毒の効能
紙飛行機
毒の効能
「あんた、酒ばっかり飲んでいると体に毒よ」
電話越しにそう言ったのは、僕の母親だ。どんな歳になっても自分の子供は心配になる。そういう気持ちはなんとなくではあるが、僕だってわかる。だが、度を過ぎれば美談にすらならないこともある。
大学を卒業し、就職して一人暮らしを始めて三年が経つ。学生時代はサークルの飲み会によく行っていたこともあり、酒は好きだ。むしろ、学生時代の騒ぐため酩酊を楽しむための酒より、今仕事をし、自分の楽しみのためにささやかながらもお金が使えるようになったところから、いろんな酒を楽しむようになった。ビールなら様々な種類のクラフトビールの飲み比べ、ワインなら産地によってどう味が違うのかを試したりもした。職場の先輩にオーセンティックなバーに連れて行ってもらい、いい水とウイスキーを使ったハイボールを飲み、大衆酒場で普段飲むハイボールとの違いに驚いた記憶もある。
平日は職場や友人との飲み会の予定が入らない限りは飲まない。そんな義務感は無かった。僕にとっては酒を楽しむことは非日常の行為だった。質素なおつまみに、そう高くも安くも無い缶ビール。ツマミのささやかな塩気と、そこにふわり酩酊が包み込む。それだけで幸せな気分になれた。給料日後の週末なら一人飲みに繰り出す。友人や店の常連さんとたわいのない会話を楽しむ。これは家で飲む時とは違う楽しみだ。
その年の年末、実家に帰った。年末年始は他の時期よりも酒の席が多い時期だ。忘年会、新年の挨拶、新年会。昼から飲んでいてもあまり咎められない唯一の時期だと言ってもいい。学生時代の友人達との忘年会。元旦、親戚の家まで行って新年の挨拶、学生時代までお年玉袋を持ってきてくれた叔父さんは、僕が働き出してからは日本酒の一升瓶を担いでやってきた。
「あけましておめでとう!早速だけど、やるだろう?」
叔父さんは既に顔を真っ赤にしながら僕を酒の席に誘う。もちろん、僕もそれには悪い気はしない。正月のこういった雰囲気はとても好きだった。僕と叔父さんはガラスコップに並々と注がれた日本酒で乾杯をし、僕は少しだけ残っていた大皿のおせち料理をつまみに飲んでいた。
「もう、仕事には慣れたか?都会には慣れたか?恋人はできたか?」
叔父さんは二杯目の酒をコップに注ぎながら矢継ぎ早に質問をぶつけてくる。僕はその圧に押されながら、「まぁなんとか…」と言うことしかできない。
「もう。うちの子が困っているじゃない」
母が助け舟を出したが、叔父さんは全く構わないといった感じだ。
「あんたも、お酒は程々にね」
僕にまで釘を刺し、母は台所へ消えていった。
お正月ムードというのは恐ろしいもので僕は結局、叔父から注がれる酒を全て飲み、そこに大瓶ビールを六本も飲んで周りも戸惑うくらいに泥酔してしまった。もっとも、酒好きの叔父はそれ以上に泥酔していたのだが。新年会は盛り上がり、僕らの家族も帰宅は午後十時半を過ぎた頃だった。次の朝、二日酔いの頭痛で頭を抑えながら台所で水を飲む僕を見つけた途端、母はこんこんと僕を叱りつけた。母は酒を飲まない。だから余計に泥酔する姿が醜態に見えるらしい。父は母を宥めたが、母の怒りは収まらなかった。
「今日はお酒飲ませないからね」
そう言って、洗い終えた洗濯物を取りに行った。僕もこんな状態で向かい酒をするのは本望ではない。酒は楽しむためにあるものだ。
