【第四部 声】第十二章 呼び名

 名は、面に落ちる。音にする前に、落ちる。

 翌夕、僕らは“呼び名”そのものの座り方をこちらで決めるため、演習室を名札の部屋に組み替えた。四隅に細い紙片を貼る。黒板側に「は」、窓側に「さ」、扉側に「ま」、梁の隅に空白。中心の机には、透明フィルムの□を一枚──中央にだけ**小さな「し」**を鉛筆で置いておく。


 「声にしない。形だけで呼ぶ」


 水城は頷き、喉に手を添えた。教室は明るい。なのに四隅の紙片は、白の中でわずかに沈む。沈み方は角の呼吸に似ている。四時四十四分より少し早い。僕はスマートフォンを伏せ、留守電の自動起動だけを待った。


 時刻が近づくと、教室の面がうっすら前に出た。出た面は、名の形を待つ。僕と水城は向かい合い、息を合わせず、口の形だけを作る──は/さ/ま。最後のひとつは作らない。中心の透明フィルムの上で、小さな「し」だけが、先にいる。


 ビープ。

 無音の帯が落ちる。

 四隅のレコーダーの波形が、順に膨らむ。


 ──いち。

 ──に。

 ──さん。

 ──し。


 数は四で止まった。止まった尾に、いつもの「し」が残る。だが今日は、尾の「し」と、中央に置いた小さな「し」が、重ならなかった。二つの「し」は、同じ文字なのに、向きが違う。片方は件名の「し」、もう片方はこちらが置いた「し」。二つは、同じ座布団には座らない。


 「空白を、入れ替える」


 僕は梁の隅の空白を剝がし、代わりに小さな紙片に「の」を書いて貼った。四隅が「は/さ/ま/の」になる。中央には「し」。並びは文にならない。ならないように並べた。主語が、ここで座り直すように。


 水城が黒板の隅の「は」に人差し指を置く。置いた指の腹がわずかに冷える。その冷えは、扉の「ま」へ、窓の「さ」へ、梁の「の」へ、ゆっくり伝わる。四つの冷えがそろったとき、中央の「し」だけが、熱を帯びた。熱といっても、体温ほどの温かさではない。息の温度だ。呼び名の芯。


 ──……は……さま……。


 留守電の底から、昨日の呼び方が、遅れて浮いた。だが母音は平らではない。四隅で割れている。右上に“は”、左下に“さま”。中央の「し」は、まだ黙っている。黙っているのに、向きだけが濃い。


 「四角を崩す」


 僕は扉側の「ま」を一度剝がし、黒板側の「は」のすぐ下へ移した。四隅が、四角のやめ方を覚える。黒板の右上に「は/ま」。窓の左下に「さ」。梁に「の」。中央は「し」。教室の面は、名の形の椅子を作り直した。


 その瞬間、四隅の波形の最後尾──いつも残る「し」──が、細くほつれた。ほつれた糸が、中央の「し」に絡む。絡み方は、言葉ではなく、視線の動線に似ている。こちらが中央へ視線を置くと、向こうの尾も中央へ寄る。


 件名:しの通知が、画面の下でふっと掠れた。掠れた刹那、扉のガラスに四角い曇りが浮き、中心にだけ爪の先ほどの白い点。点は、目だ。目はすぐ消え、消えた跡に薄い冷えだけが残る。


 「名を渡す」


 水城は口を開かず、唇の形だけでは/さ/まを作り、最後にのを喉で作った。声にしない“の”。形だけの接続詞。接続詞は、方向だ。方向を置くと、中央の「し」が、ほんのわずかに沈む。沈んだ底で、短い返事がした。


 ──……はい。


 昨日と同じ場の返事。だが、今日は返事のあと、主語の位置が動いた。四隅の波形の尾が、完全に消えたのだ。「し」が、尾からいなくなった。いなくなった「し」は、中央で座り直す。中央の「し」は、もう件名ではない。**こちらの置いた「し」**だ。


