明里と清蓮寺の四季
神崎凛
プロローグ 雲の底
山が近い。朝来の谷は、季節の境目みたいに湿っている。夜のうちに降りた霧は、川の面(おもて)から薄く立ちのぼり、苔むした石垣の匂いと混ざって家々の縁側へ入り込む。杉の幹はしっとり黒く、鳥の声はまだ小さい。川は、ゆっくりと、けれど絶え間なく、村の時間を押していく。
わたしは明里(あかり)。朝霧家の末っ子で十歳。小さな体でも聞き耳は立つほうで、誰の足音か、茶筅(ちゃせん)の水気、墨の匂い、そういうものが好きだ。けったいな言い方やけど、人の手癖と声の揺れは、嘘より正直やと思う。
家は八人きょうだい。長男の弥一は二十二。寺で茶と書を学んで、炭の置き方ひとつに心をそろえる人や。長女の春江は二十。帯を締める手が早い。惣介十八は山の道に強く、雪庇(せっぴ)や獣道を地図みたいに覚えている。千代十七は算盤と帳付け、家の財布の番人。稔十五は道具が好きで、仕組みを眺めては直す。澄江十四は字がきれいで、筆の運びに人の性分(しょうぶん)が出るのだと言う。啓太十二は足が早い。川の浅瀬と風の向きに詳しい。
みんな役目が違う。わたしはその間を走って、見て、聞いて、覚える。
家から少し上がれば清蓮寺がある。山門は年季で白銀(しろがね)に光り、鐘楼は風の通り道になっている。住職の慧真(えしん)さんは静かな人で、「見えとるもんだけが真(ま)ことやない」とよく言う。坊守(ぼうもり)の志乃さんはきっぱりしていて、女の人たちにお茶と着付けと書を教える。指先の跡や糊の光り方で、誰が何をしたか分かるもんや、と笑ってみせる。
昭和のはじめ。この谷では、世の中の出来事は新聞とラジオで“後から”やって来る。新聞は神戸のを一日遅れで購買組合へ届き、昼すぎには店の柱に洗濯ばさみで見出しが挟まれる。読みの達者な大人が声に出して読むと、商いの手を止めた人らがうなずき、子どもは漢字の読みを覚える。
ラジオは一台、寺の縁側。蓄電池の箱をつないで、正午や夕方の放送をみんなで寄って聴く。ザーッという砂の音の向こうから「米価」とか「天気」とか、遠い町の声が届く。“寄り聴き”の輪の大きさで、村の心配も喜びも測れる。今日は米が下がったと聞けば、寄付の相談は重くなる。活動写真の知らせは、新聞の小さな広告で初めて知る。
男は股引に脚絆(きゃはん)、女は着物にもんぺ。日々は製炭と畑で回り、播但線の汽笛が谷を横切ると、皆が同じ方向を見る。寺は講と祭の中枢で、“読む人”と“聴かせる人”が自然に決まっている。そんなふうに、耳と紙で村は外の世界とつながっていた。
外から来る人もいる。春のはじまりにやってくる富山の薬売り・沢田弥兵衛さん。木箱と絵札帳を持って、「まいどはや」と笑う。夏の盛りには活動写真一座が来て、映写技師の久保田さんが巻きの向きを確かめ、弁士の綾乃さんの声が夜を温める。村の巡査、南さんは筆圧の強い字を書き、祭のときは人混みの端で静かに見ている。
そして、寺の世話役・田原重蔵さん。大柄でも控え目で、人前は苦手だが、寄付名簿や鍵の管理、外の客の相手まで、雑事を一手に引き受ける。わたしたちは、そういう人の影で暮らしている。
冬は雪が深い。春は山菜の芽が土を割り、川霧がやわらぐ。夏は蛍が田の上で呼吸し、秋は稲架(はさ)木に黄金(こがね)が掛かる。四季の決まりを、村は手触りで覚えている。けれど、その合間に人の都合がひそっと入り込むことがある。光は誰でも出せる。どこへ向けるかは、人の心しだい——わたしがそれを知ったのは、春の、名簿が一晩だけ消えた年やった。
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