第3話 娘だった女

 欹愛と妻に怒鳴り散らした日以来、我が家の空気は最悪だったと思う。妻は無駄に俺に気を使う。欹愛は俺の姿を見るとすぐに自分の部屋へと逃げてしまう。息子の礼親は相変わらずクールではあったが、妻と姉にひどく気をつかっているようだった。つまり我が家において異物とはこの俺のことである。なにせ俺さえいなければ三人は平和に過ごせるのだから。だから俺はいままでは控えていた残業の類を積極的に引き受けていったし、任務で遠出するような仕事も率先して引き受けた。家に帰りたくない中年男ほどみじめなものはきっといないだろう。だけど家庭がある以上避けられないイベントは絶対に来る。欹愛の学校の保護者面談の日がやってきてしまった。両親揃っての参加がほぼ義務なので、断ることはできなかった。なによりも久しぶりに妻が泣きそうな顔で俺に頼んできたのだ。裏切っていたくせに、俺は彼女の願いを断れない。それが酷くみじめだ。


「欹愛さんはクラスでも周りからの信頼が厚く、学級委員としてクラスをまとめています。部活のテニスでも全国区の活躍をしましたし、それに学校全体でも人気者でして、周りに人の波が途絶えることがありません。わが校の誇りですよ」


 担任の先生は欹愛のことをとてもよく褒めていた。妻は嬉しそうに頷いていたし欹愛は誇らしげにしている。だがそれを聞くたびに俺の心はどこか荒れていくのを感じる。


「成績もとてもよく、模試でも全国ランキングの常連になりました。医学部や東大なんかも欹愛さんなら余裕で入れるでしょう。こんな素晴らしい娘さんを持ててお父様も幸せですね」


 俺がたぶん関心がなさげに見えたのだろう。だから担任の先生は俺に話を振ってきたんだと思う。だけど俺はもう幸せじゃないのだ。


「そうですか医学部ねぇ。金がかかるな」


 進学先のことを言われても、俺に関係があると言えるのだろうか?むしろ血も繋がらないのに、金を出さなきゃいけない義理はあるのだろうか?


「医学部は奨学金の類が充実していますから、別に心配なさることはありませんよ。医師免許を取った後ならば、きちんと無理なく返済できますし…」


 欹愛と俺との血がつながらないと知ってしばらくして思ったことがある。養ってきた時と時間が惜しいと思ってしまったことだ。過去は変えられない。だから時間も金も取り返せない。だけど未来は別だ。


「だいたいこの学校の学費だって高すぎるのに?まだ俺に金を払えと?」


 それを聞いた先生の顔色が凍っているように見えた。たぶんやばい親だと思われたんだろう。欹愛も進学の金について俺が難色を示したのを見て、どこか戦々恐々しているように見えた。


「ちょっとあなた?!お金のことは別に問題ないじゃない!欹愛が望んだ進路につけるように準備してきたでしょ!なんでそんなこと言うの!」


 妻は俺を詰ってきた。確かに貯金はある。欹愛を大学に送ることは別に問題ないのだ。


「私たちの大切な娘でしょう…どうしてそんな冷たいこと言うの?」


 嘘つきめが何かを言っている。確かに大切な娘だった。だけどもう娘じゃないんだ。この子は娘じゃない。欹愛と俺は赤の他人なのだ。


「ママ!もういいからやめて!…パパ。私はお金のかからない国立の大学に行くから安心して。わたしはパパに迷惑をかけないからね」


 生活費だってかかるんだけどな。さすがにそこまでここでいうのは憚れた。面談は結局有意義な成果を結ばずに終わった。





 面談がおわってすぐに妻は俺に対してグチグチと文句を言ってきた。だけど何を言っていたのかは覚えていない。俺は右から左に聞き流してすぐに妻を振り払って職場に逃げたから。だけど仕事に逃げ続けることも決してできない。昨今は労働基準にどこも煩くなった。俺は定時で庁舎から放り出された。桜田門をとぼとぼと歩いて仕方なく俺は駅に向かう。


「パパ!」


 背後から声をかけられたと思ったら、欹愛が俺の腕に掴まっていた。


「お前何でここに?」


「迎えに来たの。だって最近ずっと家に帰ってくるのが遅かったから。…一緒に帰ろう?ね?」


 俺は腕に抱き着く欹愛の柔らかな感触に気持ちよさを覚えて、同時に恥じた。だからすぐに欹愛を振りほどいた。欹愛は悲しそうな顔をしていた。俺は何も言わずに歩いていく。だけどすぐ後ろに気配を感じた。


「待って!待ってよ!わたしのせいなんでしょ!パパ!待ってよ!」


 健気な子だと思う。きっと自分のせいで俺の機嫌を損ねたから帰ってこなくなったと自分を責めてるのだろう。だけどそれは欹愛のせいじゃない。俺のせいだし、俺と血がつながってないのに欹愛を産んだ妻のせいである。


「パパ!わかった!わかったから!帰ってこなくてもいいよ!でもお願い!今日は、今日だけは一緒にいてよぅ!」


 欹愛は俺の背中に抱き着いてきた。周りの目が俺を怪訝そうに見ている。いたたまれない。俺はため息をついて。


「わかった。飯くらいなら連れていく。だから離れろ」


「本当?本当に本当?逃げないよね?」


「本当だよ。だから言うことを聞いてくれ」


「うん。わかったよ」

 

 欹愛は笑顔を浮かべて、ぱっと俺から離れた。そんなに俺とご飯を食べられるのが嬉しいのか?なら俺は偽物であってもいい父親をやれていたらしい。それがやっぱり俺をいっそうみじめにさせてしまうのだ。







 年頃の娘がどんなところで飯を食べたがるか俺にはわからない。だけど欹愛相手に俺はなぜか見栄を張りたくなってしまった。だからそこそこのお値段のするわりと高級なレストランに俺たちは入ってしまった。


「お客様は二名様ですね?どうぞこちらへ」


 俺たちが案内されたのは個室で、しかも横並びのカップルシートだった。


「あはは…もしかして親子に見えなかったのかな?」


 欹愛がカップルシートを見て、もじもじと頬を染めていた。可愛らしいと思う。だけどその顔は父親が見る娘の顔なのだろうか?なにか違和感を覚えた。


「もしかして恋人同士に見えちゃったとか?ママに悪いね」


「どっちかといえばパパ活だろうな。まあどうでもいいが」


 わざわざ別の部屋に変えさせるのもめんどくさい。それに別の席で向かい合って座って欹愛の顔を見なきゃいけないのは苦痛だと思った。だからこれでちょうどいいのかもしれない。選ぶのがめんどくさいから適当にコースを頼んだ。


「こんなところ来るの初めて…美味しいのかな?」


「さあな」


 ディナーが出された。俺が手をつけようとしたら、欹愛が止めてきた。


「ねぇまずは乾杯しようよ。こういうところに来たらするものじゃないかな?」


 欹愛がジュースの入ったグラスを掲げている。まるで悪戯っ子のような笑みが可愛らしくて、だから憎い。俺は言われるままにワインの入ったグラスを掲げて二人で乾杯した。飯は美味かった。だけど会話はまったく弾まなかった。いつもはよく話していたのに、娘じゃないと知ってからはどう話していいかわからなくなった。


「この間お友達がね…」「最近はこれが流行ってるの…」「このデザートすごく映えるね!」


 俺は頷いたりするだけだったが、欹愛はずっと喋っていた。だけどデザートを食べ終わって、欹愛は悲しそうな顔で俯いて。


「私と一緒にいてもやっぱり楽しくない?」


「楽しいとかそういうのじゃないだろう。俺たちは」


 俺たちはなんだ?親子だから?もう親子じゃないって知ってるくせに?


