30.『嫌われ者』




 重要なのは問いかけそのものではなかった。

 命の二択。それ自体は考慮にも値しない。結論も出ている。

 大切な者は最善を尽くしてどちらも助けるに決まっている。

 非道な手段は選ぶべきではない。当たり前だ。


(これはそういう話じゃないんだ)


 それでも俺は即答できなかった。

 切迫した状況下で助けに行く方を選ぶとか、救急医療におけるトリアージとかではあるまいし、こんな問いは最初から成立していない。

 レナは二択ではないものを二択にして突きつけている。

 そうすることで、俺から言葉を引き出そうとしているだけだ。


「レナ、何を焦ってるんだ?」


 だから俺は逆に問い掛けた。

 褒められた行いではないが、そうせずにいられないほどレナの様子がおかしい。

 まるで、今すぐにでも俺のレナに対する感情を確認しなければならないと思い込んでいるようだ。レナの感情の動きが、ここしばらくよくわからない。

 夜に俺が拒絶してからは特にそうだ。

 表向きは元通りに見えても、何か致命的な齟齬が生じているように思える。


「焦ってない。はぐらかさないで答えて。私たち、恋人同士だよね? 付き合うことに反対してる親に強さを見せつけるって言ったよね? あっちにいるセンシスに功績を主張しに行かないの? 婚約者が出てきたら『この女は俺のものだ』って言ってくれるものじゃないの? カイくんに嫉妬とかしないわけ?」


 レナの表情に浮かんでいるのは恐怖と不安だ。

 当面の目標を達成したはずなのに、俺の死という運命を打倒したばかりなのに。

 今のレナは、まるで道を見失ってしまった迷い子のようだ。

 たしかに、『レイ生存ルート』はもしもイフのアフターストーリーであるため、復讐者と化したレナが歩む正史とは異なり大きなイベントは発生しない。

 二周目以降のおまけ的な救済要素であり、小さなイベントや個別会話が用意されているものの、メイン級とは呼べない程度の扱いだ。


(だからなのか? どう『レナレイ』をやっていくのか、指針がないから?)


 はっきり言って本来のプレイヤーキャラの真似事をしていくしかないと思うが、このまま『レナレイ』のロールプレイに拘る場合は確かにネタ切れ感はある。

 レイという田舎の村人にとっては、山のヌシという強敵に立ち向かう戦いは人生で最大の山場。彼の物語はここがクライマックスだ。

 レナがなぜ焦っているのかという疑問。もしかすると、これが答えなのか?


「『レイ』が『レナ』のために戦って、好意を示すストーリーはこれで終わりだから? あとは時系列を問わないフリーシナリオ上の会話イベントや個別イベント、あとはその中にある回想シーンだけだから、この後は」


「やめてレイくん。そういうのいいから。ちゃんと言ってよ、ごまかすのやめて」


「お前のことは大切だと思ってるよ。こういう答えじゃ不満か?」


「不満だよ。わかってるくせに」


 言葉なんて何の保証にもならない。

 そう、俺たちの未来には保証されたシナリオがないんだ。

 最高レアのネクロマンサーにして六王の転生者であるレナは、復讐者として心を擦り減らし続けなければ決定的な闇堕ちはしない。

 だからメインシナリオにおける大きな役割も与えられないことになる。

 今回のロールシャッハのように、死者の陣営が余計な動きをしない限りは安定した精神状態のままエンディングを迎えられるはずだ。


「証拠が欲しいの。確かな形が」


 レナの言葉にはきっと際限がない。

 俺が何かを差し出したとしても、更なる証明を求められるだけだ。

 底の抜けた器に安心を注ぎ込んでも、不安を完全に取り払うのは無理だろう。

 少しだけ苛立つ。

 レナは俺を信じていない。その事実が苦しい。


「犠牲を払えば何かの証明になるって? そんな身勝手な自己満足に他人を巻き込むなよ。犠牲を強いるならせめて俺だけに要求しろ。だいたい、それを言うならステータスがその証明になるはずだろ。ゲーム世界なんだから信頼度確認すれば一発だ」