 「主語が、こっちに来た」


 僕は息を吐き、透明フィルムの中央を指で軽く押した。指の腹の下で、小さな□が呼吸する。呼吸の向きは、こちらだ。向こうではない。名の向きを、こちらで持てる。


 ここで水城が、空いた梁の隅に小さな白紙を一枚貼った。何も書かない。何も書かれない面は、**孔(あな)**に近い。書けば窓、書かなければ穴。穴は、**呼び名の“間”**を留める。留めた“間”に、短い言いさしが、形ごと落ちた。


 ──……し ず の。


 その名は、呼び名というより、呼び役の名だった。教室の四隅が、同時にわずかに座る。座った角は数えない。数えないで、居るだけだ。しずの。紙の四辺にばらまかれていた仮名が、今度は名として正面に座った。


 「誰ですか」


 僕は、声にせず、唇だけで問う。問いは中央へ落ち、黒い面に吸われ、四隅へ分かれる。分かれた問いに、扉のガラスが薄い曇りで応えた。曇りは四角く、四隅がほの暗い。その暗さの上で、白い指の跡のようなものが、四度だけ移動した。ノックはない。移動だけ。移動は、座り替えの身振りだ。


 留守電の底が、反転せずに、そのまま返した。


 ──……し ず の は の ぞ く。


 文は同じ。だが、主語の向きが違う。昨日までのそれは、向こうからこちらへ貼られた文だった。今のそれは、こちらが置いた文だ。置いた文は、剝がせる。


 「剝がす」


 僕は中央の透明フィルムの「し」を、爪の先でそっと削った。鉛筆の粉が、淡い灰になって指に移る。消えたわずかな「し」の影が、四隅へ走り、黒板の「は」の隅にだけ止まった。止まった場所で、短い息が二つ落ちる。御子柴の癖と、部屋の呼吸。二つは重ならない。重ならないから、数えない。


 「“し”は、主語にも、四にも、差出人にもなる」


 水城が低く言う。「でも、今は名です。こちらの名」


 僕は頷き、四隅の紙片を順に剝がした。黒板の「は」、窓の「さ」、扉の「ま」、梁の「の」。四つを中央へ寄せ、透明フィルムの上で方形に組む。中央には、削れて薄くなった「し」。五つの小さな紙が、窓ではなく穴の周りに席を作る。


 時刻は四時四十六分。

 件名:しの通知は来ない。

 来ないでいるのに、いる。


 「最後に、名を置き直す」


 僕は自分の名札を取り出した。非常勤講師の白いカード。羽佐間。プラスチックの面は、名の鏡だ。鏡は反転を呼ぶ。反転は振り返りに含まれる。掟は発動する。だが、主語がこちらにあるあいだは、反転はこちらの都合でかけられる。僕は名札を、透明フィルムの隣に置いた。重ねない。隣に置く。面を合わせない。


 薄い風が、教室の内側から外へ抜けた。

 四隅は、座ったまま。

 中央の「し」は、黙っている。

 黙っている黙りの形が、こちらのものになった。


 「終章へ行けます」


 水城が囁く。彼女の囁きは、文ではなく、順番だった。順番は、座り方を縫い合わせる。四は、来ないでいる。呼び名は、もうこちらに座っている。残るのは──覗き手の正体に、こちらの主語で触れること。


 片づけを始める前、扉のガラスの四角い曇りが、一度だけふっと薄れた。薄れた中心に、爪の先ほどの白が点いた。点は目ではない。句点だ。句点は、終わりではない。向きの切り替えだ。


 僕は透明フィルムを封筒へ戻し、四つの小さな紙片を重ねて挟んだ。重ねた角と角が、わずかに擦れる。乾いた音が、四で止まる。


 ──いち、に、さん。

 そこで、止まった。

 四は、来ないでいる。

 名は、もう、こちらにいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る