【第四部 声】第十章 留守電
夕刻、演習室は空だった。黒板の粉が薄く舞い、窓の桟(さん)にかすかな白が残る。僕と水城は、机を四隅に寄せ、教室の四角をはっきり立たせた。各隅に旧式のICレコーダーを一台ずつ置き、中央の机に僕のスマートフォン──いつもの**件名「し」**で震える端末──を伏せて置く。受話はせず、留守電だけを動かす段取りだ。
「話さない。触らない。向こうの“間”に、こちらの座りを重ねるだけ」
水城は頷き、レコーダーの赤い四角のボタンを、四つとも同時に押した。各隅で、小さな赤が灯る。赤は、教室の面に穴を穿たず、静かに“印”だけを置く。中央のスマートフォンの画面は黒い。黒い面は、部屋の光を四角く吸っている。
四時四十四分の一分前。
呼吸を薄くする。
耳の奥の“から”を、先に用意しておく。
四時四十四分。スマートフォンがふるえ、画面に知らない番号の“空白”が開く。僕は取らない。留守電が自動で起動する。短い高音のビープ。その後ろに、いつもの無音が来る。だが、今日は最初の瞬間から、無音の底に粒が立っていた。砂ではない。紙の繊維の結び目が、ひとつずつほどけるような粒だ。
四隅のレコーダーの波形が、順にふくらむ。右上、左下、左上、右下──昨日までと同じ巡りだが、膨らんだ丘の尾が、これまでより長い。尾の末端に、短い**「し」が残る。残り方が、はっきりしている。位相を逆にした二台のレコーダーでも、「し」だけは消えない**。件名の「し」。差出人の「し」。数の最後尾の「し」。
留守電の自動音声が、間の悪い場所で字幕のように挟まる。「お ん せ い を お は き く だ さ い」。機械の声は薄く反転し、鏡の内側で鳴る響きに似ていた。機械の文が終わると、再び無音。そこで、教室の四隅が同時に座る。座った重さが、床の目地にわずかな沈みを作る。沈んだ分だけ、中央のスマートフォンの黒が濃くなる。
──いち、に、さん、し。
数は、やはり四で止まった。止まった直後、無音の帯の向きが反転する。耳ではなく、皮膚が先に気づく。帯は教室の四隅から中央へ流れ、中央で穴になり、また四隅へ戻る。戻るたび、尾の「し」が厚みを増す。厚みの底で、ふっと短いため息が混ざる。御子柴の癖だ。けれど、今日はそれだけではない。ため息の直後に、もう一つ、別の息継ぎが重なった。誰の癖でもない、部屋の呼吸。
「ここで逆再生にする」
僕はスマートフォンを触らず、四隅のレコーダーのひとつ──右上──だけを反転再生に切り替えた。隣の二台は通常再生のまま、残りの一台は録音だけを続ける。向きの違う四つを、同じ場に座らせる。場は、向きを平均化しようとして、間を作る。間は、読むために開く。
逆さの声が、底から上がる。
──……く ぞ の は の ず し。
昨日と同じだ。だが、今日は続きがあった。反転の尾がほどけるところで、短い囁きが滲む。囁きは言葉ではなく、呼び名の形をしていた。名前は口の形から生まれる。形だけで、音がまだ来ない。
水城が黒板の隅の□へ指を置き、口を開かずに口の形だけで、御子柴の名をつくった。声にはしない。空気を震わせない。形だけを、場へ渡す。渡したとき、留守電の無音の底がふくらみ、中央の黒が一段沈む。沈んだ底に、留守電のビープが、四回、不意に重なった。機械は一度しか鳴らしていないのに、録音には四度残った。時刻は、まだ四時四十五分に届かない。
──いち。
──に。
──さん。
──(ビープの霧の奥で)……し。
僕は思わず、息を浅くした。機械の四が、向こうの四と重なったのだ。重なりは、掟を通す。通った掟は、こちらの手順を順序ごと奪っていく。
「呼び名は、形だけで足ります」
水城の声は低く、乾いていた。彼女は四隅のひとつ、窓側のレコーダーを、机の脚の影の角に寄せた。角は、近づくものを座らせる。座れば、文が通る。僕は中央のスマートフォンの留守電アプリに触れ、再生速度をわずかに下げる。音符にすれば一拍ぶん。四百四十四と四百五十のあいだに、半歩だけ足場を置く。
無音が、言いさしを生んだ。
──……よ り。
──……う し ろ。
向きだ。言葉の手前で、視線の角度が先に届く。僕は四隅のうち、扉側のレコーダーだけを停止した。三角形になる。四角を崩す。崩れた瞬間、件名の「し」が、初めて遅れた。遅れた「し」は、厚みを失って細くなった。細くなっても、消えない。
「 “し”の主語を、ここでずらす」
僕は中央のスマートフォンを反転させ、画面を上にした。黒い面に教室の光が四角く降り、四隅に白が刺さる。白はすぐ広がらず、点のままそこに留まる。留まる点は、目に似ている。目の形は、音の向きを変える。変わった向きが、留守電の底を揺らし、そこから、ついに声が出た。
──……は……さま……。
僕の名を、呼び捨てない呼び方。御子柴が、研究室で軽く咳払いする前にだけ使った調子。だが、別の舌が混ざっていた。御子柴だけではない。部屋の面が、一緒に言っている。だから、母音が平らだ。平らな母音は、角を立てない。
「御子柴」
僕は声を出さず、口の形だけで呼んだ。呼んだ形は、中央の黒へ落ち、四辺へ分かれていく。分かれた形が、四隅のレコーダーの波形に同時に現れる。現れた刹那、四つの丘の最後尾が、はじめて沈黙になった。**「し」**が、消えた。
消えた瞬間、教室が広くなった。
面が一枚、外へ滑った。
角は、座ったままだった。
「今。返す」
水城が囁き、黒板の□から指を離すと同時に、窓側と天井のレコーダーを停止した。残るのは、右上と中央だけ。僕は留守電の保存を押し、ファイルに名前をつけた──「よびごえ」。名は、こちらの手順だ。名を置けば、座り方がひとつこちらのものになる。
四時四十六分。
“件名:し”の通知が、もう一度来た。
今度は、無音も、ため息も、なかった。
教室の四隅は、静かに明るい。レコーダーの赤い四角は消え、机の上には黒い面だけが伏せられている。僕はスマートフォンを手に取り、耳に当てずに胸に当てた。胸の骨は面だ。面に面がくっつくと、向きはそこで止まる。止まった向きは、しばらく来ないでいる。
「……明日は“逆再生の外”をやりましょう」
水城が言う。機械の機能に頼らず、場の向きそのものを反転させる実験だ。四を、向こうの都合から外に置く。外へ出された四は、遅れる。遅れた四は、濃くいる。
片付けながら、僕はふと黒板の片隅に目をやった。昨日貼った小さな□は、もう見えない。見えないのに、その場所の黒だけが、少し軽い。軽さは、座面の名残だ。名残は、椅子だ。椅子があれば、いつでも座れる。座れば、四は来ないでいる。
廊下に出ると、開かずの扉のガラスに、四角い曇りがまた新しく浮いていた。四隅が濃い。濃い四隅は、今日に限って、僕の胸の高さと一致していた。胸に当てていた黒い面の高さだ。面は面へ、角は角へ。呼び名は、名へ。
夜、自宅の机。
留守電は、もう鳴らなかった。
けれど、まぶたの裏で、誰かがいち、に、さんと数え、
そこで、また止まった。
四は、来ないでいる。
声だけが、こちらで座りなおしている。
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