 俺たちの設定は恋人同士だ。

 キャラ設定で家族、恋人、親友といった関係性が固定されているキャラは、どんなことをしても信頼度が100を下回らないようになっている。

 これこそがゲーム世界のシステムに紐づいた確たる保証だ。

 だいたい、俺がレナを見放すことなんてあるはずがない。

 選ぶとか選ばないとか、馬鹿げている。俺はいつだってレナを。


(あれ?)


 違う、そうじゃなくて、確か夢で。

 俺は決定的な事実を知っている。

 まだ思い出せていない、致命的な結末がある。


『ね、その日さ、二人でどっか行かない?』


 遠い声が聞こえた。

 レナが封じ込めた事実。

 不安がっているのが、俺の意思と決断だとしたら。

 もし同じことを繰り返せば、今度こそ俺たちは。

 終わる。その予感を抱いた瞬間、俺の中に冷え冷えとした恐怖が生まれた。

 ぞっとして、縋りつくようにステータスを確認する。

 信頼度を確認すればいい。確かな数値。それが絆を証明してくれるはずだ。


「ほら見ろよ。一番上はまあアネットとして、え?」


 名前順に並べたらアが先でレが後なのは当然だが、まだアネットの好感度が高いのはおかしい。痴情のもつれごっこという名の茶番のせいで彼女の好感度は-200まで下がっていたはず。知らぬ間に昇順に設定していたのか?

 困惑していると、横から見ていたカイが不可解そうな声で口を挟んでくる。


「あん? なんだよ、そいつ好感度高いじゃねえか。マイナスなんて嘘ついてまで守りたかったってことか? お前が? レナより優先して?」


 異常事態だった。アネットの信頼度が100にまで上昇している。

 おかしい。ゲームシステムよりも、現実の感情が影響しているとでも言うのだろうか。だとしても、なぜアネットにこんなに好かれている?

 視線を向けると、小柄な狩人はしどろもどろになりながら頬を赤らめた。


「わ、わたしはただ、前のレイにいって感じが戻ってきてたから、それでちょっと懐かしくなって、あの、安心しただけでっ。流山令は変だけど、ニックのことも、ハンスじいじのことも、ちゃんとわたしたちを見てくれてるから、信じたいなって」


 最後の方はぼそぼそと小さい声になりながらも、アネットは前世の魂も含めた俺を認めていると教えてくれた。ハンスさんを助けることはできなかったし、戦いの中で犠牲も出てしまった。それでも俺は彼女にまた仲間だと思ってもらえたのだ。

 失った信頼度は取り戻せる。それを証明したのは行動だった。


「じゃなくて! なんかまた悪い相談してた! そんなの許さないし、好きにはさせないから。なめんなよ、がるる」


 やはりアネットは簡単に犠牲になるような性格をしていない。

 彼女は不思議とこの世界の住人ながらゲームシステムに対する理解度が高い。

 復讐システムについてもきちんと説明すれば、周囲にその罪深さを教えて『簡単に利用されない意思共有』ができるはずだ。


「なあ、わかったろレナ。犠牲とか復讐システムとか、そういうのはもう成立しないって。俺もアネットも絶対に阻止する。その上でレナのことも全力で守るよ。みんなで協力しよう。そんなに心配しなくても、俺たちは付き合いが長いんだから」


 言いながら気付いた。妙にレナの表情が暗い。

 話を聞いていないように見えた。

 何だ? 手鏡を見ている?

