箱庭ドールと秘密探しの地元旅行

K

第1話 土蔵の人形

 ​列車がガタンゴトン、とリズムを刻む。窓の外には、見慣れた山々の稜線が続いていた。どれだけ遠い場所へ逃げても、結局、ここに辿り着くのか。不健康に痩せた腕で、くせ毛をわしゃわしゃと掻き乱したあと、俺は大きなため息をついた。


「この景色、もう見ることはないと思ってたのに」




 スマートフォンに電話がかかってきたのは、深夜、都会の安アパートで読書をしている最中だった。ディスプレイに表示された電話番号に、俺は一瞬ためらった。もう何年もかけていない番号だった。


​「ユウマ! じいちゃんが⋯⋯!」


​ 恐る恐る出た俺の耳に、震える母親の声が飛び込んできた。祖父が、静かに息を引き取ったという。祖父との関係は特に悪くもなかった。上京する際も、


『いつでも帰ってこい』


と言ってくれた日のことを今でも覚えている。だが俺は自分から一度も、帰ることも、電話をかけることはなかった。都会で成功するまでは帰らない、いや、帰れないという意地があった。その言葉を思い出した瞬間、心は悲しみでいっぱいになった。もう、あの優しい声を聞くことはできない。 


 しかし、心には悲しみとともに、安堵が訪れていた。


 祖父は地元を飛び出した俺を心配し、たびたび電話をかけてきていた。その優しさが、何もかも上手くいかない自分には、重圧でしかなかったのだ。


 こんな風に思うなんて、最低だな。そう自罰的な感情が湧き上がってきた。しかし、これでもう心配をかけることも、言い訳をする必要もない。それに、もう『ここ』にいなくて済む。そう、都合のいい言い訳ができたからだ。


​「……始発ですぐ、帰る」


​ そう言って電話を切って、スマートフォンをテーブルに置いた。鏡に映る自分の顔をぼんやりと見つめた。故郷に帰る理由は、祖父、和藤シンヤの死。ただ、それだけ。



​ 列車はゆっくりと駅に滑り込む。ホームに降り立つと、ツンと冷たい空気が肺に入り込んだ。都会の喧騒とは違う、静かで何もかもが昔のままの空間。それが、どうしようもなく息苦しかった。


​ ​実家までの道のりを、重い足取りで歩き始める。アスファルトに影を落とす午後の光が、やけに目に眩しかった。たった数キロの道のりのはずなのに、故郷を離れた数年間が、足元に重く絡みついてくるようだ。

 一歩踏み出すごとに、都会での失敗、故郷での周辺とのぎこちない関係、そして自分を責める声が頭の中でこだまする。まるで、この場所から離れたかった自分を罰するかのように、道のりは永遠に続くように感じられた。


​ 自問自答を繰り返すうちに、祖父の家が見える丘のふもとに辿り着いた。地元では、祖父が造った風変わりな庭園から「和藤の箱庭」と揶揄されている場所だ。不自然に広い土地に、まるで世界中の景色を切り取って並べたかのような奇妙な庭園。


「相変わらずだな」


 故郷から出たかった自分にとって、この庭は祖父の、土地への執着の象徴にしか見えなかった。


 ​玄関の引き戸を開けると、母親が憔悴した顔で迎えてくれた。香典返しや挨拶回りの話を聞き流しながら、適当な空き部屋に荷物を置き、葬儀の手伝いに取りかかった。


 


──その日の午後、一段落していると、母親から「弁護士さんがいらしているわ」と声をかけてきた。休憩もそこそこに足早にリビングへ向かう。


 ​リビングには黒いスーツを着た男性が一人座っていた。テーブルの上には、真新しい封筒がポツンと置かれている。弁護士は俺の顔を見ると、深々と頭を下げた。


​「和藤ユウマ様ですね。おじいさま、和藤シンヤ様のお手紙をお預かりしております」


​ ​遺言状……? そもそも、じいさんと最後にまともに話したのはいつだったか。家を飛び出してから、ろくに顔も合わせていなかった。なぜ、そんな自分に? 不思議に思いながらも、胸の奥が温かくなるのを感じた。


​「俺に、ですか?  何か間違ってませんか?」


​ 力なくそう問い返しながら、恐る恐る封を切った。中にはたった一文だけ、祖父らしい丁寧な筆運びで書かれた手紙が入っていた。


​『ユウマへ。一人で土蔵に向かって箱を見つけて欲しい。一番奥だ。開ければ分かる』


​ 手紙は、まるで祖父がそこにいるかのように語りかけてきた。俺は困惑して弁護士に視線を向けるが、彼は、それ以上は何も語ろうとしなかった。




​ さっそく母親に断りを入れると『箱庭』の端にある土蔵に向かった。建て付けの悪い、重苦しい扉をゆっくり開けると、ヒンジが甲高い悲鳴をあげ、古ぼけた空気と埃が舞い上がる。奥へ進むと、ひんやりとした空気が肌を刺した。

