41.エピローグ





「はい、お疲れ」


 聞きなれた、落ち着きのある声。

 図書室の記憶。並んで勉強をしていた。淀みなく動くペンの小気味よい動きと、飾り気のないきれいな爪。俺のミスを指摘する小さな声が耳に心地よかったことを覚えている。遠い記憶が、懐かしくてたまらない。


「真壁?」


 暑くも寒くもない、現実感に乏しい感覚ですぐに夢だと気付いた。

 現実の底に開いた闇。冥府を下った先にある死。その彼方にある夢。

 ここは『門』を抜けた先、世界を隔てる『壁』だ。

 夢の境界。現実とゲームを隔てる、世界の狭間。

 いつか見た透き通るような羽衣が揺れて、後悔の形をした少女が淡く微笑む。

 少しだけ寂しそうだと感じるのは、俺の願望のせいかもしれない。

 もう、そんな資格はないはずなのに。


「頑張ったね。これで無事、世界は救われました。ぱちぱち。女神的な存在としてお礼を言っておくね。ありがと、流山くん」


 何もない空間に、俺たちは二人きりで向かい合っている。

 ここに嘘はない。ただありのまま、今の気持ちを伝えるしかなかった。

 それがどれだけひどい事だとわかっていても。


「真壁。俺は」


「ま、これからはレナすけと仲良くね。たくさんいちゃいちゃしなよ」


 真壁綾は俺なんかを必要とするほど弱くない。

 強くて、理性的で、賢明で、優しくて、俺に寄り添ってくれた人だ。

 けど、だからって傷つかないわけじゃない。

 そのことを、俺は誰よりもよくわかっているはずなのに。


「謝っても仕方ないけど、本当にごめん。自分でも不誠実だと思う。どんな風に罵倒されても仕方ない。何をしても償いには足りないけど、それでも自然消滅みたいになるよりはきっぱり言うべきだよな。真壁、俺と別れ」


「何が不誠実なの? あたしたち、別に別れてないでしょ。普通に待つけど」


 しれっと真壁が物凄い爆弾を投下してきた。

 いやいやいや。まてまてまて。


「真壁さん? あの、それは」


「前世はノーカウント。異世界は浮気にならないから好きにしなよ」


「いやなるだろ!」


 思わず全力で突っ込んでしまった。

 真壁はいったいどうしてしまったんだ。

 もっと常識的に振る舞うタイプだったはずだろ!

 いや、でもこれは俺のイメージを押し付けているだけか。

 結局、俺は俺に優しくて都合のいい真壁綾しか知らなかった。

 女神のような幻想を、身勝手に崇めて享受してきただけ。

 彼女の意思なんてお構いなしだ。


「いいじゃん。軽い浮気くらい楽しめば」


 あっけらかんとモラルを無視した発言を行う真壁。

 衝撃的な発言はまだ続いていた。


「あたしも、流山くんがいない間に寂しくなっちゃうかもだしさ。あんまり長く待たせると、うみあたりが『忘れさせてやる』とか言って手ぇ出してくるかもね」


 反射的に想像してしまう。真壁がカイに抱きしめられてキスをしている場面を。

 それは収まるべきところに収まったような当然の光景で、そもそも二人はキスくらいまでなら済ませていて、真壁の本心はそちらを望んでいるはずなのに。

 何故か、胸がざわざわとした。とても嫌な感じの、真っ黒な感情が湧き上がる。

 ありえない。俺はちゃんと、レナが好きなのに。


「あ、動揺した。いけないんだ。本命と結ばれたくせに、元カノに未練たらたらで」


 悪戯っぽく笑う女神は、どこか小悪魔のようにも見えた。

 意地悪に振る舞う彼女なんてはじめてだった。

 今さらになって、真壁綾のことをまるで知らなかったんだなと実感する。


「いやお前、別れてないとか浮気とか元カノとか、言うことがいい加減すぎだろ」


「冗談だって。あたしはこれからもちょくちょく夢の中に遊びに来るから、その時だけ構ってくれればいいよ。どうせ、ここでの記憶はふわっとするから。そのかわり、ここでだけはちょっと気分出してもいいでしょ? 多くは求めないから、付き合いたての彼氏が死んでへこんでる彼女を慰めるつもりでさ」