 ふと、ステータスを確認するために使用していた手鏡に視線を落とす。

 浮かび上がった『窓』に表示された信頼度の一覧。

 アネットのすぐ下にある名前と数値を見て、俺は目を疑った。


『レイ×レナ:95』


 バグだ。疑いの直後、数値が94に低下する。

 ありえない事態が発生していた。

 俺はいま、何らかの信頼度低下アイテムを使ったわけではない。

 聖職者の目の前で窃盗を行ったわけでもないし、黒焦げの料理を喰わせたわけでもなかった。となれば考えられる理由は不具合か、先ほどアネットが証明したようなゲームのルールを破るほどの本人の心境変化。

 もしくは、強制イベントにおける特殊演出。

 俺は同じ場面を見たことがある。

 だが、ますますありえない。

 これはレイ生存ルートでは発生しないイベントのはずだ。


「レナ、お前の方はどうなってる? なんか俺、ちょっとバグってるみたいで信頼度が下がってて。もしかしてロールシャッハに何かされたとか」


「94だよ。一番高いのは、カイくんの100」


 こちらを見ることもなく、レナが温度のない声で言った。

 胸がずきりと痛む。

 別れたとか言っていたが、恋人なのだから当たり前だ。

 それでも、リアルな感情面での立ち位置がはっきりと示されるのはきつい。


「ああ、そっか。やっぱり私ってこうなんだ」


 沈み込んでいくような呟きだった。

 誰に聞かせるでもなく、レナの目から気力が抜け落ちていく。

 そこに映る感情は、落胆と納得の入り混じった薄ら笑いだった。

 『90』まで落ちる。レナと俺の信頼度が、また低下した。

 恐ろしい事実を思い知る。これは現在進行形の変化だ。

 だがより恐ろしいのは、どちらの本心なのかという点だった。

 本当にこれは、レナだけのせいなのか?


「待てよ、レナ。俺の態度に失望したのはわかった。謝るよ、けど俺は」


「謝らないでよ。悪いなんて思ってないくせに。私だって、レイくんの方が正しいってわかってるよ。謝る必要なんてない。最悪なのは私なんだから」


「勝手に俺の気持ちを決めつけるな! お前が一方的に悪いなんて言ってないだろ、確かに倫理的にどうかとは思うけどゲームとして合理的なのは認めてる!」


 苛立ちから思わず怒鳴りつけてしまう。はっとして口を押さえた。

 『89』になっている。まずい、この流れは明らかに良くない。

 原作にもこのパターンは存在している。だがレイの生存ルートでは発生しないし、普通にプレイしている限りは見ることができない流れだ。


「レナ、落ち着いて深呼吸しろ。マジでやばい。俺が死んだ後のイベント演出だよなこれ。プレイヤーが、主人公がいないと選択肢が出ないんじゃなかったか?」


 致命的な予感に焦り、動揺して不要なことを口走ってしまう。

 レナがくしゃりと顔を歪めた。泣きそうな表情。破綻の前触れに見えた。


「ちがっ、そんなつもりじゃ」

 

 言い訳すら不格好で、俺はどうすればいいのかわからなくなっていた。

 これは本来、原作ゲーム終盤に発生するレナの闇堕ちイベントだ。

 本編のレナは復讐心のままに戦い続けたことで六王としての魂が徐々に目覚めていき、味方をしているはずの輪廻の陣営から迫害されたことで人間に絶望していく。

 その上、死者の陣営が暗躍することでレナの心は大きく乱れてしまう。

 最終的には仲間であることをやめてパーティを離脱するかどうか、という決定的なイベントが発生する。


(もう『85』!? やばいやばい、もし最後まで行ってしまったら)


 このイベントの際、彼女のステータス欄に特別に残されていたレイに対する信頼度が強制的に低下し続け、最終的にその記憶すらすべて忘れて信頼度-200になってしまうという演出を見ることができる。

 そして、この離脱イベントを阻止できるかどうかを分けるのはやはり信頼度システムである。プレイヤーキャラとレナの信頼度が100以上であれば、イベント時に選択肢が表示されて引き留めることが可能になるのだ。