帰省から帰った後、母からの連絡に酒の話題が多くなった。とはいっても酒を控えろという言葉だ。お酒は体に良くない。百薬の長と言うが、あんたの飲み方はそうじゃない。控えるべきだ。という言葉が毎回続いた。僕自身、基本的には平日は飲まない。ただ、週末に飲む時は多少多くなることはある。それは自覚していた。しかしだ。子供の頃、当の本人はそろそろ宿題を片付けよう。そう思って立ち上がるタイミングで母親に「早く宿題をしなさい!」と言われた時、我々はどんな心境になるか。僕などはその時点で自分の隠れた意思がことごとく否定された気分になる。どうしても「あんたはどうせやる気などないだろう」という前提で宿題をしろと言われた気分になるのだ。その結果、やる気などは粉々に砕かれる。そして、立ち上がって机に向かうのを止め、ゲームに手を出してしまう。親というのは時として、子供の意思というのを見失いがちになるものだ。
三月に差し掛かった頃、決済月というのもあって仕事も忙しくなってきた。職場はピリピリと張り詰めた空気が支配し、否が応でもストレスが溜まる。ちょうど三月の最初の週末は一週間が解放された気分になり、つい深酒をしてしまった。ふと、そんな時に母親の「酒を控えるべきだ」という言葉を思い出した。騒がしい居酒屋の中で一人グラスを傾けている時に。その時はまだ、その言葉は呪縛とは考えていなかった。ちょっとした年始の嗜めを思い出したに過ぎないと思っていた。
次の週、いよいよ本格的に忙しくなった。その週の土曜日は休日出勤でかつ、日付が変わった頃に自宅に帰ることとなった。普段なら一息つくために酒を買って帰り、家で晩酌をするのだが、疲労感からもう晩酌をする気力もない。とっととシャワーを浴びて寝ようと考えていた。すると母から珍しくメッセージが来た。この時期、忙しくなることは母には伝えていたので心配してメッセージを送ってきたのだろう。「明日は休みであればゆっくり休んでください。そして酒は程々に」と着た。それを見た時、僕は心のどこかでカチンときたのだろう。我ながらどこか大人気ないと考えながらも冷蔵庫にあるストックのビールへ手を伸ばした。
口に入った時の苦味、炭酸の泡が口の中を刺激する。喉の奥を通る時の爽快感。仕事に疲れた体に沁みる。テレビのCMやドラマで仕事の後にビールを一杯やるシーンを子供の頃から何度も見た。お酒を飲まなかった子供の頃は、美味しそうに飲む様に羨望の念と、間違えて父が飲むビールを飲んでしまい苦い思いをした時のことを思いだしながら、あんな苦いものが美味しいのかと疑問の念も抱いた。だが、今となってはその頃のシーンと被せる必要すらない程、自分にはビールが性に合っていると言い切れる。僕はそのまま勢いに乗って、缶詰のツマミと五百ミリリットルのビール缶数本を求めて近くのコンビニへ向かった。今日はいつもより高いビールを買ってみよう。そう思ってプラスチックのかごに普段は買わない一本三百五十円の五百ミリリットルビールを四本入れた。その後夜中まで夢見心地だった僕は正午前までぐっすり寝られた。
それからの僕は次の日が仕事の日でも酒を飲んだ。その方がよく眠れるように感じたからだ。仕事の帰り道にスーパーで缶ビールを二本、乾き物のつまみを買って帰るのが日課になった。母親からはたまに仕事のことやお酒のことをメッセージで聞かれることはあったが大抵は無視をした。自分ももう大人だ。自分で責任をとるし、自分で判断する。今までも母親からのメッセージについては幾度となくストレスを感じていた。
三年後、僕は健康診断であらゆる数値が基準を大きく上回るとして検査入院をした。そのことを知らせたら母親は毎日のように電話がかかってくる。医者からはもちろん酒を止められた。毎日がストレスである。仕事のストレスよりも重くのしかかってくるこのストレスはいったいどちらの「毒」が原因なのだろう。
そんなことを考えながら、僕は一週間ぶりの缶ビールの封を開けた。
毒の効能 紙飛行機 @kami_hikoki
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