。
〈匿名相談アプリに“職場ハラスメント”の声が増加。対処先リンク付き〉
数字は綺麗に伸びる。広告も乗る。
チャットが飛んでくる。
透子:〈ねえ、行政リンクも貼ったし善い拡散だよね?〉
紗耶:〈助言が届くなら、ありがとう。ただ、煽り文句は外して〉
透子:〈了解。じゃ、夜も“伸びる”やつ頼む。火曜は人が語る〉
火曜は人が語る。
その一文が、胸のどこかを押した。
◇
午後、社内掲示板に匿名の質問が立つ。
〈上司が、部下の“才能”に惹かれるのは罪か?〉
言い回しに既視感。祐真の、あの研修資料の言葉遣いに似ている。
コメントが数分で十を超え、私語禁止のスタンプが貼られる。
ほどなくして、アプリ側の未処理にも近い投稿が浮上した。
〈“未遂”は、どこから未遂ですか?〉
匿名/タグ:境界・職場・曖昧
私は指を止める。
——あの夜のソファ。
帰れない時間、重なった沈黙、押し問答にはならなかった距離。
未遂の線は、どこに引かれるべきだった?
私は、構造を守る方針に従って手を動かす。
固有名詞を伏せ、時系列をぼかし、助言リンクを添える。
承認。
心のどこかが遅れて痛む。
◇
夕刻、九条がデスクに来る。
「ログ、絞れた。火曜の夜だけ、心理相談所のテナント回線から“閲覧未満”が入ってる。管理画面を覗くだけ。変更はなし」
「覗く、って……誰が?」
「わからない。ただ、毎週同じ時間帯。火曜の二十一時台」
「母は、その時間帯にクライアントがいることが多い」
「彼女がしたと断定しない。断定しないのが仕事、だろ?」
言われて、私は小さく笑う。
この人の冷静さは、時々、救いになる。
「今夜も来る?」
「来ると思う。遮断はできるけど、一度“何を見たいのか”を見る価値はある」
「……わかった」
◇
仕事の後、私はカウンセリングルームに寄った。
火曜の夕方は予約が詰まっている。合間の十分、母はハーブティーを用意してくれた。
「お母さん」
「うん」
「“匿名の助言”って、境界を越える?」
「越える可能性はある。だから、誰のためかを明確にしてから押す。私たちはクライアントの側に立つ」
「もし、クライアントの家族が苦しんでいたら?」
「……家族には、家族として会う。匿名で横から差し手を入れたら、関係を壊すかもしれない」
言いながら、母はほんの少しだけ視線を泳がせた。
私は胸の中で、火曜のログインのピンを思い浮かべる。
聞けそうで、聞けない。
代わりに、ハーブティーを飲み干した。
「お母さん。長いほうを選ぶ、って前に言ったよね」
「言ったね」
「今夜、その練習をする」
母は笑わない。ただ、頷いた。
◇
夜。オフィスは半分眠り、可視化ダッシュボードだけが鮮やかだ。
承認の速度、伏字の割合が線になって動く。
匿名の声は、可視化によって“誰の判断で通ったか”の矢印を持つ。
良いことだ。——使い方さえ正しければ。
21:12、アラート。
〈社外IPが閲覧〉
凛からメッセージ。
〈閲覧のみ。検索ワード:“婚約”“試す”“助言”。——閲覧者は素人じゃない〉
〈素人じゃない?〉
〈“検索の仕方”が臨床寄り〉
私は、未処理の投稿を開いた。火曜は、語りが増える。
〈婚約者が、彼女の正しさを“試す”と言いました。どう言葉を返せば、二人とも傷が浅いでしょう〉
匿名/タグ:家族・婚約・助言
文体が、母に似ている。
でも断定しない。いまは、手順が先。
部分伏せ:主語を「婚約者」→「相手」へ。
助言リンク:境界線の引き方/関係性の再構築。
注釈:試すという行為のコストについて。
送信。
送信ボタンは、キスより重い。
今夜はいよいよ、その重さを嫌いになれそうだ。
続けざまに、別の投稿が上がる。
〈“上司に口説かれている部下”の投稿、掲載しないでほしい。彼はいい人だ。私が悪い〉
匿名/タグ:取消・職場・自責
胸に冷たい汗が流れる。
言い回しの癖は、社内掲示板の匿名のそれに近い。神谷の周辺の誰か。