 レナは序盤に加入するキャラなので、普通にプレイして使い続けていれば終盤までに信頼度100達成はたやすい。なので意図的に間違った選択肢を選ばなければレナが離脱することはありえないので、そう厳しい条件ではなかった。

 だがこの一連のイベントはレナにとって甚だ不愉快なものだったらしい。本編で一番嫌いな演出だと、一度だけ機嫌を悪くしながら言っていたのを思い出した。


「結局さ、レイくんの言う通りだったね。小さい頃の好きな気持ちなんて、偶然そこにいたからってだけ。別の人とだって幸せにはなれちゃうんだ」


 けれど、今のレナは激しく憤慨することもなく、落ち着いて現状を受け入れているように思える。全てを諦めて投げ出すような態度は、どこか疲れて見えた。

 また信頼度が下がる。『81』。加速度的な減少。


「『レナレイ』もそう。わかってたよ。こんなのほとんど誰も見向きもしないマイナーカプだってこと。だってさ、レナのイラストとか二次創作、カップリングされてんの基本的にプレイヤーキャラじゃん! 男女どっちを選んでもさあ、主レナがほとんどの人が受け止める正しいストーリーだってわかってた!」


 信頼度『70』。悲鳴を上げたい気分だ。

 だが実際に嘆き叫んでいるのはレナの方。

 『レナレイ』という思い入れが主流ではないことに対する悲鳴。

 正典に基づいて異端だと宣告された時、祈ることさえ許されない痛み。


「誓約の指輪とかさ、重要な儀式とか言っておいて実質結婚じゃん? 見たくないけどレナのイベントは全履修したいから吐きそうになりながらイベント回収したんだけど、指輪渡すときだって『レイのことを忘れることはできない。けど、あなたのことは心から信頼してる』とか言ってるわけ! ふつうに頬染めしてんじゃねえよ恋愛文脈じゃん! エンディング後は徐々に忘れていくやつ! それはそうだよね、当たり前だよだってつらいもん、ずっと好きなのにどうやっても結ばれないのって!」


 虚空に向かって恨み言を吐き出しているのに、どうしてかその怒りは俺に向けられているようにも感じられた。

 だがそれはこちらも同じだ。


(レナはいつもこうだ)


 好き勝手に感情を爆発させて、俺は辛抱強くそれを聞いて、落ち着くのを待ってから優しく慰める。それがレナには必要だとわかっていたから。

 当たり前になっていた構図に、うんざりした気持ちが無かったとは言えない。

 『60』から『50』へ。

 言葉と共に感情が高ぶり、揺らいだ心が不信と怒りに染まる。


「私、わかっちゃったんだ。嘘じゃない愛があるって思いたかった。揺るがない、本物の絆はあるって、この世界でやり直せれば、きっと証明できるって思ったの」


 『40』で止まった。静かに、己の中にある愛おしさをかろうじて繋ぎ止めながら、存在するかどうかもわからない希望に手を伸ばそうとする。

 だが。

 『39』。下がり続ける。


「でも、無かったよ。レイくんは相変わらず私なんかのことが嫌いだし。それよりも私の方がだめだったよ。私の中に、本物の愛なんて無かったんだ。私、わたしは」


「嫌いじゃない、勝手に人の気持ちを決めるな。いつも俺に苛ついてるのはお前の方だろ。レナだって、好きになる相手はいつもっ」


 自分自身が惨めになるようなことを言いそうになって、言葉が詰まる。

 否定しておいて、自分の言葉が嘘だと気付いた。

 レナに見透かされている。

 この信頼度の低下は、俺の責任でもあるのだと。

 二人で押し込んでいるようなものだ。

 かつてない速度で『10』に。

 『9』から『8』、あとは転落。


「思い知っちゃった。先輩も、たっくんも、カイくんも、心から好きになれるし、ちゃんと幸せになれるって。ああ、私べつにレイくんじゃなくていいんだって」


 『0』になった。いいや、俺たちがゼロにしてしまった。

 見知らぬ他人も同然の距離。

 レナと俺との間にある絆、その幻想がいま、跡形もなく消えた。

 それで終わりなら、まだよかったのに。


「結局、お母さんとおんなじだったんだ」


 レナの激情の正体をうっすらと悟って、俺は咄嗟に否定を叫ぶ。


「違う、レナ。それは潔癖になりすぎだ。それでいいんだよ。誰かを好きになったことを否定したり悪いことみたいに思う必要はない。お前は誰と付き合ったっていいし、好きになったって構わないんだから」


「だよね。レイくん、私が誰と付き合っても平気なんだもんね」


 引き攣ったように笑うレナの目尻から、一筋の雫が零れ落ちた。

 泣かせた。俺の言葉が、彼女を傷つけてしまった。

 正しいことを言ったはずだ。

 正しいことを言ったからこそ、彼女をまた苦しめている。


「私は、愛して欲しかった。大切な人に、好きって言って欲しいだけなの。嘘じゃない、本当の気持ちで。私に嘘の気持ちしか与えてくれない人なんてどうだっていい。私に選ばせてくれなかった人なんて知らない。けど、私が選んだ人に愛して欲しかった。本当に、それだけなの」


 一歩、レナが後退る。俺から遠ざかるように。

 反射的にこちらから踏み出す。このまま離れて行けば、もうレナに近づけなくなるような気がした。だが次の瞬間、俺の足が竦んで止まる。


「レナ、大丈夫だ。俺は、いやカイだってお前のことをちゃんと大事に思ってる」


 言うべきことを言えなくて、言いたくないことを口にした。

 だから罰を受けたんだと思う。

 そして俺は、見たくないものを見た。

 嫌だ。絶対に直視したくない。

 俺たちの関係性に、マイナスの数値が付けられる瞬間なんて。

 だがレナの瞳は数字を裏付ける絶望に染まっている。


「違う、違う違う! だって拒絶した! 二人とも、私のことなんて知らないって、嫌いだって、見捨てたっ、私を選ばなかったっ!」


 馬鹿な。

 信じられない思いでカイを見る。

 あり得ないことに、俺の友人でレナの彼氏であったはずの男は、視線に堪えかねたように目を逸らした。

 この男が目を逸らすところなんて、はじめて見た。


「ありえない。だってお前ら、一周年記念日って」


 沈黙。無言のまま否定の意思が伝わってくる。

 嘘を言われた? いや違う。そうじゃない。

 まさかその日に破局したのか? どうして? 何があった?