「やっぱりママと一緒の方が楽しい?」


「お前が何を言いたいのかわからない」


「やっぱりママの方がいいんだ。そっか…」


 欹愛からゾッとするほど冷たい声が漏れた。上げた顔にはうっすらと怒りの表情が見えた。だけどひどく美しい。欹愛は妻によく似てる。だけど今日初めて妻に似ていない部分をその顔に見つけてしまった気がした。そして欹愛は冷たい目のまま唇を歪めて笑みを浮かべた。綺麗なのに、若い女が出来ちゃいけないような淫靡な笑みだった。男を挑発するような艶めかしい仕草そのもの。そして欹愛は俺の手に彼女の手を重ねて口を開いた。


「あんな裏切り女なんかもう見ないでよ」


 その言葉に俺は驚きを隠せなかった。


「パパ。ねぇパパ。なんでまだあんな裏切り者に気をつかってるの?ほら目の前にパパを裏切った証があるよ。ねぇほら」


 欹愛は俺の手を自分の胸の方に運んだ。俺の掌に彼女の乳房が触れている。同時に彼女の高鳴る心臓の鼓動も手に感じた。


「パパ。ねぇわかるよね。パパに触れられてわたしこんなにドキドキしているよ。だってわたしは裏切りの証だもん。だからパパにドキドキできるの。だってわたしたちは」


「やめろ。それ以上は言うな」


「パパ。もう止まらないよ。わたし寂しかった。パパから避けられるようになって寂しかった。でもね。パパがわたしの体にいつもと違う目を向けてるの気づいてたよ。気づいちゃった。いけないことなのに、すごくすごく嬉しかった。だってだってそれってそれってさ!」


「やめろ!もう黙れ!」


「だってわたしはパパの娘じゃないんだから!!だからね!こんなことしても許されるの!!」


 そう言って欹愛は首に抱き着いてきて俺の唇にキスをした。柔らかくて気持ちがよくて背筋が震える。これはいけないことだ。いけないことだって分かってる。分かってる?でもこの子は俺の娘じゃない。赤の他人の…女じゃないか。そして唇が離れる。潤んだ欹愛の目が爛々と輝いて見えた。欹愛は唇を舌で舐めている。それが酷く俺の心と体を高ぶらせる。


「パパ。わたしとママ。どっちが気持ちいい?」


 その問いに俺は答えられない。答えてしまったらすべてが終わる。そんな予感だけがあったんだ。


どっちが気持ちいい?

 娘だった女にキスされた。それが俺をひどく混乱させている。こんなときどうすればいいのか全く見当もつかなかった。


「おかえりなさいパパ」


「ああ、うん。ただいま」


 娘だったはずの女が玄関まで俺を迎えに来てくれた。にっこりとした笑顔で俺の通勤カバンを預かってくれた。まるで世間が想像する新妻みたいだ。最近の欹愛はずっとご機嫌が続いていた。だけどそれは必ずしも家庭の平穏には繋がらないものであった。


「それでね。お隣さんのわんちゃんがお手の代わりにお辞儀をしちゃってね。変でしょ。うふふ」


 夕飯中のことだった。妻が他愛もない世間話をしている時、俺はふくらはぎに妙な柔らかさを感じた。そしてその柔らかな感触はつーっとふくらはぎから太ももにを撫でるように這っていった。目の前に座っている欹愛のつま先の感触だとすぐにわかった。そしてその行く先は見当がつく。流石にまずいと思って、俺はテーブルの下に手を入れて欹愛の足を払った。欹愛を見ると一瞬だけ舌をペロッと出して笑った。ひどく扇情的に見える。そして彼女は微かに唇を動かす。


『きもちいい?』


 そういう風に言っているのが読み取れた。俺は目を反らす。だってその感触は確かに気持ちのいいものだったから。




 家庭の平穏はまだ帰らない。俺と妻は一緒のベットで寝ている。欹愛の秘密を知ってもまだ、俺は同じベットで寝ている。


「ねぇ…今日…いい?」


 隣にいる妻がそう言いながらパジャマを脱ぐ。ベットライトの明かりだけだが、下着姿の妻が見えた。妻はまだまだ若い。張りのある肌に豊満な肉体で華奢な体。この美しい妻はまだまだ世間じゃきっとモテるだろう。その体をいつでも好きにできる自分は幸せ者だ。そうだったはずだ。だけど欹愛のことがあってからは俺は妻を抱くことがなくなった。