私は承認する——のではない。
差し戻し:理由「第三者の評価を抑制するため、あなた自身の境界に関する記述へ言い換えを」
助言リンクを添え、再投稿を促す。
火曜は、短い嘘が最も甘くなる曜日だ。
その甘さを、翌朝まで残すつもりはない。
◇
22時前、扉が開いて、神谷が顔を出した。
「遅くまで、ご苦労」
「お疲れさまです」
「可視化、どうだ?」
「“見せるための仕事”が増えます。本来の手当ても、同時に欲しいところです」
「予算は、現実だ」
神谷は窓の外を見ながら続けた。
「匿名は、救うことも壊すこともできる。君は救う側に立っているのだろう」
「そう願っています」
「なら、君自身の匿名は、誰が救う?」
心臓が一度だけ重く打つ。
インターン時代の夜が、未遂の言葉で呼び戻される。
私は、椅子の背にもたれず、まっすぐ座った。
「私のことは、私が救います。手続きで」
「強いな」
「強くないと、弱い人が来られないので」
神谷は笑い、指で書類の角を二度はじいた。
「火曜は、語りが増える。気をつけて」
そう言って、去った。
◇
22:40、透子からの通話。
「さや、来た。“婚約者が彼女を試す”ネタ。夜の人たちが喰いついてる」
「まとめないで。助言先を直接読ませて」
「でも、善い拡散だよ。お母さんの言ってた“長いほう”につながる」
「うちの母の言葉を、材料にしないで」
「……ごめん。仕事なんだよ、こっちも」
通話を切る直前、透子の声が低くなる。
「ねえさや、彼さ、実名で謝る気ある? “匿名をやめる”って再生数、すごいよ」
答えないまま、私は終話ボタンに触れた。
◇
23時、凛が画面を共有する。
「今夜の閲覧は、ここで切る。十分に手の内は読めた」
「“臨床寄りの検索”って?」
「“境界”“反応”“修復”みたいな、セラピーの索引の引き方。プロか、プロに近い誰か」
「……母かもしれない」
「名指しはしない。証拠は“行動”にしか宿らない」
行動。
私は、未処理の一件をもう一度開いた。
@lienightの気配がする投稿。句読点、息継ぎ、言い回しの癖。
〈彼女の正しさは、最短じゃなくていいと思う。守るために、少しだけ嘘をついてみたい〉
私は保留を選ぶ。
部分伏せですら届かない夜がある。
手を離す、という選択も、手続きだ。
◇
火曜が終わる数分前、新しい投稿が上に躍る。
読み始めて、一行目で息を呑んだ。
〈娘の婚約者が、彼女を“試す”と言いました。私は母として、どう助言すべきですか〉
匿名/タグ:家族・境界・助言
文末に、母が紙の手紙に使う独特の「です。」のリズム。
私は椅子から立ちかけて、座り直した。
断定しない。
手順を崩さない。
火曜のログが、背後で静かに保存される。
私は一文を短く伏せ、助言を添えた。
——“試す”は関係のコスト。
——境界線の引き直しと、対話の順番。
——翌朝に残る言葉を選ぶこと。
承認。
送信ボタンが、いつもより重かった。
でも、その重さは、私の手で支えられる。
◇
深夜。
アラートは消え、赤い丸だけがゆっくり増えていく。
凛から短いメッセージ。
〈火曜分のログ、保全完了。明朝、可視化ダッシュボードとは別の“記録”で説明する〉
私は「了解」とだけ返し、パソコンを閉じた。
窓に自分の顔が映る。
母の横顔と重なるところも、似ていないところも、よくわかった。
スマホが震えた。悠斗から。
悠斗:〈明日、会見の予行。匿名の価値について、話そう〉
私は返信せず、ベッドサイドのノートに二行だけ書いた。
火曜日のログイン=誰かの境界が揺れる日。
私は手順で支える。名前ではなく、構造で。
息を整え、目を閉じる。
火曜日が終わる。長いほうを選ぶ準備は、できている。
次の朝、腹は笑うだろうか。
笑わせるのは、私だ。
(第2話 了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます