【第二部 鏡】第五章 面(おもて)

 午前の光は、校舎の壁を均一に撫でていた。鏡を準備室の隅に立て、布で覆い、僕と水城は机の上だけを片づけた。白い正方形はクリアファイルにしまってある。にもかかわらず、部屋の空気は“面”を持ち、四つ角が薄く呼吸しているようだった。昨夜、鏡の内側に穿たれた穴は、布一枚で消えるものではない。布が面を塞げば、面は別の場所へ移る。


 「肌が、乾く感じがします」


 水城が言った。彼女は頬にそっと手を当て、指先を離してはまた当てる。その所作が、乾いた紙を扱うときのそれに似る。僕の手の甲にも、微細なざらつきがあった。顔を洗った直後の突っぱりではない。空気そのものが薄い膜になって、皮膚の“表(おもて)”に貼りつく感覚。


 「今日は、紙も鏡も出さないで、試そう」


 僕は金属トレーに少しだけ水を張り、窓際の台に置いた。水面は、天気のせいか妙に落ち着き、光をやわらかく返す。のぞき込めば、鏡の代わりになる。だが僕たちはのぞかない。代わりに、トレーの手前に透明なラップフィルムを張り、両端をクリップで止めた。水面の“面”と、ラップの“面”のあいだに、空気の薄層が生まれる。


 「触れてみて」


 水城は躊躇したあと、人差し指でラップの中央を軽く押した。膜は沈み、浅い□が生まれる。押された部分だけ、四つ角の影が濃く見えるのは、気のせいなのか。彼女が指を離すと、膜はすぐ戻った。だが、指先の腹に、わずかな四角い痕が残る。皮膚のきめに沿ってできただけの跡──そう片づけるには、角があまりに“角”だった。


 「ここ、冷たい」


 水城が囁く。指先の四角の中央に、針の頭ほどの冷点があるらしい。僕も試した。ラップの中央を軽く押す。自分の指にも、同じ四角い痕が、同じ位置と深さで残る。痕は数息で薄れる。だが消える寸前、角の部分だけが遅れて残り、そこへ、微かな音が落ちた。紙が折れる前、繊維の向きが変わるときの、ぱさ、と小さな音。


 面は、皮膚へ移る。

 角は、皮膚で息をする。


 僕は別のトレーに細かい粉末の炭を薄く敷き、その上へ同じラップを張った。膜を指で押すと、今度は指の腹に炭がうっすらと付く。洗面所でそっと水をかけ、炭の粉を流し落とす。皮膚には色が残らない。代わりに、目に見えないはずの跡が、光の具合で浮いた。四つ角だけが、他の部分より、わずかに鈍く光る。角は、光を吸う。吸いながら、呼吸する。


 「先生」


 水城が袖をまくり、前腕の内側を見せた。昨夜はなかったはずの薄い線が、縦に四本、並んでいる。鏡枠の傷に似た幅と、似た距離。どれも浅い。血がにじむこともない。ただ光を吸い、皮膚の“表”だけを少し沈める。


 「痛みは?」


 「しみるだけ。紙でなぞられたみたいに」


 僕は保健室から借りた消毒液を綿に含ませ、そっと当てた。水城は眉を動かさない。「痛くはないです」。当てた綿の片側が、かすかに四角く湿り、白く沈む。綿でさえ、面を持つ。面があるものに、角は触れる。


 机上のスマートフォンが震えた。件名は、一文字の「し」。着信時刻はやはり四時四十四分。僕は画面を伏せ、トレーのラップ越しに、その揺れを見た。ラップの中央、□の位置にだけ、震えは届かない。外から押し寄せた波が、角で止まる。角は、外圧を受け取らず、内側へ折れる。


 「面が、こちらに来ているなら」


 僕は言った。「こちらの面を、向こうへ返せるかもしれない」


 返す、という言葉は、ここでは、送り返すでも、押し返すでもない。こちらの“表”を、向こう側の“表”へ合わせ、面と面を接続し、角と角をすり合わせること──たぶん、それは儀式の“逆手”だ。


 僕たちは透明フィルムを新しく一枚用意した。静電気防止の薄膜で、コピー機の給紙に使う予備。角を丸めず、裁断機で正確に正方形に切る。四辺を指でなぞる。指の走りは滑らかだが、角だけは指先を止める力を持っている。そこへ、極細の鉛筆で小さく□を描いた。紙ではない。だが面は面だ。面に印を置けば、印は窓になる。


 「皮膚に、貼ります」


 水城は言い、ためらいなく自分の前腕の内側へ、透明の正方形をそっと置いた。空気の層が逃げ、膜は皮膚の表のうえでぴたりと落ち着く。□の位置は、ちょうど四本の浅い線の上に重なった。角が、角を呼ぶ形だ。彼女は深く息を吸い、目を閉じる。


 「見たい相手の名を、一度だけ」


 僕が合図すると、水城は唇を閉じ、喉の奥でひとつ、名を転がしたのがわかった。声にはならない。けれど、その無音の名は、皮膚の表に降り、透明の膜の“面”を静かに震わせた。□の四辺は、肉眼で見えるほどには凹まない。それでも、見る角度を変えると、そこにかすかな影の溝があり、溝が四つ角の方へ呼吸を送っているのがわかる。


 ──いち、に、さん、し。


 最初の数え声が来た。背中からではない。机の下からでも、鏡の内側からでもない。水城の皮膚のすぐ“表”で鳴った。膜と皮膚のあいだに、誰かの息が一瞬だけ宿り、四で止まる。その止まり方があまりにも静かで、僕は思わず息を合わせそうになった。合わせてはいけない。掟の“主語”は、合わせることを待っている。


 「見える?」


 「輪郭だけ。白い室内。机。誰かの肩」


 水城の声は乾いていた。乾きは恐怖の色だが、怯えの手前で止まっている。彼女はフィルムの上から□の周囲をそっと押さえ、角へ向けてわずかに力を滑らせた。角が、抵抗する。皮膚の下の毛細血管へ近づくような、鈍い圧。痛みではない。形の主張だ。


 「角が、ここにいる」


 水城が言い、そっとフィルムを剝がした。膜は簡単に離れた。皮膚には、さっきよりはっきりした四角い痕が残った。中央の□の位置にだけ、汗が集まっている。透明な水の粒が、四角を囲むように微かに弧を描く。汗でさえ、面を持つ。面は、面へ集まる。


 僕は今度、自分の手の甲で試した。透明の正方形を置き、□を中心に、心の中で御子柴の名を一度だけ呼ぶ。呼んだ瞬間、皮膚の“表”が内側からそっと吸われ、□の底が半息ぶん沈む。視界は何も返さないのに、四つ角は確かに、僕の手を“覗いた”。


 ──いち、に、さん、し。


 数え声は、今回、僕の喉の裏から聞こえた。声帯の外側で鳴る声。僕は目を閉じ、耳のかたちを変える感覚で、声の位置を探る。四で止まる直前、いつもの小さな乱れが走る。御子柴の、息の癖。


 「先生、手、貸してください」


 水城が僕の手の甲を両手で包み、四つ角の位置に、指先で軽く触れた。触れられた角は、他の面に“渡る”ように、彼女の指先へ四角の冷えを移した。四つ角のうち、ひとつ、ふたつ、と温度が移動する。角が移るたび、僕の皮膚の痕は薄れ、水城の指の腹が淡く沈む。ふたりの皮膚のあいだで、角が、数を数える場所を探している。


 移譲。

 あるいは、継承。


 「“数える役”が、面を通して移る」


 僕が言うと、水城は小さく頷き、指を離した。彼女の指先に残った四角の冷点は、じきに消えた。だが消える前、再び声が鳴った──


 ──いち、に、さん、し。


 声は、今度、準備室の扉の表面で鳴った。木の板の“面”のすぐ上だ。叩かれたわけではない。数えただけで、板が呼吸を合わせる。扉の四隅の色がわずかに濃くなり、塗装の目が、角から内へ流れていく。面は、面の側に集まる。


 僕は扉に背を向けず、視線だけで窓の方を確かめた。廊下は静かで、昼の光が白い。開かずの扉のガラスには、反転の文字も、昨夜の透明な四点もない。ただ、誰かの顔が近づいたときにだけできる曇りが、四角く残っている。曇りは新しい。四隅が呼吸している。


 「今日はここまで」


 そう言いかけたとき、机上のスマートフォンがふたたび震えた。件名は、一文字の「し」。着信時刻は、四時四十四分。ディスプレイの黒い面が、部屋の面を吸って四角く光る。僕は手を伸ばし、画面を伏せた。伏せた黒の表に、窓の光が四角く集まり、角の一点にだけ小さな白が刺さる。刺さった白は、すぐ消えた。残ったのは、触れもしない“触れ跡”だけだ。


 「再生は」


 「まだしない」


 僕は即答した。掟は、こちらが焦る瞬間を待っている。焦りは、四を呼ぶ。四は、来ないでいて、いつでも来れる。


 片づけを終え、準備室を出る前に、僕たちは自然に四歩を数えた。廊下へ出ても、振り返らない。背中の皮膚が、わずかに冷える。その冷えは、不快ではない。誰かの視線に似ている。視線は、いちど面へ移ると、簡単には離れない。


 昼休みの終わり、演習室で学生たちがざわめく声を背で聞きながら、僕は手の甲を見た。四角い痕は消えている。代わりに、掌の中央に、汗の粒が小さく四つ集まっていた。ふたつ、みっつ、よっつ。拭く前に、無意識に数えかけ、僕は自分で自分の舌を止める。数えない。数えるのは、向こうの役目だ。


 その日の夕方、校舎を出ると、街のショーウインドウが一斉に“面”を明るくした。ガラスには、行き交う人の顔と、広告の光と、空の白が重なって映る。僕は意識して足を緩め、ガラスに近づきすぎないように歩いた。近づけば、どの面もこちらの“表”を奪いにくる。面は面へ、角は角へ。吸い寄せる力は、物理ではない。手順だ。掟だ。


 横断歩道の手前で、背中の皮膚が、ふっと撫でられた。撫でたものは、指ではない。四つ角の、薄い紙の端。振り返らなかった。信号が青に変わる。歩く。ひとつ、ふたつ、みっつ、──そこでやめる。よっつを言えば、掟は整う。整ったものは、こちらを整え直す。


 夜、家に戻ると、ポストに封筒が一通、入っていた。宛名はない。差出人は、細い筆致でただ一文字──「し」。中の紙は、白い正方形ではなかった。透明の、薄いフィルム。角が鋭い。中央に小さな□。四辺には、間を空けた仮名ではなく、指で触れた跡だけが、淡く浮いている。透明の面の“表”は、はじめからこちら側に向いている。


 僕はフィルムを静かに戻し、封筒を机の引き出しにしまった。面は、そこにある。角は、そこにいる。だが、こちらからは、まだ呼ばない。呼ばなくても、呼ばれている。呼ばれていても、四は、来ないでいる。


 その夜は、灯りを消して眠った。暗闇は、面を持たない。持っていないように見える。けれど、まぶたの裏で、角が四つ、静かに呼吸した。


 ──いち、に、さん。

 そこで、止まった。

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