「ひとりでなんでもできるカイくんには私の気持ちなんてわかんないよ」


 レナの言葉が理解できない。二人の間に何があったのか、俺には思い出せない。

 思い出す必要があるのに、記憶に蓋をされている。

 レナはいつの間にかよろめくように俺からもカイからも距離を取ろうとしていた。


「いつだって正しくて良い人で、同じようにまともな人に好きになってもらえるレイくんにだってわかりっこない!」


 叫ぶ。冷え切った視線は世界に対する敵意に染まっていた。

 この刺々しい目を、どこかで見た覚えがある。

 思い出せない。だとすれば、俺が忘れているのは。


「レナ。お前が『あの件』でずっと悩んで、苦しんできたことは知ってる。俺だって半分は同じように悩んだり苦しんだりした。少しくらいはお前の気持ちだって」


 引き留めようと絞り出した不用意な言葉が、レナの逆鱗に触れる。

 安全地帯から理解を示す罪深さを糾弾されている気がした。

 そうだ。俺とレナは同じものを見た。同じ苦痛を味わった。

 それなのに。俺たちの立場は、決定的に違っていた。

 だって小さなレナの愛した世界は、もう二度と戻ってこないのだから。


「わかるはずないっ! ちゃんとした両親に、ちゃんと愛してもらって、無傷のままの家で過ごしてきたレイくんに、私の気持ちがわかってたまるもんかっ!!」


 『-10』だ。レナが俺の向けているのは、混じりけの無い苛立ち。

 善性や正しさを押し付けてくることに対する、全力の拒絶。

 レナは、暴力に晒された被害者の顔で。

 俺に殴られた痛みで泣いていた。


「嘘なんていらない。偽物の愛情なんていらない。なのに、なんで」


 『-20』、『-30』、『-40』、立て続けの低下を見ていられない。

 だが、目を逸らすこともできない。

 俺はレナの心が知りたかった。

 どうして、レナは未だに俺のことなんかを。


「なんで、私の心の方が、偽物なの?」


 ぴしり、と小さな音がした。

 わずかなひびが入るような、些細な音だ。

 致命的な破壊の始まりを予感させるような、終わりの序曲。


「わかってた。私がレイくんに相応しくないことくらい、最初から知ってたよ。レイくんが好きになるのは、いつだってアヤとかアネットみたいな良い子だもんね」


「レナ、自分のことをそんな風に言うな」


「でも、私が私じゃなければって。嘘の中でなら。『レナレイ』ならって思った」


 自己嫌悪と自己否定。

 レナはもう俺をまっすぐに見てくれないし、俺の言葉を受け止めてくれない。

 彼女は鏡を見ていた。

 何も映らないはずの鈍色を。


「けっきょく、だめだったね」


「勝手に諦めて自己完結するな。何も終わってないだろ」


 届かない。

 目の前にいるはずなのに、俺たちの間には深い断絶が横たわっている。

 ずっと、レナの救い方なんてわからなかった。

 それでも、せめて逃げ場所くらいにはなりたくて、それだけだったのに。

 レナに相応しい相手がいつか見つかるはずだと信じて、俺はずっと諦めていた。


「私、ちゃんとしたヒロインなんてどうしたらいいのかわかんないよ。イベントをなぞるだけじゃだめ? 私にとって当たり前のプレイングって不自然なの?」


 俺だって自分がどうすればいいのかなんて知らない。

 そんなことは、俺には許されていない。

 弱々しくて言い訳じみた正しさを、レナは恨みがましい目で見つめていた。

 俺は気付いていた。それなのに、見ないふりをし続けていた。


「レナだって女子供とか区別せず死者の陣営の集落を襲って皆殺しにしてたじゃん。墓漁ったりとか、無法都市で人攫ったり奴隷買ったり!」


 幼い頃、楽しそうに児童書の話を聞かせてくれるレナの笑顔が好きだった。

 背伸びした本を読み始めた時も。俺の知らない知識を得意げに披露してくれた時も。実はそれが微妙に間違っていて恥ずかしそうにしていた時も。

 垂れ目がちで柔らかい表情が、俺に向けられるたび、俺の胸は高鳴った。

 遠い世界。楽しい空想。自由な冒険。ゲームの中で伸び伸びと遊びまわり、時に悪漢じみた振る舞いをするところさえ、俺は好ましいと感じていた。

 俺はずっと、そんな彼女を肯定してきたはずなのに。


「クズな悪人は容赦なく殺してたよね?! ちゃんと私、記憶と価値観まで同期してるもん! 『レナ』は、私の中の魂は私を肯定してる、それなのに!」


 この世界で、俺は彼女の全てをことごとく否定してきた。

 流れ落ちる雫は血のようだった。

 転んで泣いていた小さな女の子を、背負って歩いたこともあった。買い物の途中、一緒に迷子になって二人で泣きながら親を探し回ったこともあった。理由の分からない涙を見て『誰が泣かせた』と拳を握ったら、本を読んで感動していただけということもあった。零れていく記憶は、どれも美しい思い出だ。


(レナ、泣くな。お願いだから)