「疲れてるから」


 月並みの断りを入れる。妻は一瞬だけムッとした顔を見せたがすぐに笑みを浮かべて俺の腰の上にまたがった。


「こんなに大きくなってるのに?」


 妻は妖艶で挑発的な笑みを浮かべている。俺のアレは十分硬くなっていた。ネットで妻に浮気された後勃なくなったみたいな話を見た。それで妻が泣いてざまぁらしい。だけど残念ながら俺の体は妻の魅力に反応している。何も言わない俺の反応を同意と取ったのか、妻は俺にまたがったままキスをしてきた。久しぶりに触れ合う柔らかい唇の感触、そして絡み合う舌。とても気持ちがいい。だけど欹愛の言葉が俺の脳裏をよぎった。


『どっちがきもちいい?』


 俺は欹愛とのキスを思い出す。どっちが気持ちいいだろうか?触れる唇の柔らかさはどちらも変わらないと思う。じゃあそれ以外は?愛があるからキスをする。ならばどっちの愛が気持ちいいのかって話になる。そう考えると途端に今妻としているキスがなにか鈍いものに感じられてくる。だって妻の愛は俺以外の誰かに向けられたことがあったのだ。それは過去の話なのに、その証は欹愛という形でくっきりと世界に残っている。じゃあ紛い物かと言われれば違うだろうけど、きっと妻が俺に向ける愛は純粋なものじゃない。そう思った瞬間。


「きもちわるい」


「…ぇ…あなた…?いまなんて?」


 ふっと漏れてしまった言葉はもう取り消せない。だけど偽らざる本心だった。俺は妻を押しのけて、ベットから降りる。


「ねぇ…その…ごめんなさい…疲れてたのよね?無理させちゃったのよね。ごめんなさい。本当にごめんね…」


 妻はおろおろと不安げで怯え気味に俺に謝罪を繰り返していた。だけど俺はそれに返事をすることなく部屋を出た。ドアを閉じると中から妻のすすり泣く声が聞こえてきた。なんで泣いている?俺の方がずっと被害者なのに?


「鬱陶しい…」


 俺はリビングに降りて、ソファで横になる。酒を飲みながら、テレビを流し見していた。


「パパ。眠れないの?」


 いつの間にか欹愛がソファの傍に立って俺の顔を覗き込んでいた。


「ああ、お前のせいで眠れない」


 そう言うと欹愛は嬉しそうな笑みを浮かべた。そして俺の上に覆いかぶさって来て抱き着いてくる。


「わたし、あの女の泣き声で起きちゃったの。煩いよね。普段は大人ぶってるくせにぴーぴー女の子みたいに泣いてちゃってみっともない」


「母親の悪口はいうもんじゃない」


「ふふふ。そうだね。でもそんなことお父さんでもない人に言われたくないかな?」


 俺はその一言でかっとなったと思う。すぐに欹愛の上になりその体を上からソファに押し付ける。血の繋がらない男に押し倒されているのに欹愛は怯えることもなく、妖艶に笑っている。


「ねぇ。パパ。どっちがきもちよかった?」


「うるさい」


「ねぇ。わたしとママはどっちがきもちいい?」


「お前さえいなければ…!」


「ねぇパパ。わたしに娘のままでいてほしい?それとも…」


「もう黙ってろ」


 俺はペラペラしゃべる欹愛の唇をキスして塞いだ。俺は何の答えも出せない情けない男だ。だけど今はっきりとわかったことが一つだけある。目の前の女の方が妻よりもずっとずっと気持ちいいってこと。それが一番悔しかった。





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