【第三部 穴】第七章 四つ角
翌朝、空は白かった。雲というより、面だった。面が均されると、角は立つ。僕は封筒から透明のフィルム四枚を取り出し、日の当たらない準備室の机に並べた。どれも同じ幅で裁断され、中央に小さな□がある。四枚を寄せると、隙間のない正方形になる。四つの□は、縦横の線上で、かすかに“十”を作った。
「井戸みたいですね」
水城が言った。言われて初めて、僕も同じ漢字を思った。井。四つの角で井桁を組む。水ではなく、声を汲む井戸。僕たちは四枚のうち三枚を固定し、残る一枚をわざと僅かにずらした。ずれは、角を誘う。角は、ずれを渡って集まる。
「場所を移しましょう。廊下の“扉の影”に重ねる」
僕らはフィルムの四辺を養生テープで軽く留め、開かずの扉の前へ運んだ。ガラスは青白く、四隅の呼吸はもう昨夜ほど露骨ではない。扉の足元、床に落ちた四角い影の上へ、透明の正方形をそっと置く。角の位置が影の角とぴたり一致した瞬間、室内の空気が一段低く鳴った。鳴りは耳ではなく、足の裏で聞こえた。
──いち、に。
何も触れていないのに、二まで来て、止まる。止まった拍の底で、フィルムの中央の□が、ほんのわずかに呼吸した。吸う。吐く。吸う。吸い切る直前、四枚のうち、ずらした一枚の角だけが先に黒くなる。黒は色ではない。入口だ。入口は、いつも角から始まる。
「ずらしを消したら?」
水城が手を伸ばし、ずれた角を寸分で戻した。四つの角が同時に“揃う”。揃ったところで、乾いた声が、三つ目の拍を置いた。
──さん。
拍は軽い。軽いのに、床の四隅は重くなる。重さは体重ではない。手順の座り方だ。角が座ると、面は後から整う。僕は息をゆっくり吸い、四の手前で肺を止めた。こちらが止めれば、向こうの四は遅れる。遅れた四は、遅れたぶんだけ、濃く“いる”。
──……し。
小さな四は、ほとんど呼気の形で来て、すぐに消えた。消えたあと、透明の正方形の中央で、十字がゆっくり沈む。沈み方は浅い。浅いのに、底は“向こう”だ。見えてはいけないほどは見えない。だが、見える前の見え方が、確かにそこにある。
「数える位置を、こちらで移してみます」
水城はフィルムの四隅に、柔らかい白チョークで小さな点を置いた。点は粉なのに、透明の上でよく見える。僕は扉の下枠の金具に指を添え、ほんのわずか、指一本ぶんだけ持ち上げる。重さはない。なのに、扉の影は、そのぶん床の上で“浮いた”。影が浮くと、角が露出する。露出した角へ、声が寄る。
──いち、に、さん。
四は来ない。来ないで、いる。僕らの間の空気は、昨夜より澄んでいるのに、言葉は濁る。濁りは砂ではなく、水面に落ちる灰の色だ。四枚の中央の□は、井戸の蓋のように静かだが、蓋の裏に指の跡があるのを、視線の端で知る。指ではない。角の跡だ。角は裏から押され、面に触れた。
「場所をもう一箇所、試しましょう」
僕らはフィルムを丁寧に剝がし、研究棟の吹き抜けに面した踊り場へ移動した。踊り場の床は大きなタイルで、その一枚一枚が、はじめから正方形に区切られている。四隅が“用意されている”場所だ。タイルの中央に透明の正方形を置く。置いた瞬間、踊り場の空気が急に軽くなった。軽さは、上へ行く性質を持つ。上へ行く軽さを、角は嫌う。嫌うから、先に座る。
──いち。
タイルの目地の黒が、透明の角に吸われる。目地の黒は、汚れではない。影の延長だ。延長は、掟と仲がいい。水城は踊り場の手すりから身を少しだけ乗り出し、吹き抜けの一階を見下ろした。階下のロビーに置かれたベンチの影の四隅が、離れているのに、今ここで濃くなった。
「“四つ角”は離れていても繋がる」
彼女の声は淡い光と同じ高さで響き、響いたところに足場を作った。僕たちは透明の正方形の四隅をそっと押さえ、十字の中心──四つの□が交わる点──に、鉛筆の先で触れた。硬い物に触れたわけではない。それでも、薄い“押し返し”があった。押し返しは、紙の折り目が背を伸ばすときの感じに似ていた。
──いち、に、さん、し。
