第2話 俺と彼女のさがしもの


​ 人形が喋りだした。その衝撃は、俺の頭の中に雷が落ちたかのようだった。だが、マリーと名乗る人形の、屈託のない笑顔を見ていると、今見ているものを信じられないながらも、どこか心が軽くなるのを感じた。

 まるで、長い間張り詰めていた何かが、ふっと緩んだような、そんな不可思議な感覚。



​「さあ、ユウマ!  じいさまの遺言を読んで! 『最初の探しもの』のヒントが書いてあるんだって」


​ そう言うとマリーは、俺の周りをぴょんぴょんと跳ね回った。その小さな体から発せられる途方もないエネルギーに、自分はただただ圧倒されている。


​「お、お前……しゃ、喋ってる……のか?」


​ やっとのことで絞り出した俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。マリーは、俺の問いかけにきょとんとした顔で首をかしげている。


​「喋ってるよ? ユウマだって喋ってるじゃない。声が震えてるけど、どうかしたのかしら?」


​ その言葉に、俺の混乱はさらに深まった。この人形は、まるで人間のように動いている。いや、人間そのものだ。意味が分からない。

 俺はゴムまりのようにぴょんぴょんと跳び跳ねるマリーを落ち着かせようと、なんとか腕に抱いた。そして壁に身体を預け、ずるずるとその場に座り込む。頭の中がぐるぐると回る。夢だ。これは疲労がピークに達した俺が見ている白昼夢に違いない。そう、自分に言い聞かせる。


 しばらくの沈黙の後、俺は意を決してマリーに問いかけた。


​「お、お前は、いったい、何なんだ?」


​「私は人形、マリーベル。マリーだよ。ね、ユウマ。じいさまのことだけど」


​ マリーはさっきまでの天真爛漫さから一転、どこか寂しげな顔で俺の顔を見上げ、語り掛けてくる。


​「ユウマが来てくれたってことはじいさまはきっと、いや、もう──亡くなってるんだよね?」


「私はこの土蔵にずーっといたから、最期ぐらいじいさまのこと、ちゃんと見送ってあげなきゃって思うんだ。ね、ユウマもそう思わない? お祈りしてあげたいな」


​ マリーの純粋な言葉に、俺はハッとした。祖父の死という現実が、ようやく頭の中に入ってきた。言い訳のために帰ってきた自分とは違い、マリーは純粋に祖父を悼もうとしている。その真っ直ぐな気持ちに触れていると、ユウマの心にようやく落ち着きが戻ってきた。


​ こいつは奇妙な奴だが──悪い奴ではない。


 直感的にそう思った俺は、マリーをじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。


​「お前のことはよくわからない。なぜ動いて、なぜ喋るのか。じいさんの手紙のこともだ。でも……その、なんだ。通夜、一緒に出るか?」


​ マリーはにっこりと微笑んだ。その表情は、まるで俺の気持ちをすべて理解しているかのようだった。


​「うん!」




​ ひとまず俺はマリーをそっと抱え、土蔵を出た。通夜の準備が進む家の中は、線香の香りが立ち込めている。客人を迎え入れている母親に


「これはばあさんが昔、とても大事にしてたらしい人形なんだ。じいさんの遺書に『通夜に並べたら、今後はユウマが大事にしてやれ』って」


と、もっともらしい嘘をつくと、母親は少し寂しそうな顔で「そうね……おばあちゃんも喜ぶかもしれないわ」と呟いた。少々ばつが悪いがこの奇妙な人形のためだ。



 住居へ戻ってからは、彼女を抱っこして担ぎ上げ、ひと気のない場所を見つけては移動した。マリーは俺ともっと話を続けたいらしいが、人目につくのを嫌がったからだ。


「あなたってぶっきらぼうなのに優しいのね。喋る人形が葬儀に出たいなんて言ったら、気味悪くて捨て置くと思うもの」


「そんなことはないだろ。じいさんと付き合いがあった人間なら葬儀に出る権利ぐらいはある」


 そんな一言に、マリーは俺の腕の中でいたずらっぽく笑う。


「あたしはなのだけど?」 


 そう言い返す彼女を見ていると調子が狂う。空き部屋でそんなことをしているうちに母親の呼ぶ声が聞こえた。そろそろ通夜を始めるらしい。


 人が集まってくるとマリーは身体の力を抜き、普通の人形のように静かにしていた。通夜が始まると、祖父の遺言ということで、他の参列者と同様に、俺の隣に座らせてもらった。小さなマリーは、まるでそこにいることが当たり前のように、手を組ませてもらい、合掌している。

 その姿を見つめながら、俺は胸の奥が締め付けられるのを感じていた。


​ なぜ、もっと早く帰ってこなかったのだろう。なぜ、もっと電話をしなかったのだろう。


 祖父は、この人形に語りかけるように、病と闘っていたのかもしれない。そして、この人形は、そんな祖父の最後の言葉を、ずっと自分に伝えたくて待っていたのかもしれない。


​(じいさん……)


 ​俺は、心の中で祖父の名前を呼んだ。隣で静かに座るマリーの小さな手が、祖父の温かい手に重なるような気がした。もう二度と会えない祖父と、不思議な縁で自分のもとに現れたマリー。その二つの存在が、自分の心を切なく揺さぶった。




 ​夜中になり、一仕事終えたあとは自室にマリーを連れていき、布団の上にそっと寝かせた。小学校低学年ほどの大きさの人形は、ずいぶんと場所を取る。俺も隣に横になり、小さな月明かりが差し込む窓をぼんやりと見つめた。