 『夢だから』でなあなあにするには問題が大きすぎる気がするのだが。

 からかわれているだけかもしれない。

 あるいは、俺が罪悪感を抱かなくてもいいようにあえてこんな風に振る舞っているのか。その方が真壁っぽい気もする。

 冗談めかす真壁の表情には、やはりわずかな悲しみの翳りがある。

 胸が、ちくりと痛んだ。


「ね、浮気する人の気持ち、ちょっとはわかった?」


「それは」


 全てを見透かしたような女神の言葉。 

 何を意味しているのだろう。

 俺とレナにとってそれは呪いだ。

 親を恨む気持ちは消えないし、レナに降りかかった全ての不幸は間違いなく親世代の不始末が原因だ。

 それでも、長い時間を過ごした家族を憎み切ることはできなくて。

 その過ちがなければレナは存在することもなかった。


「どんな事情があって、共感することができたって、赦さないよ」


 でも、いつか、叶うなら。

 真正面から全ての感情をぶちまけてやりたいと思った。

 だから俺は、真壁という女神の前でひとつの誓いを立てる。

 

「俺さ。そっちの世界に戻ったとしても、運命がそこまで大きく変わらなくてもいいと思ってる。レナはあの家から助け出したいけど、生まれや血のつながりはそのままでいい。だって、それも含めてレナだろ?」


 レナが受けた暴力は許容できない。それだけは絶対に拒否してやる。

 転生とか現パロエンドがどういう仕組みでそうなるのかは不明だが、辿り着くことができたらどうにかしてレナを苦境から救い出すと決めていた。

 特にレナの父親はぶん殴る。被害者であることはわかっているし、大好きな幼馴染が他の男に奪われる気持ちは痛いほどよくわかる。世界の誰よりも俺があの人の苦しさを理解できるとさえ思う。それでも俺はレナを苦しめるあの家をぶち壊すことを決めていた。たとえそれが、レナの心を傷つけてしまうとしても。


