第五章 春——見出しの影
春は、紙が軽い。川霧がほどけるころ、購買組合の柱に新聞の見出しが洗濯ばさみで挟まれた。
《高等小学校 移転決定 寄付呼びかけ》。
見出しの赤い二重線が、朝の薄い日差しで光る。人が立ち止まり、うなずき、指で字の形をなぞっていく。わたし——明里は、その輪の後ろから見上げた。紙の耳(みみ)はきれいに切れていて、角はほんの少し丸い。洗濯ばさみの歯形は浅い。
正午の“寄り聴き”で、寺の縁側のラジオが砂の音を曳きながら言った。
《……但馬地方の学校整備、来年度以降に検討……》
来年度以降。組合の柱の決定とは、あわへん。わたしは胸の中で、その二つの言葉を並べてみた。決まったのか、これから決めるのか。耳と紙の間に、うっすらと風が吹いている。
夕方、清蓮寺の掲示板にも、同じ見出しの貼り紙が出た。千代姉ちゃんが書く寄付の掲示の横に、赤線付きで。
「だれ、貼(は)ったん」
志乃さんが首を傾(かし)げる。
わたしは紙をそっと触った。指に油の甘い匂いが移る。謄写版(とうしゃばん)のインクの匂いだ。活字やない。
「この紙、ガリ版や」
稔兄ちゃんが鼻を近づける。
澄江姉ちゃんは、端の数字を見て小さく言った。「“二”の角(かど)の止め、寺の掲示の書式と違う。横払いの抜けが浅い」
わたしは、組合で見た紙の角と見比べた。組合のは新聞紙。寺のは上質紙で、耳が真っ直ぐ。洗濯ばさみの跡も、組合のより浅い。
——本物の記事を切って貼ったんやない。それらしく作った。
夜の“寄り聴き”に、人がいつもより多めに集まった。志乃さんは輪の真ん中で、静かな声を立てた。
「事実(ほんま)と願いは、同じ紙に書けへん。——正面で、誰が貼ったか、言お」
輪が割れて、代用教員の佐伯先生が一歩、前へ出た。細い手にインクの染み。
「わたしです」
先生の声は震えてなかった。「ほんまに“決定”にしたかった。話は遅(おそ)れてばっかりで、子らの教室は狭(せま)い。火が要ると思った。灯せば、人は動く思て」
南の巡査が眉をひくくして、短く言う。
「紙は火にも灯にもなる。区別して貼ったらええ。誰がいつ貼ったか、名前を添えてな」
千代が帳面を膝に広げた。
「透明にしよ。募り方と額、日付、読み上げ当番、貼った人、外した日まで、紙面(かみ)に出す。“決定”は“決まる”。“決める”は、うちらの“願い”や」
春江姉ちゃんが貼り紙を外し、筆を取る。
「ここ、言い換える」
《学校移転 要望集め》と見出しを書き直し、出典としてラジオの文言「来年度以降に検討」を添える。四隅の止めを深くして、風でめくれぬよう糊をうすく引いた。
澄江は赤線の太さを整え、「二重線は強(つよ)すぎんように」と笑った。
稔は掲示板の洗濯ばさみを組合と同じ歯形のものに替える。「歯の深さで、貼った場所が分かるからな」
翌朝、組合の柱には新しい紙が挟まっていた。
《学校移転 要望集め》。
下に小さく、《読み上げ:寺 正午》。
昼、“寄り聴き”の輪で、住職が紙を掲げる。
「願いは願いとして、正面で声に出す。紙は燃えやすい。せやけど、声で囲(かこ)んだら、火は灯になる。——佐伯」
先生が立ち上がり、深く頭を下げた。
「すまなんだ。焦(あせ)った。子らに狭(せま)さを我慢ばっかりさせとるのが、悔(くや)して」
住職はうなずいた。
「謝る者が一歩、許す者が一歩。二歩でええ。今日から、要望を集める。読み上げは明里、書き手は澄江、勘定は千代。南、記録頼む」
南の巡査は手帳を開いて、短く言った。
「《学校移転 要望開始 貼り手名記載》」
その日の午後、弥兵衛さんが木箱を肩から降ろして笑った。
「まいどはや。なーん、見出し、今度はええ匂いやちゃ。油も紙も、すなおや」
わたしはうなずいた。偽(いつわ)りは消えた。願いは残った。紙と声の間の風は、灯のほうへ向きを変えた。
夕暮れ、掲示前に立つ人の足が止まる。要望に名前を書く筆の勢いが、ゆっくりと増えていく。千代が額と日付を読み上げ、澄江が“止め”を深く、ひとりひとりの名を紙に留める。
「明里、次(つぎ)」
志乃さんに促され、わたしは縁側で声を出した。
「《山田 ハル ——机四つ、雨の日の履物棚》」
輪から「おう」と短い返事が返る。その返事の数が、夕闇の濃さに応じて増えていく。読む人と聴く人がひとつの体みたいになって、紙の上に村の形ができていく。
夜、家の縁先にふわりと霧が降りてきた。新聞は明日また新しい話を運んでくる。けれど今夜は、願いが願いのまま正面に置かれた。手は嘘つかん。油の匂いも、歯形も、止めの深さも、みんな顔を出した。
光は誰でも出せる。どこへ向けるかは、人の心や。紙と声の間にある風を、少しずつ、灯のほうへ。
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