【終章 覗き手】

 夜の校舎は、声を吸う。廊下の蛍光灯はところどころ間引かれ、床の帯は長く細い。開かずの扉のガラスには、もう曇りはない。四隅の濃さだけが、かすかな脈で残っている。僕と水城は、演習室の机を中央に寄せ、透明のフィルムと小さな紙片──は/さ/ま/の──を封筒から出した。中央には、削って薄くした**「し」**。


 「今夜で終わらせる。

  終わらせる、というより、座らせ直す」


 水城は頷き、髪をひとつに結んだ。僕らは四隅に紙片を貼り、中央に透明の□を置いた。鏡はない。ランプもない。面の高さは、夜の校舎そのものが用意している。


 時間が経つにつれ、窓の向こうの白が一段薄くなり、室内の面が静かに前へ出た。スマートフォンは伏せてある。受けない。受けないことが、こちらの手順だ。件名:しは、画面の裏で滲むだけで、姿を見せない。


 ──いち、に、さん、……


 四は来ない。来ないで、いる。数は止まり、止まった止みが、空気の薄層に四角く置かれる。置かれた止みは、座布団だ。座布団の上に、名が座る。僕と水城は、声にせず、唇の形だけを作った。は/さ/ま/の。最後に、僕は喉で**“の”の向き**だけを作る。中央の「し」が、わずかに沈む。


 「主語は、こちらにある」


 僕は透明の□の上に、指を軽く置いた。指の腹の下で、穴は呼吸する。呼吸の向きは、こちらだ。向こうではない。向こうから貼られてきた文が、今は置き文になって、指先の下でほどけはじめる。


 ──し ず の は の ぞ く。


 文は、形のまま浮かび、浮いたのち、座り方だけを残して淡く消える。消えた場所に、別の名が立った。音ではない。形だ。御子柴。形だけの名は、四隅へ分かれ、黒板の端、窓の桟、扉の枠、梁の角で、それぞれ息をひとつ置いた。四つの息は、一度も重ならない。重ならないまま、居る。


 水城が、静かに口の形だけで僕の名を作った。は/さ/ま。僕は頷くかわりに、視線を床へ落とした。床の帯の四隅が、わずかに濃くなる。濃くなった隅は、座る場所だ。数える役は、座る場所に座る。座れば、数えない。数えないまま、在る。


 「覗き手は、座り方の名前だ」


 水城が言った。ささやきは、文というより定義だった。僕は、その言葉を飲み込み、胸の内側に置いた。置いた途端、開かずの扉のガラスが、ふっと四角く曇った。四隅は濃い。中心に爪先ほどの白い点。点は、句点だ。句点は、終わりではなく、向きの切り替えだ。


 僕は封筒を開け、最後の一枚を取り出した。宛名のない封筒。差出人は細い筆致でただ一文字──「し」。中には、透明のフィルムが一枚。角が鋭く、中央に小さな□。それを中央の「し」の上に重ねないように、ずらして置いた。重ねれば窓、ずらせば穴。穴の隣に穴を置く。座布団を二枚、少しずらす。


 室内の空気が、浅く入れ替わる。

 四つの角が、同時に座り直す。

 背の内側で、紙の角が、板をつつきもしないで、止まる。


 ──いち。

 ──に。

 ──さん。


 四は、やはり来ない。来ないでいるまま、こちらの座が整う。整った座に、呼び名が座る。座った名は、呼ばない。呼ばれもしない。名は、在るだけだ。


 そこで、スマートフォンが一度だけ震えた。伏せた黒の面が、机の木目を四角く吸う。僕は受けない。受けないのに、通話は始まらない。始まらない無音が、帯になって教室の四隅へ往復し、その途中で、短い返事が落ちた。


 ──……はい。


 誰のものでもない、場の返事。返事が言い切られた瞬間、件名:しは、通知の陰へ退いた。退いた影の薄層のなかで、僕はようやく理解に触れた。


 「しずの」は、人の名前ではない。

 「四で止める者」の呼び名だ。

 四を言わずに座らせる者。

 振り返らずに、面の向きを持つ者。

 窓を穴へ、穴を窓へ、静(しず)かに**覗(の)**く者。


 覗くのは、目ではない。座り方だ。

 覗かれるのは、背ではない。面だ。


 御子柴は、数える役を渡しただけだ。

 渡して、向こうの面に座った。

 数は、もう御子柴の喉で鳴らない。

 場の呼吸だけが、四で止まっている。


 僕は透明の□を指でひっくり返し、削って薄い「し」の上へ半分だけ重ねた。ずれた二枚のあいだに、きわめて薄い間ができる。間は、覗きだ。間に目は要らない。名だけで足りる。


 「羽佐間先生」


 水城が、今回は声に出して呼んだ。小さく、しかし確かな声。呼ばれた名は、半分だけ重ねた二枚の間に落ち、止まらず流れた。流れの底で、四つの角が、同時にうなずく。うなずきは、拍ではない。承認だ。


 教室は、急に広くなった。

 面が、一枚、外へ滑る。

 角は、座ったまま。

 四は、来ないでいる。


 僕は封筒を閉じ、紙片を重ね、透明のフィルムを二枚とも重ねず仕舞った。重ねないで、隣合わせにする。隣り合う面は、覗き込まない。ただ、ここに在る。


 廊下へ出ると、開かずの扉のガラスに、曇りはもうなかった。四隅の濃さは、昼間の柱の影と同じ程度まで薄い。扉の前で、僕と水城は自然に四歩をやめた。三歩で止める。止めた止みが、床の角に小さな椅子を残す。椅子は目に見えない。だが、座り方だけが残る。


 帰り道、街のショーウインドウは面を立てて明るい。僕は近づかない。面は面へ、角は角へ。そこに名を置かなければ、呼び名は起きない。件名:しは、夜のあいだ一度も来なかった。来なくても、いることはわかる。在ることと、来ることは、別だ。


 家に着き、机の引き出しに封筒をしまう。引き出しを閉める前に、僕は小さな名札を取り出し、裏返しにして置いた。面を合わせない。合わせなければ、反転は発動しない。発動しない反転は、ただの静けさになる。


 灯りを消す。

 暗闇は、面を持たないように見える。

 けれど、まぶたの裏で、四つ角が静かに座っている。

 そこで、いつもの声が、小さく、確かに三で止まった。


 ──いち、に、さん。

 そこで、止まる。

 四は、来ないでいる。

 覗き手は、座り方の名のまま、ここにいる。


 翌朝、研究棟の掲示板に、白紙の掲示が一枚、無記名で貼られていた。四隅にだけ画鋲。中央には、何もない。学生たちは足を止めずに通り過ぎ、誰もそれを読まない。読むものなどないのだから。ただ、座り方だけが、廊下の角に整然と残り、校舎はいつもより広く見えた。


 僕は掲示を見上げて、短くうなずいた。

 こちらで数えない限り、四は来ない。

 こちらで名を置かない限り、呼び名は起きない。


 封筒の差出人は、もう要らない。

 件名:しは、表ではなく間にいる。

 間は、窓ではなく、穴でもない。

 座だ。

 そこに、僕たちは座っている。


 覗くより、うしろ。

 うしろより、覗く。

 その順番だけを、静かに、こちら側で持ち続ける。


 そして、終わりではなく、止みのかたちで、物語は座る。


 ──いち、に、さん。

 そこで、止まった。

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