第16話

 こっちの天気は曇りで、気温も比較的低く過ごしやすい。


 今向かっている先に意味はなく、けれど明確にある場所に僕らは赴いていた。


 そこは目的地というにはあまりにも中途半端な、左右を川と横長に連なるマンションに挟まれた一本の道。


「君、ここら辺のこと詳しいの? 地図見てないし、なんか足取りに迷いがないね」


「高校の初めまではこの近くに住んでたから」


 小学校に中学校、短い期間だけど高校も徒歩で通える学校に行っていた僕からすると、この道は通学路。学生という身分からして馴染みのある、懐かしい場所だった。


 やっぱりと納得する彼女は、何が嬉しいのか小さく笑う。


 落ち着ける場所に行きたいと、そう考えて真っ先に思いついたのがこの場所だった。というよりかは、この場所以外になかったのだと思う。家に帰るわけにもいかず、都会を離れて見知らぬ何処かへ向かうのも、返って不安を高めることになる。


 この場所で心配に思うこともあったけど、結局は全て杞憂に終わってくれた。


「少しゆっくりするのもいいかなって。最近は遊び回ってばかりだったし、君も疲れが取れ切ってなさそうだったから。少しは休憩も必要だよ」


「そうだねー。あ、川の方降りてもいい?」


「構わないけど、あまり綺麗じゃないから入らないでね。あと濡れられたら面倒」


「りょーかい。先行ってるね!」


 ぴょんぴょんと兎宛ら階段を降りていく彼女の後を追う。

 しかしまあ、なんというか


 もし、自分に姉がいたらこういう感じなのだろうかと、不意に思った。


 一人っ子の僕の本音を言うと、姉が、頼れる存在が欲しかったのだ。自分がこんな性格だから、頼れて、先を行って導いてくれる、けれど頼るばかりでは嫌だから、どこか抜けていて、僕からも世話を焼くことができるようなそんな姉が欲しかったのだ。


 その理想像を、僕は彼女と重ねてしまっていた。


 だからもし、僕らの関係が違ったらなんて、烏滸がましくも考えてしまう。


 そこまで考えておきながら、もしなんて有り得ないと、今更出てきた現実主義の自分にもまた、少し笑えてしまった。


 階段を降りて姿の見当たらない彼女を探すと、バシャバシャと音が聞こえた。


 何となく想像していたから驚きはしない。そして案の定、川辺に放置された靴と、服の裾を摘んで足を川に入れている彼女を見つけた。


「ようやく来た。冷たくて気持ちいいよー」


「さっき入らないでって言ったばかりなのに」


 リュックを彼女の靴の傍に置いて、手招きしてくるのに釣られて歩み寄る。


 意外にも最近は整備されてきているらしく、ゴミもなく、生える草も手入れが行き届いていて、数年前に住んでいた時より格段と綺麗になっていた。


 君もどう? と誘われたけど遠慮して、近くのベンチに腰掛ける。


 しばらく感慨深く周囲を見渡したり、思い出に耽ったりした後、決意を決めるよう息を吐いた。ひゅると音を立てて吸い込んだ酸素を数秒止め、口を開く。


「ちょっといい」


「ん、どうした?」


 彼女の浮かべる無垢な笑みに、一瞬言葉が詰まる。

 聞かなくてはいけないことだと、胸の痛みを堪えて続けた。


「もし明日で終わろうっていったら、君はどう思う?」


 この期に及んで、僕は表現を曖昧にしてしまった。受け入れてくれるのか、そうでないのか、その二択を迫るつもりだったのに、彼女の意思を求めてしまった。


「終わるって、何を?」


「この旅行。一週間って行ってたけど、それを、明日で……」


 うまく言い表せず消え入るようにして途絶えたそれに、彼女はポカンと口を開けていた。

 それからふっと頰を緩ませて、裸足のまま僕の隣に座る。


「それは、私を悲しませたくないから?」


 まるで僕の内心を呼んだかのような一言に、虚を衝かれる。


「……そう、だね。この先何があるか分からない。警察に追われるかもしれない。ニュースで君のことを知っている人がいたら、通報されるかもしれない。最悪、君が捕まるかもしれない。そんな風になるのは、君が苦しむのは嫌なんだ」