「認められないかもしれない。受け入れられないかもしれない。否定されるんだろうなと思う。レナだって、気持ち悪いって言うかもしれない」


 俺たちは異母兄妹で、どうしようもなく結ばれない運命で。

 そうやって苦しんできた時間だって、俺たちの人生だった。

 それにたとえ真実が残酷でも、俺にとってレナはやっぱり特別な幼馴染だ。


「俺は、血の繋がりがあるままでもいい。カイと付き合っててもいい。俺のことが好きじゃなくても構わない。それでも、俺はレナに好きだって伝えたい」


 一方通行の感情に絶望した。

 永遠に片思いのままかもしれないと恐怖した。

 恨みと憎しみから、相手の死さえ望んだ。

 俺はきっと、レナに相応しい男じゃない。


「俺の気持ちは正しくない。まず最初に、そのことを認めるべきだったんだ」


 間違っていたのは俺だって同じだ。

 ずっと、レナだけに『悪いこと』を背負わせてしまっていた。

 だから今度は、俺も同じものを背負いたい。


「そうして、『レナが好きだ』って言って、ちゃんとフラれなかったのが俺の最初の罪だ。罪は償わないと。きっとそれが、俺が貫くべき正しさだと思うから」


 レナが好きな気持ちとこの決意は矛盾している。

 矛盾したままでも良かった。これが俺の偽りのない気持ちだ。

 もう逃げない。

 立ち向かうために、俺は現パロを望む。

 いつか俺は、全ての冥府の門を巡って、真のエンディングに辿り着く。

 その時、また女神の前で宣言しよう。

 終わるんじゃなくて、新しく始めるために。


「そっか。じゃ、フラれたらその時は慰めてあげる」


 俺の言葉を聞き届けてくれた真壁が、優しくそう言ってくれた。


「ありがとう。ちょっと気が楽になった」


 感謝を告げると、真壁はなんてことないとすまし顔で受け流す。

 そんな彼女の優しさを、俺はずっと忘れないだろうと思った。

 少しだけ、何とも言えない沈黙が続く。

 この時間はそろそろ終わらせるべきだろう。だが、名残惜しい気持ちもある。

 空気を和らげるための配慮なのか、真壁は続けてこんな風に言葉を繋いだ。


「そうそう。その後のうみだけど。あいつ、こっちでどうしてると思う?」


 含み笑いをしながら口に手を当てる真壁。

 よっぽどおかしかったのか、思い出し笑いをしながらこんなことを言いだした。


「前世の恋人を名乗る女子小学生メイドの野薔薇咲のばらさきちゃんに付き纏われて社会的に終わりかけてるよ。慌てまくるうみ、傑作だから見せたかったな」


 俺はカイの星上げのために犠牲になったメイドを思い出した。

 野薔薇。薔薇ロザリー? マジで?

 なるほど、そういうこともありえるのか。


「死んでも一緒の恋人とか、あいつも大概チート野郎だな」


 まさか拒否するなんてダセえ真似はしないだろう。ぜひ責任をとって幸せにしてあげてほしい。カイなら可能なはずだから頑張って欲しい。


「ていうか、なんで小学生?」


 女神ゆえに事情通なのか、真壁はすらすらと答えてくれた。


「『奉仕』ができるようになったらすぐに『カイ様』の所に行きたかったんだって。本人的にはベストな年齢差みたい。魂が世界を跨ぐ時って、時間の流れとか因果とか諸々ふわっと調節できるんだよ。咲ちゃんはスキル引継ぎしてるし」


「へえ~。ていうか、あっちの世界でスキル?」


 そういえば。少し気になることがあった。

 俺とレナが二人とも死んだあと、俺たちの魂に何か妙なものが見えたような。

 そもそも。この転生という状況からして不思議なことだらけだ。

 すると真壁は俺の思考を見透かしたように、こんなことを言いだした。


「ねぇ流山くん。そもそも、あたしたちがいる『現代日本』っていう現実が、本当の意味での『ゲームではない現実』だって誰が保証してくれるの?」


「は? どういう意味?」


 現実が、目の前の世界が揺らぐ。

 ここは現実であって現実ではない。

 世界と世界の狭間にある、夢の境界。

 真壁を中心に隔てられた世界は、現実と夢という区分けのはず。


「流山くんは、まだファンタジー筋とSF筋が足りてないね。早川と創元で修業し直して、奇想に耐性を付けなきゃ。このくらいはまだ初級クラスだよ」


「真壁ってそういう痛、いや中二、あーっと鼻持ちならないとこあるよな」


「せっかく超然とした上位存在役をやれてるんだから、上から目線で衒学趣味に走らなかったらかえって損でしょ?」


 そういや皮肉や軽口がノーダメージのメンタル強者でもあった。

 揺るがない彼女の精神は、不確かに思えてきた二つの世界の中心のようだ。


「いやでも、現実は現実だろ。ゲームみたいにグラフィックの限界とか処理が重くなったりとかしないし。どんなに細部を作り込んでも、全部は現実を模倣できない」


「あたしたちがいた現代日本が、本当に隅から隅まで綻びのない世界だった? 視界から外された風景は実在する? あんたが見ていない時、鏡に何が映っているのかを確認したことは? あたしたちの世界が最初から現パロ世界かもって思わない?」


 俺が当然だと思っていた認識が揺らいでいく。

 これは思考実験か、それとも言葉遊びか。

 あるいは、またしても真壁にからかわれているだけ?