今回は、四が怯えなかった。怯えない四は、落ち着いて止まり、止まったところへ、音のないノックが四度、重なった。踊り場の壁、天井、手すり、床。四方の角がひとつずつ応え、透明の正方形の中央の□が、ついにわずかな“温度”を持つ。冷えではない。温かさでもない。向こうの呼気の、薄い温度だ。
「先生、ここで“渡せる”」
水城の言葉に、僕は頷いた。僕たちはそれぞれ、透明の正方形の違う角へ指を置き、角と角を、皮膚ごしに合わせる。合わせた二つの角は、しばらく呼吸を合わせ、やがて僕らの指の方へ、少しずつ冷えを渡した。渡す冷えは、役の移動だ。移動した役は、しばらくそこに座る。座る間、四は来ない。来ないで、いる。
僕は指を離し、透明の正方形の中央に小さく□を描き足した。□は、重なるほど穴に近づく。重ねすぎると、面は裂ける。裂けた面は、角の数を増やしてしまう。角が増えると、四は増える。増えた四は、数ではなく、場だ。増える場を、こちらは扱えない。
そのとき、踊り場の非常口のランプが、ふ、と一度だけ弱くなった。消えたのではない。四分の一ほどだけ、明度が落ちた。落ちた明度は、すぐ戻る。戻る前の暗さの中で、僕は下の階から薄い足音を聞いた。三歩。止まる。止まったのちの呼気。御子柴の、癖。
「先生」
水城が囁く。「今日の四時四十四分で、“向き”を変えましょう」
僕は透明の正方形をそっと持ち上げ、四枚を重ねて封筒へ戻した。重ねたとき、角と角が擦れて、紙ともガラスとも違う音を立てた。薄い、乾いた、しかし柔らかみのある音。音はすぐ空気に消えたが、消えた場所に、四角い“触れ跡”が残った気がした。
午後の講義を終えると、演習室の端で水城と合流した。机上にスマートフォンを置き、録音の準備をする。スピーカーの穴は面だ。面は、こちらの面と繋がると、向きを持つ。向きは、反転する。反転は、振り返りに含まれる。掟は発動する。だからこそ、四つ角を先に“座らせて”おく。僕たちは教室の四隅に、それぞれ小さな□をテープで貼った。誰にも気づかれない程度の薄い印。印は、四を呼ぶためではなく、四を留めるための“椅子”だ。
夕方、窓の外の光が薄くなり、廊下の帯が長く伸びる。教室は空になり、黒板の粉の匂いだけが残る。四時四十分。呼吸を整える。四時四十一分。足元の影の四隅が、すこし強くなる。四時四十二分。廊下のどこかで、短い息が三つ落ちる。四時四十三分。扉の内側で、紙の角が板をやさしくつつく音が、一度だけ。四時四十四分。
スマートフォンが震えた。件名は、一文字の「し」。僕は受話ボタンに触れ、スピーカーを机の中央に置いた。同時に、水城が黒板の隅の□に指を置き、もう一方の手で窓側の□にも触れる。四隅は、先に座っている。数は、先に座った場所では重く鳴る。
無音が来た。無音は、音のない音だ。帯の底に、擦れる紙と、浅い息。僕は録音を開始し、再生速度のダイヤルをゆっくり下げた。逆再生のスイッチに触れる直前、教室の四隅が、同時に小さく“うなずく”。うなずきは、角の身振りだ。
逆再生。
音の向きを、ひっくり返す。
面の向きが、ついてくる。
スピーカーから、あの文が、逆さに上がってきた。
──く ぞ の は の ず し
逆の順で、逆の向き。僕らは耳で読むのではなく、面で読んだ。四隅に“座っている”角が、音の向きに合わせて、ゆっくり位置を組み替える。黒板の隅、窓際、扉の上、天井の梁。四つの角がひとつずつ応え、最後に、机の上の透明な空気のなかで、言葉は整った。
──し ず の は の ぞ く。
向きを変えても、文は同じ場所へ戻る。戻った刹那、教室の四隅が、さらに深く座った。座った四は、しばらく来ない。来ないで、いる。その静かな“間”が、僕たちの側の唯一の余白になった。
水城が指を離し、深く息を吐いた。吐いた息は、四角く散って、すぐ消えた。僕も頷き、録音を止める。ファイル名は「四つ角」。保存された音は、向きを変えても戻る音だ。戻る音は、穴に似ている。窓ではなく、穴。覗くものではなく、落ちるもの。
今夜は、ここまでにする。
四は、まだ、来ないでいる。
だが、座っている。
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