 投げやりに全てを吐き出すと、そっかと優しい声音で彼女が呟いた。

 うん、うんと何度も頷いて、そっかとまた独り言ちては、空を見上げる。


「この旅行、なんか意味あったのかな?」


 なぜそんなことを言ったのだろうか。

 何か意図があるのではないかと裏にある真意を探ろうとするけど、相変わらずの笑みのせいで奥が見えなかった。だからせめて、深く踏み込まない言葉を選んで答えた。


「あのままだと君は苦しんだままだった。そんな終わり方にならないためにも、こうやって楽しんでるんじゃないのかな?」


「そうなんだけどさ。そうじゃないんだよ」


 求めていた答えとは違かったのか、悩む仕草を取って言葉を探す彼女。


「私の人生に、意味はあったのかなぁ……って」


 本当に、彼女が今、何を考えているのかは分からなかった。


 だからきっと、彼女の言葉を肯定してあげるのが正しい選択なのだろうと思う。


 けど、分からないくせに肯定するのは、どこか無責任な気がした。


 だから結局、思ったことを口にするしかなかった。


「ないよ、人生に意味なんて。君だけじゃない、僕も同じ。こんな苦しむだけの世界でなんて、生きる価値は一つもない」


「……なにか、あったの?」


 心配そうにそう言ってくる彼女に僕は首を振ろうとして、止めた。


「何もない人なんてこの世界には一人としていないよ。生きてるからには苦しまなきゃいけない。きっと僕らは、周りより多く苦しんでるだけで」


 僕は僕の人生が人より苦しみの多いものだと思っている。大して長い人生を送ってないし、ロクに周囲の人間に目を向けてこなかったくせにそんなことを語った自分が、少し烏滸がましく思えてしまった。


 いっそ小馬鹿にして笑ってくれれば楽なものを、けれど彼女はそういう時に限っていつも真面目になってしまう。


 だから話が中途半端になってしまって、仕方なく内心の吐露を続けた。


「僕は人生に意味はないって思ってる。僕や君だけの一個人じゃなくて、誰だってね」


 虚無主義というやつだ。

 人間の存在する意義や目的といったものに、本質的な価値はないという哲学的な考え。

 人は生きる中で様々な事柄を成す。確かにそれらは思い出や過去として空白だった記憶に色を塗り、人生を彩っていくだろう。


 けど、それは死と同時に全ては自身の中から消え去る。

 成した本人である自分が覚えていないならば、そもそも無駄なのではないか、と。


 あの時、彼女が語った人生観に賛同できなかったのはこのせいだ。


「今こうやって生きてる時点で何言ってるんだって話だけどね。思うだけ思ってるだけで、結局そういうのは無理なんだよ。お腹が空けば食べるし、眠かったら寝る。暇だったら遊びたいって思う。だから最後に全て無駄になるとしても、今必要なんだよ」


 だったら今の話なんだったんだろ、なんて誤魔化しながら僕は苦笑した。


 彼女は、難しそうな顔で腕を組んでいた。


 多分、僕だって他人から同じようなことを言われたら理解しきれる自信はない。


 無駄なことなのに意味はあって、意味はあるけど結局無駄になるものだなんて。


 そんな思想と現実の間で生まれる矛盾は、僕自身だって納得できていないのだから。


「私はね、天国はあると思ってるの」


「というと?」


「死んだら身体は無くなっちゃうけど、記憶は残って持っていける。だから無駄にはならないと思う!」


 そのほうがなんかお得じゃない? と彼女は言った。


 そうかもしれないけど、だからって携帯のプランみたいに簡単に切り替えられるものではない。

 天国に行ったところで、その記憶を覚えていたとして、誰に話すわけでもないのだから。


「僕が言いたかったのは、つまり、好きに生きていいんじゃないかってことだよ。このまま終わるのも、旅行を続けるのも。どうせなくなるなら自由に生きればいい」


 意味がなくて、それでも生きる中で選択を迫られるというならば。

 せめて自分が望んだ方を、苦しまない方を選んで欲しいと。


 結局僕が言いたかったのは、最後のそれだけだった。


「少し考える時間くれない? そう簡単に決めていいことじゃないと思うし、あまり時間はかけないから」


 いつになく真面目に言ってくる彼女に頷いて首肯すると、再び川に入っていく。


 さっきまでは手前で水遊びをしていた彼女だが、奥の方にどんどんと進んで行っているのを眺めていて、幼い頃にこの川で遊んでいた時のことを思い出した。


 幼馴染の彼に連れられ、ちょうど今彼女のいる場所に入っていって……


「あ、そこらへんだけ急に深くなってるから気をつけ——」


「ひゃあっ!」


 注意するよう言い掛けた直後、それが必然だというかのように彼女の身体が沈んだ。

 足を取られてバランスを崩し、大業に水飛沫を上げては、一瞬で川に飲み込まれる。


 それと同時に、否応無く僕は走り出していた。一瞬溺れるのではないかとヒヤッとしたけど、幸いにも浅瀬に戻れた彼女を急いで引き上げる。こんな時でも呑気に危うさを語ってくる彼女に安堵しつつも、透けて見えそうな下着から思わず目を逸らした。


 川辺で彼女の服を乾かしながらゆったりしていたら、乾く頃には夕方を迎えた。

 未だまやかしの中にいることに、今の僕は気付かずにいた。



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君は僕と旅する。僕は君を死なせる。 れんたろう @Mofuri_K

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