「ね、ユウマ。寝る前に何かお話して?」


 あまり楽しい話じゃないが、とマリーに伝えると、笑顔で静かに頷いていた。


​「俺、いままで都会にいたんだ」


​ 誰にも打ち明けられなかった思いを、彼女へ語った。デザインの仕事で成功を夢見ていたこと。しかし、才能の限界を感じ、いつしか絵を描くことさえできなくなったこと。故郷ここに戻ってきたのも、逃げ出すためだったと。


​ 俺の言葉を、マリーは静かに聞いていた。時折「うん」「そっか」と相槌を打つ。その声は優しく、そして温かかった。


​「私ね、ユウマが描いた絵、見てみたい」


​ 月明かりのなか、穏やかな声でマリーはそう言った。だが、俺は──


​「もう、描けないんだ」


 失敗続きの人生。今までのことを悔やんでいると身体の震えが止まらない。気が付くと俺は絵に向かうことが出来なくなっていた。


​「うん、今は描けなくてもいいのよ。でもね、いつか、描きたくなる日が来たら、私に見せてくれると嬉しいな」


​ マリーの言葉は、俺の心を締め付けるのではなく、そっと包み込んでくれた。その純粋な優しさに、思わず涙をこぼしそうになる。

 この不思議な人形との出会いは、失いかけていた自分の感情を、再び呼び覚ましてくれたのかもしれない。そんな予感が、俺の胸にじんわりと広がっていった。

 ​俺の震えが落ち着いたのを見て、今度はマリーが話し始めた。


​「私ね、ずーっとずっと、箱の中だったの。気の遠くなるぐらい。だから、寂しかったの。この気持ちをごまかすために、いつも考えてたんだ。この箱の外には、どんな世界が広がっているんだろうって」


「ある日、私を見つけてくれたばあさまが優しくなでてくれたり、じいさまが『マリー、大丈夫だよ』って声をかけてくれたりするたびに、いつか二人のこと、もっと知りたいって思ってたんだ」


​ マリーの言葉は、まるで箱の中で長い眠りについていた、彼女自身の寂しさや願いを語っているようだった。


​「でも、ばあさまが亡くなったりじいさまの病気が進んでからは、あまり構ってもらえなくなって。それである日、じいさまがしばらく会えなくなる、って言った日に教えてくれたんだ」


『マリー。君を大事にしてくれる人は、絶対に現れる。約束だ』って。あの優しい声を聞いてあたし、安心しちゃった。だからまた、おやすみ出来たんだ」


​ その言葉に、胸が締め付けられた。祖父は、自分がもう長くはないと知っていて、彼女を誰かに託そうとしていたのかもしれない。そして、それが俺だった。


​「だからね、ユウマ。あなたが来てくれて、本当に嬉しいんだ!」


​ マリーはにっこりと微笑んだあと、ゆっくりと目を閉じた。祖父が自分に残してくれたこの人形は、もしかしたら、ただの古い人形ではなく、自分の人生を再び歩み出すための、特別な「道標」なのかもしれない。そんな希望が、ユウマの心を占めていた。




​──あなたって、ぶっきらぼうなのに優しいのね。


 ​横で寝ているマリーが、葬儀のときにふと放った言葉を反芻しながら、奇妙な今日という日を振り返った


​『お前のことはよくわからない。なぜ動いて、なぜ喋るのかも。手紙のこともだ。でも……その、なんだ。通夜、一緒に出るか?』


​ あの時のマリーの表情を思い出す。喜びを隠せない話し方と満面の笑み。それなのに、その瞳はどこか寂しげだった。、今までじいさんが、本当に大切にしてくれていたことが伝わってきた。


 ふとマリーの横顔を覗くと、彼女の目元が濡れている。涙を、流していた。


​「なんだお前。泣いてるのか? 人形でも泣くんだな。何かあったか?」


 『人形でも』と、ついキツい言い方をしてしまった手前、差し伸べた指が震える。


 不可思議な人形だろうと、彼女の心はきっと人間とそう変わらない。涙を拭いながら、この手でそう感じていた。


​「だって今日、ずーっとユウマが優しくしてくれたからよ? 嬉しくて、涙が出ちゃったじゃない」


​ そう言って、マリーは身体を起こすと少し照れたように俯いた。潤んだ瞳が、その小さな手で拭われる。


「一日中、人目を忍びたいお前を担いで家中隠れ回っただけだろ」


​「⋯⋯もうっ! じいさまみたいに、乙女心には鈍感なんだから。この家の男は皆そうなのかしら」



​ マリーからの、思いがけない言葉たちに面を食らった。


​ その言葉は、まるで過去の記憶を呼び覚ます呪文のようだった。じいさんはいつも、マリーの心を理解するのが下手だったのだろう。不器用で、でも温かい愛情を注いでくれた。その愛情が、今、マリーの優しい眼差しに重なって見えた。


​ 俺は、ただ誰かに自分のことを認めて……いや、理解して欲しかっただけなのかもしれない。故郷に帰りたくなかったのは、失敗した自分を誰にも見せたくなかったから。


​ そんな俺の心の奥底を、マリーは少しだけ覗き見ていたような気がした。


​「ね、ユウマ。じいさまの件だけど、一緒に『さがしもの』しましょうよ?あたし達、きっと仲良しになれると思うの」


​ 彼女は夜空を見つめながら、俺に語りかけた。祖父が残した『さがしもの』を見つける謎解き。


​「そうだな」


 俺が小さく頷くと、マリーは涙で目を潤ませながらも、満面の笑みを浮かべていた。

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