 俺の目の前で、レナの涙が黒く染まる。

 得体の知れない黒い靄が胸から溢れ出す。

 足下の影が浮上し、闇の帳となって周囲を覆う。

 最後に、滴る涙は黒い炎となって周囲を侵食していった。


「ああ、そっか。私の魂は、最初から」


 『-100』という数字が軋み、揺らぎ、一瞬で『-200』に塗り替えられた。

 レナの顔に亀裂が走る。

 穏やかな笑顔が、誰よりも愛らしかったのに。

 記憶が軋む。思い出がくすんでいく。


(やめてくれ)


 右目を蝕むのは黒い瘴気。

 穢れ、腐り、溶けて落ちる。

 虚ろな空洞に、蛆が湧いていた。


「こんなにも穢れていたんだね」


 ニックたち普通の村人が、おぞましい瘴気に堪えかねて口を押さえた。

 嘔吐したり昏倒したりと激しい拒否反応を示す者さえいる。

 彼ら彼女らの顔に一様に浮かんでいるのは、壮絶な嫌悪感。

 レナという少女の剥き出しの魂を、誰もが忌み嫌っていた。

 六王の魂。冥府へと繋がる、この世界にとっての汚点。

 嫉妬に狂った女神の代行者であるがゆえに、彼女はその愛を否定されていた。


「もう終わり。こんなルート、耐えられない。生存ルートでこれ? ずっとこうしてレイくんに嫌われて、拒否されて、否定され続けるの? 嫌、ぜったいに嫌」


 そう言って項垂れたレナは、自分の顔を押さえようとして、その形が変貌していることに気付いてしまった。指先さえもが黒く染まっていく。

 そんなことがどうしようもなくおかしかったのか、渇いた笑いがしばらく響いた。

 それから、疲れ果てたようにぼうっと虚空を見つめながら呟く。


「全部、消しちゃえばいい。今から六王として目覚めれば『闇に沈む世界』か『屍の帝国』まで最速で突入できる。もう一周。次の周を始めればきっと」


「自棄になるな。考え直せ。そんなことをしても誰も幸せにならない」


「レイくんなんて知らないっ! 嫌い、嫌い、嫌い! 私を否定しないで! 私のことを嫌いにならないで! 正しいことばかり言わないで! 私に優しくしようとしないで! 口だけのくせに、私のことなんて嫌いなくせにっ!!」


 突然の感情的な反発。

 理解できない。

 どうして俺がこんなに嫌われなければならないんだ。俺はこんなにもレナを。


(違う、何で俺はこんな押しつけがましく)


 苛立ちと嫌悪感から反発しているのは俺も同じだった。

 感情に振り回されてばかりのレナを正論で黙らせたい。自分の思い通りにしたい。俺の事をわかってほしい。それなのに、どうして上手く行かないんだろう。

 急に何も言えなくなる。

 黒い影が押し寄せて、俺の口を強引に塞ぐ。


「ちがっ、違うのっ! やめて、レイくんを傷つけないで! 違うよ、私、こんなんじゃない、ごめんなさい、ごめんなさい。こんなこと、したかったんじゃないの。ぜんぶ、こんなの全部まちがいだから。私なんて、レイくんのヒロインじゃないから」


 錯乱した様子のレナの感情に呼応しているのか、俺を束縛する影がその勢いを減じていく。だが、周囲をとりまくおぞましい気配は依然としてそのままだ。

 途方もない無力感に苛まれた。


(違う、そんなことはない、お前の勘違いだ)


