傷跡の隣で、君に恋をした
Loser
第1話 隣の席
朝の教室は雑多な声で満ちている。窓から朝の光が差し込み、うっすら埃が舞っているのが見えた。夏の名残を感じる蒸し暑さの中で、扇風機の羽音がかすかに耳に入る。
クラスメイトたちが夏休み明けの出来事を報告し合ったり、新しい授業の愚痴をこぼしたりしている中、俺――
見渡す限り、ごく普通の高校生たちの日常風景だ。友人同士でふざけ合う者、スマホを覗き込んで笑う者、宿題をやり忘れて青ざめる者……。そんな中で、俺は自分がこのクラスでどんな立ち位置にいるのかを、つい考えてしまう。
成績は悪くない。運動だって体育で平均点を取れる程度にはこなせるし、ルックスだって中の上――と自分では思っている。だから、地味すぎず派手すぎず、クラスの中で程よく目立つポジションにいるはずだ。誰からも嫌われず、できれば一目置かれる存在でありたい。そんな風に自分を演じてきた。
ふと前の席を見ると、幼なじみの
ガラリと教室の扉が開き、担任が入ってくる。「はいはい、席替えするぞー」と教壇から告げられると、教室内が一瞬静まり返った。途端に「マジかよ」「このタイミングで?」とどよめきが広がる。夏休み明けのこの時期に席替えとは珍しいが、担任の思いつきなのだろうか。
黒板に貼り出された新しい座席表に目を凝らす。俺の名前は……教室の右側、窓際から二番目の列の中央あたりだ。そして隣を見ると「
藤崎栞――俺のクラスメイトで、いつも本を読んでいるあの静かな女子だ。彼女のことはもちろん知っていた。新学期早々の交通事故で長い入院生活を送り、顔に大きな傷跡が残ってしまったことで有名だったからだ。その傷痕は左頬からこめかみにかけて淡く線を引いており、一見してわかるものだった。
もともと藤崎さんは、おとなしそうな印象ながら、どこか品のある雰囲気を持っていた。ぱっちりとした瞳に長いまつげ、さらりと肩にかかる黒髪――きっと、あの傷さえなければ容姿端麗な女の子として注目を集めていたに違いない。それだけに、傷跡が目立ってしまうのが惜しいとすら感じてしまう。彼女が退院してきたとき、教室内は一時騒然となった。誰もがどう接していいかわからず、腫れ物に触るような空気だったことを覚えている。正直、俺自身も目のやり場に困ってしまい、それ以来ほとんど話したことがなかった。
けれど同時に、藤崎さんは学業成績が優秀で、物静かながら礼儀正しい子だとも知っている。いつも休み時間には文庫本を開き、熱心に読書している姿を見かけていた。知的で聡明――おそらくクラスで一番本を読んでいるんじゃないかと思えるほどに。
そんな藤崎さんが、これから俺の隣の席になるのか……。
内心、少し戸惑った。正直に言えば、彼女とどう会話すればいいかわからない。話しかけていいのか、それとも彼女の方から話してくるまで待つべきか……。だが、ここで黙って距離を置くのは、なんだか彼女を拒絶しているようで気が引けた。クラスメイトとして普通に接するべきだろう。むしろ、皆が尻込みする中、俺が気さくに接すれば「相馬は優しいやつだな」と評価が上がるかもしれない。
席替えが終わり、生徒たちが新しい席に移動し始める。俺も教科書を持って自分の新しい席へと向かった。そして、藤崎さんの隣の空いた机に教科書とノートを下ろす。
「これから隣同士だな。よろしく、藤崎さん」
意を決して声をかけてみると、藤崎さんははっと顔を上げた。読書中だったのか、本から目を離し、少し驚いたようにこちらを見る。
「あ……よろしくお願いします。相馬くん」
控えめな声だった。しかし、ちゃんと俺の名字を知っていてくれたことに少し安心する。彼女は緊張したように微笑んだ。その笑顔は、頬の傷跡のせいでどこか痛々しくもあったが、彼女自身の穏やかさがにじみ出ているようだった。
俺は内心ホッとしつつ、軽く頷き返した。
「夏休みは…どうだった?」
会話の糸口を探し、とりあえずありきたりな質問を投げかける。藤崎さんは一瞬きょとんとした表情になった。
「私は…特に何も。ほとんど本を読んで過ごしてたかな」
「そっか。本、好きなんだな」
「はい。家にいることが多かったので…つい」
彼女は申し訳なさそうに笑う。事故の後遺症もあって、派手な外出は控えていたのかもしれない。
「おすすめの本とか、ある?」と俺は興味を装って聞いてみた。正直、あまり読書家ではないが、話題を繋ぎたかった。
「そうですね…最近は外国の小説を読んでいて…」
藤崎さんが少し表情を明るくし、自分の読んでいる本について語り始める。その横顔は生き生きとしていて、さっきまでの遠慮がちな雰囲気が嘘のようだった。
――意外だな。
内心、驚いていた。藤崎さんがこんな風に楽しそうに話すなんて。声も澄んでいて聞き取りやすく、知的な雰囲気がそのまま言葉にも表れている。
周囲をそっと窺うと、いくつかの視線がこちらに注がれているのに気づいた。クラスメイトたちは、新しい席で隣同士になった俺たちの様子が気になるらしい。中にはひそひそと囁き合っている者もいる。
(……俺が藤崎さんと話しているのが、そんなに珍しいのか?)
少しだけ得意な気持ちになる自分がいた。皆が戸惑って距離を置いている子に、俺は物怖じせず普通に接している。なんだか、それが正しいことであり、誇らしいことのように思えた。
その日の放課後。
ホームルームが終わり、クラスメイトたちがぞろぞろと教室を出て行く中、俺も鞄を手に立ち上がった。隣を見ると、藤崎さんも静かに帰り支度をしている。
「藤崎さん、今日はありがとうな」
自分でも何に礼を言っているのかわからなかったが、なんとなくそう声をかけていた。藤崎さんはきょとんとしてから、ふわりと笑う。
「こちらこそ…色々お話してくれてありがとう。隣の席が相馬くんで良かった」
その言葉に、胸がじんと熱くなるのを感じた。俺は平静を装って「明日もよろしく」とだけ返す。
教室を出たあと、胸に手を当てた。彼女にかけられた言葉を何度も反芻する。
(隣の席が君で良かった、か…)
頬が自然と緩むのを感じながら、俺は校舎を後にした。
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