 土蔵の中は、まるでおもちゃ箱だった。埃を被った骨董品、読みかけのまま積まれた本、古びた地球儀、ガタガタのブリキのおもちゃ。それらには何の統一性もなく、無秩序に並んでいる。

 俺は、少なくとも祖父のことだけは尊敬し、信頼していた。だが、まさかこんなに統一感のない趣味だとは思わなかった。安アパートでの簡素な暮らしに慣れた自分にとっては、それらがただのガラクタにしか見えなかったが。


​ 手紙に書かれた指示に従い、ガラクタの隙間を掻い潜り、土蔵の最も奥まった場所へ。そこに置かれていたのは、大きな木箱だった。蓋を開けると、ふわりと古風な香りが漂う。


​ 箱の中にあったのは、一体の美しい人形だった──。


​ アンティークな雰囲気が漂う白いドレスに、金色のロングヘアー。血色の良さそうなピンクの肌、眠るかのように閉じられた瞳。まるで本当に生きているかのように見えた。その顔立ちは整っており、美しさのなかに、どこか親しみやすい印象があった。


​ 俺は人形をそっと抱き上げてみた。大きさは小学生、それも低学年ぐらいだろうか。見かけによらず、ずっしりとした重みがある。その重みが、彼の中で祖父の存在感を改めて感じさせた。

 この人形はいったい何なんだ? 祖父はなぜ、こんな不思議なメッセージを残したんだ。人形を抱きかかえながら、祖父が自分に託したかった真意を考え始めた。


 思考をフル回転させているとその時──人形の目が突然見開かれた。


 そして、にっこりと微笑んだ。予期せぬ事態に身体がこわばり、人形を抱きかかえたまま、息をのむ。


​ 何が起きている? 頭の中で警鐘が鳴り響く。まるで夢でも見ているかのような、非現実的な感覚。

 まさか、。そんなことは、ありえない。きっと、疲れているんだ。そう自分に言い聞かせようとした。しかし、その人形は動いただけでなく、言葉を発した。


​「はじめまして、瞳がキレイなお兄さん!」


​ 人形が口を開いた。思わず人形を落としそうになったが、慌てて抱き直す。頭の中で何かが弾け飛んだような衝撃に、言葉が出ない。


​「私は人形、マリーベル! マリーって呼んで。あなたのお名前は?」


​ 人形は、屈託のない笑顔で何事もなかったかのように自己紹介をした。呆然としながらも、俺は、反射的に口を開いた。


​「……わ、和藤、ユウマだ」


​「ユウマ!  覚えたよ。素敵な名前なのね。和藤ということは、じいさまの親族の方かしら?」


​ マリーと名乗る人形はそう言って、俺の腕の中から、小さな体全体を使ってぴょんぴょんと飛び跳ねた。まるでゴムまりのように、その身軽さでユウマの周りをぐるぐると周り、顔を覗き込んでくる。その動き一つ一つに、途方もないエネルギーが溢れているように感じられた。


​「ね、ユウマ。これ、じいさまからの『遺言』なんだって。渡してやれって」


​ 彼女は、ドレスのポケットから小さな封筒を取り出し、手渡してきた。それは間違いなく、祖父の達筆な文字で書かれた手紙だった。


​『ユウマへ。この手紙を読んでいるということは、お前に人形を見つけてもらえたということだな。驚いただろう。その子はマリーベル、活発で元気な優しい子だ。私には、やり残したことがある。二人で私が大切にしていたを見つけてきてほしい』


『追伸:マリーの寝相は凄いぞ』


 

 動く人形に、祖父が残した。あまりに多くの情報が、一気に俺の頭の中に流れ込んできた。頭の中を駆け巡る情報の洪水に、俺の思考は追いつかない。


​「もう、じいさまったら余計なことまで書いてるわ。淑女に失礼ね!」


​ そう叫ぶと彼女は弾むような声で続けた。


​「じいさまはとびっきりの『さがしもの』を隠してくれたんだって! ね、一緒に探しに行こうよ!」


​ 人形の声は、どこまでも明るく、澄んでいた。土蔵に差し込む一筋の光が、埃の舞う空間を照らし、俺とマリー、二つの影を地面に描いた。それはまるで、これから始まる新たな関係を祝福しているようだった。

 

​ 自分の中で、諦めと敗北感で澱んでいた何かが、マリーの弾けるような声と光の筋によって、少しずつ溶けていくような感覚がした。


 この不思議な人形となら、鬱屈とした故郷での時間も、もしかしたら変わるのかもしれない。これまでずっと避けてきた「外の世界」への扉が、今、目の前でゆっくりと開いていく奇妙な高揚感。

 俺は、目の前に広がる現実を全く理解できないまま、それでもほんの少しだけ、未知なる体験への希望を感じ始めていた。

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