 伝えたい気持ちはあるのに、レナは受け入れてくれない予感がした。

 俺とレナの信頼度は二人で共有する関係性を表した数字だ。

 片方だけがどれだけ必死になっても、お互いに通じ合えないのなら数値が再び上昇することはない。残酷な数字だけが俺たちの関係性を規定する。


「おいレナ。できる保証はねえんだぞ。本気でやるのか?」


 それまで黙りこくっていたカイが口を挟む。

 彼氏、いや元彼氏という立場にありながら、その表情に浮かぶのは微かな嫌悪。

 だが己の感情を必死に押し隠し、レナに寄り添おうとする努力をしていた。

 その目に宿っているのは気遣い、そして哀れみだ。


「うるさい。もう終わりっ! レイくんと幸せになれないなら、こんな世界に意味なんてない! もし無理でも、転生してまで生きていたいなんて思わない!」


「そーかよ。了解だ。なら俺の方針も決定だな。先に行くから別れ済ましとけ」


 カイは気だるげに剣を持ち上げ、肩に担いでから俺に向かって言い放つ。


「悪いな、俺はレナに協力する。今度こそ、しょうもねえ癇癪でも付き合うって決めてた。そのために、どんなカスに成り下がっても。俺は俺の役割を完遂する」


 どういう意味だと目で問い掛けると、男は肩を竦めた。

 こんな状況でも、そういう仕草が絵になってしまう奴だった。


「要するにゲストなんだよこのアカウント。もうちょい真っ当にお前と競い合ったり仲間やったり恋愛レースごっこ楽しんでもよかったんだけど、あいつマジで気が短いよな。ま、しょうがねえか。お互い惚れた弱みだ」


 あっけらかんと言って、軽やかに身を翻す。

 向かっているのは山、というより例の『門』がある遺跡の方角だろう。

 それから爆風による飛翔で宙を駆け上がり、俺に向かって叫んだ。


「負けっぱなしは趣味じゃない。俺たちは地獄で待ってる。必ず来い、レイ。リベンジマッチだ。今度こそ俺が勝つ」


 引き留めることさえできず、俺はその場に取り残された。

 闇の中に佇んだままのレナは、暗い目でぶつぶつと何かを呟いていた。

 明らかに正常な判断力を失っている。

 世界をもう一周してやり直すなんて、何の保証もされていない無謀な行為だ。

 だが、レナは失敗しても構わないと解釈できることすら言っていた。

 全てを巻き込んだ激情と破滅衝動。

 自分と世界、あらゆるものへの絶望を叫ぶ泣き顔。


(知ってる。前世の俺が最後に見たのは)


 記憶と、目の前のレナがだぶって見えた。

 腐敗し、蛆が湧き、朽ちた肉と欠けた骨が右半身を覆い尽くす。

 目覚めた魂に影響されるかのごとく死者と化していくレナを、闇色が覆った。

 何もない空洞が、俺を見る。

 

「もう、見ないで」


 その言葉を最後に、一体にわだかまっていた闇がレナの下へと収束していった。

 靄のような暗がりは球形にまとまったかと思うと、勢いよく浮遊。

 闇の塊は砲弾のように飛翔して山の方へと向かった。

 俺は呆然とそれを見届けるしかできなかった。周囲の村人たちはみな息も絶え絶えと言った様子で、アネットだけが荒く息を吐きながら俺を見ていた。


「レイにい」


 おずおずと袖を引く弱々しい感触に気付いていたが、俺はしばらく何もできずに立ち尽くしていた。言葉も行動も、今の俺には何もかもが相応しくない。

 最後まで言えなかったこと。できなかったこと。

 求められた罪さえ犯すことができない、自分の弱さを噛みしめる。

 俺はレナが好きだ。駆け寄ってその涙を拭い、抱きしめたかった。


(俺にその資格があれば)


 幼馴染じゃなければよかった。隣に住んでいなければよかった。あんな親から生まれてこなければよかった。俺が最初から俺でさえなければよかった。

 俺が、別の誰かだったら。

 そこでようやく気付く。

 レナの執着していた幻想の正体に。

 『レナレイ』というロールプレイは、俺たちの破綻した関係を成立させる魔法だった。もしあれが彼女の臆病な告白だったのだとしたら。

 淡い期待も、惨めな願望も、全ては後の祭りだ。

 手を伸ばせばよかった。

 見捨てなければよかった。

 俺が、『レイ』だったらよかったのに。



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