「いや、いやいやいや。それは幾らなんでも飛躍し過ぎだろ」


 滅茶苦茶なことを言われている。

 そもそも、そんなことは確かめようがない。

 だいたい、どっちもゲームに関係した世界なんだとしたら、本当の現実はどこにあるんだろう? どこか俺の知らない場所にある? それとも、そんなものはないのか? いやいやまさか。俺は自分が見てきた現実しか信じないぞ。


「ゲームの中のNPCやモブキャラに人間性を見出したんだよね? だったら、あたしたちの世界で見てきた人間がNPCじゃないってどうして言えるの? あたしやあんたが自動生成されたモブキャラだって考えないのはどうして?」


「それは、だって。アネットやニックは、その、ちゃんとした人間で。あれ?」


 確かに、俺の現実はもうゲームの世界だ。

 仲間たちは確かな血の通った心ある人間で、俺にとっての『現代』で。

 だとしたら、確かに二つの現実に差なんてない。


「あんたたちが現パロエンド後の『レナ』と『レイ』だったらどうする? 大した描写もないから設定は余白だらけ。そこに書かれてる名前が『三島礼奈』と『流山令』だったとしたら?」


「俺たちが、レナレイの現パロ? いやまさかだろ」


 曖昧に微笑む真壁の心の中はわからない。

 ここ一年くらい親しくしていた同級生が、急にミステリアスな存在に見えてきた。


「現パロエンドの先で、こっちに帰還できるとして、そこが無理心中バッドエンドから地続きなのか、全くの別パターンなのかはまだ未確定。でもね」


 それは俺にとっての懸念だった。彼女の口ぶりからして、元の世界とは違う別の現代日本に移動するわけではなさそうなのが唯一の救いか。

 真壁は託宣を下す女神のように、俺に理解を超えた言葉を授けてくれた。


「『現パロ』は、原作からの想像力の飛躍。流山くんにとっての原作ってどこ? 悲劇に終わった二人の無理心中? 恋愛喜劇ラブコメ展開に持って行けたそっちの生活?」


「それは、悲劇の方、だけど」


 自分にとっての『本当の世界』に救いがなかったことは不本意だけど、そうなってしまったものは仕方がない。けれど、女神はそれだけが全てではないと言ってくれた。更なる救いを求めたっていいのだと。


「流山令と三島礼奈の現パロでレイとレナが幸せになって、レイとレナの現パロで流山令と三島礼奈も幸せになる。そんな現パロの現パロだって可能だとは思わない?」


「両方の世界で幸せになってもいい、ってこと?」


 俺の問いに、真壁綾は曖昧に微笑んだ。

 きっとその答えは、まだ未確定なのだ。

 なら、今は急がなくてもいいだろう。

 俺たちの旅は、まだまだ序盤だ。


「あたしはここで、あんたの旅を見守ってるから。また別の『門』に近づいたら会えるはず。全ての鍵を揃えたら、今度こそさっきの問いに答えてあげる」


 夢が、淡く溶けていく音がした。

 示された希望は、前に進むための活力を与えてくれる。

 絶望は塗り替えられる。都合のいい虚構だから、そんなこともあるだろう。

 俺の身体が真壁から遠ざかり、意識が浮上していく。

 世界の果てから死の底へ。冥府から現世へ。

 光が満ちて、開いていた『門』が閉じていくのがわかった。

 広大な空間に、無数の光が飛び交っていくのが見えた。

 死した魂はこの場所に辿り着き、女神によって行き先を告げられる。

 どこに向かうべきか。どこに希望があるのか。

 魂は反転し、還流し、逆流する。此方から彼方へ。彼方から此方へ。

 それは、永遠に巡り続ける輪廻の環。

 理由のない愛おしさが溢れてくる。郷愁に手を伸ばすように、俺は懐かしいふるさとに戻りたいという願いを込めて叫んだ。


「ありがとう。またな、真壁」


「待ってる。けど、次はさ」


 できれば、名前で呼び合いたいかな。

 遠ざかっているのに、距離を縮めようとする声が聞こえたような気がして。

 それは果たして俺の未練が見せた夢だったのか。

 わからないまま、意識を満たす光が弾けた。

 夢が覚めて、また朝が来る。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る