第2話 兆候

 高校二年の夏が近づく頃、俺たちの通う学校では期末テスト前の慌ただしさが漂っていた。蝉の声が聞こえ始めた校舎の廊下を歩きながら、俺は同じクラスの男子たちと他愛ない雑談を交わしていた。心の中にぽっかり空いた穴を抱えたまま過ごす日々にも、いつしか慣れてしまったらしい。笑顔を作ることも、必要最低限の会話をこなすこともできている。傍目には、ごく普通の高校生に見えているのだろう。


「春樹、またボーッとしてるぞ」


 肩を叩かれて振り向くと、にやにや笑う明の顔があった。


「昼休み、どっか食いに行こうぜ。購買のパン、今日はカレーパンがまだ残ってるかも」


「…ああ、そうだな」


俺は軽く頷いた。明――幼馴染の明とはクラスこそ違うものの、今でもよく一緒に昼食を取ったり放課後に話したりする仲だ。明は女子からも人気が高い快活なイケメンで、そんな彼と対照的に地味で物静かな俺とつるんでいるのを不思議がる声もある。しかし明は「昔からの親友だからな」と笑って気にする様子もなかった。


 明の隣のクラスには秋音がいる。同じ校舎にいても、彼女と顔を合わせる機会はほとんどなかった。中学の頃から彼女はこちらを避けるように距離を置いていたし、俺もどう接していいか分からずにいたからだ。それでも朝のホームルーム前、廊下ですれ違えば「おはよう」と一応声だけはかけている。秋音も小さく会釈を返すが、その顔はどこか冷めていて、深く踏み込むなという無言の壁を感じさせた。俺はそれ以上声をかけることはできない。幼い頃には戻れない現実を、突きつけられるだけだった。


 昼休み、明と一緒に校庭のベンチに腰掛け、購買で買ったパンにかぶりつく。青空を見上げながら、明がふと呟いた。


「…姉ちゃんさ、最近よく授業休んでるんだ」


「え?」


 唐突に秋音の話題が出て、俺は戸惑う。


「この前も体調悪いって早退したし。春樹、お前なにか聞いてないか?」


「いや…何も」


 正直に答えながら、胸の奥がちくりと痛んだ。そういえば今朝も秋音の姿を校内で見かけなかった気がする。だが元々俺は彼女の動向を積極的に追う立場ではないし、下手に詮索できる間柄でもない。ただ明が心配そうな顔をしているのが気にかかった。


「大丈夫だろ、あいつ元気だけが取り柄だったし」


 と軽く笑って見せる俺に、明は曖昧に頷いた。


「…そうだよな」


 だが、その表情は晴れないままだった。


 昼休みが終わり、午後の授業が始まってしばらくした頃だった。校内放送のチャイムが鳴り、「一年C組の担任の先生、至急職員室までお越しください」という連絡が流れた。ざわめく教室。何かあったのかと漠然と考えていると、続けて「二年B組の柏木秋音さん、至急保健室まで来てください」というアナウンスが響いた。秋音の名前が呼ばれた瞬間、俺の心臓が跳ね上がる。保健室へ呼び出されるということは、何か具合が悪くなったのだろうか。


 俺はいても立ってもいられず、教師の目を盗んで教室を抜け出した。廊下を小走りに進み、保健室へ向かう。遠目に、明が秋音の肩を支えながら歩いているのが見えた。秋音は顔色が悪く、自力で立つのもやっとの様子だ。保健の先生が慌てて駆け寄り、「秋音さん、大丈夫?」と声をかける。秋音は薄く笑って何か答えようとしたが、そのまま意識を失ったようにガクンと膝を折った。


「秋音!」


 思わず俺も駆け寄る。明と一緒に秋音の体を支え、床に座らせた。額に手を当てると冷たい汗が滲んでいる。保健の先生が緊急連絡先に電話をかけながら、「すぐ救急車呼びますからね」と落ち着いた声で告げる。明は青ざめながらも秋音の手を握りしめ、「姉ちゃん、しっかり…もうすぐ助けが来るから」と必死に呼びかけていた。俺も隣で何もできずにいるしかない。秋音の閉じられた瞼は小刻みに震え、その呼吸は頼りなく乱れていた。


 救急車が到着し、秋音は担架で運ばれていった。明が同乗し、俺は校門の所で救急車を見送ることしかできなかった。胸の奥がざわめき立ち、不安と恐怖がないまぜになった感情が渦巻く。秋音が倒れた――ただの貧血や一時的な体調不良ではない、という直感があった。あの秋音が、あんなにも弱々しく倒れるなんて。


 その日はもう授業どころではなかった。俺は早退の手続きをとると、気が動転したまま校舎を飛び出した。病院へ駆けつけたい衝動に駆られたが、家族でもない俺が行っていいのか分からない。ぐるぐると思考が空回りする。その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を見ると明からのメッセージだ。「秋音、今は落ち着いてる。放課後に駅前の公園で話せるか?」短文ながら、明の疲れ切った様子が伝わってくるようだった。


 俺はすぐに「わかった、行く」と返事を送り、指定された駅前の小さな公園へ急いだ。


 ベンチに腰掛けていた明は、俺の姿を見ると安堵したように立ち上がった。夕暮れの柔らかな光が射す公園はひっそりとしていて、他に人影はない。俺が息を整え「秋音は…?」と尋ねるより早く、明が口を開いた。


「姉ちゃん、意識は戻ったよ。今は病院で検査を受けてる。命に別状はないみたいだ」


 その報告に俺はようやく胸を撫で下ろすことができた。


「そうか…よかった…」


 しゃがみ込みそうになった膝に力を入れる。それでも明の表情は晴れないままだ。明は深刻な面持ちで口を開いた。


「春樹…お前に話さなきゃいけないことがある」


 明の声音が沈んでいるのを感じ、俺はごくりと唾を飲んだ。予感していた最悪の言葉を、次に聞くことになるのではないかという恐怖。明は拳を握り締め、震える声で告げた。


「姉ちゃん…秋音は、難病を患ってるんだ」


 難病――その言葉の重みが現実感を伴って胸に落ちてくる。思わず息を呑んだ俺に、明は続ける。


「詳しい病名は…言わないでおいてくれって姉ちゃんに頼まれてる。でも、治療が難しくて、完治は望めない病気だ」


「…そんな…」


 現実を拒むように声が漏れた。頭が真っ白になる。耳鳴りがし、心臓が早鐘のように脈打った。秋音が難病…?いつから?なぜ――様々な疑問が浮かんでは霧散していく。


「実は半年前に分かったんだ。症状はまだ軽かったから、本人の希望で学校にも普通に通ってた。でも最近悪化してきてて…今日みたいな発作も、増えてきてる」


 明の声が苦しげに歪む。


「姉ちゃんは自分が病気のこと、誰にも知られたくないってずっと隠してきた。俺も親も、学校には最低限しか伝えてないし…春樹にも言えなくて、すまなかった」


「いや、俺が謝られることじゃ…」


 俺は言葉を詰まらせた。明が謝る必要などない。隠していたのは秋音の意志なのだろうし、そもそも俺は彼女とまともに会話すらしてこなかったのだから。


 だが、知ってしまった以上何かしたいという思いが湧き上がる。混乱する頭を必死に整理して「秋音に…俺にできることはあるか?」と問うと、明は顔を上げて俺を見据えた。その瞳に強い決意が宿っているのが分かる。


「頼みがある。姉ちゃんの心残りを、どうか解消してやってほしい」


「心残り…?」


 尋ね返す俺に、明は歯噛みした。


「姉ちゃん、自分の病気のことを天罰だって言うんだ。過去に自分が人として取り返しのつかないことをした罰だって…」


 そこまで言って、明はくっと喉を詰まらせた。悔しそうに拳を握り、沈痛な面持ちで続ける。


「俺には、それが何のことか大体わかってる。けど…姉ちゃんは決して自分から言おうとしないんだ。ましてやお前には…きっと話せないと思う」


「……」


 俺は息を呑んだ。明がそこまで言う“心残り”とは、一体何なのか。彼の言葉から察するに、秋音が自分を責めるような過去の過ち――全く心当たりがないわけではなかった。思い浮かぶのは、美優が亡くなったあの日からの秋音の変化だ。俺を避け、距離を置くようになった彼女。そしてその理由を俺は知らないままでいる。


「俺から詳しく話すことはできない。でも…時間がないんだ。病気が進行する前に、姉ちゃん自身が心残りを解消できるようにしてやりたい」


 明が俺の肩に手を置いてきた。


「頼む、春樹。姉ちゃんにもう一度お前と向き合う勇気を持たせてやってほしい」


「明…」


 幼馴染である明が、こんなにも真剣な表情で何かを頼んでくるのは初めてのことだった。その瞳には涙が浮かんでいる。


「ああ、もちろんだ」


 俺は強く頷いた。秋音の心残りが何であれ、彼女のために力になりたい――そう思うのに理由などいらなかった。何より、俺自身ずっと秋音とちゃんと話したいと願ってきたのだから。


「ありがとう、春樹」


 明は歪んだ笑みを浮かべ、拳で俺の胸を軽く小突いた。


「姉ちゃんには…まだお前が病気のこと知ってるって言わないでやってくれ。自分から話すまで待っててほしいんだ」


「わかった」


 俺も頷き返す。秋音は自分の病気を隠したがっていた。それを知っていると悟られれば、きっと彼女は心を閉ざしてしまうだろう。


 沈みゆく夕陽が、公園の遊具を長く影絵のように伸ばしていた。俺はオレンジ色に染まる景色をぼんやりと眺めながら、幼馴染の姉弟と過ごしたあの日々を思い出していた。もう一度、秋音と向き合う――それは同時に、自分自身が長年避けてきた過去に向き合うことでもあるのかもしれない。


 あの日流せなかった涙の意味も、俺はいつか知ることができるのだろうか。そんなことを考えながら、俺は静かに拳を握りしめたのだった。

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